学位論文要旨



No 122873
著者(漢字) 香坂,直樹
著者(英字)
著者(カナ) コウサカ,ナオキ
標題(和) チェコスロヴァキア第一共和国における「スロヴァキア」の形成 : 地方行政制度の変遷とスロヴァキア系諸政党の議論
標題(洋)
報告番号 122873
報告番号 甲22873
学位授与日 2007.05.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第754号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柴,宜弘
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 后田,勇治
 東京大学 教授 木畑,洋一
 早稲田大学 教授 長興,進
内容要旨 要旨を表示する

本論文は両大戦間期に「スロヴァキア」という領域が形成される過程を論じた。本論文で扱う「スロヴァキア」とは1918年10月から1992年末に至るまで、第二次世界大戦中の中断を挟みつつもチェコスロヴァキア共和国に所属し、1993年1月にスロヴァキア共和国となった領域を指す。この領域は現在では国民国家という非常に確固とした地位を保持している。しかし、チェコスロヴァキアの建国以前には、スロヴァキアの領域は地図上に明示されていなかった。1918年以前のこの地域は、それ自体がハプスブルク二重君主国に属していたハンガリー王国の一部であり、独立した行政単位ではなかった。しかし、スロヴァキアは1938年10月に自治体制を獲得し、1939年3月にはナチス・ドイツの保護下で独立国家となる。この経過を踏まえるならば、両大戦間期のチェコスロヴァキアにおいてスロヴァキアの地位が急速に確立されたと言えよう。

スロヴァキアのみが急速な領域形成を経験したのではない。第一次世界大戦後の中東欧とバルカンではチェコスロヴァキアやポーランドなどの新国家が建国され、セルビアやルーマニアなどの戦前から存在していた国家も版図を広げた。その際に諸国は、多数派住民を「国家形成民族」と見做し、自国を多数派民族の主権に依拠し彼らが主要な地位を占める国民国家と表明した。だが、新国家の唱えた民族の枠組みに対して違和感を抱き、自らの地位に不満を唱えた民族政治家たちも存在していた。彼らは自民族が独自に主権を行使し得る領域の形成を求めた。スロヴァキア以外にはユーゴスラヴィア国家内でのスロヴェニアやクロアチアの事例を類似例として指摘できる。

両大戦間期のスロヴァキアでは、スロヴァキア・ナショナリズムに立脚しつつスロヴァキア自治要求を唱えたスロヴァキア自治派と「チェコスロヴァキア民族」理念を支持した政治家および政府与党との対立が表面化した。両者の論争の一焦点がスロヴァキアの行政上の地位である。

以上の背景を念頭に置きつつ、本論文は1927年の州制度法の採択に至るまでの行政制度の変遷とスロヴァキア系政党の議論を通じてスロヴァキアの地位が定義され上昇する過程とを分析した。その際、スロヴァキアの境界線の成立の過程と論理、行政制度と諸構想との関係、スロヴァキアという領域と行政単位に付された意味という三つの課題を設定した。

第一のスロヴァキアの境界線に関しては、スロヴァキア人政治家の認識は一致していた。チェコスロヴァキア建国後に提示された諸構想では、各種のスロヴァキア自治案もそれらへの対案も、トリアノン条約などの講和条約に基づくスロヴァキアの境界線を支持していた。自治派も当時のスロヴァキアの地位には不満を抱いたが、「スロヴァキア」の境界線と領域を是認したのである。

しかし、この境界線は第一次世界大戦以前のスロヴァキア人政治家が提唱した構想に基づくものではない。1861年にスロヴァキア民族運動家が公表した自治地域(「オコリエ」)の設立要求、ならびに戦前からのスロヴァキア人政治家であるミラン・ホジャが1918年12月にハンガリー政府との協議の席上で提示した暫定境界線の要求では、スロヴァキアとハンガリーとの境界線はスロヴァキア人とマジャール人の民族分布に依拠して設定された。そして、これらの境界線は現在の国境線の大きく北側に想定されたのである。他方、現国境線はチェコスロヴァキア独立運動の指導者であるマサリクが第一次世界大戦中の1915年に公表した覚書『独立ボヘミア』に記した構想に由来する。彼は、チェコスロヴァキア人の一部と見做したスロヴァキア人の民族分布以外にも、経済的利益や軍事的配慮などを根拠としつつ、西部ではドナウ本流を国境とする主張を展開した。1918年秋以降に協商国との外交交渉を担当したベネシュは、マサリクの構想に基づくチェコスロヴァキアの国境線を要求する。原則的には、この境界線が協商国からの支持を獲得し、諸講和条約を通じて承認された。以上の経緯を経て境界線が画定されたスロヴァキアは、スロヴァキア人以外の民族的少数派の居住地域を含む領域だった。また、スロヴァキア人政治家は境界線の決定過程に関与できなかったが、彼らはその領域を無条件で受容した。チェコ人政治家に対抗したスロヴァキア自治派も、スロヴァキア民族のものと見做す領域の画定ではチェコ人政治家の決定的な影響力の下にあったのである。

