学位論文要旨



No 122844
著者(漢字) 坂本,圭司
著者(英字)
著者(カナ) サカモト,キヨシ
標題(和) 米国における主として摩天楼を対象とした建物形態規制の成立と変遷に関する研究 : シカゴ及びニューヨークの事例から
標題(洋)
報告番号 122844
報告番号 甲22844
学位授与日 2007.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6571号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 大西,隆
 東京大学 教授 大方,潤一郎
 東京大学 教授 北沢,猛
 東京大学 教授 伊藤,毅
内容要旨 要旨を表示する

第一章 序章

本研究の目的は、シカゴとニューヨークにおいて、建物形態規制が何の実現を目指して導入され、発展したのか、建物形態規制を巡る関係者(プレーヤー)たちの位置づけは時代と共にどう変遷したのか、そしてこれらから得られる現代社会への教訓とは何か、を明らかにすることにある。

第二章シカゴ市における建物形態規制の成立と変遷(1893~1923年)とその社会背景

1893年3月、シカゴ市議会は高さ130フィートの建物絶対高さ制限を制定した。当時、アメリカの主要都市において建物高さ制限が導入されていた例は少なく、こうした制限の導入は先駆的であった。しかし、1893年以降、シカゴ市議会では建物高さ制限を巡る議論が毎年のように行われ、1923年にシカゴ市ゾーニング条例が導入されるまでの30年間に計5回も最高高さの引き上げ、引き下げが繰り返されるなど、不安定であった。

本章では、この30年間を、1)1880年代~1893年、2)1893年~1902年、3)1902年~1920年、そして4)1920年~1923年の4期に分けて、制定・変更された建物高さ制限ならびに実現には至らなかった草案の内容を明らかにし、これらが議論された時代の社会背景や議論に参加した関係者の意見等を参考にしながら、シカゴにおける建物形態規制は、何の実現を目指して検討、導入されたのかを考察した。

1)では、シカゴ市は、地価の安定化に資する不動産取引の基礎を創ると共に、都市景観の統一感を創出する目的で建物高さ制限を導入したことを示した。また2)、3)では、制限が不安定となった背景には、制限を巡る市議会内での対立や個人の利益誘導も絡んだ不透明な議論があったことを明らかにした。一方4)では、高層ビルが林立するシカゴの中心部Loop地区において、不動産所有者間の公平性を確保し、建物高さ制限を安定化させる方策として、敷地形状や道路幅員を考慮しない高さ約260フィートの一律な制限を市が導入するに至った過程を明らかにした。なお、こうした高さ制限の制定と同時に、部分的であればこの制限を超えてもよいとするタワーの規定も導入された。

こうして、シカゴにおける建物形態規制は、ゾーニング条例の導入を契機として建物絶対高さ制限による硬直的な制限から、部分的であれば高さ無制限(容積(bulk)の規制は受ける)のタワー建設を可能とする硬直性と柔軟性を兼ね備えた規制へと変遷した。本章のまとめとして、この時代区分において、シカゴ市は建物高さ制限の導入によって都市の秩序回復を目指していたことを指摘した。

第三章シカゴ市ゾーニング条例の改定(1942年・57年)とその社会背景

本章では、引き続きシカゴ市における1)1923年以降のゾーニング条例の運用と都市の変化、2)1942年のゾーニング条例改訂、そして3)1957年のゾーニング条例改定について明らかにした。1)では、ゾーニング条例導入後に建設ブームが起きたものの、個人の利益誘導目的で「容積地区」や「用途地区」の変更が頻繁に行われるなどの問題が顕在化していた事実を明らかにすると共に、シカゴのゾーニング行政が有効に機能していなかった実態を明らかにした。しかし1930年代の大恐慌時代には状況が一変し、シカゴは建物床スペースの供給過多、オフィス市場の破綻、建物解体、そして都市の衰退という悪循環に陥った。ここではこの悪循環を招いた要因の一つが1923年ゾーニング条例においてニューヨークの事例に倣い導入されたタワー規定にあったことを指摘した。2)では、事態収拾のため市議会が全会一致で建物形態規制の大幅引き下げを実施したことを明らかにした。ここでは、原則建物容積(bulk)により全ての容積地区で建物のヴォリュームが制限されることとなった。すなわちLoop地区の不動産所有者間の公平のシンボルとして導入された高さ260フィートの高さ制限は、Loop地区の衰退と共に撤廃されたのである。3)では、建物容積(bulk)制限に代わる新しい形態規制FAR(Floor and Area Ratio)が導入される過程を明らかにした。FARは建物形態の自由を保障するもので、建物デザインの多様化を望む関係者に強く支持された。また、ディベロッパーにとっては、経済効率の高い開発を行うにあたり、フレキシブルな建物形態規制は不可欠であったことから同様に支持された。大恐慌時代に壊滅的な影響を受けたシカゴはその再生を都市の刷新により実現しようとした。つまり、建物形態規制はそれを実現する手段であったのである。

