学位論文要旨



No 122767
著者(漢字) 山口,喬弘
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,タカヒロ
標題(和) 心筋細胞活動電位数値計算モデルを用いた心疾患のメカニズムとその治療法に関する検討
標題(洋)
報告番号 122767
報告番号 甲22767
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(科学)
学位記番号 博創域第304号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 人間環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐久間,一郎
 東京大学 教授 久田,俊明
 東京大学 教授 杉浦,清了
 東京大学 教授 神保,泰彦
 東京大学 助教授 鈴木,克幸
内容要旨 要旨を表示する

1.研究背景

 近年わが国においては,食生活の欧米化や感染症対策の進歩に伴い,心室細動や心室頻拍等の不整脈を機序とする心臓突然死が増加している.しかし,不整脈の発生・停止メカニズムについては不明な点が多く,これを解明するための基礎的研究が必要とされている.

 不整脈の発生・停止メカニズムや心臓の電気生理に関する研究は,イオンチャネルレベル,心筋細胞レベル,心筋組織・心臓レベル,生体レベルなど様々なスケールで行われている.不整脈に関する理解を深めるためには,各スケールの研究によって得られる知見を統合して研究を進める必要がある.しかし,心臓は複数の要素が複雑に結合したシステムであるため,任意の要素の変化がシステム全体に与える影響を定量的に推定することは困難であり,各スケールで得られた知見を統合的に評価する研究はほとんど行われていない.

2.目的

 イオンチャネルレベルから心筋細胞レベル,2次元心筋組織レベルまでの電気生理現象を再現可能なシミュレーション環境を構築し,構築したシミュレーション環境を用いて,各スケールの実験的知見及び臨床的知見を結合し,新たな知見を創出することを目的とする.

3.シミュレーション環境の構築

 本研究では,心筋細胞活動電位数値計算モデルとして,Luo-Rudy dynamic modelを使用した.また,2次元心筋組織興奮伝播モデルとしては,Luo-Rudy dynamic modelを1セルとして,隣接する4つのセルと細胞内及び細胞外を連結抵抗によって接続し,細胞外連結抵抗を0,すなわち細胞外電位を等電位とした2次元心筋組織モノドメインモデルを構築した.さらに構築した2次元心筋組織興奮伝播モデルに,心室壁における貫壁性の電気生理特性の不均一性を導入した貫壁性2次元心筋組織興奮伝播モデルを構築し,擬似的な心電図波形を導出できる環境を構築した.

4.KCNE1/KCNQ1発現量比と心電図QT間隔の関連性に関する検証

 心不全患者においては,心電図QT間隔が延長し,KCNE1遺伝子のmRNA量が増加することが報告されている.しかし,細胞電気生理学的な実験に基づく知見として,KCNE1発現量が増加するとI(Ks)電流量が増加することが報告されており,KCNE1発現量の増加は心電図QT間隔を短縮する方向に作用すると推測されるため,KCNE1発現量の増加と心電図QT間隔の延長を関連付けて説明することは困難である.本研究では,KCNE1/KCNQ1発現量比を制御した遺伝子発現実験を行い,その結果よりKCNE1/KCNQ1発現量比の異なるI(Ks)チャネルのモデル化を行い,構築したI(Ks)チャネルのモデルを心筋細胞活動電位数値計算モデル及び擬似心電図モデルに導入してシミュレーションを行い,KCNE1発現量の増加と心電図QT間隔の関連性について検証した.

 遺伝子発現実験においては,アフリカツメガエル卵母細胞にKCNQ1遺伝子mRNA5ngに対してKCNE1遺伝子mRNA0.2ng,1ng,5ngを注入し,I(Ks)チャネルを発現させた.遺伝子注入から2〜4日後に,二電極膜電位固定法によって発現したI(Ks)チャネルの過渡応答特性を計測した.

KCNE1/KCNQ1発現量比の異なるI(Ks)チャネルのモデル化においては,遺伝子発現実験より導出されたI(Ks)チャネルの過渡応答特性に対して,Luo-Rudy modelにおけるI(Ks)チャネル動特性を記述する数式をフィッティングすることによって,KCNE1/KCNQ1発現量比の異なるI(Ks)チャネルの動特性を導出した.この結果,KCNE1/KCNQ1発現量比が増加するほど,最大I(Ks)コンダクタンスが増加し,I(Ks)チャネルの開閉速度を規定する時定数が増加し,I(Ks)チャネルが活性化し始める膜電位(活性化閾値)が脱分極側にシフトすることがわかった.

