学位論文要旨



No 122756
著者(漢字) 倪,悦勇
著者(英字) Ni,Yue yong
著者(カナ) ゲイ,エユウ
標題(和) リン酸エステル難燃剤最適添加量に関する研究 : 二律背反型環境問題へのリスク最小化手法の適用
標題(洋)
報告番号 122756
報告番号 甲22756
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第293号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柳沢,幸雄
 東京大学 教授 大島,義人
 東京大学 助教授 吉永,淳
 東京大学 教授 加藤,信介
 東京大学 教授 関沢,愛
内容要旨 要旨を表示する

1.背景

 60億人を超える世界の人々の中で、意図的に環境を汚染しようとしている人は殆どいない。しかし環境は汚染されていく。汚染に関する十分な情報が明らかになるまで、人々はその汚染物質の利用による利便性を享受し、使用とともに環境問題を引き起こしていることが大半であるといえる。さらに、その汚染物質を使用せざるを得ない場合、その化学物質の使用によるリスクは長所と短所のそれぞれが存在する。このような環境問題は二律背反型の環境問題となる。

 難燃剤の添加量問題は典型的な難燃効果と健康影響の二律背反型環境問題である。難燃剤はプラスチックや合成ゴム、建材、繊維、紙などの素材を燃えにくくするための添加剤であり、我々の生活環境中に一般的に存在する化学物質である。難燃剤には臭素系のものとリン酸エステルのものがあり、いずれも材料に添加することによってその材料の燃焼開始時間の遅延や消炎の効果がある。プラスチック工業で最も大量に使っていた臭素系難燃剤は、燃焼により臭素系ダイオキシンを放出するため、欧州連合(EU)および米国において、2006年から使用禁止になっている。そのため、リン酸エステル難燃剤が臭素系難燃剤の代替品として使われている。実際に、日本国内ではリン酸エステルの2000年の消費量は約4,600トンであったが、2001年には、22,000トンになり、5倍に増加した(1))。また、今後、リン酸エステル難燃剤の使用量はさらに増加することが予測されている。リン酸エステル難燃剤は毒性が比較的弱いと考えられてきたが(2))、最近の報告では、リン酸エステルを含む有機リンによる遅発性神経障害のメカニズムが明らかになってきた。Quistadらはマウスの実験から、有機リンがリソフォスフォリパーゼの代謝機能を阻害し、神経に障害を与えると報告している(3))。近年、室内空気、ハウスダストおよび水環境からのリン酸エステル難燃剤の検出例が報告され、経気曝露や経口曝露による健康影響が危惧されている。

 しかし、現状では、材料中のリン酸エステル難燃剤添加量には一定の基準が存在せず、多くのメーカーは重量比で5-15%を添加している(4))。難燃剤は多く添加すると火災のリスクを抑えるが、人への健康リスクは高くなると考えられる。現状では、これが考慮されておらず不適切な添加がなされている可能性がある。

2.研究の目的

 本研究はリスクの定量評価で全体リスクの最小値を求めることにより、健康リスクおよび火災リスクを同時に考慮し、リン酸エステル難燃剤最適添加量問題をシステム的に検討すること、またこのような二律背反型環境問題への取り組みの方向性を社会に提案することを目的とする。

3.研究内容

3.1 リン酸エステル難燃剤の健康リスク評価

3.1.1材料からの放散量測定法について

 リン酸エステル難燃剤の放散量測定法について紹介すると、Kemmleinらはチャンバー法で、リン酸トリス(1-クロロ-2-プロピル)(以下TCPP)を含有するプラスチック材料からのTCPPの放散量を測定し、安定した放散量を得たと報告している(5))。しかし、チャンバー法は大きな設備投資が必要であることから、本研究では、Passive Flux Sampler(以下PFS)を用いた簡便で、精度が高く、安価なリン酸エステル難燃剤放散量の測定法を検討した。

 リン酸エステル難燃剤測定用PFSはガラス製のシャーレ(内径47mm、外径49mm、高さ5mm)、Empore C18FF ディスク(直径47mm,厚さ0.5mm;3M Inc.,USA)から構成されている。PFSの構造を図1に示した。添加回収実験、再現性実験を行い、チャンバー法と比較し、PFS法の信頼性を確認した。

