学位論文要旨



No 122887
著者(漢字) 長縄,宣博
著者(英字)
著者(カナ) ナガナワ,ノリヒロ
標題(和) 帝政ロシアのムスリム社会と国家 : ヴォルガ・ウラル地域1905-1917
標題(洋)
報告番号 122887
報告番号 甲22887
学位授与日 2007.06.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第758号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 小松,久男
 北海道大学 教授 宇山,智彦
 北海道大学 教授 松里,公孝
内容要旨 要旨を表示する

ロシア帝国は、ロシア正教を優位に、様々な宗教に属する人々が、各々の言葉で神とツァーリに祈りを捧げるというコスモロジーを長期に渡って持続させていた。その仕組みを考察することは、異なる宗教の共存という今日的な課題にも、十分な思考の糧となるだろう。とりわけヴォルガ中流域からウラル山脈南部にかけての地域は、ロシア正教徒が大多数を占める多民族空間であるが、そこにムスリムとして生きてきた人々の歴史は、我々に多くの示唆を与えてくれる。しかしながら、国家制度とムスリム社会との豊かな相互関係の歴史は、90年代初頭まで、西側だけでなくソ連の歴史学の中でも見落とされてきた。なぜなら歴史学の関心は専ら、この地域のムスリムが既存の体制からの解放を目指す運動にあったからである。

本稿が中心的に扱う帝政最後の十年は、政府にもムスリム社会にも一つの新しい時代だった。政府は、革命によって揺さぶられた帝国の一体性の修復を至上命題とする一方、革命が引き出した「 ムスリム市民」への対応が迫られた。ムスリム社会は、猜疑心に満ちた政府の統制が強化されたにもかかわらず、1905年革命以降、集会や定期刊行物を通じて明確化し、共有するようになった自らの社会の諸問題を既存の制度を駆使して解決しようとした。つまり、政府の統合志向と諸民族の自治志向との矛盾が体制の危機を醸成したという今日まで広く受容されている時代観とは異なり、帝政最後の十年は、ムスリム社会と国家との交渉がこれまでになく深化した時代だった。その軌跡を詳細に跡付けることが、本稿の課題である。

多民族・多宗教性に注目する今日のロシア帝国論に通底するのは、国家が与える枠組みがどのように人々の意識や行動を規定し、その人々の生み出す新たな事態に国家がどのように対応したのかという問いである。本稿は、帝国の制度とムスリム社会の論理が織り成す相互関係と、それが不可避的に抱え込まざるをえなかった困難を分析する。基本となる史料は、テュルク語で書かれたムスリムの新聞・雑誌と主にロシア語で作成された公文書である。定期刊行物は1905年以降、ムスリム社会の諸問題を集約して議論を喚起し、世論を形成する上で極めて重要な役割を果たした。よってそこからは、国家との相互関係の場を探し、それと密接に関連している機関や制度を抽出することができる。そして、これらの機関や制度に関わる政策決定過程や実務を再現するために、サンクトペテルブルグはじめ、カザン、ウファ、オレンブルグの文書館資料が不可欠なのである。本稿は、全6章と補論から構成され、それらは第一部の宗教行政、第二部の地方自治、第三部の戦争という大きなテーマに分けられる。

第一部では、第1章でヴォルガ・ウラル地域のムスリム行政の要だったオレンブルグ宗務協議会の改革論、第2章で金曜マスジドを中心とする共同体であるマハッラの生活、第3章でムスリム聖職者の任免を行なっていた県庁の実務を取り上げる。第1章は、ヴォルガ・ウラル地域のムスリムが、18世紀末以来、帝国の統治構造の中で培われてきた自らの宗教共同体(millat)を再発見した事件として、1905年革命を捉える。そして、この宗教共同体と既存の国家制度との新たな関係構築を求めたムスリムの運動を、彼らのナショナリズムとして解釈する。ムスリムと政府は、互いの議論を参照し、同じ制度について同じ法律上の用語で、各々が目指す制度の青写真を描いた。そこからは、1905年革命を契機に、ムスリムと政府がそれぞれ、どのようなムスリム共同体像を思い描くようになったかが、明確に読み取れる。