第二の地方行政制度と諸構想との関係は、制度から構想への影響と、構想から制度への影響に分けて考察できる。制度から構想への影響では、スロヴァキア自治という概念を自治要求へと具体化する際に自治派が先行する諸制度を参照対象にしたことを指摘できる。自治派の参照対象となったのは、1918年12月にスロヴァキアの実効支配とチェコスロヴァキア国家への統合を促進するために設置されたスロヴァキア統治全権大臣制度や、共和国最東部のポトカルパツカー・ルスをルシーン=ウクライナ人の自治地域と定めたチェコスロヴァキア共和国憲法第三条など、国内の一部地域に特殊な地位を付与した規定だけではない。ハプスブルク二重君主国の二重制も援用され、さらには均質な地方行政制度の構築を求めた1920年の県制度も参照対象となった。

その際には制度の元来の意味が読み替えられた。例えば、スロヴァキア国民党のエミル・ストドラは、1921年に公表した論考において、県制度法に基づく県連合制度の改組を通じたスロヴァキア自治を要求した。スロヴァキアの県連合をスロヴァキア民族の領域を見做す「誤読」を通じて、異なる行政制度の統一を目的とした県制度法を自治要求のために援用したのである。また、スロヴァキア人民党は、1921年の党内での議論の後、独自のスロヴァキア自治法案を立案する際に共和国憲法第三条に注目した。この条項は共和国内の民族的少数派であるルシーン=ウクライナ人の権利に基づく。しかし、スロヴァキア人民党は、スロヴァキア民族がチェコ民族とともにチェコ-スロヴァキア国家内で多数派の地位を維持することを主張しつつも、共和国憲法第三条をスロヴァキアにも適用する形式を通じて自治を要求した。スロヴァキアのみに特別な地位を付与する「非対称」的な自治のモデルがスロヴァキア自治法案に採用され、両大戦間期に三回国民議会に提出された。

反対に、構想から制度への影響では間接的な影響のみを示唆できる。1938年10月に成立したスロヴァキア州の自治体制がスロヴァキア人民党の1938年自治法案を原案にした非対称的な制度だったことと、第二次世界大戦後に再建されたチェコスロヴァキア共和国もチェコ民族とスロヴァキア民族の存在を確認しスロヴァキアのみに特殊な地位を付与した非対称的な国家制度を導入したことに言及したい。

第三の「スロヴァキア」という領域ないし行政単位に付された意味という問題では、スロヴァキア自治派の自治論はこの領域に対して民族の領域という意味を付与したことを確認できる。1920年代前半に立案されたスロヴァキア自治派の何れの自治案も、チェコ人のチェコ諸州との対比で、スロヴァキアをスロヴァキア人の主権が行使される領域として設定していた。第一次世界大戦後の講和条約を通じて明確な輪郭を獲得したスロヴァキアは、スロヴァキア人居住地域のみの領域ではなく、南部のマジャール人居住地域や東部のルシーン=ウクライナ人居住地域をも含む。だが、自治派は彼らの存在を軽視し、いわばスロヴァキアを「擬似的な国民国家」と見做しつつ、その全域を自民族の領域と解釈したのである。

他方、1920年の県制度法の規定ではスロヴァキアは諸県が提携する県連合として構想され、1927年の州制度法ではスロヴァキア州の地位が付与された。両制度は行政単位の設定にあたって特別な民族的な意味を明記していない。だが、両制度が制定されたチェコスロヴァキア共和国自体がチェコスロヴァキア人の国民国家として建国されたことを考慮したい。さらに、ドイツ人が多数派となる県の登場がチェコ諸州における県制度導入への反対理由となり、同じくドイツ人とポーランド人がシレジアで多数派を占める危険を考慮しつつ州制度はモラヴィアとシレジアを一つの州へと合同した。法律自体には明記されなかったが、県も州もチェコ人とスロヴァキア人の領域として見做されたのである。

