学位論文要旨



No 122877
著者(漢字) 木矢,剛智
著者(英字)
著者(カナ) キヤ,タケトシ
標題(和) ミツバチのダンスコミュニケーション能力の神経基盤に関する研究
標題(洋) A study on the neural basis of dance communication of the honeybee
報告番号 122877
報告番号 甲22987
学位授与日 2007.05.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5074号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 藤原,晴彦
 東京大学 教授 岡,良隆
 東京大学 教授 武田,洋幸
内容要旨 要旨を表示する

動物は多様な環境に対する生存戦略の一つとして、様々な生得的行動を進化させてきた。中でも個体間コミュニケーション能力は、多様に変化する環境への適応において重要な役割を担う。セイヨウミツバチ(Apis mellifera L.)の働き蜂は、ブリッシュの発見で有名な「ダンスコミュニケーション」を用いて餌場の位置を巣の仲間に伝達することができる。花の蜜を見つけて帰巣した働き蜂は、巣板の上で8の字を描く尻振りダンスを踊り、巣から餌場までの距離と方向をダンスの尻振りの時間と角度に変換して巣の仲間に伝達する。一方、巣の中にいる働き蜂は、尻振りダンスを読み解いてダンスが示す餌場へ到達する。このようにダンスコミュニケーションは、距離と方向という具体的な情報をダンスという抽象的な情報に変換して伝達する点で、「記号的コミュニケーション」であると考えられる。記号的コミュニケーション能力は高等哺乳類以外ではミツバチでしか知られていないが、単純な脳構造をもつミツバチが、なぜこうした高度なコミュニケーション能力をもつのかは不明である。私は、ミツバチのダンスコミュニケーションが、動物の記号的コミュニケーション能力の神経メカニズムを探る上で有用なモデルになるのではないかと考え、そのメカニズムの解明を目的として研究を行った。

ミツバチのダンスコミュニケーション能力に関しては、これまで生態学・感覚生理学的観点から多くの研究が行われてきたが、その基盤となる神経メカニズムは不明であった。私は、本メカニズムを明らかにするためには、まずダンスコミュニケーションに関わる脳領野を同定することが必要と考え、神経活動に応じて一過的にその神経細胞で発現誘導される初期応答遺伝子を神経活動のマーカーとして用いることで、ダンスを踊っている働き蜂(ダンス蜂)の脳で活動的な領野を探索することを計画した。しかしながら、昆虫では初期応答遺伝子が同定されていなかったため、修士課程において私は、ディファレンシャル・ディスプレイ法を用いたスクリーニングにより、kakuseiと名付けた新規な初期応答遺伝子を同定した。kakuseiのcDNA配列中には顕著なORFは存在せず、非翻訳性核RNAとして機能することが示唆された。博士課程において、私はkakuseiを用いたミツバチ脳の活動マッピングの実験系を構築し、ダンスを踊っているミツバチにおいて活動的な脳領野を同定した。さらに、働き蜂のダンスコミュニケーションのどのような行動成分が、この脳領野の活動を誘起するのかについて解析を行った。

第1章ダンスを踊っているミツバチにおいて活動的な脳領野の同定

まず私は、kakuseiがミツバチ脳の活動マッピングに利用可能か検証した。Insituハイブリダイゼーションの結果、麻酔から覚醒させた際の痙攣により働き蜂に神経活動を誘導すると、kakusei転写産物は脳全域の神経細胞の核内に、誘導後30分をピークとして一過的に検出されることが分かった。このことは、kakusei転写産物が非翻訳性核RNAとして機能することを支持するとともに、kakuseiが脳全域において神経活動のマーカーとして利用可能であることを示している。さらに私は、暗順応させた働き蜂に光照射すると、光受容に関わる脳領野(視葉)において顕著なkakuseiの発現が見られること、また走光性を示す働き蜂の脳でも同様な発現パターンが見られることを示した。このことは、kakuseiが生理的条件や自由行動条件下において、神経活動のマーカーとして利用可能であることを示している。

次に本実験系を用いて、ダンス蜂の脳でのkakuseiの発現を調べたところ、昆虫の脳の高次中枢であるキノコ体の一部の部域(小型ケニヨン細胞)で、顕著にkakusei発現細胞の数が増加していることを見出した(図1)。このことは、ダンス蜂の脳では小型ケニヨン細胞の神経活動が選択的に亢進していることを示している。また、小型ケニヨン細胞選択的なkakusei発現細胞の増加は、ダンスを踊る前の採餌蜂でも同様に認められた。従って、小型ケニヨン細胞選択的な神経活動の亢進は、ダンス行動の結果ではなく、その前段階である採餌行動と関連することが示唆された。一方、定位飛行(巣の周りを飛行し、巣の位置を記憶する)をしている働き蜂の脳ではキノコ体全体でkakusei発現細胞が増加しており、小型ケニヨン細胞選択的な発現細胞の増加は認められなかった。以上の結果から、小型ケニオン細胞選択的な神経活動は、採餌行動に特異的な行動成分と関連することが示唆された。

第2章キノコ体の神経活動に関連するダンスコミュニケーションの行動成分の解析

ミツバチのダンスコミュニケーションにおいては、餌場までの「距離」と「方向」はそれぞれ、採餌飛行の間に経験したオプティカル・フロー(視野を横切った視覚情報)の量と、太陽コンパスを元に算出され、尻振りの「時間」と「角度」に変換して表わされる。このようにダンスコミュニケーションでは、採餌行動で得た様々な感覚情報を統合し、ダンスに変換する過程が必要となる。本章において私は、第1章で採餌蜂の脳で見られた小型ケニヨン細胞特異的な神経活動が採餌行動のどのような行動成分と関連するか検討した。この際、採餌経験の違いがダンスの違いとして表現されることを利用して、ダンスの違いが脳でのkakuseiの発現とどのように相関するか調べた。

まず、近くの餌場に通ったことを示す「円ダンス」を踊る働き蜂と、比較的遠くの餌場に通ったことを示す「尻振りダンス」を踊る働き蜂について、それぞれの脳におけるkakuseiの発現パターンを調べたところ、両者でともに小型ケニヨン細胞選択的発現が認められたが、尻振りダンスを踊る働き蜂に比べ、円ダンスを踊る働き蜂で、キノコ体におけるkakusei発現細胞の数が有意に高いことが分かった。このことは、近くの餌場に通った働き蜂のキノコ体では、より多くの神経細胞が活動していることを示している。さらに、多数の働き蜂が示すダンスをビデオ撮影し、ダンスが示す餌場までの「距離」成分(ダンスの尻振り時間の長さ)と各脳領野におけるkakusei発現量との関係を解析した結果、キノコ体におけるkakusei発現量はダンスが示す「距離」と負に相関することが判明した(図2)。以上の結果は、採餌行動の中でも巣から餌場までの「距離」に関連する行動成分が、キノコ体の神経活動と関連することを示しており、キノコ体における感覚情報の統合がダンスコミュニケーションの発現に重要な役割を担う可能性を示唆している。

昆虫の脳においてキノコ体は多種の感覚情報を統合する高次中枢であると考えられている。ミツバチ脳の小型ケニオン細胞は特に多くの種類の感覚入力を受け、フィードバック回路を含む複雑な神経回路を形成する。従って、採餌蜂での小型ケニヨン細胞選択的な神経活動の亢進は、単なる一次感覚野における感覚情報の受容(perception)や処理(processing)ではなく、より高度な感覚情報の統合(integration)過程を反映すると推察される。採餌蜂がダンスを踊る際には、採餌経験で得た視覚情報(距離感、太陽からの方向)が、異なる神経活動(ダンスの継続時間、垂直軸からの体勢のずれ)に変換される。従って本研究により得られた知見は、こうした脳の情報統合過程に、小型ケニヨン細胞が形成する神経回路が重要な機能を担う可能性を示唆している。本研究は、ミツバチにおいてダンスコミュニケーションに関連すると考えられる脳領野を同定した世界で初めての例であり、今後、小型ケニヨン細胞の神経回路の投射先やその回路の役割を調べることで、ミツバチのダンスコミュニケーション、ひいては高等哺乳類がもつ記号的コミュニケーション能力の神経基盤の理解に貢献すると期待される。

図1ダンス蜂の脳におけるkakuseiの発現パターン

A,C:働き蜂の脳半球(A)・キノコ体(C)の模式図。Cに相当する部分をAの青四角で示す。大:大型ケニヨン細胞,小:小型ケニヨン細胞

B,D:ダンス蜂の脳におけるkakuseiの発現パターン。kakusei発現細胞を黄矢印で示す。

図2ダンスの尻振り時間の長さと各脳領野におけるkakuseiの発現量の関係

キノコ体(A)及び視葉(B)における両者の関係をプロットし、近似式によりフィットしたところ、有意な相関関係が認められた。特にキノコ体において顕著な相関が認められた。