第2章は、ムスリムがマハッラの運営で、宗務協議会を媒介に、行政当局と個別具体的な交渉を行なっていた姿を豊富な事例で浮き彫りにする。マハッラは、単に政府やムスリム知識人が改革の対象として論じるだけの存在ではなく、そこに生きる人々が、利用可能な行政手続きを駆使して、再編することのできた開かれた空間だった。前半では、ムスリム聖職者の任務、聖職者の教育資格、マスジドの建設に注目し、既存の帝国の法律がいかにマハッラの生活を規定していたのか、そして同時に、実務レベルでどのような問題を内包していたのかを分析する。後半では、法律の規定がなかったマハッラの経済運営について、人々がイスラーム的な伝統と適用可能な行政手続きを組み合わせることで制度化していた様を、マハッラの後見役、ワクフ(寄進)、ゼムストヴォとの関係に見出す。

とはいえ政府が、ムスリムのナショナリズムに「イスラーム世界の覚醒」の脅威を見出し、それがムスリム社会に直接的かつ深刻に作用していたことも事実である。第3章は、県庁がムスリム聖職者の任免の際に行なった「政治的信頼度」調査で、「パン・イスラーム主義者」という範疇が、実務でどのように機能していたのかを検証する。そこで明らかになるのは、この「敵」の範疇が、治安当局の押し付けるレッテルにとどまらず、ムスリム自身が共同体内部の敵対者を排除する口実として、レッテルを駆使していたことである。

第二部は、地方自治体とムスリム社会との相互関係を扱う。ヴォルガ・ウラル地域のムスリムは、アレクサンドル二世の大改革がもたらした市会とゼムストヴォ両方の恩恵を受けた点に際立った特徴があった。第4章では、1905年革命以降、カザン市会を中心に大きな議論を巻き起こした、商業地区の休日問題を取り上げる。この問題には、二つの側面があった。第一に、金曜日等のイスラームの祭日を休日とする権利を、市会や国会を通じて獲得しようとする政治的な側面、第二に、イスラームの祭日を厳密に実行するために、正確なヒジュラ暦のカレンダーを作成しようとする宗教的な側面である。問題の政治的な側面では、地方自治を維持することと信仰の寛容を守ることが、時に両立しがたい困難を生んでいた。もう一つの側面である新月の定義をめぐる論争は、聖典の字句に厳密に裸眼の観察に基づくべきか、それとも天文学上の計算を適用するのかをめぐって展開した。ムスリムの新聞・雑誌が織り成す言論空間の中では、かつて新月の定義で唯一の権威だったオレンブルグ宗務協議会の見解さえも、相対化されるようになった。

第5章では、1913-16年にムスリムの新聞・雑誌上で展開された、「マクタブか、公立学校か」という論争に着目し、義務教育の導入という国家事業をめぐって、とくに南ウラルでゼムストヴォとムスリム社会との交渉が進展した経緯を分析する。論争には、マハッラの限られた財源で、公立学校に比肩するようにマクタブの改革を続行するのか、それとも、公立学校でイスラーム教育と母語を保障すべく方向転換するのかというムスリムの苦渋の選択を凝縮していた。教育省が、ロシア語学習と「ロシア市民性」の注入に重点を置いたのに対して、ウファ県とオレンブルグ県のゼムストヴォは、ロシア化という政治目標を放棄して、母語による啓蒙を進めようとした。そして、マクタブに将来性を見出し、国家の教育政策の疎外からマクタブを拾い上げた。しかし、学校の運営方法や学習内容については、ムスリムと議論を詰めなければならなかった。こうして交渉が深化する中で、「マクタブか、公立学校か」という二者択一ではなく、第三の学校の可能性が浮上してきた。