3.1.2 曝露評価法について

 TPP放散量経時変化にかんする既往の研究による、新品使用開始1ヶ月後の放散量は1/10になり、その後1-2年間放散量を安定した(6))。また、本研究はTCPP添加量5%の壁紙サンプルを用いて放散量の経時変化を測定した。新品使用開始8ヶ月後壁紙からTCPPの放散量は最初の約1/10になり、8ヶ月後の放散量は相対的に安定になった。

安定した放散量データとEUの標準モデルルームのデータを用いて(7))、リン酸エステル難燃剤の室内濃度を予測できる。放散されたすべてのリン酸エステルは何らかの経路で人に曝露する。また被曝者はモデルルームにいる時間は12時間を仮定し、個人曝露量を計算する。

3.1.3 健康リスクの計算方法

3.1.3.1 発ガンリスク評価

 リン酸トリス(2-クロロエチル)(以下TCEP)は腎臓癌の発ガン物質である。動物実験により、量-反応関係を明らかになっている(2))。本研究はすべてのリン酸エステル難燃剤はTCEPと同じような発ガン性を持つと仮定し、発ガンリスク評価を行った。発ガンリスク評価の流れは図2のようである。TCEP発ガンの量-反応関係と曝露量データを使い、患者数を計算し、腎臓ガンの死亡率データを用いて死亡者数および生存者数が推測できる。ガンより死亡の支払い意識(Willingness to Pay,以下WTP)およびガンの非死亡WTP(慢性気管炎WTPデータ)を用いてリスクの金銭換算が行える。

3.1.3.2 遅発神経毒性リスク評価

 Quistadらはリン酸トリクレシル(以下TCP)異性体の遅発性神経毒性を報告した(3))。本研究はすべてのリン酸エステル難燃剤はTCPと同じような遅発性神経毒性を持つと仮定し、TCPの遅発性神経毒性の量-反応関係と曝露量データを使い、患者数を計算する。慢性病のWTPを用いて、リスクの金銭換算をする。遅発性神経毒性発ガンリスク評価の流れは図3に示す。

3.2 リン酸エステル難燃剤の使用により火災リスク低減の評価

3.2.1 難燃剤添加による死亡リスク低減の試算

 難燃剤の使用による、火災リスクを低減することを証明している論文いくつがあるが、リスク評価するための量-反応関係は今まで報告されていない。

 英国は1988年から家具用建材の難燃規制を実施した。この規制によって5年後規制される家具に関連する火災により死者数は1988の247人から1993年の146人に減少し、関連火災件数は4818から3746件に低減した。住宅火災報知器の影響を除くと、火災10万件あたり死者数は5127人から4102人に減少した(8))。本研究は難燃規制により火災死者率の差を用いて、火災リスクと難燃剤使用の量-反応関係を算出した。また、燃焼実験によって自己消炎時間のデータを得て、難燃剤添加量別の火災死亡者数を計算し、WTPのデータを用いて、難燃剤添加による火災死亡リスク低減の金銭換算を行う。

3.2.2 難燃剤添加による負傷リスク低減の評価

 火災による負傷者数と死者数の比率などのデータを用いて、難燃剤添加による火災負傷者数の低減を計算し、火災による負傷のWTPデータを使い、難燃剤添加による火災負傷リスク低減の金銭換算する。

3.2.3 難燃剤添加による火災財産損失リスク低減の評価

 自己消炎時間、難燃剤添加による火災件数減少の量-反応関係、生涯火災の罹災率、火災1件当り罹災者数などのデータを使い、難燃剤添加による火災件数の減少を試算し、火災1件あたりの損害金額を用いて、難燃剤添加による火災財産損失リスク低減を計算する。

 リン酸エステル難燃剤の使用により火災リスク低減評価の流れは図4のようである。

3.3 室内材料のケーススタディー

 既往の研究及び本研究の測定データにより、建材特に密度が低い壁材料は室内リン酸エステルの主な発生源である。そこで、本研究はリン酸トリス(1-クロロ-2-プロピル)(以下TCPP)添加量別(1%、3%、5%、10%、15%、20%(w/w))の壁紙サンプルからのTCPP放散量を測定した。壁紙のサンプルは関東レザー株式会社から提供を受けた。主要成分はPVC[40%(w/w)]とCaCO3[28%(w/w)]である。

3.3.1 壁紙サンプルからTCPP放散量の測定

 25℃の温度条件で、リン酸エステル難燃剤測定用PFSを用いて、難燃剤添加量別の壁紙サンプルからのTCPP放散量を測定した。サンプリング時間は6時間とした(但し、添加量20%の場合は2時間とした)。測定結果を表1に示す。添加量と放散量の間に正の相関関係が見られた(スピアマン順位相関係数r=0.973,P=0.000)。

3.3.2 個人曝露量の試算

 3.1.2の方法を用いて曝露量評価を行った。曝露量評価の結果は図5のようになった。添加量10%と20%の場合で個人曝露濃度はTDI(tolerable daily intake)に超えた。そのため、リン酸エステル難燃剤による健康影響が懸念される。

3.3.3健康リスクの試算

 曝露集団は日本における有機リン難燃剤が添加される壁紙を使用する人とし、3.1.3に検討したリスク評価法を用いて、壁紙にTCPPを添加により発ガンリスクおよび遅発神経毒性リスクを計算し、それぞれ表2と表3に示す。

3.3.4 火災リスク低減の試算

 曝露集団は健康リスク評価と同じとし、日本人の生涯火災遭う確率などのデータ方法を用いて火災リスクの低減を試算した。この結果は表4-6のようになる。

3.3.5 最適添加量の検討

 壁紙にTCPPを添加することによる火災リスクの低減と健康リスクの増加を比較した結果は図6に示す。誤差を評価した上、最適添加量は12.5±2.5%が提案できる。

4.まとめ

 本研究は二律背反型環境問題へのリスク最小化手法を用いて、リン酸エステル難燃剤の健康リスクおよび火災リスクの定量評価法、最適添加量評価法を開発した。さらに、この方法を用いて壁紙にTCPPの最適添加量を検討した。しかし、本研究は学際的研究であり、データの不足、不十分問題があるので、今後各関連分野の発展と共に、評価の精密度を向上する工夫が必要である。

参考文献1) 化学工業日報社調査資料,20002) Inchem.1998 United Nations Environment Programme International labour Organisation. World Health Organisation: International Programme on Chemical safety, 209 Flame retardant, Geneva3) Gary B. Quistad and John E. Casida: Lysophospholipase inhibition by organophosphorus toxicants Toxicology and Applied Pharmacology, Vol. 196, No.3, 319-326, 20044) Paul C. Hartmann, Daniel Burgi : Organophosphate flame retardants and plasticizers in indoor air., Chemosphere, Vol.57, No.8, 781-787, 20045) Sabine Kemmlein, Oliver Hahn: Emissions of organophosphate and brominated flame retardants from selected consumer products and building materials, Atmospheric Environment, Vol. 37, No. 39-40, 5485-5493, 20036) Hakan Carlsson, Ulrika Nilsson: Video Display Units: An Emission Source of the Contact Allergenic Flame Retardant Triphenyl Phosphate in the Indoor Environment, Environmental Science & Technology ,Vol. 34, No. 18, 3885 - 3889, 19997) European pre-standard ENV 13419-1, 19998) Home office. Fire statistics UK 1993. London: Home office, 1995

図1 リン酸エステル難燃剤測定用PFSの構造

図2.発ガンリスク評価の流れ

図3. 遅発神経毒性リスク評価の流れ

図4.難燃剤の使用により火災リスク低減評価の流れ

表1.TCPPの放散量測定結果(ug/m2h,n=5,25℃)