 シミュレーションにおいては,構築したKCNE1/KCNQ1発現量比の異なるI(Ks)チャネルのモデルを心筋細胞活動電位数値計算モデル及び2次元擬似心電図モデルを導入し,シミュレーションを行った.まず,心筋細胞活動電位シミュレーションの結果,KCNE1/KCNQ1発現量比が増加するほどAPDが延長した(1Hzペーシング時).また,KCNE1/KCNQ1発現量比が増加するほどI(Ks)電流の立ち上がりが顕著に抑制され,ピーク電流量も顕著に減少した.次に,2次元擬似心電図モデルを用いたシミュレーションについては,刺激頻度を0.1〜4Hzの間で変化させてシミュレーションを行った.その結果,KCNE1発現量が増加するほど心電図QT間隔が延長し,その刺激頻度依存性が強まることが明らかになった.

 以上の結果より,KCNE1/KCNQ1発現量比が増加するほど,I(Ks)チャネルの最大コンダクタンスの増加(I(Ks)増加),開閉速度を規定する時定数の増加(I(Ks)減少),活性化閾値の脱分極側へのシフト(I(Ks)減少)が生じ,結果としてI(Ks)が減少し,APD及び心電図QT間隔が延長するものと考えられる.また,KCNE1/KCNQ1発現量比が増加するほど心電図QT間隔の刺激頻度依存性が強まる理由としては,KCNE1/KCNQ1発現量比の増加によってI(Ks)チャネルの活性化・不活性化が遅くなり,高頻度刺激時にI(Ks)チャネルが完全に不活性化しない現象が生じるため,I(Ks)電流が増加し,APDが短縮するためと考えられる.

5.動物種によるI(Kr)ブロッカー感受性の違いに関する検証

 急速活性化遅延整流外向きK+電流(I(Kr))を選択的に阻害する薬剤(I(Kr)ブロッカー)は,通常逆頻度依存性のAPD延長作用を示す.I(Kr)ブロッカーによるAPD延長の程度は動物種によって異なる.KCNE1遺伝子の少ない動物,例えばヒト,ウサギ,ネコのAPDはI(Kr)ブロッカーによってほとんど延長されない.一方,KCNE1遺伝子の多い動物,例えばモルモットのAPDはI(Kr)ブロッカーによって顕著に延長され,このAPD延長作用は強い刺激頻度依存性を示す.しかし,APD延長作用の違いのメカニズムは明らかになっていない.本研究では,前章で構築したKCNE1/KCNQ1発現量比の異なる心筋細胞活動電位数値計算モデルを用い,KCNE1/KCNQ1発現量比とI(Kr)ブロッカーによるAPD延長作用及びその刺激頻度依存性を検証した.

 シミュレーションにおいては,I(Kr)ブロッカーの一種であるE-4031の作用を想定し,I(Kr)チャネルの最大コンダクタンスを30%低減することによって再現した.刺激周期は0.1〜4Hzの間で変化させた.シミュレーションの結果,KCNE1/KCNQ1発現量比が大きいほどI(Kr)ブロッカーによるAPD延長作用が顕著となり,その逆頻度依存性も強まることが確認された.また,KCNE1/KCNQ1発現量比が大きいほど外向き電流に占めるI(Ks)の割合が低下し,I(Kr)の割合が増加する傾向が見られた.さらに,KCNE1/KCNQ1発現量比が大きいほど刺激頻度の上昇に伴うI(Ks)の割合が増加し,I(Kr)の割合が相対的に低下する現象が見られた.

 以上の結果より,KCNE1/KCNQ1発現量比が増加するほどI(Kr)ブロッカーによるAPD延長作用が強まる理由としては,KCNE1/KCNQ1発現量比が増加するほどI(Ks)が減少するためI(Kr)の割合が相対的に上昇し,I(Kr)ブロッカーの作用も強まったものと考えられる.また,KCNE1/KCNQ1発現量比が増加するほど,高頻度刺激時にI(Ks)が増加しやすくなり,相対的にI(Kr)の割合が低下するためI(Kr)ブロッカーの作用も弱まると考えられる.これが,KCNE1/KCNQ1発現量比が増加するほど,I(Kr)ブロッカーによるAPD延長作用の逆頻度依存性が強まるメカニズムであると考えられる.