また、チェコスロヴァキア民族の存在を認めつつスロヴァキア自治派に対抗したスロヴァキア人政治家も、18世紀末以降に発展してきたスロヴァキア・ナショナリズムの系譜に連なる存在だった。スロヴァキア民族の利益というレトリックこそ用いなかったものの、彼らもスロヴァキア独自の地域的利益があることまでは否定しなかった。その意味では自治派との共通理解が存在していたのである。既に1925年には、スロヴァキア人政治家の両派はスロヴァキア全域を統括する行政単位の必要性を認めていた。スロヴァキアをチェコスロヴァキア民族の領域の一部と見做すか、あるいはスロヴァキア民族の領域と解釈するかという点が両派の相違だった。しかし、この構図自体がスロヴァキア域内に居住する民族的少数派を枠外に置き、チェコスロヴァキアを彼らの国民国家と見做す共通理解に立脚している。この共通理解に基づきつつ、1927年の州制度法に依拠してスロヴァキア州が設置された。地方行政制度においてもスロヴァキアは意味を持たない領域ではなかったのである。

スロヴァキア州の諸組織は1930年代にスロヴァキア人官僚と政治家が経験を獲得する場を提供した。彼らの経験を通じても行政単位としてのスロヴァキアの有効性が確認され、スロヴァキアの地位の上昇を導いたと結論付けられよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は第一次世界大戦後に「チェコスロヴァキア人」による擬制の国民国家として建国されたチェコスロヴァキア第一共和国において、チェコとは異なり歴史上、国家として建国されたことのなかったスロヴァキアという領域が、この地に住むスロヴァキア人の政党によってどのように認識され、どのような過程を経て行政単位として制度化されたのかという点に焦点を当てて詳細に検討したわが国初めての本格的な論文である。スロヴァキアという領域の問題は、チェコスロヴァキアと同様にこの時期に建国された擬制の国民国家ユーゴスラヴィアにおけるスロヴェニアの領域の問題とも類似しているだけでなく、1990年代に建国されたスロヴァキアにおけるハンガリー人居住地域の画定、マケドニアにおけるアルバニア人居住地域の画定、コソヴォにおけるセルビア人居住地域の画定といったように東欧地域で広く共有される現在の問題でもある。

本論文は序章と終章を除く7章が三部に構成されており、A4用紙で脚注を含めて190ページ、参考文献表と地図・図表が25ページからなっている。スロヴァキア語の文書館史料、法令集、政党が発行していた機関紙、月刊誌、統計資料集、刊行された史料集、同時代の文献を駆使した研究である。本論文が扱う時期は1918年のチェコスロヴァキアの建国から1928年に「州制度法」が施行されるまでの時期である。

第一部「チェコスロヴァキアの政治と国家制度」は第1-3章からなり、本論文を進めるにあたり、議論の前提となる問題や前史が書かれている。第1章では19世紀後半から第一次世界大戦期にかけて、オーストリア・ハンガリー2重君主国のハンガリー王国側に置かれていたスロヴァキアの政治状況と政党の活動が説明される。

第2章では第一次世界大戦の休戦直後から1920年2月のチェコスロヴァキア共和国憲法制定前後の時期が扱われ、新国家チェコスロヴァキアがどのように境界線を画定したのか、そして新国家がチェコ、スロヴァキア、ポトカルパツカー・ルスの3領域を実効支配する経緯と論理が示される。1章と2章は第二部以下の議論の前提をなすものである。

第3章では、法令集と法制史関係の先行研究を参照しながら、チェコスロヴァキア第一共和国の地方行政制度の発展を検討している。オーストリアの支配下に置かれたチェコ地方とハンガリー王国支配下のスロヴァキアとの地方行政制度の違いが示された上で、新国家内のスロヴァキアの領域で1920年代に施行された地方行政制度、すなわち統治全権大臣(統治省)制度、県制度、州制度が紹介される。