帝政最後の十年は、日露戦争にはじまり第一次大戦に終わる戦争の時代だった。第6章と補論では、ムスリムが戦争遂行に統合されていた仕組みを論じる。具体的には第6章で、軍内部のムスリムの信仰生活を保障する制度としての従軍ムッラーと、銃後の信仰生活を維持する制度としてのムスリム聖職者の徴兵免除を取り上げ、補論でムスリムによる戦時の救援事業の組織化について考察する。近年、国民皆兵制や戦時体制を「公民的なナショナリズム」を生み出す装置と捉える見方が有力となっている。しかし、軍隊は、様々な信仰に属する人々が、各々の言葉で神とツァーリに祈りを捧げるロシア帝国のコスモロジーが典型的に成立していた場でもあった。また、第一次大戦時には、平時には不可能だった全ロシア規模でのムスリムの慈善事業の組織化が可能になった。その時ムスリムは、ムスリムとして活動することが祖国の救済につながると理解していた。これらの事実は、「公民的なナショナリズム」の構築に失敗したことが、帝政末期のロシア帝国の弱さを象徴しているといった理解に再考を促すものだと思われる。

本稿は、国民国家建設の道具になりうる制度とムスリム社会との相関も、考察の射程に収めている。第1章で、司法制度改革とシャリーアの運用との関係に言及し、第5章で義務教育の導入、第6章で国民皆兵制を扱うからである。近年、帝政ロシアは、国家建設には成功したが、多民族構成の国民を作り出すことには失敗したという考えが定着しつつある。ロシア帝国の近代化は、統治制度を画一化・標準化すると同時に、多種多様な差異を強化し、新たな差異さえ作り出したからである。これに対して本稿は、二つの近代化戦略の因果関係とバランスに注目する。そして、多様な差異の制度化も実は、重要な統治戦略として残ることを重視する。なぜなら、まさにこの側面でこそ、国家とムスリムとの交渉が深化し、それによって既存の制度が強化されることさえあったからである。確かに、ヴォルガ・ウラル地域のムスリムも、政府の国民形成構想の対象となった。しかし、彼らはまさにムスリムとして生きることによってすでに、帝国統合のコスモロジーの不可分の一角を成していたのである。

審査要旨 要旨を表示する

ロシア帝国は、ロシア正教を優位に、様々な宗教に属する人々が、各々の言葉で神とツァーリに祈りを捧げるというコスモロジーを長期に渡って持続させていた。その仕組みを考察することは、異なる宗教の共存という今日的な課題にも、十分な思考の糧となる。とりわけヴォルガ中流域からウラル山脈南部にかけての地域は、ロシア正教徒が大多数を占める多民族空間であるが、そこにムスリムとして生きてきた人々の歴史は、我々に多くの示唆を与えてくれる。しかしながら、国家制度とムスリム社会との豊かな相互関係の歴史は、90年代初頭まで、西側だけでなくソ連の歴史学の中でも見落とされてきた。なぜなら歴史学の関心は専ら、この地域のムスリムが既存の体制からの解放を目指す運動にあったからである。

長縄氏の論文は、ロシアの帝政最後の十年を扱いながら、政府にもムスリム社会にも一つの新しい時代だったことを明らかにしようとする。政府は、革命によって揺さぶられた帝国の一体性の修復を至上命題とする一方、革命が引き出した「 ムスリム市民」への対応が迫られた。ムスリム社会は、猜疑心に満ちた政府の統制が強化されたにもかかわらず、1905年革命以降、集会や定期刊行物を通じて明確化し、共有するようになった自らの社会の諸問題を既存の制度を駆使して解決しようとしたというのである。つまり、政府の統合志向と諸民族の自治志向との矛盾が体制の危機を醸成したという今日まで広く受容されている時代観とは異なり、帝政最後の十年は、ムスリム社会と国家との交渉がこれまでになく深化した時代だった。その軌跡を詳細に跡付けることが、この博士論文の課題だというのである。