 また,KCNE1/KCNQ1発現量比の大きいモデルにおいて,低頻度刺激時にI(Kr)ブロッカーを投与した場合,早期後脱分極(early after depolarization:EAD)の発生が見られた.I(Kr)ブロッカーの副作用としては,torsades de pointes(TdP)型心室頻拍が発生しやすくなることが知られており,EADはTdPを誘発する撃発活動であることが知られている.本研究の結果より,KCNE1/KCNQ1発現量の増大するようなリモデリングの生じている患者に対して,I(Kr)ブロッカーを投与すると,TdP型心室頻拍を誘発しやすくなる可能性が示唆されたと言える.

6.Nifekalantの薬理作用メカニズムに関する検証

 I(Kr)ブロッカーの一種であるNifekalantは,致死性重症心室頻拍に対してamiodaroneやsotalol等のIII群抗不整脈薬が無効でも著効する症例が多く報告されており,nifekalantの薬効についてI(Kr)抑制作用以外の機序の可能性が予想されている.Nifekalantの薬理作用については,その開発当初より-50mV付近の電位ではI(Kr)抑制作用が見られず,逆にI(Kr)を増加させる可能性が指摘されていた.本研究では,-50mV付近の膜電位において出現するI(Kr)agonist effectが,I(Kr)電流量,活動電位波形,不整脈(spiral reentry)に及ぼす影響を,動物実験及びコンピュータシミュレーションの組み合わせによって検証を行い,nifekalantの薬理作用メカニズムを解明することを目的とした.

 まず,nifekalant投与時のI(Ks)チャネル動特性の変化について検証するため,I(Kr)チャネルと極めて類似した電気生理学的及び薬理学的特性を持ち,I(Kr)チャネルを構成していると考えられるHERGチャネルをアフリカツメガエル卵母細胞に発現させ,二電極膜電位固定法を用いてnifekalant投与時のHERGチャネルの動特性の計測を行った.この結果,nifekalant投与時に0mV程度の強い脱分極パルスを印加し,その後-50mV程度の弱い脱分極パルスを与えると,nifekalant投与時のHERG電流量がcontrolを上回る,HERG電流agonist effectが確認された.この現象は1回目の強い脱分極パルスと2回目の弱い脱分極パルス間のインターバルが長くなるほど減弱し,2回目の脱分極パルスが-50mV近傍でない場合には発生しないことが確認された.また,1回目の強い脱分極パルス印加後に電流-電圧曲線を計測すると,nifekalant投与時のHERGチャネルの活性化曲線(activation curve)は,controlと比較して-27mV過分極側にシフトする現象が確認され,より低い膜電位で活性化しやすくなっていることがわかった.これより,nifekalant投与時のHERGチャネルactivation curveのシフトがHERG電流agonist effectの発生要因となっていると仮定し,nifekalant投与時のHERGチャネルの動特性を表現するモデルを構築した.本モデルを用いて実験プロトコルと同様のシミュレーションを行い,実験結果と同様の現象を再現した.これにより,nifekalantによるHERG電流agonist effectの発生メカニズムは本モデルによって説明された.

7.結論

 イオンチャネル,心筋細胞,心筋組織の各レベルにおけるシミュレーション環境を構築し,動物実験研究や臨床的な研究によって得られた知見と結びつけることによって,新たな知見を創出することの可能な研究システムを実現した.このような実験とシミュレーションを有機的に融合させた研究を進めることにより,種々の心疾患及び抗不整脈薬がイオンチャネル及び心筋細胞,心筋組織の電気生理特性に与える影響を理解する上で極めて有用であり,不整脈治療における根拠に基づく治療(evidence based medicine:EBM)の推進に資するものと考えられる.

図 本研究によって得られる実験的知見及び臨床的知見の結合

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は8章からなる。

 第1章は研究背景について記述されている。不整脈の発生及び停止メカニズムや治療法の作用メカニズムには不明な点が多いため、不整脈の発生・停止機序や治療法の有効性に関する客観的な研究手法が必要とされている点を指摘している。また、不整脈の発生・停止機序や心臓の電気生理に関する研究は、イオンチャネルレベルから心臓レベルまで様々なスケールで行われており、不整脈に関する理解を深めるためには、各スケールの研究より得られる知見を統合して研究を行う必要があるが、心臓は複数の要素が複雑に結合したシステムであるため、そのような統合的な研究はほとんど行われていないことを指摘している。