第四章 ニューヨーク市における建物形態規制の検討とゾーニング条例(1916年)の成立、そしてその社会背景

ニューヨークで初めてオフィスやホテル等の高層建築物を対象とした建物形態規制が制定されたのは1916年のゾーニング条例導入時であったが、実際にはシカゴと同様にニューヨークでも19世紀末に建物高さ制限の導入に向けた検討が始まっていた。本章ではゾーニング条例制定までを1)1890年代、2)1900年代、そして3)1910年代、の3つの区分に分けて検証し、どのような社会背景のもと、建物形態規制を巡る議論が行われ、そしてゾーニング条例の制定に至ったのかを振り返った。これらを踏まえ、ニューヨーク初の建物形態規制は何の実現を目指して導入されたのか、を検証した。

1)では、建築家Postが考案した建物高さ制限案の内容をはじめ、主に市民団体により検討された幾つかの形態規制案を明らかにした。この頃に提案された形態規制は建物高さ制限が多く、道路幅員に応じて建物の絶対高さを決めるというヨーロッパで一般的な方法を参考としていた。しかし、Post案のように道路幅員の平方根に定数を乗じて得られる数値を最高高さとすることで道路幅員の違いによる高さ制限の違いを少なくするという固有の内容にも見られた。次に2)では、建物の絶対高さ制限のみならず、斜線制限や建物容積(bulk)制限、さらには敷地の一定部分については高さ無制限と出来るタワーの規定など、様々な形態規制案が考案されたことを明らかにした。この時代に示された形態規制案はどれも実現には至らなかったが、高層建築物の問題に関して立場の異なる様々な関係者を集め形態規制の是非を議論する体制がつくられるなど、3)で本格的な議論が行われる基礎がこの時代に形成されたと言って良い。3)では、ゾーニング条例が検討され、制定される過程を明らかにした。当時のニューヨークで形態規制を導入するための要件は、ポリスパワーの概念に則ったものであること、都市の体裁向上に一定の配慮を行った内容であること、そして地価を下げないことであった。そこでニューヨーク市は、これら全ての要素を一つの形態規制に反映させることで、その解決を図ったことを明らかにした。

結局、ニューヨークにおける建物形態規制は、当初硬直的な建物高さ制限を制定することで、都市の秩序を回復することを目指していたが、ディベロッパーらの賛同を得られず実現しなかった。そこで、タワーの規制など部分的には柔軟的な規定を盛り込むことで、開発に関する問題をクリアし、都市の体裁にも配慮した建物形態規制を導入することで都市の秩序回復を目指した。

第五章 ニューヨーク市ゾーニング条例の改訂(1961年)とその社会背景

1916年に制定されたニューヨーク市ゾーニング条例は、1961年までの45年間、抜本的に改訂されること無く、その原形が保たれてきた。しかしその間、改訂に関する議論は絶えることは無く、何とか45年間にわたって運用されてきた、というのが実態であった。本章では、1916年から61年までの45年間を1)1930年代、2)1940年代、3)1950年代に分け、ゾーニング条例の変更や改訂を巡りどのような議論や検討が行われ、それらは時代と共にどのように変化したのかを明らかにすると共に、1961年の建物形態規制の改定は何の実現を目指して行われたのかを考察した。

1)では、大恐慌の影響もあり、貸しオフィスを中心に賃料を高く設定でき、かつ効率的なプランを探求する市場の動きが建物形態規制の検討に与えた影響を指摘した。2)では、都市計画委員会設立後の本格的な建物形態規制改定の動きについて明らかにした。都市計画委員会のMoses委員は、改訂は必要であるが劇的な改訂は避けるべきであると考え、現行ゾーニングマップを基本に、一律な建物高さ制限の引き下げと敷地内における空地の割合引き上げ、という改訂を成立させた。しかし、この改訂に強く反対するディベロッパーらは訴訟を起こし、結果的に裁判所はこの改訂を無効と判断した。3)では、都市計画委員会委員長のFeltのリーダーシップの下、悲願のゾーニング条例改訂が実現する過程を明らかにした。Feltは新しい建物形態規制であるFARと、敷地内に公共空地を設置した所有者がFARの割り増しを受けられるボーナスルールの導入を積極的に推進しディベロッパーの賛同を獲得した。Feltは、45年ぶりにゾーニング条例の改訂を実現させたが、彼の意図は長年の都市問題であった混雑問題解消に資する、マンハッタンの刷新を行うことにあったことを本章の最後に指摘した。

第六章 結章

本章では本論文の結論として、以下の点を確認した。

1)シカゴ・ニューヨークにおいて建物形態規制が実現すべき目標は、ほぼ時期を同じくして「都市の秩序回復」から「都市の刷新」へと移り変わった。建物形態規制は、建物高さ制限からFARへと変化した。