多民族・多宗教性に注目する今日のロシア帝国論に通底するのは、国家が与える枠組みがどのように人々の意識や行動を規定し、その人々の生み出す新たな事態に国家がどのように対応したのかという問いである。本論文は、帝国の制度とムスリム社会の論理が織り成す相互関係と、それが不可避的に抱え込まざるをえなかった困難を分析する。基本となる史料は、テュルク語で書かれたムスリムの新聞・雑誌と主にロシア語で作成された公文書である。定期刊行物は1905年以降、ムスリム社会の諸問題を集約して議論を喚起し、世論を形成する上で極めて重要な役割を果たした。よってそこからは、国家との相互関係の場を探し、それと密接に関連している機関や制度を抽出することができる。そして、これらの機関や制度に関わる政策決定過程や実務を再現するために、サンクトペテルブルグはじめ、カザン、ウファ、オレンブルグの文書館資料が不可欠なのである。本論文は、全6章と補論から構成され、それらは第一部の宗教行政、第二部の地方自治、第三部の戦争という大きなテーマに分けられる。

第一部の第1章でヴォルガ・ウラル地域のムスリム行政の要だったオレンブルグ宗務協議会の改革論、第2章で金曜マスジドを中心とする共同体であるマハッラの生活、第3章でムスリム聖職者の任免を行なっていた県庁の実務を取り上げている。

第二部は、地方自治体とムスリム社会との相互関係を扱う。ヴォルガ・ウラル地域のムスリムは、アレクサンドル二世の大改革がもたらした市会とゼムストヴォ両方の恩恵を受けた点に際立った特徴があった。第4章では、1905年革命以降、カザン市会を中心に大きな議論を巻き起こした、商業地区の休日問題を取り上げている。第5章では、1913-16年にムスリムの新聞・雑誌上で展開された、「マクタブか、公立学校か」という論争に着目し、義務教育の導入という国家事業をめぐって、とくに南ウラルでゼムストヴォとムスリム社会との交渉が進展した経緯を分析する。

第三部は、帝政最後の十年として、日露戦争にはじまり第一次大戦に終わる戦争の時代を扱っている。第6章と補論では、ムスリムが戦争遂行に統合されていた仕組みを論じる。具体的には第6章で、軍内部のムスリムの信仰生活を保障する制度としての従軍ムッラーと、銃後の信仰生活を維持する制度としてのムスリム聖職者の徴兵免除を取り上げ、補論でムスリムによる戦時の救援事業の組織化について考察した。

本論文は、国民国家建設の道具になりうる制度とムスリム社会との相関も、考察の射程に収めた。第1章で、司法制度改革とシャリーアの運用との関係に言及し、第5章で義務教育の導入、第6章で国民皆兵制を扱ったからである。近年、帝政ロシアは、国家建設には成功したが、多民族構成の国民を作り出すことには失敗したという考えが定着しつつある。ロシア帝国の近代化は、統治制度を画一化・標準化すると同時に、多種多様な差異を強化し、新たな差異さえ作り出したからである。これに対して本論文は、二つの近代化戦略の因果関係とバランスに注目する。そして、多様な差異の制度化も実は、重要な統治戦略として残ることを重視する。なぜなら、まさにこの側面でこそ、国家とムスリムとの交渉が深化し、それによって既存の制度が強化されることさえあったからである。確かに、ヴォルガ・ウラル地域のムスリムも、政府の国民形成構想の対象となった。しかし、彼らはまさにムスリムとして生きることによってすでに、帝国統合のコスモロジーの不可分の一角を成していたのである。

以上のような点を豊富な史料収集に基づく緻密な実証と理論構成で明らかにした本論分は審査委員全員によって高く評価された。イスラーム研究とロシア研究の境界領域に正面から挑戦した意欲と、国際学界でも例のない緻密なタタール史とロシア史の実証的な横断研究は申し分ないものであり、6名の審査委員からは否定や疑問に類する発言はほとんど出されなかった。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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