学位論文要旨



No 122872
著者(漢字) 篠崎,香織
著者(英字)
著者(カナ) シノザキ,カオリ
標題(和) 20世紀初頭におけるペナンの華人と政治参加
標題(洋)
報告番号 122872
報告番号 甲22872
学位授与日 2007.05.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第753号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 准教授 谷垣,真理子
 東京大学 准教授 吉澤,誠一郎
 南山大学 教授 原,不二夫
内容要旨 要旨を表示する

現在居住する国家(居住国)以外に出自を辿れる国家(出自国)を持つ人間集団について、その帰属意識のあり方がしばしば研究の対象とされてきた。多くの場合、その人間集団が出自国と居住国のいずれに帰属意識を抱いたのかが二者択一の問題として論じられてきた。古くから外来者を受け入れてきた東南アジアでは、様々な出自を持つ人びとによって社会が構成され、その一要素として華人の存在がある。東南アジアの華人の帰属意識のあり方は、しばしば「華僑から華人へ」という定型句によって説明され、中国(出自国)に帰属意識を持つ「華僑」から、東南アジア国家(居住国)に帰属意識を持つ「華人」へと変遷したとされる。「華僑から華人へ」という言葉には、「よそ者」が「内なる存在」へと立場を変えたというインプリケーションが含まれる。またこの言葉は、帰属意識が一つのものからもう一つ別なものへと常に一つの方向に向けて変遷していくことを前提としている。

これに対して本論は、20世紀初頭のペナン(イギリスの直轄領である海峡植民地の一構成要素)の華人は、出自国と居住国双方において政治参加を高める中で、華人としての帰属意識を維持・再生していたことを論じた。

ペナンの華人はペナンでは、当該地域の論理に則ってペナン社会に関わろうとした。ペナンの論理とは海峡植民地政府が構築したルールや制度であり、また公権力と意思疎通を行ううえで民族を枠組みとしていたことである。その背景として、自分が抱えている問題を解決する上で、海峡植民地政府のルールや制度に対しペナンの華人が信頼を寄せていたことが指摘しうる。19世紀後半の海峡植民地において華人が抱えていた問題とは、華人雇用者・職斡旋業者から受ける不当な待遇であった。1877年に華人保護署が設立され、イギリス人官吏が華人保護官が任命されたことにより、華人被雇用者の労働環境は大きく改善した。労働者として中国からやって来た渡航者は、雇用者や職斡旋業者から不当な待遇を受けた時、また自分にとってより有利な労働環境を引き出すために、華人保護署の調停力や強制力にしばしば訴えるようになった。事業をめぐるトラブルなど様々な問題を、裁判所などの調停機関や警察などの強制力など、海峡植民地の制度を通じて解決することも一般的であった。また出生によりイギリス国籍を持つ華人はイギリス領外を旅行する時、イギリスによる保護を積極的に利用した。

海峡植民地のルールや制度を利用する中で、華人はそれらの制度やルールのあり方に自分の意向を反映させたいと考えるようになった。制度やルールのあり方を決める場に、自分の意向を代表する代表者を送ることが重視され始めた。19世紀末のペナンでは、ヨーロッパ人が公会堂(Town Hall)とペナン商業会議所(Penang Chamber of Commerce)をチャンネルとし、海峡植民地政府と意思疎通を行っていた。ペナンの華人は同様のチャンネルを自前で作り、ヨーロッパ人と同様に海峡植民地政府と意思疎通を行おうと試み、華人公会堂(Chinese Town Hall)とペナン華人商業会議所(Penang Chinese Chamber of Commerce)を設立した。

このうち商業会議所は、海峡植民地において特別な意味を持っていた。ペナン商業会議所はヨーロッパ人のみを受け入れていた。ペナン商業会議所には、海峡植民地立法参事会議員を推薦する権限が与えられていた。ペナン華人商業会議所が設立された1903年当時、立法参事会でペナンの華人の利益を代表するのは、ペナンのヨーロッパ人議員かシンガポール出身の華人議員であったが、ペナンの華人はそのいずれも自分の利益を十分に代表していないと感じていた。そのためペナンのヨーロッパ人がペナン商業会議所を通じて代表を送り出しているように、ペナンの華人もペナン華人商業会議所を通じて代表を送り出そうと試みた。その結果1923年に立法参事会のアジア人非官職議員が増員された際、ペナン華人商業会議所のメンバーが立法参事会議員に任命されることとなった。