2)両都市共に、建物形態規制の制定を巡る関係者の構図、検討のプロセスは時代と共に変遷した。基本的に、ニューヨークでは開発業者は建物形態規制に対して否定的な考え方が強く、彼らの賛同を得るための規制、検討プロセスの充実が図られた。一方のシカゴでは、大恐慌の影響を受け都市の衰退が著しく進行していた状況で、両者が都市の刷新によりかつての繁栄を取り戻すという共通の目標を持ったため、形態規制を巡る開発業者と行政サイドの対立は前者ほど顕在化しなかった。

3)シカゴ市はゾーニング条例検討の際、ニューヨーク市ゾーニング条例のタワー規定を模倣し導入した。この規定はシカゴに空前の建設ブームをもたらしたが、こうした他都市の形態規制の模倣は「必ずや破滅的な結果をもたらす」と弁護士Bassettは警告していた。彼の警告通りに、この規定が引き金となりシカゴでは都市の衰退が加速した。

4)本研究を通じ、利害が一致しない関係者らから合意を得るための検討プロセスの重要性、他都市の安易な模倣ではない都市の実情に応じた土着のルール策定の必要性など、様々な価値観が混在する現代社会に対しても示唆的な教訓を得た。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、シカゴ及びニューヨークにおける建物形態規制の根拠、その成立及び変遷過程における関係者の関わりについて議会資料等の一次資料を用いて明らかにすることを目的としている。論文は、研究の目的と手法を述べた第一章とシカゴについて論じた第二章、第三章、ニューヨークについて論じた第四章、第五章、並びに結論を論じた第六章から成っている。

第二章は、シカゴ市における建物形態規制の成立と変遷とその社会背景についてその経緯を詳細に明らかにしている。1893年から1923年にかけての時期を四期に分け、制定・変更された建物高さ制限ならびに実現には至らなかった草案の内容を明らかにしている。その結果、シカゴにおける建物高さ制限が道路幅員に関係なく画一的で、また市中一律であった点に着目し、当時の建物形態規制とは、地価の安定化を目指した都心地区内の不動産所有者間の公平性確保を根拠として定められていたことを初めて明らかにしている。

第三章では、シカゴ市における1923年以降のゾーニング条例の運用と都市の変化を資料を基に明らかにし、さらに1942年のゾーニング条例改訂及び1957年のゾーニング条例改訂についてその具体的内容を社会系崎的背景とともに明らかにしている。とりわけ1930年代の大恐慌時代にシカゴにおいては建物床スペースの供給過多、オフィス市場の破綻、建物解体、そして都市の衰退という事態を招いている事実を指摘し、その原因としてニューヨークの事例に倣い導入されたタワー規定にあったことを指摘した。

第四章では、ニューヨーク市における建物形態規制の検討と1916年ゾーニング条例の成立の社会的背景を詳細に明らかにしている。とりわけ前史としての1890年代以降の建物形態規制を巡る議論を市議会の議事録及び新聞報道をもとに再現し、1916年に制定されたニューヨーク市のゾーニング条例がポリスパワーの概念に則ったものであると同時に都市の体裁向上に一定の配慮を行った内容であること、さらに地価を下げないという実業界の要請に応えるための妥協の産物である点を詳細に明らかにしている。特に敷地の25%以内の部分限り高さ無制限のタワーを建設できる規定を導入することによって両者の妥協を図り、それが今日見られるマンハッタンのスカイラインを決定づけたことを明らかにした。

第五章では、1961年のニューヨーク市ゾーニング条例の改訂内容とその社会的背景が詳細に明らかにされている。容積率移転制度の導入過程でどのような議論が市議会においてなされたのかを明らかにし、公開空地の設置による割り増し容積の制度と敷地境界上の建物外壁高さの制限と斜線制限による従来型の建物形態規制とを並立させる二者択一型の規制とすることで各方面の妥協を図った経緯が初めて明らかにされている。

1)以上をまとめて結論を導く第六章では、1890年代から1930年代にかけて、シカゴの中心部地区における建物形態規制は、地価の安定化を図るため、特権を与えない代わりに差別もしないことを根拠に、道路幅員に関係なく一律な絶対高さ制限として発展してきたこと、しかし、大恐慌及び第二次大戦を経て、都心部が衰退しこうした根拠は消滅したことを明らかにした。一方ニューヨークでは、都市環境の改善と、開発する権利の維持という二律背反的な課題を解決することを根拠に建物形態規制の検討が行われ、1916年及び1961年に規制が制定・改訂されたこと、

ただし、形態規制の根源的な根拠が維持されていた点でシカゴの条例とは異なっていることを明らかにしている。両都市共に、建物形態規制の制定を巡る関係者の構図、検討のプロセスは時代と共に変遷したものの、シカゴでは都心部の衰退が著しかったためにその後の施策に大きな偏りを生んだことを実証的に明らかにしている。

以上、本論文は、シカゴとニューヨークの建造物の形態規制の導入期の歴史を比較史的に検討することによって、両都市の規制の考え方の違いを明快に論じることに成功している点において、貴重な研究成果を挙げている。

よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク