学位論文要旨



No 122839
著者(漢字) 桂,元嗣
著者(英字)
著者(カナ) カツラ,モトツグ
標題(和) 人類が全体として見る夢 : ローベルト・ムージル『特性のない男』
標題(洋)
報告番号 122839
報告番号 甲22839
学位授与日 2007.04.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第589号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 教授 重藤,実
 東京大学 教授 浅井,健二郎
 神戸大学 准教授 宮田,眞治
内容要旨 要旨を表示する

第1章 生成論的方法: 博士論文の方法論を紹介する。ローベルト・ムージルの『特性のない男』における決定稿と草稿との質的差異を積極的に認めつつ、作品の生成過程におけるムージルの思考の流れを追う。なかでも草稿ではロマーンの中心的位置を占めつつも、『特性のない男』の作品中に構想もろとも放置されることになったモースブルッガーの扱われ方に焦点を当て、ロマーンを構想するムージルのイデーの変遷を論じる。

第2章 「ロマーンの中心の中心」としてのモースブルッガー: 1920年代のロマーンの草稿のうち、モースブルッガーに関するものを3つのカテゴリーに分類し、草稿から決定稿への推敲作業に見られる傾向を読み取る。そこから、1)モースブルッガーの「責任能力」問題が、初期の草稿から決定稿まで受け継がれていること、2)モースブルッガー脱出計画の担い手が、アキレス/アンダースからクラリッセへと移行し、計画を実行する展開が、計画が実行されずに終わるよう書き直されていること、3)モースブルッガーへの関心が、世間という広がりのある空間へと移され、彼の存在が、新聞記事や噂からしか知ることのできない間接的な存在へと変更されていること、4)モースブルッガーの内面を描写した、ムージルの言語観を考察するうえで興味深いテクストが、最後になってモースブルッガーに付加されたこと、という4つの傾向が明らかになる。

『スパイ』の段階では、モースブルッガーはロマーンの中心である。焦点となる責任能力問題とは、ひとつの「境界問題」、つまり19世紀後半から20世紀初頭のヨーロッパにおける「新しい人間」をめぐる言説と連関している。こうした言説が人間をめぐる定義の境界を広げた。ムージルはエッセイ『芸術における猥褻なものと病的なもの』で、「あらゆる健康な魂には病的な魂と同じようなところがあり、決定的なのは全体である」と述べ、道徳と不道徳のあいだに引かれる境界のあり方を批判する。その一方、美的空間は現実とは別の連関を提示する。初期のモースブルッガーは芸術という形式でのみ表現可能な「特殊ケース」である。

第3章 成立史における1923年~26年: 1923年~1926年という成立史上の大きな区切りについて論じる。この時代にロマーンの構成が明確な形を取るようになり、また「救世主」を待望する人々の非合理的な情動について考察がはじまる。これは『特性のない男』の「同じようなことが起こる」世界の考察に通じるが、この時点では物語を展開させるための舞台装置にすぎない。『救世主』のモースブルッガーは、人々の非合理的な情動の投影像である。1925年、ムージルは突如自らのロマーンを『双子の妹』と称しはじめ、この事実に引きずられるように、ロマーンの構想は新たな変化をとげる。『双子の妹』では「平行運動」というテーマが軽視されるという研究上の先入観があるが、これはロマーンを「物語の糸」からのみ把握しようするからである。ムージルにとってはロマーンを「構造化」することも重要な作業であった。ムージルは単に「特殊ケース」を物語ることによっては表現できない「出来事における幽霊的なもの」を念頭においている。ロマーンの構造化が進むとともにモースブルッガーをめぐる物語の結末部分が草稿から姿を消し、より抽象的な設定へと変更されている。

