学位論文要旨



No 122858
著者(漢字) 盧,建
著者(英字)
著者(カナ) ルウ,ケン
標題(和) 現代中国語における二重他動構文に関する研究
標題(洋)
報告番号 122858
報告番号 甲22858
学位授与日 2007.04.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第748号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員  東京大学 准教授 楊,凱栄
 東京大学 教授 ラマール,クリスティーン
 東京大学 准教授 吉川,雅之
 東京大学 教授 木村,英樹
 大阪外国語大学 教授 杉村,博文
内容要旨 要旨を表示する

本論の要旨と構成

本研究では、地域間の構文の違いに注目し、現代中国語の二重他動構文が、一つの言語の歴史の中で生じたものなのか、それとも言語接触の影響によって生まれたものなのか、という問題を分析した。研究方法としては、二重の他動関係を表す複数の構文(二重他動構文)を、「 古代中国語-近代中国語-現代中国語」という通時的な座標軸と「西北方言-共通語(北京語) -東南方言」という共時的な座標軸から成る二次元の枠に位置づけ、二重他動構文の変遷とその動機づけを考察し、さらに、言語類型論を前提に、現代中国語の二重他動構文の構文的意味を分析した。

本文の構成は次のようになっている。

第1章先行研究と本論の要旨

第2章授受イメージの言語化とその文法的な方策

第3章二重他動構文の変遷

第4章東南方言の右分枝表現およびその構文の歴史的階層

第5章西北方言の左分枝表現および言語の地域間浸透

第6章東南方言と西北方言のハザマにある共通語

第7章二重目的語構文の意味および認知心理的実験

第8章結論

先行研究と問題提起

これまでの研究は主に形式に注目しながら二重目的語構文を考察しており、二重目的語構文の範囲を形式の面から定めることを考察の焦点としているものが多かった。先行研究の問題点は、次のようにまとめることができる。

(1)近年、二重の他動関係を表す二重目的語構文および与格構文などについて、構文同士の関わりを記述している研究は多く見られるが、考察の範囲、深さはいずれも十分とは言い難い。

(2)構文の生成と変遷に関するこれまでの研究は「異源(異なるみなもと)の影響・浸透」という視点を欠いており、「中国語は純粋な言語体系をもっている」という理念が中国語の構文の変遷を解釈する上での基本前提となっている。

筆者は、自ら行った調査の結果から、このような基本前提が必ずしも正しいとは限らないと考えるに至った。

モノの授受というのは日常生活においてきわめて頻繁に観察されるコミュニケーション行為であり、授与と取得は互いに方向が異なる。そして、授受イメージは、中国語という一つの言語内において、さまざまな文法構造に投影されている。

まず、注目したいのは、取得を表す表現形式が驚くほど一致している点であり、以下のような構文が用いられる。

動詞+間接目的語+直接目的語

一方、授与に関わる表現には多くの地域的な違いが見られ、共通語(北京語)、東南方言、西北方言を比較すると、授与を意味する二重他動構文の文法構造には以下のような対立関係と鏡像関係が見られる。

(1)二重目的語構文の対立

共通語(北京語)の二重目的語構文では、間接目的語は直接目的語の前に置かれるが、東南方言の土着語階層では、間接目的語は優先的に直接目的語の後に置かれている。

(2)授与構文の鏡像

授与を意味する二重他動構文の与格受取手の位置について、述語動詞を軸としてみた場合、東南方言では右の分枝が優先的に選ばれるのに対し、西北方言では左の分枝が選ばれる。一方、共通語(北京語)では与格受取手を述語動詞の直後に置く傾向が見られる。与格受取手の位置についていえば、三大地域は相補的な関係にある。

(3)構文の組み合わせと構文の数の違い

五種類の授与に関する二重他動構文のうち、共通語では四種類の文構造が観察できる。東南方言では、「前置詞+間接目的語+動詞+直接目的語」という構文は存在せず、「 動詞+前置詞+間接目的語+直接目的語」も当該方言本来の文法構造ではなく、共通語の影響を受けた形式である。西北方言では、東南方言で用いられる「 動詞+直接目的語+前置詞/動詞+間接目的語」という形式はほとんど観察されず、さらに、授与の意味を表す二重目的語構文も無いようである。

結論と意義

結論

1.共通語(北京語)と東南方言の二重目的語構文に見られる語順の面での対立は、歴史的な累積の結果である。中古より、南と北の二重他動表現は分岐の方向をたどってきた。授与義を表現する「動詞+直接目的語+間接目的語」の構造は徐々に北方表現から消えたが、南方にはその歴史的遺産が比較的多く残っている。したがって、「 動詞+直接目的語+間接目的語」は「 動詞+間接目的語+直接目的語」よりさらに長い歴史的な背景を持つと言える。第7章の心理実験の結果、すなわち、授受不明二重目的語文が「取得」と理解されるという傾向は、まさに二重目的語構文の歴史を反映した認知現象だと考えられる。