審査要旨 要旨を表示する

セイヨウミツバチ(Apis mellifera L.)の働き蜂は、ブリッシュによる発見で有名な「ダンスコミュニケーション」により餌場の位置を仲間に伝達する。帰巣した働き蜂は8の字を描く「尻振りダンス」を踊り、巣から餌場までの距離と方向を、それぞれ尻振りの時間と角度に変換して伝達する。ダンスコミュニケーションは、具体的情報を抽象的情報に変換して伝達する点で、「記号的コミュニケーション」と考えられる。しかし、比較的単純な脳をもつミツバチが、なぜこうした高度なコミュニケーション能力をもつのかは不明である。論文提出者は、このミツバチのダンスコミュニケーションの神経基盤の解明を目的として研究を行った。

論文提出者は、ダンスコミュニケーションの神経基盤を理解する上では、それに関わる脳領野を同定することが必要と考え、神経活動に応じて一過的に発現誘導される「初期応答遺伝子」をマーカーとして用いることで、ダンスを踊る働き蜂(ダンス蜂)の脳で活動的している領野の同定を計画した。修士課程で論文提出者は、ディファレンシャル・ディスプレイ法を用いたスクリーニングにより、kakuseiと名付けた新規な初期応答遺伝子を同定した。kakuseiのcDNA配列には顕著なORFが存在しないことから、その転写産勅は非翻訳性RNAとして機能することが示唆されている。本論文は2章からなる。第一章では、kakuseiを用いたミツバチ脳の活動マッピング実験系を構築し、ダンス蜂の脳において活動的な脳領野を同定したことを報告している。第二章では、ダンス蜂の採餌行動のうち餌場までの距離に関連する成分が、この神経活動と関連することを示している。

第一章では先ず、kakuseiが脳の活動マッピングに適用可能か検証している。In situ ハイブリダイゼーション法の結果、麻酔から覚醒させることで働き蜂に神経活動を誘導すると、kakusei転写産物は脳全域に誘導後30分をピークとして一過的に検出された。従って、kakuseiは脳全域における神経活動を反映すると考えられた。さらに、暗順応させた働き蜂に光照射すると、視覚中枢である視葉においてkakuseiの発現が見られたことから、kakuseiが生理的条件における神経活動のマーカーとして利用可能であると考えられた。次にダンス蜂の脳でのkakuseiの発現を調べたところ、キノコ体(高次中枢)の一部の神経細胞(小型ケニヨン細胞)で顕著にkakusei発現細胞が増加していた。このことは、ダンス蜂の脳では小型ケニヨン細胞選択的に神経活動が亢進していることを示している。またこの神経活動は、ダンスを踊る前の採餌蜂でも認められた。従って、小型ケニヨン細胞選択的な神経活動はダンスの結果ではなく、その前段階である採餌行動と関連することが示唆された。一方、定位飛行(巣の周りを飛んで巣の位置を記憶する)をしている働き蜂では、キノコ体全体でkakusei発現細胞が増加していた。従って、小型ケニオン細胞選択的な神経活動は採餌行動に特異的な行動成分と関連することが示唆された。

第二章では、採餌経験の違いがダンスに表現されることを利用し、採餌行動のどの成分が神経活動と関連するかを調べている。先ず、近い餌場から帰ったことを示す「円ダンス」を踊る働き蜂と、遠くから帰ったことを示す「尻振りダシス」を踊る働き蜂について、脳におけるkakuseiの発現を調べたところ、前者のキノコ体におけるkakusei発現細胞の数が有意に高かった。さらに、ダンスが示す餌場までの「距離」(尻振り時間)と脳におけるkakusei 発現量との関係を調べたところ、キノコ体におけるkakusei発現量は、ダンスが示す「距離」と負に相関した。このことは、採餌行動の中で餌場までの距離に関連する成分が、キノコ体の神経活動と関連することを示している。

ミツバチ脳の小型ケニオン細胞は多くの一次感覚野から入力を受け、フィードバック回路を含む複雑な神経回路を形成する。ダンス蜂で見られた小型ケニヨン細胞選択的神経活動は一次感覚野における感覚情報の受容や処理ではなく、より高度な感覚統合を反映する可能性がある。本研究は、ダンスコミュニケーションに関連すると考えられる脳領野を同定した世界初の例であり、今後小型ケニヨン細胞の神経投射やその役割を調べることでダンスコミュニケーション、ひいては記号的コミュニケーション能力の神経基盤の理解に貢献すると期待される。なお本論文は國枝武和、久保健雄との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究の立案、実験、論文作成を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。本論文は動物行動学、神経生物学の進展に大きく寄与するものであり、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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