学位論文要旨



No 122747
著者(漢字) 戸塚,祐介
著者(英字)
著者(カナ) トヅカ,ユウスケ
標題(和) 興奮性GABA入力により成体神経系前駆細胞は脳回路に可塑性をもたらす
標題(洋)
報告番号 122747
報告番号 甲22747
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第284号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 久恒,辰博
 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 助教授 青木,不学
 東京大学 助教授 眞溪,歩
 東京大学 助教授 小嶋,徹也
内容要旨 要旨を表示する

<序論>

 考える組織、物事を記憶する組織、創造性を生み出す組織、そして人間性を生み出す組織、それが脳である。こうした脳の働きは、ニューロンが互いにシナプスを介した複雑かつ精巧なネットワークを形成することによって発揮される生体超高次機能システムである。脳の場合、個々の細胞を研究し、その特性の詳細が解明できたとしても、それ自体で脳機能を明らかにできるわけではない。どの細胞とどの細胞が機能的に連絡をしているか、そしてその連絡の意味する生理学的意義は何かというネットワークとして理解しなければ、脳の機能を明らかにすることは難しいと考えられる。

 そして脳回路は経験によって変化する。子供の時に脳細胞の数や配置は遺伝情報によって全て決まる。しかし、機能的な回路として働くためには、経験刺激に応じた神経回路の形成が重要である。経験による脳回路の変化は子供の時期に限らず、大人になってからでも起きている。何か物事を覚える前と覚えた後では、確実に脳回路に変化が生じているはずである。また、話せなかったことが話せるようになる、動かせなかった指先が器用に動かせるようになるなど、大人になってからでも経験や訓練によっていくらでも脳は鍛えることができる。

 しかし、脳機能の中核であるニューロンは生後において産生されることはないと考えられて来たため、成体脳における神経回路の可塑性は理解しがたい現象として捉えられてきた。また一度損傷をきたすと再生が難しいため、障害による神経回路の修復にも期待が寄せられてきた。しかし近年、成体脳においても新しいニューロンを生み出す母細胞である神経系前駆細胞の存在が認められ、神経科学界にブレイクスルーをもたらした。新しく細胞が生まれることにより、日々新たな神経回路が再編成されていることを意味するからである。興味深いことに、脳の活動により、前駆細胞の運命が大きく左右され得ることがわかってきた。このことは、既存神経回路が前駆細胞に直接働きかけていることを示唆するものである。神経回路からの入力が、神経系前駆細胞の分化や機能の調節にどのように関わっているかを解析することは、経験依存的な脳回路の可塑性の理解や、いかに脳の活動を高めることができるかということにつながるであろう。また障害時における神経回路再生への新たな治療戦略にもつながるであろう。

 本研究では、成体脳における神経系前駆細胞が既存神経回路網からどのような神経刺激に対して応答し、生理的変化が生じるのかを解析することを目的とした。中間径フィラメントであるネスチンは神経系前駆細胞のマーカーとして知られており、ネスチン-GFPトランスジェニックマウスを用いることで、神経系前駆細胞を同定した。そして電気生理学的手法を導入し、神経系前駆細胞と既存神経回路網との機能的関わりを解析することで、成体脳回路の持つ可塑性の理解に迫りたいと考えた。

<本論>

1.興奮性GABA入力が成体海馬神経系前駆細胞のニューロン分化を促す

 脳の形成が完了した成体哺乳類においては、歳とともにニューロンの数は減少していくと考えられてきたが、記憶に関わる海馬では、生涯に渡り新しくニューロンが生まれ続けていることが近年明らかとなった。新生ニューロンは古いニューロンに比べ、高い可塑性を有しており、この性質が海馬回路に可塑性をもたらすと考えられている。そして海馬が記憶中枢であることから、いかに新生ニューロンの数を増やし、脳機能を高められるかという研究が精力的に行われてきた。その中で、学習行動などで海馬の活動が高まると新生ニューロンの数が増加することが示唆されてきたが、学習行動そのものがニューロン新生過程にどのように関わっているかが不明であった。

 成体海馬ニューロン新生過程において、まず神経幹細胞としての性質を持つタイプ1細胞から、ニューロンとしての性質を一部獲得し盛んに分裂を繰り返すタイプ2細胞が分化する。そしてこの細胞から新生ニューロンが生み出されていることがわかってきた。本研究では、海馬回路の活動が、これら神経系前駆細胞に働きかけることでニューロンへの分化が促され、ニューロン新生が促進されると考えた。本研究では、ネスチン-GFPマウスを用いて、当研究室福田によって確立されたGFPを指標にした前駆細胞の急性脳スライス内での同定、及びパッチクランプ法を適応した。そして、海馬神経回路からの刺激が前駆細胞に伝わるかどうかについて検討を行った。

