学位論文要旨



No 122835
著者(漢字) 戸森,麻衣子
著者(英字)
著者(カナ) トモリ,マイコ
標題(和) 近世幕領支配の組織と構造
標題(洋)
報告番号 122835
報告番号 甲22835
学位授与日 2007.04.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第585号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 准教授 松井,洋子
 国立歴史民俗博物館 教授 久留島,浩
 関西学院大学 教授 志村,洋
内容要旨 要旨を表示する

本博士論文は、日本近世における幕領(幕府直轄領)の支配組織と支配構造の特質を解明する研究である。

研究の目的は、幕領の支配組織と支配構造の分析を通じて幕府直轄領支配の全体像を再構成しようというところにあるが、単に行政組織や幕府政策の把握のような形で安易に像を結ぼうとしているのではなく、実際に幕領支配に関与した諸役人・諸身分の存在形態、その歴史的変容過程を踏まえることによって、幕領支配の全体を考えようとするところに特徴がある。近世幕領をめぐる研究史では、個々の地域による差異を包含していた近世前期における幕領の性格が、徐々に全国的に統一され中央集権的なものへ変化して行く、という指摘が従来からなされているが、本論文は、奉行所役人・代官所役人のような実務官僚や組合村惣代のような末端の組織に属する階層の動向からその内実を解明するものである。

本博士論文は、一部から三部の全八章と、前後に序章・終章を付した構成となっている。

序章では「研究史の整理と課題」として、幕領・代官研究の研究史ならびに近世長崎研究の現状と課題を確認し、本論文の研究史上の位置を示した。

第一部では「近世中後期幕領代官所役人集団とその特質」と題し、幕領代官所役人(特に手附・手代)をめぐる論点を追究する論文二本をおさめた。

第一部第一章「幕領代官所役人の「集団」形成をめぐって」は、幕領の地方文書にある代官所役人の存在実態を知ることのできる史料や、江戸城多聞櫓文書の履歴史料類、代官・代官所役人文書を探索して、存在形態についてあいまいな理解しかされてこなかった代官所手附・手代の輪郭を確定していったものである。その結果、代官によって直接採用された手代と幕府派遣の手附は本来別個の身分であったが、職務の近似性や婚姻関係からある一つの社会階層を形成し、共通の利害により結集して身分集団を形成していったのではないか、これに基づく情報のネットワークは、幕領支配の質的向上やその全国規模の均一化に大きく寄与したのではないか、という二つの仮説を見出すことになった。また、手附・手代をはじめとする代官所下僚の存在形態の解明によって、幕府直轄領支配の特質をあぶりだすことができるのではないかという見通しを得ることになり、第一章は、以下の各章を展開する上での基礎論文となっている。

第一部第二章「代官所役人集団と幕領地域社会―幕領組合村惣代・豪農との関係構造について」は、代官所役人集団の存在を前提として、地域有力者たる幕領組合村惣代や豪農と手附・手代の関係を探ったものである。政治権力と在地社会の関係を位置づけるにさいし、権限やそれを示すために連動して整えられた儀礼での形式に現れる関係構造とは異なる実態的な姿から関係を捉えようとし、そうした政治社会状況と幕領組合村惣代の活動要件の関係を明らかにしたものである。代官所役人と組合村惣代の間に交わされた書簡を精緻に読み解くことで、組合村惣代が代官所役人の持つ幕領情報の提供を受けており、組合村惣代は幕領支配の論理や現状を逐次知ることのできる状態にあったこと、得た情報に基づいて組合村惣代の側から権力の側へ働きかけがなされ、自分たちの要望に沿う行政を行わせようとしたことを示した。さらに、代官所役人と組合村惣代とは、支配身分と被支配身分としての関係を越えて、家と家、個と個による交際関係を築いていたことも判明した。組合村惣代は、代官所役人との間に結ばれた情報ネットワークにより他の一般の村役人層より多くの情報を獲得して、的確な判断ができる環境にあったことから地域有力者として確立し、地域に対する影響力を行使した。また、組合村惣代と代官所役人とは、情報のキャッチ・アンド・リリースの関係をもって相互に幕領地域における影響力を高めあっていたことを明らかにした。

続く第二部ならびに第三部は近世中後期長崎を対象とした研究成果である。

第一部に収めた研究を通じて、政治権力と在地社会の関係や支配役人集団の論理を明らかにすることによって幕領支配の特質はより明白になるとの確信を深め、そのような研究視角に応えることのできる対象として幕領長崎を選んだ。支配役人集団の論理を考えるという課題は第二部で、政治権力と在地社会の関係を考えるという課題はおもに第三部で考察されている。