第4章 語りの構造の模索――エッセイスムスの導入: 「出来事における幽霊的なもの」を考察する語りの構造の誕生を論じる。ムージルはかつてロマーンの語りを一人称形式へ書き換えようとした。同時期にムージルは「時代の症候」の分析をこれまでのエッセイをまとめたエッセイ集において進めており、そこでもやはりエッセイを書く「わたし」が大きなテーマになっていた。エッセイ『精神と経験』でムージルは非合理主義の蔓延を第一次世界大戦後の「時代の症候」とみなし、シュペングラーを批判する。一方、彼はエマソンらエッセイストを肯定的に評価する。エッセイストは一回的な体験をその体験の類似したものへと知的に書き換える。経験へと回収されない体験の領域を、ムージルは「似非‐非合理的領域」と呼び、似非‐合理的領域と対置させた。両者を補完的なものとして正確に連関させるべく、ムージルは超合理主義を唱える。超合理主義的思考がエッセイ集の、さらにロマーンの構造を変化させていく。エッセイ集を構想するムージルは、個々のエッセイにおける「わたし」を、自分と結びつけることができない。それゆえ個々のエッセイにおける「わたし」を、エッセイ集という新たな連関に置き直そうとする。試行錯誤の結果、個々のエッセイの「わたし」に架空の伝記を付与するという奇妙な案が浮上する。エッセイ集の「わたし」とは、作者でも作中人物でもないが、同時にその両者の要素を担う「わたしという連関」である。ここにはムージル個人では限界があるが、架空の人物を設定することによってその限界が超えられる、可能的な思考様式が想定されている。これは彼が主人公と作者を「性格」をもつかという点で区別することと関係している。「わたし」が「わたし」であることは変わらない。変わったのは時に応じ変化する状況である。生が可変的な存在であるのを意識するからこそ、ムージルは自分に特定の性格を与えられない。こうした思考の背景には世紀末の状況、つまり形骸化した道徳の問題がある。この道徳は個人を排除する。ムージルは個人を倫理的な源泉とみなし、倫理的な力の喪失に「時代の症候」を見ている。人間は道徳世界から逃れられない。しかしこの限界を超える可能性を、ムージルは性格をもったロマーンの人物に見出す。つまり現実世界の道徳の枠内で生きる個人と、その枠組みとは別の思考様式を担った作中人物という、両方の要素間の連関としてエッセイ集の「わたし」は想定される。この連関構造がロマーンの語りにも適用される。

第5章 ファンタジーの論理: 語りの構造の模索とは別にSテクストを書きつづけるムージルの美学的思考を考察する。当時ムージルは「動機」という主人公の魂の論理連関を描く物語様式を想定していた。これは『合一』の方法である。Sテクストの「楽園への旅」では主人公の自我が世界と合一する神秘的な場面が描かれる。その際、多くの比喩や引用が緊密に構成されている。執筆にあたり、ムージルはブーバーの『忘我の告白』における神秘家の告白を「境界体験」というノートに書き写している。彼の神秘主義への関心は、忘我の体験の「一貫した内面の動きがもつ同じ構造」よりも、非個人的な体験が個人的体験へと変貌する境界、言語化される瞬間を見極めることにある。そこでムージルは芸術における抽象に着目する。抽象作用は受容者に「現実意識の平衡障害」をもたらす。彼は映画の観相学的印象を「圧縮」や「転移」による現実感覚の平衡障害と心理学的に定義づけ、この平衡障害を、神秘主義者の忘我の状態、すなわち「別の状態」と結びつける。この高揚した生の状態が芸術のファンタジーである。彼は人間の精神状態を通常状態と別の状態に二分する。しかし両者には密接な連関がある。この連関を「ファンタジーの論理」としていかに正確に提示するか、ここにムージルがSテクストを書き進め、その後筆を置くに至った動機がある。ムージルの試みは、彼の二分法が段階的な相違に過ぎないことを明らかにすることである。これをムージルは形象と概念の関係性を分析することで明らかにする。彼が注目するのは未開民族の模写過程である。未開人の思考は論理性が欠如し、非統語的な形象が羅列する。ムージルは前論理的で視覚的な形象の羅列から論理的で抽象的な概念という「定式的なもの」への移行をうながす魂の傾向に注目し、これを「実際的な方向づけの必要性」と呼んだ。ニーチェはこれを理性と呼ぶ。人間は、形象や概念というふたつの隠喩形成とその忘却という過程を経ることによって、はじめて抽象作用の恩恵を受ける理性的な存在になる。文学でもちいる比喩もこの理性のはたらきにもとづいている。

