学位論文要旨



No 122829
著者(漢字) 田中,英之
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ヒデユキ
標題(和) IL6によるPC12細胞の運動促進に関する研究
標題(洋)
報告番号 122829
報告番号 甲22829
学位授与日 2007.04.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3213号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 講師 舘川,宏之
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 准教授 有岡,学
 東京大学 准教授 八村,敏志
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

細胞は外部からの刺激に応答して、方向性を持って運動する場合がある。細胞運動は免疫細胞の病原菌への攻撃、炎症性細胞の炎症部位への移動、癌細胞の浸潤、転移のみならず、個体発生や器官の形成に関わる重要な生命現象である。その異常が様々な病態を引き起こすことからこれまで様々な研究がなされてきた。細胞運動に関わる分子として細胞外部のリガンド、基質、そのレセプター、細胞内部での二次メッセンジャー、アクチン骨格の再編成に関わる物質等々その分子種は多岐に渡っている。リガンドに注目すると、免疫系の細胞の遊走に関わるケモカイン類、血管新生や管腔形成に関わる血管内皮増殖因子(VEGF)、肝細胞増殖因子(HGF)といったタンパク性のものから、リゾフォスファチジン酸(LPA)、環状AMP(cAMP)といった化合物に至るまで幅広い種類が知られている。それらは細胞種によって同じ分子でも関わり方が異なることも明らかになっており、その分子機構の解明には多くの注目が集まっている。

ラット副腎髄質褐色細胞腫(PCI2細胞)は神経成長因子(NGF)により神経様突起を伸ばすことが知られており、神経細胞のモデル細胞として広く用いられている。PCI2細胞は)そのシグナル伝達の解析で得られた結果を実際の神経細胞に適用することで、神経系のシグナル伝達の研究の発展に大きく寄与した細胞である。主に神経突起の伸長機構の研究においての貢献が著しいが、細胞運動に関しての知見はあまり多いと言えないのが現状である。

我々の研究室では神経突起の伸長を促す新規物質の単離を目的として、様々な組織に由来する癌細胞の培養上清でPC12細胞に対して、突起伸長活性があるもののスクリーニングが行われた。その結果グリオーマ細胞SF268の培養上清に突起伸長活性を検出した。興味深いことにこの培養上清刺激により誘導される突起はNGFによる突起と長さ、形が異なった。さらにこの培養上清にはNGF添加の際には見られなかったPCI2細胞の塊がバラバラに離れ、一つ一つの細胞間が広がるという分散活性が検出された。PC12細胞においてこのような活性を示す分子はこれまでに報告がなく、また前述のようにPC12細胞が神経のモデル細胞として多く用いられており、この活性を詳細に解析することにより神経細胞の運動に関する新たな知見を得ることが期待された。そこで本研究ではこの活性因子の単離および活性因子の誘導するシグナル伝達機構の解明を試みた。

IL6はPC12細胞の運動を促進し細胞塊分散を引き起こす

先行研究により培養上清中の突起伸長活性は陽イオン交換樹脂S-Sepharoseに結合することが分かっていた。しかしS・Sepharose結合画分には突起伸長活性のみ検出され、分散活性は検出されなかった。またS-Sepharose素通り画分単独でも細胞塊の分散は見られなかった。

そこでS-Sepharose結合画分と素通り画分を共存させたところ、細胞塊は分散した。よって分散活性は突起伸長活性が共存して初めて効果を発揮することが分かり、一般的な細胞運動を誘導するリガンドとは一線を画すユニークな物質であることが示唆された。よってS-Sepharose素通り画分中に含まれる分散活性因子の精製を意図して、結合する樹脂の検討を行った。

その後、突起伸長活性を担う因子がNGFであることが判明したことから、NGFに対して精製画分を共存させ、細胞塊の分散を観察する系を確立した。この系を用いて様々な樹脂を検討した結果、逆相樹脂が分散活性因子の精製に有効であることが分かった。同時にこの活性因子の性質検討を行い、プロテアーゼ感受性であること、熱、酸に安定であること、ゲルろ過によるサイズ分画から分子量が16kD~40kDであることも分かった。以上の性質が以前当研究室で精製されたインターロイキン6(IL6)に似ていること、さらにNGFと活性画分による細胞の突起の形態がIL6によって誘導された突起に似ていることから、分散活性を担う因子はIL6である事が推察された。そこで抗IL6中和抗体を予め添加したSF268培養上清のPC12細胞塊に対する効果を見たところ、分散活性は見られなかった。

またIL6の精製標品をNGFと共存させたところ、精製画分と同様に細胞塊の広がりが観察された。このことから.SF268培養上清中のPC12細胞塊の分散活性を担う物質はIL6であることが明らかになった。

次にこのIL6による細胞塊分散が、細胞運動の促進によって引き起こされるかどうか確認するために金コロイド法による運動能の測定を実施した。その結果NGF単独刺激時と比べNGF共存下でIL6刺激時にPC12細胞の運動性が増すことが明らかとなった。細胞塊の分散活性は細胞運動の促進の結果であることを確認した。