第二部「幕領長崎の支配組織と構造」では、長崎に置かれた幕府諸機関ならびに所属する支配役人について順々に考察することによって、それらの機能の複合ならびに共同によって実現された幕領長崎の支配構造について明らかにした。各役職を単体として取り上げるのではなく、できるだけ他の役職との役務分担関係や事象の影響関係を掬い上げることを意識しており、第三章から第六章までの綜合によって、草木の蔓のように絡み合った幕領長崎における支配組織の全体構造をイメージできるようになる。

第二部第三章「天保改革期の幕領長崎―長崎奉行伊沢政義の政策を中心に―」では、天保改革期の長崎奉行伊沢政義による改革動向について論じた。第四章以下を理解するための前提として、天保期前後の長崎奉行所がどのような課題を抱え、どのような改革政策を試行したかを検証したものである。伊沢は天保前期の長崎奉行と異なり、貿易や長崎会所問題より支配制度改革や地役人政策を含む都市政策を重視した。高島秋帆をはじめとする地役人に武力を装備せしめ、奉行付属の軍事力として利用しようという前任者までの方針を一転させ、奉行所中枢を幕臣属吏で固め、長崎地役人の職権を制限して身分秩序を正そうとした伊沢の改革は、結局のところ失敗に終った経過を示した。この奉行伊沢の政策は、それまでに実施されてきた改革政策と比べ、とりわけ長崎直轄領支配における幕府官僚の主導権回復を目指したものと位置づけた。

第二部第四章「長崎地役人の身分と変容」は、近世長崎において特殊な職務に従事していた地付き役人である「地役人」について論じたものである。彼らが残した記録や長崎奉行の認識を示した文書などからその職能や身分形態を検討し、近世中期以降の歴史的変容を明らかにした。近世前期において、「町人」としての身分を保持しながら強い裁量権によって市政の「自治」を司っていた長崎地役人は、中期になるとその権限を制限されていき、最終的に幕末期にいたって、町人であることの否定を伴いながら長崎奉行所に所属する官吏として取り込まれるという経過をたどった。この地役人の社会的身分の変化は、長崎における都市構造の質的転換を促すこととなった。

第二部第五章「近世中後期長崎代官高木氏について―長崎奉行との関係を踏まえて―」は、長崎奉行による行政と密接に関わって機能した長崎代官の幕領支配を考察したものである。また、代官研究の研究史も踏まえて、「代々代官」と呼ばれる世襲型代官の特徴を示すとともに、その存在形態の諸側面を明らかにした。長崎代官が幕府の代官としての性格と長崎地役人としての性格と二重の身分規定を受けて、地位・職掌の多層性のなかに置かれていたという事実や、元々は土地の論理を優先する地付き役人としてのその性格が優位にあったが、行政事務手続きの整備などにより、より江戸の幕府勘定奉行所に近接した官僚型代官に変容してゆく過程を、第五章では明らかにした。

第二部第六章「近世長崎の役人社会における長崎代官手代」は、第一部第一章で取り上げた代官手附・手代を、長崎の事例で検討したものである。長崎代官が非世襲系代官と異なる属僚構成を有しながら、実は同様に寛政期に属僚の質的変換を経ていたという事実や、長崎代官手代が「御館入」や姻戚関係によって長崎地役人や長崎社会との接近の度合いを深め、長崎での影響力強化を実現した一方で、長崎役人社会における身分・格式の秩序化の波に揉まれる中で、代官所役人集団の一員としての認識に基づいて地役人との間の身分面での差異を強調し、長崎代官同様に土着役人からの「官僚化」を目指したという事実を示した。

第三部「幕領長崎の地域と社会」には長崎「郷方」三ヶ村の事例を通じて、政治権力(長崎奉行、長崎代官、諸藩)と在地社会の関係を考える論文をおさめた。同時に、遠国奉行直轄都市に隣接して所在する代官支配幕領の特質を考える論考ともなっている。

