学位論文要旨



No 122857
著者(漢字) 青砥,清一
著者(英字)
著者(カナ) アオト,セイイチ
標題(和) パラグアイにおけるスペイン語のバリエーション : 言語、社会、認知の相互作用
標題(洋)
報告番号 122857
報告番号 甲22857
学位授与日 2007.04.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第747号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上田,博人
 東京大学 教授 坂原,茂
 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 教授 ルイズ,ティノコ アントニオ
 東京大学 教授 ラマール,クリスティーン
内容要旨 要旨を表示する

本論は、南米パラグアイにおけるスペイン語の形態統語論的・語彙的バリエーションに関し、2004年に実施した現地調査の資料に基づき言語地図を作成し、その地理分布の記録から地域変種の発生・伝播・衰退の過程を推論すると共に、言語内外の諸要因(言語構造、人の認知機構、地域固有の文化・歴史・政治経済、先住民諸語との言語接触等)が相互に作用する言語変化の諸相について論じるものである。

序論では、方言学、言語地理学、構造主義言語学、社会言語学、言語類型論などの分野における言語変異の研究史を概観した。

第1章では、バイリンガリズム研究や言語地理学を中心としたパラグアイのスペイン語に関する先行研究を取り上げ批評した。

第2章は、パラグアイのスペイン語形態統語論的バリエーションについて、スペインから中南米までを含む広域言語地図を通じ、次に列挙する言語項目の変種の地理的属性を考察した:数と文法的性による語形変化、限定詞、レ代用法(leismo)、ボス法(voseo)、直説法未来形、接続法過去形、グアラニー語後置詞の影響等。そして形態統語論的バリエーションの発生、伝播及び維持に関し、以下に述べる言語内外の要因を挙げた。言語内要因:類推、頻度、簡略化傾向、直示化傾向、体系的補完、潜在的祖語(ラテン語)特性。言語外要因:言語接触、言語中心地との地政学的関係、アイデンティティー、学校教育。

第3章は、移動動詞IR「行く」の構文《ir a + inf.》《ir + ger.》《ir-y-verbo》に関して、スペイン語圏における機能変種の地域分布を考察した。<驚嘆>・<皮肉>・<恐怖>などの情意、並びに<困難>に向けて努力する意思等の周辺的なニュアンスに着目し、意味拡張の様相の分析に基づき、動詞IRの概念構造を新たに提案した。移動行為に伴う認知活動として、動作主が目的地に向けて視界を「焦点化」する心的現象を仮定し、そのイメージが写像されたIR構文が主動詞の指示内容を焦点化することによって、その指示内容が心理的に際立つ事態であることを標示し、その心理的際立ちをもって、発話の脈絡に沿う話者の感情が伝達されると分析した。

第4章では、語彙バリエーションをテーマに取り上げた。語彙供給言語による分類、形態論的・意味論的分析、言語地図の作成、クラスター分析による地域区画を行った。文体的価値と地理分布に従い語彙変種を分類したところ、研究対象の語彙項目のうち8割程度において異形と標準形の双方が共存し、位相の高い異形と低い異形の割合はおよそ半々であることが理解された。パラグアイでは地域変種が必ずしも口語や俗語に属するものではなく、教養層によって用いられるものも少なくない。標準変種と地域変種が共存する背景には、言語表現を豊かにしたいという人々の伝達欲求が根本にある。

終章の結論では言語変種研究の意義と重要性について述べた。中世のカスティーリャ語がアメリカ大陸に伝来してから500年以上が経過した現在、その広大な土地には多様な地域変種が分布している。変種の発生と伝播、定着と消失は、本論で述べたように、社会的・認知的諸要因が相互に作用して起こる。言語が常に変化し、流動的な記号体系であるのだから、それを静態的・自律的体系として仮定した上で共時的に記述することを目指すよりも、むしろその動態的性質をありのまま受容した上で変化のメカニズムを類型化し、人間の認知的・社会的活動の相互作用として、言語変化の普遍的な傾向を探求することが重要である。

審査要旨 要旨を表示する

本審査委員会は,平成19年3月9日に論文提出者に対し,学位請求論文の内容及び専攻分野に関する学識について口頭による試験を行った。

提出された論文の要旨は次の通りである。

本研究の目的は,第一言語としてのスペイン語話者の割合が高いパラグアイ東部地方において実施した面接調査及び口語体・文語体資料に基づき,スペイン語の形態統語論的・語彙的バリエーションの言語地図を作成し,バリエーションの発生と伝播,そして定着や消失を決定づける動機付けを分析することである。

パラグアイの形態統語論的バリエーション(第2章)について,スペインから中南米までを含む広域言語地図上での比較を通じ,各言語項目の変種の地理的属性を考察すると共に,面接調査及びテキスト資料に基づき,形態統語論的特性・変種発生の動機・社会的・文体的価値などを分析した。パラグアイのスペイン語に特徴的な現象は次の通りである。

レ代用法(leismo)はアメリカでは稀な現象である。それだけにパラグアイの局地性が際立つ。この現象の発祥地であるスペイン北西部では,間接目的格代名詞は基本的に男性単数のみを照応するが,パラグアイでは男性・女性の単数・複数を指し,さらに人からモノにまで指示対象が拡張しつつある。口語体における勢力はいまや本場スペインを凌ぐが,その反面,スペインのように文語で現れることはほとんどない。

ラプラタ地方が最も優勢な地域の一つであるボス法(voseo)は,パラグアイにおいても口語体で一般的である。Vosは親類・友人,知人か否かを問わず同等・目下の者に対して用いる。目上の人には敬称のustedを用いる。標準語法のトゥ法(tuteo)は書き言葉である。会話では目下の人に対して使うが,vosに比べて冷淡な印象を与える。ボス法の定着度の指標となる動詞ボス法は,パラグアイでは一般的である。