IL6は多くの機能を持つサイトカインであるが細胞運動に関する報告は数例しかなく、その多くが表現型の報告にとどまり、内部のシグナル伝達を詳細に解析した例はほとんどない。このアッセイ系を使ってIL6の細胞運動への関わりという新しい機能を提言できると考えられる。以下IL6下流のシグナル伝達の解析を行った。

細胞運動に関わるIL6受容体gp130の機能部位

IL6受容体はリガンド高親和性のαサブユニット、低親和性のβサブユニット通称gp130からなる。IL6は細胞膜上に存在するαサブユニットと結合する。リガンドと結合したαサブユニットはgp130と会合し、gp130に結合しているチロシンキナーゼJAK(Janus kinase)が活性化される。活性化されたJAKは、gp130細胞内領域に存在するチロシン残基および、転写因子STAT(signal transducer and activator of transcription)5やチロシンキナーゼBtkといったシグナル伝達分子をリン酸化することが知られている。

gp130細胞内領域は277アミノ酸からなり、6つのチロシン残基が存在する。このうち細胞膜領域から数えて、第2から第6のチロシン残基がJAKからリン酸化を受ける。リン酸化された第2チロシン残基にはチロシンフォスファターゼSHP・2が結合し、MAPキナーゼ経路を活性化する。また3番目から6番目のチロシン残基はリン酸化を受けることにより転写因子STAT3をリクルートし、JAKによる活性化を誘導する。活性化されたSTAT3は核内へ移行し、多くの遺伝子の転写を制御していると考えられている。

gp130のどの部位のリン酸化が細胞塊の分散に関するシグナルを担っているか検討するため、gp130細胞内領域の各チロシン残基をフェニルアラニンに改変した点変異体を用いた解析を行った。その際内在性gp130の影響を排除するためにgpl30の細胞外領域を穎は球コロニー刺激因子G-CSF受容体の細胞外領域に改変したキメラ受容体を使用した。

マイクロインジェクション法によりPCI2細胞塊全体にキメラ受容体を発現させ、NGF存在下でG-CSFを添加し細胞塊の観察を行った。その結果MAPキナーゼ経路が抑制される変異体、STAr3へのリン酸化が抑えられる変異体において野生型と同様の活性が見られた。また全てのチロシン残基をフェニルアラニンに変えた変異体においても同様に分散活性が見られた。これらのことからIL6による細胞塊の分散にはgp130のチロシンリン酸化は必要でないことが示唆された。

次にgp130の欠失変異体を用いて細胞塊の分散に必要な領域の検討を行った。点変異体の結果と同様にMAPキナーゼやSTへT3を活性化する領域を欠失させた細胞膜から68アミノ酸をコードする変異体(G68)を用いても細胞塊の分散に影響はなかった。さらに細胞内領域を削り、細胞膜から25アミノ酸をコードする変異体(G25)を用いると細胞塊の分散が抑制された。G68とG25の間の43アミノ酸に相当する領域にはJAKと結合する領域が存在する。このことから細胞塊の分散にはJAK結合領域を含む領域が必要であることが示唆された。

以上の結果からIL6刺激による細胞塊分散にはJAK下流のgp130のリン酸化チロシンを介さない経路が重要である可能性が示された。前述のようにこの経路の下流因子にはST訂5やBtkが存在するが、Btkは免疫系に特異的なチロシンキナーゼである。そこでJAK下流の具体的候補としてSTAT5が関わる可能性を考えた。STAT5は先述のSTAT3と同様、そのチロシンリン酸化が活性化の指標とされている。そこで分散活性を誘導することのできる変異体においてもSTκr5のリン酸化が見られるかどうかについて検討を試みた。293T細胞にgp130の欠失変異体とSTAT5を共発現させ、G-CSFで15分間刺激した後、抗リン酸化チロシンST訂5抗体でイムノブロットを行った。その結果、G68を発現させた293T細胞では刺激に応じてSTAT5のリン酸化が見られたのに対し、G25を発現させた細胞ではSTAT5のリン酸化は見られなかった。この結果は欠失変異体におけるSTAT5の活性化と細胞塊分散活性に相関が見られたことを意味する。このことから細胞塊分散に関わるIL6シグナル伝達経路の下流分子としてST訂5が候補であることが示唆された。STAT5は様々な細胞種で増殖と分化に関わる転写因子であるが、細胞運動に関する知見は少ない。神経系においても一部の神経細胞の増殖に関わる報告があるのみである。さらなる解析によって鏡AT5の新たな機能の解明に繋がることが期待される。

まとめ

本研究においてSF268培養上清からPC12細胞塊を分散させる因子としてIL6を同定し、細胞塊の分散が各細胞の細胞運動によることを示した。NGFと共存しないと効果を発揮しないことから直接の走化性因子というよりは運動能を促進するというユニークな因子であると考えられる。またIL6下流のシグナル因子に関しては、当初の予想と異なりMAPKやSTAT3を経るものではなく、JAKから直接リン酸化される分子が関わることが分かった。具体的候補としてSTAT5を考えているが、詳細な解析が必要である。