2.与格受取手の分布の違いについて、中国語文法界では逐次前移の結果だと考えられてきた。

しかし、本研究の地理的、通時的な考察によって、東南方言、西北方言、共通語(北京語)のプロトタイプ的な授与義二重他動構文が互いに対立していることが明らかとなった。このことは中国語自身が必ずしも一次元の通時的な階層をもつものではないということを示しており、言語類型論的な価値がある。

3.言語の接触と言語自身の変遷が、共通語(北京語)の構文形式の多様性を生み出す要因になっていると考えられる。地理的な面について言えば、北京はおおよそ西北と東南の交わるところに位置している。今日の共通語(北京語)が独特でありながら慣用的であるという現状、すなわち動詞の直後に与格受取手を置く無標の特有の形式を持ちながら、有標の東南与格受取手後置型と西北与格受取手前置型を受け入れている共通語(北京語)の寛容さには、東南方言プレートと西北方言プレートによってプレスされた混合型の兆候が現れている。

1.現代中国語の二重他動構文を、初めて、「古代中国語-近代中国語-現代中国語」という時間的な座標軸と「西北方言-共通語(北京方言)-東南方言」という空間的な座標軸の両方から成る二次元の枠に位置づけ、体系的な観察と考察を行った。そして、中国語二重他動構文自身の歴史的な変遷経路と軌跡を分析し、さらに、言語の接触と浸透が中国語二重他動構文に与えた影響を明らかにし、二重他動構文を「同一の源」をもつ構文と「異なる源」をもつ構文に分けた。

2.中国語内部で与格受取手が直接目的語の後ろから直接目的語の前に移り、さらに動詞の前に移ってきたと見なす先行研究に異議を唱え、地域を越えた中国語は同質の体系ではないことを主張した。文法の変遷は、必ずしも同質言語内で起こるわけではなく、そこには「構文の借用」、「構文の影響」という問題が存在しており、これまでの「単線的変化」理論の下で構築された変化のプロセスには再考の余地があることを明らかにした。

3.中国語には三千年以上の文献史、豊富な方言および少数民族の言語がある。また、唐代以後契丹、女真、蒙古などの各民族が前後して中原に入ることによって、語族間の接触はさらに頻繁になり、「 中国語の非『中国語』化」をいっそう強めた。本論文は中国語がもつ複雑性を明らかにし、現代中国語の構文に対する通時的・地域横断的な考察や語源解析の参考になる分析事例を提供しているように思われる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は現代中国語の二重他動構文における方言間の違いを、通時的および共時的観点から明らかにしようとするものである。論文は8章から構成されている。

第1章では先行研究の紹介と本論文の論旨及び構成を説明し、第2章では授受構文のイメージスキーマ及びそれが言語化されたときに、方言(主として西北地域方言、東南地域方言、北京方言)によっては統語的に異なる振る舞いを見せている現象を取り上げ、このような現象をもたらした原因を分析した。第3章では二重他動構文のたどってきた歴史的な変遷を詳細に記述分析し、第4章では主として東南地域方言がなぜ授与される者(すなわち「受取手」)が授与物の右側に位置する形式を取るのかについて歴史的な検討を加えた。第5章は、西北地域方言ではなぜ「受取手」が動詞の左側に位置する形式を取るのかについて議論し、このような、いわゆる右枝分かれの東南地域方言とは逆のかたちになる統語的特徴は、言語の地域間浸透に起因するものであるということを指摘した。第6章は東南地域方言と西北地域方言の狭間にある北京方言およびそれを基礎とする共通語(いわゆる"普通話")の構文特徴を分析し、第7章は二重目的語構文の意味の特徴づけとその認知心理的な実験による検証を論じ、最後の第8章では結論を述べている。

二重他動構文に関するこれまでの研究は主として形式に注目するもので、構文間の関わりを論じた研究も少なくはないが、考察の範囲はいずれも限定的であり、分析も十分とは言い難い。また構文の成り立ちや変遷に関するこれまでの研究は「異なる源による影響や浸透」といった視点を欠いており、「中国語は単一的な言語体系をもっている」という考え方が支配的であった。しかし、本論文は自ら行った言語調査の結果に基づき、従来のような考え方が必ずしも正しくないということを指摘した。モノの授受は日常生活においてきわめて頻繁に観察されるコミュニケーション行為であり、授与と取得(受領)は互いに方向が異なるものであるが、本論文は、中国語では、取得を表す表現が方言横断的に「動詞+間接目的語+直接目的語」という同一の構文形式を共有するのに対して、授与に関わる表現には方言間に多様な差異が見られるという事実を明らかにした。すなわち、北京方言(および共通語)、東南方言、西北方言の間には、授与を表す二重他動構文に、以下のような構造的対立関係と鏡像関係が見られる。まず、北京方言(および共通語)の二重目的語構文では、間接目的語(=「受取手」)は直接目的語(=「授与物」)の前に置かれるが、東南方言の土着語階層では、二重目的語構文の間接目的語(=「受取手」)は一般に直接目的語(=「授与物」)の後に置かれる。また、授与を表す二重他動構文の与格受取手の位置については、述語動詞を軸とした場合、東南方言では右枝分かれの統語構造が優先的に選ばれるのに対し、西北方言では左枝分かれの統語構造が選ばれる。それに対して北京方言(および共通語)では、受取手を述語動詞の直後に置く傾向が見られる。

