学位論文要旨



No 122773
著者(漢字) 西沢,啓子
著者(英字)
著者(カナ) ニシザワ,ケイコ
標題(和) 学校施設における難聴生徒の教室音環境に関する研究
標題(洋)
報告番号 122773
報告番号 甲22773
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第310号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 社会文化環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 佐久間,哲哉
 東京大学 教授 神田,順
 東京大学 助教授 清家,剛
 東京大学 助教授 平手,小太郎
 東京大学 助教授 坂本,慎一
内容要旨 要旨を表示する

 学校教育におけるノーマライゼーションの浸透で、近年は特殊学級を持たない公立小中学校に障害を持つ生徒が入学し、個別の支援教育を受けつつ可能な限り通常学級で一般生徒と共に学ぶようになってきている。これに伴って公立小中学校の施設環境は、基本的に一般生徒のみが学び従来の画一的な学校建設が進められていた1970年代に比べて、多様で複雑な様相を示すようになってきた。平成5年の学校教育法「通級による指導」の制度化以来、公立小中学校(以下、通常学校)に通い通常学級の普通教室(以下、普通教室)で一般生徒と生活しながら個別の支援教育を受けることが多くなっている。

 従来は一般生徒のみを対象に全体的な指導が行われていた通常学校で、近年は個別指導の必要性が高まっており、学校施設自体もオープンプラン型教室や他用途との複合化等の普及で多様化している現在、生徒、特に個別指導を受ける生徒の心理に様々な施設環境の要因が影響を与えていると考えられる。特に空気、温熱、光環境に比べ音環境は生徒自身が騒音源となる場合が多い。その分、制御が難しく、騒音の影響を最も受けやすい難聴生徒に少なからず負担を与えている可能性が考えられるが、その実態を知ることのできる報告は少ない。

 現在の通常学校では、音の伝搬に配慮した配置計画、遮音、吸音に配慮されることは少なく、彼らが個別指導を受ける難聴学級指導室(以下、指導室)については特に音響面の配慮が必要となるにもかかわらず、学校諸室として特殊な事例でもあり設計手法は未だ確立されていない。結果として設計者の取り組み方が異なり仕様に大きな格差がある。指導室のモデルプランの提示は教育関係者から必要とされており、一部の教育研究者は著書の中で難聴学級諸室を紹介し、屋外からの遮音、室内の吸音、空調への配慮の必要性について述べているが、このような情報が建築および音響設計者に活用される機会は少ない。

 現在、建築および音響設計者に広く用いられている学校施設の設計指針に日本建築学会編「建築物の遮音設計基準と設計指針(第二版)」がある。各種用途ごとの建築音響性能推奨値の他、「C.5学校」の項では学校諸室における授業中の発生騒音レベルと各室間の遮音性能推奨値が対応表として載っており建物の運用状況を予想した設計が可能であるが、一般生徒が通学する通常学校を前提としており難聴学級諸室については示されていない。加えて近年は施設形態も多様化し、それに伴って一般生徒から見ても授業に支障が出ている例が少なくない。また利用者の年齢が低いために、問題があっても環境への不満が顕在化しにくいという経緯があった。

こうした動向に対応するため、日本建築学会では「建築物の遮音設計基準と設計指針」に示されている現行の基準を見直し、時代に即した新しい基準・指針づくりに取り組むことになった。

2003年にアカデミック・スタンダード策定の専門ワーキンググループを立ち上げ、2年間の検討を経た後に「学校施設の音環境保全規準」を提案するに至った。学校施設に関する最近の国内外の動向を十分に見極めた上で取りまとめられたものであり、今まで国内になかった難聴学級指導室についても推奨値が設けられることになった。しかしながら、基本的には一般生徒の利用が前提の規準であり、難聴生徒にとっての普通教室の音環境については現在示されていない。難聴生徒が一日の大半を普通教室で生活することを考えると、見過ごすことのできない点である。指導室についても、規準で推奨された値と利用者の生活実感との乖離を生じないよう、生徒自身の音環境評価を把握することも必要と考える。

 現在の学校音環境は難聴生徒には厳しいと予想されながら、教育現場の要望が設計者、学会に伝わりにくく、難聴生徒の立場に立った音響設計手法も整備途上であることを鑑みると、設計者、学会に対し設計や策定の根拠となる何らかの情報提供が必要であると考える。

特に難聴学級指導室については、通学する生徒の聴力レベル、求められる音響性能、室の配置計画、遮音および吸音に関するディテールの情報が散逸しており、一度全体を網羅的に把握して問題点を整理し、設計時の配慮事項として提案する必要がある。また普通教室についても、難聴生徒が不都合を感じている点を可能な限り抽出することが望まれる。