PC12細胞は神経系のモデル細胞であることを考えると、本研究の結果を実際の神経細胞に適用し、神経系の細胞の新たな運動機構を解明する端緒になることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

細胞は外部からの刺激に応答して、運動する。細胞運動は免疫細胞の病原菌への攻撃、炎症性細胞の炎症部位への移動、癌細胞の浸潤、転移のみならず、個体発生や器官の形成に関わる重要な生命現象である。ニューロン前駆細胞の細胞運動の異常が起きると、脳構造の乱れが生じることが明らかにされており、ニューロン前駆細胞の細胞運動が脳神経系構築時に重要な役割を果たしていると考えられている。従って分子レベルにおける神経細胞運動の制御機構の解明は生物学的に重要であるが、未だ不明な点が多く残されており、全容解明には程遠いのが現状である。本論文はヒトグリオーマ細胞株SF268の培養上清に神経系のモデル細胞であるラットPC12細胞の細胞塊分散を誘導する活性を見出し、この活性因子の同定および活性因子の誘導するシグナル伝達機構の解明を通して、神経細胞の運動制御機構の解明に繋がる新たな知見を得ることを試みたもので、研究の背景を述べる第1章と材料と方法を説明する第2章、それに続く第3, 4章、および研究結果を討論する第5章からなる。

第3章ではSF268培養上清中の細胞塊分散活性因子を同定し、これらの因子によりPC12細胞の運動性が上昇することを明らかにしている。細胞塊分散活性因子を陽イオン交換樹脂S-Sepharoseを用いて素通り画分と結合画分に分離し、細胞塊分散活性は複数の因子によって誘導されることを示した。細胞塊分散活性が常に突起伸長活性を伴って観察されたことから、突起伸長活性因子である神経成長因子 (以下NGF) の関与を検討し、抗NGF中和抗体による細胞塊分散の阻害、NGF標品とS-Sepharose素通り画分刺激による細胞塊分散の誘導を見出し、S-Sepharose結合画分中の細胞塊分散活性因子はNGFであることを明らかにした。次にS-Sepharose素通り画分中の細胞塊分散活性因子の精製を試み、部分精製物を得た。部分精製物の性状解析を行い、明らかにした性質にインターロイキン6 (以下IL6) の性質との類似点があることを見出し、S-Sepharose素通り画分中の細胞塊分散活性因子はIL6である可能性を示唆した。抗IL6中和抗体による細胞塊分散の阻害、IL6標品とNGF刺激による細胞塊分散の誘導を見出し、S-Sepharose素通り画分中の細胞塊分散活性因子はIL6であることを明らかにした。次に金コロイド法を用いてNGF, IL6によるPC12細胞の運動性の変化を解析し、NGF, IL6刺激によりPC12細胞の運動性が上昇することを明らかにした。またIL6はNGFによって誘導された細胞運動を促進する機能を持つことを示した。

第4章ではIL6受容体gp130の変異体を用いて、細胞塊分散に関わるIL6シグナル伝達経路の解析を行っている。gp130のチロシン残基変異体の解析により、IL6によって誘導される細胞塊分散にはgp130のチロシンリン酸化は必要でないことを明らかにした。次にgp130の欠損変異体を用いて細胞塊分散に必要な領域の検討を行い、細胞塊分散にはJanus Kinse (以下JAK) の結合領域を含む領域が必要であることを示した。またJAKが結合できないことが報告されているgp130点変異体を作製して、細胞塊分散に対する効果の検討を行い、IL6による細胞塊分散にはJAKのgp130への結合、活性化が必要であることを明らかにした。gp130のチロシンリン酸化非依存的にJAKによって活性化される分子が転写因子STAT5である可能性を検討し、gp130欠損変異体におけるSTAT5の活性化と細胞塊分散活性に相関があることを示した。各種阻害剤を用いてNGF, IL6による細胞塊分散に必要な経路を検討し、PI3K経路、MAPK経路、Src経路の必要性を示した。gp130変異体を用いた解析と阻害剤を用いた解析により、細胞塊分散に必要なNGF側の経路としてPI3K経路、MAPK経路の存在を示唆した。

以上本論文は、ヒトグリオーマ細胞株SF268培養上清からPC12細胞塊分散活性因子としてNGF, IL6を同定し、IL6がNGFによって誘導されたPC12細胞の細胞運動を促進することを示し、さらに細胞塊分散に関わるIL6シグナル伝達経路の一部を明らかにしたものである。神経系のモデル細胞であるPC12細胞の細胞運動を促進する因子を同定し、そのシグナル伝達経路の一部を明らかにしたことは、神経細胞運動の制御機構の解明に繋がりうるものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士 (農学) の学位論文として価値あるものと認めた。

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