図5 壁紙サンプルにより曝露評価

表2.壁紙にTCPP添加により発ガンリスク試算

表3.壁紙にTCPP添加により遅発性毒性リスク試算

表4.壁紙にTCPP添加により火災死亡リスクの低減

注:/はすべて燃焼してしまい、自己消炎時間の測定不可能。

表5.壁紙にTCPP添加により火災負傷リスクの低減

表6.壁紙にTCPP添加により財産損失リスクの低減

図6.壁紙にTCPPの最適添加量提案

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章から成る。第1章では、緒言として二律背反型環境問題の特徴、解決に関する問題点について論じた。難燃剤の添加量問題を典型的な二律背反型環境問題として取り上げ、既往研究で明らかになっている知見を整理した。難燃剤は我々の生活に不可欠の化学物質である。ヨーロッパを中心とした臭素系難燃剤の規制により、今後リン酸エステルが主要な難燃剤として使われることが予測されている。リン酸エステル難燃剤最適添加量の評価は、健康リスクおよび火災リスクを同時に考えて行わなければならない。本研究は二律背反型のリスクを定量評価し、全体リスクの最小値を求めることにより、リン酸エステル難燃剤最適添加量問題をシステム的に検討すること、またこのような二律背反型環境問題への取り組みの方向性を社会に提案することを目的としている。

 第2章では、リン酸エステル難燃剤の健康リスク評価について述べている。既存のリン酸エステル難燃剤放散量測定法はコストが高く、感度が低いため測定現場での応用が難しいなどの欠点がある。本研究では簡便で、精度が高く、安価なリン酸エステル難燃剤放散量測定法として、Passive Flux Sampler法を確立した。回収率、再現性などの実用性と信頼性を、実験により確認した。本章は開発したリン酸エステル難燃剤放散量測定法を用いて室内材料や製品のリン酸エステル難燃剤の放散量を実測し、EU標準モデルルームのデータを用いて、曝露量評価を行い、得た曝露量および量-反応関係データを用いて患者数を計算し、支払い意思額(Willingness to Pay、以下WTP)データを用いて、リスクを金銭換算する健康リスク評価案を提案した。

 第3章では、リン酸エステル難燃剤の使用により火災リスク低減評価について述べている。本章は難燃剤添加による死亡リスク、負傷リスク、財産損失の低減に着目し、火災リスクの評価案を提案した。難燃効果の指標は自己消炎時間を使用し、量-反応関係は英国の火災統計データを用いて算出した。WTPおよび平均財産損失の統計データを用いてリスクを金銭換算する評価案である。

 第4章では、評価方法の適用について述べている。既往研究から建材特に密度が低い壁材料は室内リン酸エステルの主な発生源だと考えられるため、本章は壁紙を応用例として、第2、3章に述べたリスク評価方法を用いて、健康および火災リスクを評価し、壁紙へのTCPP最適添加量を算出した。難燃剤添加量別の壁紙サンプルからのTCPP放散量を測定した結果、添加量と放散量の間に正の相関関係が見られた。TCPP添加量5%の壁紙サンプルを用いて、TCPP放散量の温度依存性を測定した結果、放散量の自然対数と絶対温度の逆数の間に正相関関係が見られ、高温で放散量が増加することを実験的に明らかにした。NOAEL(36mg/kg/day)から不確定係数1000を用いて算出した耐用一日摂取量(TDI)を基準に曝露量評価したところ、壁紙へのTCPP添加量が20%以下の場合、個人曝露濃度はTDIを超えないことを明らかにした。壁紙にTCPPを添加することによる火災リスクの低減と健康リスクの増加を比較し、最小リスクを求め、誤差を評価した上、最適添加量は12.5±2.5%であると算出し、本研究で開発した最適添加量評価法の実用性を証明した。

 第5章は本論文の結言である。以上で述べてきたように、本研究は全体リスクの最小値を求めることにより、リン酸エステル難燃剤の健康リスクおよび火災リスクの定量評価法、最適添加量評価法を開発した。本研究は二律背反型環境問題へのリスク最小化手法の適用研究であり、二律背反型環境問題の解決に貢献することが期待される。既存の研究例が稀少なこのような問題に対して、新たな知見を得ていることから、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/9290