第三部第七章「長崎代官支配「郷方」三ヶ村の特質―幕府直轄都市隣接郷村の位置」では近世後期の浦上村淵を舞台に、(1)幕府直轄都市に隣接する村落の有する機能、ならびに都市維持体制の一環として設定された役の特徴、(2)幕府による九州諸藩への軍役賦課によって成り立っている長崎湾警備体制の中で、足下の浦上村淵が果たした役割について考察した。(1)では特に、浦上村淵が幕府御用船に関わる負担をし、幕府や長崎奉行所の権威や儀礼を支える役割を有していたこと、(2)では庄屋志賀氏を仲介させながら、藩の所領ではない浦上村淵において、藩による警備が円滑かつ合理的になされるしくみが構築されていった過程を明らかにした。

第三部第八章「長崎「郷方」三ヶ村における土地所有形態と都市民の動向」は、都市と都市隣接地域との関係を重視する近年の都市史研究の流れを受け、長崎の周縁部における都市社会の一側面を提示したものである。土地帳簿や売買証文などの分析から、都市部(町方域)と周辺村落(「郷方」域)は、町人・地役人の生業・生活や権利関係において密接な関係を有していたこと、貿易の隆盛・衰退に伴って起こった人口移動によって都市と「郷方」の境界が曖昧化し、近世前期に権力によって設定された原則的な貿易都市構造が崩されていったことから、長崎奉行・長崎代官両者の管轄体制においても見直しを迫られたことを明らかにした。

以上を踏まえ、終章では、代官所役人集団が代官所役人の官僚としての成長に果たした役割ならびに、代官所役人をはじめとする実務官僚層の行政技術保持者としての役人身分意識、幕府直轄都市と隣接郷村の構造把握をめぐる論点ならびに展望を示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、日本近世中後期の幕府直轄領(幕領)の支配構造について、出羽国村山郡や直轄都市長崎を事例として、これを担う代官や手付・手代・地役人などからなる「地域行政官僚」層の特質を中心に検討したものである。まず、序章で研究史の詳細な整理と課題設定がなされ、本論は3つの部と8つの章から構成され、最後にまとめとして終章が置かれる。

第一部「近世中後期幕僚代官所役人集団とその特質」では、出羽国村山郡幕領を素材とする二つの章からなる。そこでは、まず代官所役人の内、手付・手代層に注目し、その採用・相続などの検討を通じて、共同の利害関係を核に同職的な集団として形成される「代官所手代集団」を見いだす。また、手付・手代等の代官所役人と地域の豪農との関係を、山口村名主で郡中惣代も勤めた伊藤義左衛門関係史料から検討し、幕府支配の最前線と在地社会との接点を実態面から分析する。そして、役人集団と豪農との情報ネットワークの存在形態や、江戸の政治社会との結合関係などを論ずる。

第二部「幕領長崎の支配組織と構造」は、直轄都市長崎に置かれた幕府諸機関の全体像の解明をめざし、長崎奉行所などの各役職に見られる機能を、相互の関係をも併せて見ながら検討してゆく。まず前提として、天保改革期の長崎奉行伊沢政義を取り上げ、支配制度の改革や、地役人対策等を分析する。ついで、地役人という長崎地付きの役人集団の特異性に注目し、その多様な存在形態、本来の町人としての性格、長崎奉行所支配の下での官僚化の動向などを明らかにする。さらに、長崎代官高木作右衛門家を取り上げ、その支配域の構造や、地方支配を中心とする諸役務や身分、長崎奉行との相互関係などを見る。

続く第三部「幕領長崎の地域と社会」では、再び長崎を取り上げ.都市長崎の外縁部に広がる「郷方」三か村(長崎村・浦上村山里・浦上村淵)の社会構造や、これら郷方と長崎奉行・代官・諸藩などとの関わりを多面的に検討する。最初に、長崎の対岸にある浦上村淵を対象に、都市長崎に隣接する村の機能や百姓の役に見られる特質、九州諸藩の長崎警護体制に果たした役割などを解明する。さらに、長崎村を対象として、土地所持や住民移動などを検討して、町方と「郷方」との境界の曖昧化や、長崎との均質化などの動向を指摘する。

本論文は、史料をよく博捜し、手堅い分析を積み重ねるなど高い水準に有り、幕領支配構造論、手付・手代や地役人などの事例研究、直轄都市長崎論、などの点に於いて独創的な内容を有す成果をあげている。一部と二・三部との構成、抽出された諸概念の吟味、全体のまとめにおける論点整理などの点でいくつか改善すべき点を残すが、審査委員会は、上記のような優れた研究成果に鑑みて、論文が博士(文学)に十分値するものとの結論を得た。

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