第二部「スロヴァキア問題と1920年代前半における解決策――スロヴァキア自治案の登場」は第4章と第5章から構成されていて、1921-22年にかけてスロヴァキアの政党から提示されたスロヴァキアの地位に関するさまざまな構想を、当時の政党機関紙を駆使して詳細に分析している。第4章では、「自治派」と「中央集権派」という政治グループのうち、スロヴァキア人民党やスロヴァキア国民党といった「自治派」が提示したスロヴァキア自治案が比較検討される。

第5章では、スロヴァキア自治案に対して、「中央委集権派」の農業党や社会民主党から出された反論と、「中央集権派」が提示した地方行政制度が考察される。スロヴァキアという行政制度が「中央集権派」にとって、どれほど必要とされていたかに焦点が当てられている。

第三部「1920年代後半の地方行政制度改革に関する議論と1927年の州制度導入」は第6章と第7章からなり、1925年11月の国民議会選挙から1927年7月の州制度法の採択までの時期を対象として、スロヴァキア諸政党によるスロヴァキア構想を扱うと同時に、州制度法の採択に至る経緯を時系列的に丹念に描きだしている。ここでの主要な史料も当時の各政党の機関紙である。第6章では、1925年11月に実施された国民議会選挙の結果、スロヴァキアで第1党となったフリンカ・スロヴァキア人民党による州制度法に対する支持と「中央集権派」の対応、チェコスロヴァキア規模での議会制度と政党政治の構造に検討が加えられる。

第7章では、1926年春から州制度導入の議論が本格化した背景と州制度法の制定に対するスロヴァキア諸政党の議論が詳しく分析される。

終章では、序章で設定された三つの課題、(1)スロヴァキアという領域の境界線の成立過程と論理、(2)施行された行政制度とスロヴァキアの地位に関するさまざまな構想との相互作用、(3)スロヴァキアという領域と行政単位に付与された意味についての総括がなされる。結論として、スロヴァキアの領域については、チェコスロヴァキアという新国家の実現に向けて活動し、連合国に影響力をもつチェコ人政治家の存在が大きく、スロヴァキア人政治家は新国家を受け入れざるを得なかったが、「チェコスロヴァキア人」による擬制の国民国家を実体どおりのチェコ人とスロヴァキア人の国家にすることでは「自治派」も「中央集権派」も一致していたとしている。

本論文の研究上の貢献としては次の3点が指摘できる。第一に、現在のスロヴァキア史学界においてはスロヴァキアという領域が自明のものとして議論される傾向が強く、歴史的に不分明であったスロヴァキアの領域が新国家チェコスロヴァキアにおいて、いかに画定されたかについて研究はなされてこなかった。当時の政党機関紙や法令集に基づき、地方行政制度と関連させて詳細に分析を行った本論文は、スロヴァキア史学界に一石を投じる貴重な研究であり、英語論文として発表することが期待される。

第二に、本論文は第一次世界大戦後の東欧における国民国家の建国と領域画定の研究にとどまらず、1990年以降に連邦の解体に伴い建国された東欧の新国家の領域確定の研究にも新たな視点を与える可能性をもっている点である。

第三に、本論文はスロヴァキア語の文書館史料、政党の機関紙、法令集などを駆使した実証的な研究であり、従来のわが国の東欧研究、とりわけチェコスロヴァキア研究を大きく超える成果を生み出した点である。

上記のようにきわめて高く評価することのできる論文ではあるが、問題点がないわけではない。審査会では、(1)論文全体に繰り返しが多く、叙述の方法に考慮すべき点が見られる、(2)法的な制度に関する議論が中心となっていて、具体的な実例が叙述されていない。このため、論文全体が読みにくい印象を与えてしまう、(3)スロヴァキアという領域に住むマイノリティーへの目配りはされているが、例えばルテニア人やドイツ人の領域に関する議論が検討されていない、(4)スロヴァキアの領域の確定を問題とするのなら、スロヴァキアが自治州となる1938年まで対象とすべきであった、(5)結論部のインパクトが弱い、論文の現在的な意味を前面に押し出したほうがよかった、などの本論文の問題点や今後の課題を含めた指摘がなされた。

しかし、審査委員会は指摘された問題点が本論文の学術的な価値を損なうものではなく、本論文が博士論文としての水準を十分に超えていると判断した。したがって、審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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