華人がこうした試みを行っている中、ムスリム、インドに出自を持つ非ムスリム(ヒンドゥー教徒、キリスト教徒)、ユーラシアンも組織化の試みを行っていた。彼らもまた意思決定の場に自分たちの代表者を送り出すことを目指していた。20世紀初頭のペナンでは、海峡植民地の公権力が誰にどのような資格の代表者を何人認めているかを観察し、それと同等の資格を持つ相応な人数の代表者を自分たちにも認めるよう、海峡植民地の公権力に訴える動きが一般的に起こっていた。またある組織がある集団の庇護者・代表者を自称しそのような行動を取る時、その正統性・正当性を問う声がその集団内部から往々にして上がり、誰が自分を代表するのか、代表者としてふさわしいのは誰かといった議論が活性化していた。

このように19世紀末から20世紀初頭のペナンでは、海峡植民地およびペナンのあり方を決める意思決定の場に自分の意志を反映させるべく、自分と民族を同じくする人の中から自分の代表者を選定し、意思決定の場に送り出そうとする動きが活発化していた。こうしたペナンの政治的状況が、ペナンの華人が華人としてのアイデンティティを維持・再生産していた背景であった。

他方でペナンの華人はペナン華人商業会議所を通じて、清朝との関係強化も試みていた。清末の中国では、19世紀半ば以降海外からの帰国者を対象とする犯罪が恒常化し、地方官の対応は不十分で、ペナンの華人は中国への帰国に不安を抱いていた。1877年にシンガポールに清朝総領事館が設立され、1893年にはペナンに清朝副領事が置かれたが、このチャンネルも問題の解決には十分でないと認識された。そのような中で1903年に商部が設立され、中国各地で商業会議所が設立された。ペナン華人商業会議所は、商部という公権力にアクセスし、商業会議所のネットワークに参入し、帰国時の安全確保という問題の解決に加え、中国に逃亡した悪徳商人の追及という目的を盛り込み、1907年に清朝政府に登録した。

1912年に中華民国が成立し、新たな勢力が中国における公権力を掌握した中で、ペナンの華人は新たな公権力と関係構築を試みた。だが中国の政局はなかなか定まらず、公権力を掌握しようとする多様な勢力がひしめき合い、どの勢力が優勢になるか分からない状況があった。その中でペナンの華人はとりあえず全ての勢力と関係性を構築しようとした。

中央政府および地方政府は、中国国外に居住する華人の資金的支援を期待し、省議会や参議院に「華僑議員」を置いた。これによって中国国外に居住する華人は、国外に居住したまま中国の秩序のあり方に影響力を行使する身分を得た。ペナンはこの身分を利用するために、自らを華僑と自称した。

こうしてペナンの華人は中国の公権力との関係を強化したものの、ペナンや海峡植民地における問題の解決や、自己の地位向上のために中国の公権力を利用することはほとんどなかった。ペナンの華人はペナンおよび海峡植民地では、当該地域の秩序を受け入れ、それに則り、当該地域の秩序の構築に自らの意向を反映させようとした。ペナン華人商業会議所は、清朝政府や中華民国政府と関係を強化しつつ、ジョージタウン市政委員や海峡植民地立法参事会における代表枠の確保に積極的であった。ペナンの華人は、自分が関わる地域の公権力と社会との関係を構築することこそが、自分たちがより生活しやすい秩序をその地域に構築するために必要であると考えていた。ペナンの華人にとって、出自国である中国にコミットを強めることと、居住国である海峡植民地/ペナンにコミットを強めることは、自分の関わる地域のあり方に自分の意向を反映させるために必要な手段であり、矛盾するものではなかった。このようにペナンの華人は、居住国における政治参加を強化し、居住国の正当な一員としてアイデンティティを主張すると同時に、出自国における政治参加を強化し、出自国の正当な一員としてアイデンティティを主張することとなった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、20世紀初頭のペナンの華人の政治的動向を、海峡植民地と中国という、居住地と出生ないし出自地の公権力および社会との関わりを軸に分析したものである。

第I部「問題の所在と歴史的背景」では、従来、東南アジアの華人の政治的志向性に関しては、自らの社会的上昇をはかる際に、居住地の公権力や社会との関係を重視する志向(「華人」概念)と、中国の公権力や社会との関係を重視する志向(「華僑」概念)を、対立的なものとして扱い、英語教育を受けた「英語派華人」と華語教育を受けた「華語派華人」を峻別して、前者は居住地志向が、後者は中国志向が強く、華人の間での中国志向の増大(「華僑」概念の優位)は、中国に対する関与の増大=居住地への関与の減少を意味するものと描かれてきたことが指摘され、本論文の意図がこうした図式を批判し、華人の間で居住地志向と中国志向が、それぞれ居住国での公権力との関係の強化、中国の公権力との関係の強化という、ペナン華人自身の必要によって、同時に強まることがありうることを示すことにあるとされている。こうした問題を、ナショナリズム論、エスニシティ論を用いて議論するとした上で、イギリスの海峡植民地の中での20世紀初頭までのペナンの歴史的発展と周辺地域とのつながりがまとめられている。

第II部「住民の保護と管理をめぐる海峡植民地の諸制度」および第III部「民族性に基づく結社の設立と民族横断的な運動の展開」は、ペナン華人が居住地ペナンでの海峡植民地の公権力およびその社会との関わりで、自らの社会的地位の上昇をめざす動向(「華人」概念)が分析されている。まず第2章「海峡植民地における保護と調停をめぐる諸制度」では、イギリスの植民地支配に先立って土着の居住者がほとんど存在せず、既存の社会秩序が不在だったペナンでは、イギリスが形成した秩序への反発は少なく、海峡植民地公権力のつくった司法制度や治安制度を、移民たる住民の側も信頼しうるものとして受け入れるようになったとし、華人が1877年にイギリスが設置した華人保護署など、海峡植民地の制度を積極的に利用したことが検討されている。

第3章「海峡植民地における華人と国籍」では、海峡植民地では華人は帰化の他、海峡植民地で生まれたことによっても英国国籍を取得できたが、海峡植民地での生活や行政サービスを受けるにあたっては英国国籍の有無はあまり大きな相違をもたらさず、むしろイギリス領外に出た時にイギリス政府による保護を受けられるという点で大きな意味をもち、この後者の点をめぐって、イギリスと清朝など他国政府、イギリスの本国政府・海峡植民地政府・在清国公館の間でのせめぎあいがあったことが指摘されている。

第4章と第5章は「ペナンにおける民族性の表象と組織化」で、ペナンで華人、ムスリム、タミル人、ヒンドゥー人、インド人キリスト教徒、ユーラシアンなどの民族ごとの組織化がどのように進んだのかが分析されている。ここでは、こうした民族ごとの組織化が、自分達の声を公権力に届かせる際に、「民族の庇護者・代表者」を自認する組織を設立し、自分がその代表となって、隣人に認められているのと同等の資格を自分達にも認めるよう要求する動きとして展開されたことが示されている。華人に関しては、1881年に設立された華人公会堂と1903年に設立された華人商業会議所を取り上げ、従来は清朝政府による動員の結果とされてきた後者を含め、ともに海峡植民地の公権力に対して意志を表出する場として設立されたことが強調されている。またこれらの組織の指導者となったのは、植民地公権力に対する発言力をもつ、英語教育を受けたエリートであったが、彼らは自分が代表する華人大衆から遊離しては「民族の庇護者・代表者」としてふるまうことは不可能であり、それなりの動員力をもっていたことが指摘されている。

第6章「ペナン協会」と第7章「納税者協会の設立」では、いずれも民族横断的な運動であったペナン協会(1906年結成)と納税者協会(1905年結成)が分析されている。これは、「ペナン住民」や「ジョージタウンの納税者」が公権力との交渉の枠組みになったことに対応して生まれた組織で、その際、自らの要求の正当性を「社会のあらゆる構成要素」=ヨーロッパ人、華人、マレー人、インド人が支持していることで示す必要から、民族横断的な運動として組織され、華人は華人公会堂や華人商業会議所を通じてこれらの運動に積極的に参加したとされている。両協会のこうした動きは、1920年代にはジョージタウン市政委員会と海峡植民地立法参事会でアジア人枠が拡大された際、華人公会堂や華人商業会議所などがその代表枠を確保することにつながった。

第IV部「中国国外に居住する華人による中国との関係構築の試み」は、華人が中国の公権力につながる経路をどのように構築し、中国の秩序のあり方への発言を強めていったのかという、「華僑」概念の側面が分析されている。ここでは、従来、中国のナショナリズムに取り込まれていったという側面が強調されてきたのに対し、ペナンの華人が、自分達の利益のために、中国国外にいながら中国のあり方に影響力を及ぼしうる経路を獲得していったという、在外華人の側の能動性が重視されている。まず第8章「中国の公権力に通じる経路の構築と華人商業会議所」では、在外華人が中国に帰国した際の安全を確保するために、当初は清朝領事や副領事を窓口として利用していたが、十分な機能を果たさなかったため、1903年に清朝が商部をつくり中国各地に商業会議所が設立されると、華人はこの経路を中国での安全の確保や中国に逃亡した悪徳商人追及に活用することをはかり、ペナンの華人商業会議所が1907年に清朝政府に登録をしたのも、こうした文脈で理解されるべきであるとしている。

第9章「募金の論理」では、辛亥革命の過程で生まれた革命側の暫定地方政権や、革命後の中華民国の中央政府や地方政府の資金的支援の呼びかけに、ペナンの華人も積極的に対応するが、そこでは要請に応えた場合の効能へのさめた検討があり、また支援を提供した場合もその運用の透明性に注目していたことが指摘されている。

第10章「新たな経路の確立」では、中華民国では公権力の掌握をめぐって様々な勢力が競合し、そのそれぞれが在外華人との関係構築につとめたこと、こうした流れの中で福建省臨時省議会や参議院における「華僑議員」枠の設置や華僑連合会の結成が行われたこと、ペナンの華人は、華人公会堂や華人商業会議所の指導者が中心となり、どの勢力が優勢になるのか分からない状況で、とりあえずすべての勢力との関係性を構築することにつとめ、ペナン書籍新聞購読会を取り込んで国民党へのアクセスを確保する一方、一部は共和党を結成して袁世凱へのアクセスを確保したことなどが指摘されている。

終章は、以上の本論をまとめ、ペナンの華人にとっては、居住地への関与と中国への関与は、自分達がかかわる地域のあり方に自分達の意向を反映させるために必要な手段で、矛盾するものではなく、「華人意識と華僑意識は、政治参加への意識が高まれば高まるほど、それぞれに強化しうるものであった」と結論している。

本論文の最も重要な意義は、20世紀初頭のペナンの華人の政治的動向を、一次資料を用いてきわめて実証的に跡付けたという点にある。その中で、華人の動向をペナンの側から地元の論理を重視して説明するという方法は一貫しており、そこから次のような貢献をマレーシア華人研究の分野で行っている。まず本論文の最大の貢献は、マレーシアのみならず世界各国の中華総商会(時と場所により名称が変わるので、著者は「華人商業会議所」で統一している)の嚆矢をなしたとされる、1903年結成のペナン華人商業会議所が、従来の通説と異なって、清朝政府の働きかけでなく地元の華人社会の必要性から生まれたものであることを立証した点にある。また、20世紀初頭に活躍したペナンの多数の華人社会指導者について、史書のみならず当時の複数の地元紙を用いて来歴を整理し、名前に漢字、ローマ字表示を併用して示したことも、大きな貢献である。さらに、ペナンの華人と孫文や康有為との関係は、従来も詳細に分析されてきた。そこには、「華人の辛亥革命に対する貢献」という後世の価値観が多分に反映されていた。袁世凱派とも密接な関係があったとの本論文の論証は、恐らく初めてなされたもので、「華僑と革命」の研究に一石を投じた。

こうした点はマレーシアのみならず東南アジアの華人研究にも新たな視点を提示している。

ただし、審査においてはいくつかの問題点も指摘された。まず、なぜペナンにおいて「民族」ごとに結社をつくり公権力に働きかける仕組みが20世紀初頭にできるのかという歴史的な位置づけがあまり明確ではない。またこの本論文が描いた「民族」という枠組みの時代性が不鮮明であることと関連して、本論文は華人が中国ナショナリズムに「組み込まれた」という見方を批判しているが、それでは1920年代以降、ペナンの華人をはじめとするこの地域の華人が中国ナショナリズムの積極的担い手となるという、あとの時代とのつながりが見えにくいという問題も指摘された。こうした問題は、本論文が「民族」という枠組みがもつ功利的な側面にもっぱら注目し、「かけがえのない」帰属意識という側面との関係を考察していないこととも関連していると思われる。また、基本的には分析概念として使用されている「華人」と「華僑」の対比の説得力がいま一歩であったり、ペナンの華人社会の多元性にもっと注目すべきではないかという指摘もなされた。

しかしながら、こうした問題点や弱点は、今後の研究の深化の過程で克服されるべきものであり、本論文の基本的意義を否定するものではないと判断した。したがって、本審査委員会はこの論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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