 以上をまとめると、推奨されている学会基準値を実際の運用状況と利用者の印象評価との対応から検討し、指針や規準で現在カバーしていない部分について音環境への提言を行う必要があること、また運用状況と利用者評価の対応関係を把握することは教育関係者の教室運営にも役立つデータとなり得ると考える。

 本研究では通常の公立小中学校に通学する難聴生徒の教室音環境について、彼らの聴能・発音訓練の場であり音環境に特別な配慮が必要な難聴学級指導室と、一般生徒と共に一日の大半を過ごす通常学級普通教室に焦点を当てた。建築仕様や測定値という物理的側面、音環境評価という心理的側面の両面を軸に、教室音環境の主要因である教室設計(建築仕様、建築音響性能、配置計画)、利用者(属性、印象評価)、教室運用(騒音レベル、授業形態)について実態把握を行い、これらの関係から学会基準値と利用者評価の対応、教室設計時および教室運用時における配慮事項を検討し、設計者、学会、教育関係者に音環境設計に関する提言を行うことを目的とした。

 以下に本論文の構成を示す。

 第1章では序章として教育現場の動向および学校施設に関する学会基準の見直しという、利用者と設計者の両側面の背景から本研究の必要性と目的を述べ、子どもの音環境についての関連研究、調査、指針から本研究の位置づけを行った。

 第2章では音環境の配慮が必要と言われながらも学校格差が大きく、配慮の度合い、利用者である教師や生徒の評価が明らかにされていない難聴学級に着目した。難聴学級設置校の音環境要因は多様であり、地域性、周辺環境、学級形態によって異なるため、全国で約600校と言われる難聴学級設置校の教師を対象に網羅的な全国アンケート調査を行った。結果として窓、床仕上げ等の各部位に指導室に必要な仕様を備えた学校は全体の1割に満たず、全体の7割を占める残りの学校では約4割が不満としており、全国のほぼ4〜5割の教師が音環境への不満を感じていることが明らかになった。

 第3章では第2章で明らかになった難聴学級指導室の仕様グレードの多様性を音響実測により定量的に把握し、教師を対象とした教室環境に関するアンケート調査を行った。実測とアンケート結果の対応から建築音響性能の検討、教師自身の評価と難聴生徒の様子の関連を抽出することとした。指導室における建築音響性能と音に対する印象評価は概ね相関し、空気音遮断性能については教師自身の評価と難聴生徒の様子は傾向が似ており建築音響性能ともほぼ対応する。

一方、空調騒音は難聴生徒の様子よりも教師自身の評価の方が不満側の指摘率が高く、難聴生徒の立場に立った詳細な検討の必要性が示唆された。

 第4章では難聴生徒自身の評価に主眼を置き、授業時の音環境の状況をリアルタイムに把握する観点からアンケート調査と騒音レベル測定を行い、利用者の印象評価と騒音発生状況の関係を考察した。さらに印象評価と建築音響性能の対応を考察することで学会基準値と利用者の生活実感との関係を確認した。

 普通教室は運用状況により騒音レベルの差が大きく、音への印象評価も幅広い。平成14年の学校教育法の改正により通常学校への就学基準の聴力レベルによる線引きが廃止され、現在は幅広い聴力レベルの生徒が通常学校に通学していることから、中等度〜最重度までの裸耳レベル50〜120dBの難聴生徒を対象とした。また発生騒音レベルは生徒の学年によって異なるため、中3、小6、小3および小2の3グループから対象者を選定した。聞き取りにくさ、静かな環境への要望どちらも指摘の割合は聴力レベルと相関が見られず、どの聴力レベルの難聴生徒が入学しても、聞き取りにくさやうるささを感じる可能性が示唆された。隣室および廊下間の空気音遮断性能は学会推奨値を下回り、学年や教室配置によっては一般生徒からも半数以上が「気になった」と指摘された他、難聴生徒は講義形式の中3のような比較的静かな授業でも教師の声の聞き取りにくさや音へのうるささを感じることが示された。

 指導室では建築音響性能が大きな要因となるため、普通教室を転用したものと音響面の配慮がなされ指導室として計画されたものの2タイプを選定した。残響時間と難聴生徒および教師の聞き取りにくさに相関は見られなかったが、残響時間は音声聴取の重要な要因であることから学会推奨値程度の残響時間を確保することが望ましいと考えた。空気音遮断性能については自室-隣室、自室-廊下共、遮音性能が上がると生徒、教師どちらも「気になった」と指摘する割合は減少した。同性能では教師よりも生徒の指摘の割合が高めであり、生徒は音に対して、より敏感になる傾向が示唆された。空調騒音についてはグレード、生徒、教師を問わず「静かな方がよい音」として指摘が多く、室内に目立った騒音源のない指導室では空調騒音が妨げになりやすいことを示した。