 その結果、タイプ1細胞では神経伝達物質を介した神経入力は観察されなかったが、タイプ2細胞ではGABAを介したシナプス入力が観察された。解剖学的な観察からも、GABAニューロンの末端がタイプ2細胞へ投射している結果が得られた。これまでに分裂中の前駆細胞にシナプスがあるという報告は無く、極めて新規性の高い発見となった。また動物が学習行動をしている時、海馬のGABAニューロンが特殊なパターン(シータ波リズム)で同期発火することが知られており、このシータ波が記憶の形成に深く関わっていると考えられている。興味深いことに、実験的にシータ波と同じ刺激を海馬貫通繊維(海馬へのメインインプット)に加えると、GABAニューロンが興奮し、タイプ2細胞に刺激が伝わることがわかった。

 またGABA入力により、タイプ2細胞が脱分極することを明らかにした。通常成体脳内において、GABAは抑制性神経伝達物質であるが、タイプ2細胞では細胞内塩化物イオン濃度([Cl-]i)が高いため、GABA受容体が活性化することで細胞内からのCl-の流出が起こり、膜が脱分極する。膜の脱分極は引き続き、電位依存性Ca2+チャネルを開口させ、細胞内へのCa2+流入を誘起した。この反応が引き金となり、ニューロン分化を誘導する転写因子(NeuroD)の発現量が増加し、ニューロン分化が促進されることを示した。さらに、マウス個体を用いた評価系においても、GABA性刺激を高める薬剤を投与することで、海馬新生ニューロンの数が増加することを併せて明らかとした。

 本研究により、成体海馬の神経系前駆細胞への興奮性GABA入力はニューロン分化を促すシグナルとして働き、新生ニューロンの数を増やしていることが示された(図1)。また実験的にシータ波を脳スライスに施すことでGABAニューロンが刺激され、前駆細胞へGABA入力が伝わり新生ニューロンへの分化が促進された。学習によってなぜニューロン新生が促進されるかについて、初めてその仕組みの一部が明らかになったと言える。

2.興奮性GABA入力が成体大脳皮質神経系前駆細胞のBDNF放出を促す

 思考や創造性、さらに感覚系からの入力信号を処理し、各種の運動機能として出力するなどの最高次の脳機能を担う領域が大脳皮質である。通常、成体大脳皮質においてはニューロンが新生することは無いが、ニューロンの活動に依存した新たなシナプスの形成や消失といった神経回路網の再編成が行われており、この可塑性が大脳皮質の機能発現に重要であると考えられている。

 これまでの研究から、大脳皮質においても分裂能を有する神経系前駆細胞の存在が認められてきた。当研究の松村らにより、この細胞は培養系においては多分化能(ニューロンやグリア細胞への分化)を有することが示されてきたが、大脳皮質神経回路内における機能については全く不明であった。そこで本研究では、この神経系前駆細胞自身が既存神経回路網と機能的関わりを持つことで、大脳皮質神経回路の機能や可塑性に関わっているのではないかと考え、この細胞がいかなる神経入力を受け取り、またどのような生理学的役割を果たしているかについて解析することを目的とした。

 パッチクランプ法による電流記録の結果、神経系前駆細胞においてGABA性シナプス入力が観察された。しかしこの細胞は、海馬のタイプ2細胞とは異なり、膜興奮性を示さないグリア細胞様の性質を示した。また解剖学的な解析からも、GABAニューロンからの直接的な入力を受け取っていることが示され、神経系前駆細胞も皮質内での情報処理過程に重要な役割を果たしていることが示唆された。またこの細胞は細胞内[Cl-]が高く、GABAが興奮性に作用することが明らかとなった。この興奮性シグナルは引き続き、細胞内へのCa(2+)流入を誘起した。

 では、大脳皮質の神経系前駆細胞への興奮性GABA入力はどのような生理学的効果をもたらすのか。これまでに、グリア細胞は液性環境維持や代謝的支援によるニューロンの支持と共に、神経入力を受け取り栄養因子などを産生することで、シナプス伝達を修飾することが示唆されてきた。そこで神経系前駆細胞における栄養因子の発現について調べた。その結果、驚くべきことにこの細胞はBDNF(brain-derived neurotrophic factor:脳由来神経栄養因子)を発現していることが初めて明らかとなった。BDNFは、GABA性シナプス伝達の修飾に加えて、軸索末端に働きかけることで新たなシナプスの形成を誘導するなど、神経回路に可塑性をもたらす極めて重要な栄養因子である。そこで本研究では、神経系前駆細胞への興奮性GABA入力がBDNFの放出を促すのではないかと考え、これを検証した。成体大脳皮質よりネスチン陽性神経系前駆細胞を分離・培養し、GABA性刺激を施すことによりBDNFの放出量を定量した。その結果、GABA性刺激を加えることで、神経系前駆細胞からのBDNFの放出量が増加することが確認された。