第6章 人類が全体として見る夢: 決定稿でムージルはモースブルッガーから知的要素を排除し、貧しさと教養のなさからくる孤独を強調している。それにより個人的なものが押しつぶされた結果、外界と自らを境界づける感覚を失ったモースブルッガーの幻想的な身体感覚を描き出そうとする。この身体感覚に、ムージルは「境界体験」すなわち別の状態を重ね合わせる。また、モースブルッガーには比喩を理解するための前提、ファンタジーと現実を自由に行き来する能力が欠落している。しかしムージルは、彼を精神病理患者へと一直線に結びつけはしない。むしろ彼を一義的に定義づけようとする現実の秩序体系を批判的に見直すことで、モースブルッガーに「世紀末の雰囲気」、すなわち外的な生と内的な生との分裂感情をもった「疎外された個人」という問題性を担わせる。これは無教養なモースブルッガー個人と、知的言語を所有する世間との対峙に示される。人々がモースブルッガーに心を奪われるのは、自分だけに存在する生に固執する彼の姿が、表向きの生活により無意識へ追放されていた人々の個人的な生活に光を当てるからである。彼の自己への固執は、ウルリヒのエッセイスムスによる漸進的改善をひたすら「待つ」態度と重なる。しかし彼はモースブルッガーから背を向ける。「人類が全体として夢を見るとすればモースブルッガーが現れるにちがいない」という言葉には、社会的な生の背後に影のように潜む自分だけの世界が、反転して表へ現れるイメージがある。これはラディカルなユートピアである。しかしこのイメージがモースブルッガーと結びつくとき、そこには暴力の介入が想定されている。ウルリヒはそれを望まない。彼のファンタジーは現実世界との非自立的な関係性が前提とされているのだ。

まとめ: 草稿から決定稿におけるモースブルッガーをめぐるイデーの変化を確認し、最終的にモースブルッガーを作品中に放置することにしたムージルおよび作品に恣意のないファンタジーをめぐる戦いの跡を読み取る。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ドイツ語による近代小説において重要な位置を占めている、オーストリアの作家ローベルト・ムージル (Robert Musil, 1880-1942) の代表作と目される未完の長編小説『特性のない男』(1930年代前半に第3巻38章までが公刊されたが、それ以降は遺稿として残された)をとりあげて、そのさまざまな稿態を整理し、分析しつつ、なかんずく登場人物の一人であるモースブルッガーを中心に、この作品の構造を論じたものである。

『特性のない男』は、すでに1906年ごろに最初の構想が書きとめられているが、主として執筆されたのは、ようやく1920年代になってからのことである。ここにいたるまでに、さまざまな表題が考えられ、主人公の名前も変転した。筆者は、いくつものテクストを詳細に読み込みながら、モースブルッガーが一貫して登場人物として残されていることに着目して、これを軸としながら、この作品の生成過程を解明しているが、この試みは、十分、成功しているといえよう。他方で、快楽殺人犯として精神病院に収容されるモースブルッガーの法的な「責任能力」のテーマは、さまざまなヴァリエーションをくりひろげつつも、ほぼすべてのテクストに受け継がれており、筆者は、そこから世紀転換期のヨーロッパにおける「新しい人間」をめぐる言説との関連をみいだすことによって、この小説が身をおいている思想史的文脈を明るみに出していく。なかんずく日常的な言語に先立つ根源的な具象性の主題にかかわりながら、ムージルも知悉していたエルンスト・クレッチュマーの精神病理学やマルティン・ブーバーの神秘思想に関する著書をも参看して、この間の消息を明らかにする論述は、きわめて説得力をもつものである。こうしたさまざまな思想を統合しつつ、この小説は成り立っているともいえようが、それは単なる非合理主義への傾斜に帰結することなく、いわゆる「エッセイスムス」をその方法とする、ムージルの「超合理主義」に立脚することによってこそ可能となる。かくしてその先に、モースブルッガーの形姿を契機にして、「人類が全体として見る夢」が構想されることになる。

このムージルの大作を論じた研究は、日本においても枚挙にいとまがないが、筆者は、いたずらに細部に拘泥して詳述することなく、一方において作品の構造分析に、他方において思想史的な文脈に、それぞれ意をもちいつつ、作品を展開させている動因をよく明示しえている。なかんずくモースブルッガーに焦点をあてて論じた文献は、ドイツ語圏においても例をみない。

本論文は、明快な構成を意図するあまりに、他の重要な主題が言及されずに終わっている観もあり、その点はいささか憾みなしとしないが、参考文献を博捜しつつ、首尾一貫した論理を構成しえた力量は、十分に評価されるべきものである。以上に鑑みて、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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