 第2章では第1章を踏まえ、本論文の目的をイオンチャネルレベルから心筋組織レベルまでの電気生理現象を再現可能なシミュレーション環境を構築し、それを用いて電気生理学的な実験及び臨床研究による知見を統合的に検証することとしている。

 第3章では、本論文で構築した2次元心筋組織興奮伝播モデル及び擬似心電図モデルについて述べている。

 第4章では、KCNE1/KCNQ1発現量比と心電図QT間隔の関連性について記述している。まず、KCNQ1及びKCNE1遺伝子を異なる比率でアフリカツメガエル卵母細胞に注入し、発現したI(Ks)チャネルの電気生理特性を二電極膜電位固定法で計測した。その結果よりKCNE1/KCNQ1発現量比の異なるI(Ks)チャネル動特性モデルを構築し、KCNE1/KCNQ1発現量比の増加に伴い、1)最大I(Ks)コンダクタンスの増加、2)I(Ks)チャネルの活性化閾値の脱分極側へのシフト、3)I(Ks)チャネルの開閉速度を規定する時定数の増加が生じることを示した。最後に、構築したI(Ks)チャネルのモデルを心筋細胞数値計算モデル及び擬似心電図モデルに導入し、KCNE1/KCNQ1発現量比の増加に伴いI(Ks)は減少し、心筋細胞活動電位持続時間(APD)及び心電図QT間隔が延長することを示している。

 第5章では、動物種によってI(Kr)ブロッカーに対する感受性が異なるメカニズムを動物種によるKCNE1/KCNQ1発現量比の違いと関連付けて説明している。I(Kr)ブロッカーは心筋細胞に発現するK+チャネルの一種であるI(Kr)チャネルを選択的に抑制することによりAPDを延長する抗不整脈薬である。しかし、KCNE1/KCNQ1発現量比の大きい動物ではI(Kr)ブロッカーによるAPD延長作用は顕著となるが、KCNE1/KCNQ1発現量比の小さい動物ではAPD延長作用がほとんど見られないことが報告されている。本章では、第4章で構築したKCNE1/KCNQ1発現量比の異なる心筋細胞活動電位モデルを用い、KCNE1/KCNQ1発現量比とI(Kr)ブロッカーに対する感受性の関連性を検証している。その結果、KCNE1/KCNQ1発現量比の増加に伴ってI(Ks)が減少し、I(Kr)の活動電位に対する寄与が相対的に大きくなるため、動物種によってI(Kr)ブロッカーに対する感受性が異なると考察している。

 第6章では、I(Kr)ブロッカーの一種であるnifekalant投与時に膜電位-50mV近傍でI(Kr)亢進作用が生じるメカニズムを、電流計測実験及びその結果に基づくコンピュータシミュレーションによって検証している。電流計測実験では、I(Kr)チャネルと電気生理学的特性の類似したHERGチャネルをアフリカツメガエル卵母細胞に発現させ、二電極膜電位固定法によってnifekalant作用下のHERGチャネル特性を計測した。その結果に基づいてnifekalant作用下のHERGチャネル動特性モデルを構築し、nifekalantの結合したHERGチャネルではactivation curveの過分極側へのシフトが生じ、それがHERG電流亢進作用の発生要因となっていることを示した。また、I(Kr)亢進作用も同様のメカニズムで発生しうることを示した。

 第7章では、本論文全体の考察が述べられている。コンピュータシミュレーションと実験研究を統合した研究により、新たな知見を生み出すことが可能であることを述べている。

 第8章では、本論文全体の結論が述べられている。コンピュータシミュレーションと実験研究を統合した研究により、新たな知見を生み出すことが可能となり、不整脈研究に資する情報を提供可能であることを述べている。

 本論文は、実験研究や臨床研究等で得られた知見を、コンピュータシミュレーションを用いて統合することにより、それぞれの研究に対して新たな解釈を与えるとともに、抗不整脈薬の使用法に関する指針の策定等に資する知見を提供できる可能性を示したものであり、今後の不整脈研究に大いに貢献できる重要な論文であるといえる。

 なお,本論文第4章は,荒船龍彦,佐久間一郎,大内克洋,柴田仁太郎,本荘晴朗,神谷香一郎,児玉逸雄との共同研究であり,第5章は荒船龍彦,佐久間一郎,寺澤敏昭,柴田仁太郎,本荘晴朗,児玉逸雄,神谷香一郎との共同研究であるが,シミュレーションモデルの構築ならびに数値解析は論文提出が中心となって行ったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(科学)の学位を授与できると認められる。

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