 これまで成体大脳皮質神経回路における神経系前駆細胞の機能に関しては全く不明であったが、本研究により、この細胞は神経回路網からの興奮性GABA入力を受け取ることで、BDNFを放出していることが強く示唆された。放出されたBDNFは、GABA性シナプス伝達の効率を高める他、新たなシナプス形成を誘導することで、大脳皮質神経回路の再編成や可塑性を生み出すことに大きく関わっていると考えられる(図2)。

<結論>

 本研究では、成体脳神経系前駆細胞と既存神経回路網との機能的関わりについての解析を行った。海馬および大脳皮質において、分裂能を有する神経系前駆細胞は共に興奮性GABA入力を受け取っており、神経回路の活動に伴いダイナミックな応答を示すことが初めて示された。この興奮性GABA入力は、前駆細胞のニューロン分化や神経栄養因子の放出を促す極めて重要な因子であることが結論付けられ、この性質が神経回路へ可塑性をもたらしていると考えられる。成体脳内における情報伝達システムはニューロン間だけではなく、神経系前駆細胞もまたシナプスを形成し、脳回路の機能発現に関わっていると考えられ、神経回路の活動に依存した脳の可塑性を理解する上で重要な知見が得られたと言えよう。そして大人になってからでも、脳の活動を高めることで、いつまでも柔軟性に富んだ若い脳を保つことができるのではないかと期待できる。

<発表論文>Yusuke Tozuka, Satoshi Fukuda, Takashi Namba, Tatsunori Seki, and Tatsuhiro Hisatsune. GABAergic excitation promotes neuronal differentiation in adult hippocampal progenitor cells. Neuron 2005 Septmber 15; 47 (6): 803-815

図1 成体海馬における興奮性GABA入力によるニューロン分化促進。

神経幹細胞(タイプ1細胞)から、盛んに分裂を繰り返すニューロン前駆細胞(タイプ2細胞)が発生する。貫通繊維(海馬へのメインインプット)にシータ波が伝わるとGABAニューロンが興奮し、タイプ2細胞はGABAニューロンから興奮性のGABA入力を受け取る。この入力によりニューロン分化が促進され、新生ニューロンへと成長し、海馬回路に機能的に組み込まれる。

図2 大脳皮質のネスチン陽性神経系前駆細胞はBDNFを産生することで神経回路の可塑性を生み出す。

ネスチン陽性細胞は神経回路網から興奮性のGABA入力を受け取っている。この興奮性シグナルがネスチン陽性細胞からのBDNFの産生を促す。BDNFはシナプス末端に働きかけることで、新たなシナプス形成を誘導する他、GABA性シナプス伝達効率を高める。その結果、側方抑制の強化やGABA系回路の再編成が行われると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文の内容は2部構成になっており、成体脳における神経系前駆細胞が既存神経回路網からどのような神経刺激に対して応答し、生理的変化が生じるのかを解析した。中間径フィラメントであるネスチンは神経系前駆細胞のマーカーとして知られており、ネスチン-GFPトランスジェニックマウスを用いることで、神経系前駆細胞を同定した。そして電気生理学的手法を導入し、神経系前駆細胞と既存神経回路網との機能的関わりを解析することで、成体脳回路の持つ可塑性の理解に迫った。

 第1部では、興奮性GABA入力が成体海馬神経系前駆細胞のニューロン分化を促すことを明らかにした。成体海馬ニューロン新生過程において、まず神経幹細胞としての性質を持つタイプ1細胞から、ニューロンとしての性質を一部獲得し盛んに分裂を繰り返すタイプ2細胞が分化する。そしてこの細胞から新生ニューロンが生み出されていることがわかってきた。本研究では、海馬回路の活動が、これら神経系前駆細胞に働きかけることでニューロンへの分化が促され、ニューロン新生が促進されると考えた。そこで、ネスチン-GFPマウスを用いて、当研究室福田によって確立されたGFPを指標にした前駆細胞の急性脳スライス内での同定、及びパッチクランプ法を適応した。そして、海馬神経回路からの刺激が前駆細胞に伝わるかどうかについて検討を行った。