さらに、二重他動構文のヴァリエイションの数と組み合わせについても、それぞれの方言の間に違いが見られ、授与を表す五種類の二重他動構文のうち、共通語では四種類の文構造が存在するのに対して、東南方言では、「前置詞+間接目的語+動詞+直接目的語」という構造は存在せず、「 動詞+前置詞+間接目的語+直接目的語」も当該方言本来の文法構造ではなく、共通語の影響を受けた構造としてのみ存在する。一方、西北方言では、東南方言で用いられる「 動詞+直接目的語+前置詞/動詞+間接目的語」という構造は稀であり、また、授与の意味を表す二重目的語構文も存在しない。論文は以上のような観察と分析を踏まえた上で、次のような結論を導いた。

1.北京方言(および共通語)と東南方言の二重目的語構文に見られる語順の面での対立は、歴史的な累積の結果であり、中古漢語の時代より、二重他動構文は、南の地域と北の地域で分岐の方向をたどってきた。授与の意味を表す「動詞+直接目的語+間接目的語」の構造は徐々に北の方言から消えたが、南の方言にはその歴史的遺産が比較的多く残っている。したがって、「 動詞+直接目的語+間接目的語」は「 動詞+間接目的語+直接目的語」よりさらに長い歴史を持つと言える。第7章の認知心理的な実験の結果、授与か取得かが曖昧な多義的二重目的語構文がネイティブによって一義的には取得の意味に理解されるという傾向は、まさに二重目的語構文の歴史を反映した認知現象であると言える。

2.与格受取手の統語的分布の違いについて、従来中国語学の分野では、多くの研究者が逐次前移の結果であると考えてきた。しかし、本論文の地理的および通時的考察からも明らかなように、授与の意味を表す二重他動構文のプロトタイプ的な構造は、東南方言、西北方言、北京方言(および共通語)のそれぞれにおいて互いに対立している。このことは現代中国語の歴史的な源は必ずしも同一ではないということを示すものであり、こうした新たな認識は、言語類型論的にも高い価値をもつと言える。

3.言語間の接触と当該言語自身の内在的変遷が、北京方言(および共通語)の構文形式の多様性を生み出す要因になっていると考えられる。地理的な面について言えば、北京はおおよそ西北と東南の交わる地点に位置している。今日の北京方言(および共通語)が特異な特徴をもちながら公共性が高いという現状、すなわち、一方では動詞の直後に受取手を置くという特有の無標形式を持ちながら、一方では東南方言型の有標形式(すなわち、受取手有標後置形式)と西北方言型の有標形式(すなわち、与格受取手有標前置形式)をも受容しているという極めて寛容な現状には、東南方言プレートと西北方言プレートによってプレスされた混合型の兆候が見られるということである。

最後に、本論文の学術的価値と貢献は、大きく以下の三つにまとめられる。

1.現代中国語の二重他動構文を、初めて、「古代中国語-近代中国語-現代中国語」という時間的な座標軸と「西北方言-共通語(北京方言)-東南方言」という空間的な座標軸の両方から成る二次元の枠に位置づけ、体系的な観察と考察を行った。さらに、中国語二重他動構文自身の歴史的な変遷経路と軌跡を分析し、言語の接触と浸透が中国語二重他動構文に与えた影響を明らかにし、二重他動構文に「同一の源」をもつ構文と「異なる源」をもつ構文があることを明らかにした。

2.中国語内部で授与表現の受取手が直接目的語の後ろから直接目的語の前に移り、さらに動詞の前に移ってきたと見なす先行研究に異議を唱え、中国語が必ずしも地域横断的な同質の体系をもつ言語ではないことを主張した。文法の変遷は、必ずしも同質言語内で起こるわけではなく、そこには「構文の借用」、「構文の影響」という問題が存在しており、これまでの「単線的変化」の観点から構築された変化のプロセスには再考の余地があることを明らかにした。

3.中国語には三千年以上の文献史と豊富な方言が存在する。また周辺言語には多数の少数民族の言語があり、唐代以後契丹、女真、蒙古などの各民族が前後して中原に入ることによって、語族間の接触はさらに頻繁になり、「 中国語の非『中国語』化」を促す要因となった。本論文は中国語がもつ複雑性を明らかにし、現代中国語の構文に対する通時的・地域横断的な考察や成り立ちの解明の参考になる分析事例を提供した。

とはいえ、論文に不備や問題がなかったわけではない。審査員から、結論の導き方にやや強引な部分もあり、また構文のもつ「非中国語的特徴」に関しては基準がいささか曖昧であり、より明確な基準を示すべきであるといった指摘もなされた。しかし、これらの指摘は本論文の学術的価値をいささかも否定するものではない。

このように、本論文は指摘されたような不備を残しつつも、従来この分野の研究に見られないようなスケールの大きさと分析の適確さを持つ、学術的価値が極めて高い研究であり、今後この分野の研究においては欠かすことのできない必読文献であり続けるに違いない。

したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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