 第5章では得られた結果を総括的にまとめ、教室設計時および教室運用時における配慮事項を示し、難聴生徒の教室音環境設計に関する提言を行った。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「学校施設における難聴生徒の教室音環境に関する研究」と題し、5章から成る。学校教育法の改正により近年では難聴生徒は聾学校ではなく通常の公立小中学校に通学する例が増えている。本研究では通常学校における難聴生徒の教室音環境の実態調査を通して難聴生徒が利用する教室で発生している音環境の現状とその問題点を抽出・整理した上で、教室設計・運用の配慮事項を検討した。本検討は実際の授業時の発生騒音状況、それに対する利用者評価、教室の音響性能、難聴生徒への補聴支援状況の4つの観点から行っており、教室音環境の実情に即したものとなっている。設計実務者および教育関係者にとって非常に有益な研究成果と考えられる。

 第1章「序論」では、研究の背景、既往研究との関連、研究の目的を述べた上で、本論文の構成について示した。

 第2章「難聴学級の全国的傾向把握」では、音環境の配慮が必要と言われながらも学校格差が大きく、配慮の度合い、利用者である教師や生徒の評価が明らかにされていない難聴学級に着目した。難聴学級設置校の音環境要因は多様であり、地域性、周辺環境、学級形態によって異なるため、全国で約600校と言われる難聴学級設置校の教師を対象に網羅的な全国アンケート調査を行った。約半数の学校から回答があり、窓、床仕上げ等の各部位に難聴学級の指導室(以下、指導室)に必要な仕様を備えた学校は全体の1割に満たず、全体の7割を占める残りの学校では約4割が不満としており、全国のほぼ4〜5割の教師が音環境への不満を感じていることが明らかになった。

 第3章「難聴学級の個別事例把握」では、第2章で明らかになった指導室の仕様グレードの多様性を音響実測により定量的に把握した。音環境に配慮された指導室では日本建築学会およびイギリス教育技術省による設計指針の推奨値を上回る性能を確保している一方、配慮されていない通常学級の普通教室(以下、普通教室)を転用した室では普通教室の推奨値すら満たしていない場合があり、学校間の性能のばらつきの大きさが示唆された。

 第4章「難聴学級と通常学級の授業時実態把握」では、難聴生徒にとって最も重要な学校諸室である指導室と普通教室に着目した。実際の授業時の音環境の状況を把握する観点から騒音レベル測定と難聴生徒へのアンケート調査を行い、印象評価と騒音発生状況の関係を考察した。難聴生徒は指導室11名、普通教室16名、合計27名(うち1名重複)を対象とした。指導室については音響性能の違いに着目し、グレードH(カーペット、二重窓、廊下との間に前室有)、グレードL(ビニールタイル、一重窓、廊下との間に前室無)の2タイプを対象とした。結果として残響時間と教師の声の聞き取りにくさの相関は見られず、聞き取りに関しては個人差の影響が示唆された。一方、空気音遮断性能と音への妨害感については性能値と評価が対応する傾向が見られた。

 普通教室での発生騒音レベルは生徒の学年によって異なるため、中3、小6、小3および小2の3グループから対象者を選定した。騒音レベルは学年による違いが見られ、講義形式の授業を行う中3では60〜70dBA、小3のグループ学習授業では85dBAまで上昇した。騒音レベルと教師の声の聞き取りにくさは相関が見られず、騒音レベルが低い中3でも聞き取りにくさが指摘された。

 音環境への要望として「静かな方がよい音」を選択式で質問したところ、指導室では「空調騒音」や「室外からの透過音」が指摘されたのに対し、普通教室では学年を問わず「周囲の友だちの話し声」が最も多く挙げられた。

 更に一般生徒の評価との比較で難聴生徒は一般生徒が指摘しない校時でも聞き取りにくさ、音環境への要望を指摘した。一般生徒に比べ難聴生徒は周囲の音が聞き取りや聴感の妨げになり易く、指導室では音響性能への配慮が、普通教室では室内の生徒が発する音への配慮が重要であることが示唆された。

 第5章「総括」では、得られた結果を総括的にまとめ、設計実務者・教育関係者に対し難聴生徒が使用する教室の設計・運用に関する配慮事項を示した。

 以上、本論文の成果は、通常学校における難聴生徒の音環境を実際の授業時に即し室内の音響性能から使用する生徒の学年、聴力レベル、一般生徒の評価まで幅広い視点から考察された、教室音環境設計に資する有益な知見である。

 よって本論文は,博士(環境学)の学位申請論文として合格と認められる.

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