直説法未来形は中南米の口語スペイン語において減退傾向にあり,代替の動詞迂言形ir a + inf. が優勢である。パラグアイでも基本的に文語で生起する時制であるが,教養層の口語では一般化している。

グアラニー語の後置詞reheを翻訳借用したと思われるスペイン語前置詞porの機能変種は,パラグアイのみに現れる局地的現象である。グアラニー語話者のみならず,第一言語としてのスペイン語話者の日常会話でもしばしば観察される。しかし,反規範的な俗語としての社会的評価も確認される。

同章ではさらに,形態統語論的バリエーションの発生,伝播及び維持に関し,以下に述べる言語内外の諸要因を挙げた。言語内的要因:「多勢の型が心理的圧力となり,少数側が引き寄せられ,変化が起こる」,「言語変化は頻度の高い型ほど波及しやすい」,「言語は例外を廃し,表現手段を簡略化する経済性を持つ」,「漠然とした指示形式は,直接的に指示できる形式に替わる」,「文法体系は,一つの形式が欠如すると,別の形式で空き間を補充する」,「祖語の持つ機能が子孫の現代語において失われたが,地域変種として復活する」

言語外的要因:「系統の異なる言語同士が接触した結果,一方の言語形式が持つ機能を他方の言語形式によって借用する」,「言語中心地から遠距離にある周辺地は,中心地からの改新の伝播が遅い」,「言語が地域社会の独自性を象徴する」,「学校で指導される文法が社会規範となる」

第3章は,移動動詞IR「行く」の構文に関して,スペイン語圏における機能変種の地域分布を考察し,意味拡張の様相の分析に基づき,顕在的・潜在的性質を探求し,動詞IRの概念構造を新たに提案した。IR迂言形は,未来時制や継続相に関するテンス・アスペクト論として議論されてきたが,本論では,<驚嘆>・<皮肉>・<恐怖>などの情意,並びに<困難>に向けて努力する意思等の周辺的なニュアンスに着目した。IRの中心的意味は目的地への移動行為であり,それゆえ,IR迂言形は「目的地-未来」と「経路-継続」の関係に見られるように,空間と時間のメタファーから派生した構文として捉えられてきた。本論ではそのような意味拡張の動機付けに加え,移動行為に伴う認知活動,つまり移動のメトニミーとして,動作主が目的地に向けて視界を「焦点化」する心的現象を仮定した。この認知活動のイメージが写像されたIR構文が主動詞の指示内容を焦点化することによって,その内容が心理的に際立つ事態であることを標示し,その心理的際立ちをもって,発話の脈絡に沿う話者の感情が伝達されるものと分析した。

第4章ではパラグアイの語彙バリエーションについてまとめる。語彙変種を形態論的に分類すると,縮小辞の派生が見られた。意味的変種は,語彙本来の意味が「メタファー」や「メトミニー」を動機として変化したものである。意味拡張はメトミニーに動機付けられる場合が多かった。

語彙研究ではさらに,東部地方における変種の地理分布に基づき地域区画を行なった。主要国道から外れた地方道沿いの地点における異形の分布は,主要国道の拠点である都市部と異なる模様を示した。比較的近い距離にある地点でも,道路のアクセス条件が悪いと,交通条件の恵まれた遠隔地よりも相関が劣る。同時に,都市部と地方部との間の分布差も観察された。各都市部において変種が使われ始めると,やがて各都市から延びる道路を伝わり,旧来の語形を凌駕するか共存する形で周辺部に達するものと推測される。

パラグアイでは地域変種が必ずしも口語や俗語に属するものではなく,教養層によって用いられるものも少なくない。標準変種と地域変種が共存する要因としては,言語表現のバリエーションを豊かにしたいという伝達欲求が根本にある。その欲求を支持する社会的要因には,マスメディアや教育の影響が挙げられる。一方,地域変種にとっても有利な社会状況がある。パラグアイは,二次製品をメルコスル加盟国に大きく依存する。日用品に関する語彙項目については,ラプラタ変種の勢力が標準変種に対抗できる状況にある。

言語は常に変化し,流動的な記号体系である。その動態的性質をありのまま受容した上で変化のメカニズムを類型化し,人間の認知的・社会的活動の相互作用として,言語変化の普遍的な傾向を探求することが重要であるということが本論の最大の主張である。

審査委員からは改善すべき点として次があげられた。グアラニー語とスペイン語の位相の差異を明らかにすべきである。「未来」を示す迂言形の多用の理由を述べるべきである。指示形容詞の総称解釈について統語的な条件を考慮に入れるべきである。借用されたケチュア語とグアラニー語の元の意味を厳密に調査すべきである。レ代用法は動詞によって,また人によってバリエーションがありうる。

一方,優れた点として次があげられる。現地調査に基づいたパラグアイのスペイン語のバリエーションの諸相を見渡し,正確な記述を目指している。また,記述だけにとどまるのではなく,それぞれの言語現象には適切な解釈を与えられ,そこには創見が見られる。認知言語学と言語地理学の立場からの言語分析は的確である。言語地図の作成と多変量解析の技術は高いレベルを示している。言語地図を個別に捉えるのはなく,そこに多層的な解釈を与えることで,新しい視点を導入することを可能にしている。

このように,本論文にはいくつかの改善すべき点はあるものの,全体として高い評価に値するものである。

その結果,論文提出者は博士(学術)の学位を受けるにふさわしい十分な学識を有するものとして認め,審査委員全員により合格と判定した。

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