 その結果、タイプ1細胞では神経伝達物質を介した神経入力は観察されなかったが、タイプ2細胞ではGABAを介したシナプス入力が観察された。解剖学的な観察からも、GABAニューロンの末端がタイプ2細胞へ投射している結果が得られた。これまでに分裂中の前駆細胞にシナプスがあるという報告は無く、極めて新規性の高い発見となった。また動物が学習行動をしている時、海馬のGABAニューロンが特殊なパターン(シータ波リズム)で同期発火することが知られており、このシータ波が記憶の形成に深く関わっていると考えられている。興味深いことに、実験的にシータ波と同じ刺激を海馬貫通繊維(海馬へのメインインプット)に加えると、GABAニューロンが興奮し、タイプ2細胞に刺激が伝わることがわかった。

 またGABA入力により、タイプ2細胞が脱分極することを明らかにした。通常成体脳内において、GABAは抑制性神経伝達物質であるが、タイプ2細胞では細胞内塩化物イオン濃度([Cl-]i)が高いため、GABA受容体が活性化することで細胞内からのCl-の流出が起こり、膜が脱分極する。膜の脱分極は引き続き、電位依存性Ca2+チャネルを開口させ、細胞内へのCa2+流入を誘起した。この反応が引き金となり、ニューロン分化を誘導する転写因子(NeuroD)の発現量が増加し、ニューロン分化が促進されることを示した。さらに、マウス個体を用いた評価系においても、GABA性刺激を高める薬剤を投与することで、海馬新生ニューロンの数が増加することを併せて明らかとした。本研究により、成体海馬の神経系前駆細胞への興奮性GABA入力はニューロン分化を促すシグナルとして働き、新生ニューロンの数を増やしていることが示された。

 第2部では、興奮性GABA入力が成体大脳皮質神経系前駆細胞のBDNF放出を促す可能性にについて述べられている。

 これまでの研究から、大脳皮質においても分裂能を有する神経系前駆細胞の存在が認められてきた。当研究室の松村らにより、この細胞は培養系においては多分化能(ニューロンやグリア細胞への分化)を有することが示されてきたが、大脳皮質神経回路内における機能については全く不明であった。そこで本研究では、この神経系前駆細胞自身が既存神経回路網と機能的関わりを持つことで、大脳皮質神経回路の機能や可塑性に関わっているのではないかと考え、この細胞がいかなる神経入力を受け取り、またどのような生理学的役割を果たしているかについて解析することを目的とした。

 パッチクランプ法による電流記録の結果、神経系前駆細胞においてGABA性シナプス入力が観察された。しかしこの細胞は、海馬のタイプ2細胞とは異なり、グリア細胞様の性質を示した。また解剖学的な解析からも、GABAニューロンからの直接的な入力を受け取っていることが示され、神経系前駆細胞も皮質内での情報処理過程に重要な役割を果たしていることが示唆された。またこの細胞は細胞内[Cl-]が高く、GABAが興奮性に作用することが明らかとなった。この興奮性シグナルは引き続き、細胞内へのCa(2+)流入を誘起した。

 では、大脳皮質の神経系前駆細胞への興奮性GABA入力はどのような生理学的効果をもたらすのか。これまでに、グリア細胞は液性環境維持や代謝的支援によるニューロンの支持と共に、神経入力を受け取り栄養因子などを産生することで、シナプス伝達を修飾することが示唆されてきた。そこで神経系前駆細胞における栄養因子の発現について調べた。その結果、この細胞はBDNF(brain-derived neurotrophic factor:脳由来神経栄養因子)を発現していることが示唆された。BDNFは、GABA性シナプス伝達の修飾に加えて、軸索末端に働きかけることで新たなシナプスの形成を誘導するなど、神経回路に可塑性をもたらす極めて重要な栄養因子である。

 これまで成体大脳皮質神経回路における神経系前駆細胞の機能に関しては全く不明であったが、本研究により、この細胞は神経回路網からの興奮性GABA入力を受け取ることで、BDNFを放出していることが強く示唆された。放出されたBDNFは、GABA性シナプス伝達の効率を高める他、新たなシナプス形成を誘導することで、大脳皮質神経回路の再編成や可塑性を生み出すことに大きく関わっていると考えられる

 本研究では、成体脳神経系前駆細胞と既存神経回路網との機能的関わりについての解析を行った。海馬および大脳皮質において、分裂能を有する神経系前駆細胞は共に興奮性GABA入力を受け取っており、神経回路の活動に伴いダイナミックな応答を示すことが初めて示された。この興奮性GABA入力は、前駆細胞のニューロン分化や神経栄養因子の放出を促す極めて重要な因子であることが結論付けられ、この性質が神経回路へ可塑性をもたらしていると考えられる。成体脳内における情報伝達システムはニューロン間だけではなく、神経系前駆細胞もまたシナプスを形成し、脳回路の機能発現に関わっていると考えられ、神経回路の活動に依存した脳の可塑性を理解する上で重要な知見が得られた。したがって、論文提出者は、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/9289