学位論文要旨



No 122888
著者(漢字) 坂田,美奈子
著者(英字)
著者(カナ) サカタ,ミナコ
標題(和) アイヌ口承文学のエピステモロジー : 対和人関係を語るウエペケレによる歴史批評
標題(洋)
報告番号 122888
報告番号 甲22888
学位授与日 2007.06.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第759号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,博
 千葉大学 教授 中川,裕
 東京大学 准教授 矢口,祐人
 東京大学 准教授 森山,工
 立正大学 教授 藤井,貞和
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、アイヌの口承文学の認識論を通して前近代アイヌ‐和人関係史の叙述、認識を見直し、両者の交渉史についての別の枠組、語り方を模索するものである。本論文は三部構成になっており。第I部ではアイヌ口承文学に関する研究史およびアイヌ口承文学のテクストとしての性格を検討する。第II部では対和人関係を語る散文説話(ウエペケレ)を読み解きながら、それらの物語が基づく認識論について検討する。第III部では歴史研究とウエペケレ分析の双方の方法を用いて同一のトピックを検討しながら従来の歴史学の問題点を考え、アイヌ‐和人関係史の叙述のあり方の展望を示す。

現在まで「アイヌ史」は主に和人の記録を資料として再構成されてきた。その一方で、「アイヌの視点」に立った歴史叙述は長年の課題であった。アイヌを歴史の主体として見出そうとする研究動向においては、交易主体や漁業経営主体としてのアイヌを発見したり、蝦夷地におけるアイヌと和人の異種混交的な接触をポジティヴに描写したり、ということがなされた。しかしながらその様な改訂はアイヌと和人の不平等な関係を遠景化させた口当たりの良い共生言説と見分けがつかないという状況を図らずも生んでいる。支配関係を強調すればアイヌを言説空間において再度従属的位置に配置しかねず、アイヌの主体性を強調すれば和人との不平等な関係が不可視化されかねないというジレンマをアイヌ史は抱えている。

これまでアイヌの歴史を考える上で、アイヌ口承文学の活用が幾度か提案されてきたし、そのような試みもいくつか存在するものの、成功してきたとは言い難い。その原因は、これまでの試みのどれもアイヌ口承文学を、実在的過去を探る資料として位置づけてきた点にあるといえる。しかしながら、アイヌ口承文学と歴史学が共通の議論の場を開けるとすれば、それは事実認識の次元ではなく、過去をどのように形象化するかという点、物語が基づいている認識論においてであろうと考える。本論では文学批評の方法によってアイヌの口承文学の認識論に迫りたいと考える。

口承文学のテクスト分析に対しては、オーラル文化は発話の場や社会的コンテクストを抜きには語れず、一回ごとの語りが尊重されるべきであり、理想的なテクストなどというものはない、という批判が予測される。しかしながら、筆者が注目するのは、アイヌ口承文学のテクストとしての側面である。オーラル文化と文字文化を各々本質化したり、そのような分析概念を用いて議論を普遍化したりするのではなく、あくまでアイヌにおいて口頭伝承がどのような歴史をたどったか、という点を重視すれば、近現代において、アイヌの伝承者たちが様々な形で自らのレパートリーを文字や音声として記録してきたという点を見逃すべきではない。アイヌ口承文学は研究者によってのみならず伝承者自身によってもテクスト化されてきたし、その営みを過小評価すべきではない。伝承者たちは各々の思いや意図によって、時には学問の覇権的構造を認識した上でなお、アイヌ語を残すことを優先し、テクスト生産をしてきた。そのような伝承者を搾取されるインフォーマントとのみ位置づけることは適切ではない。現在アイヌ語は公用語としては存在していない。従って、オーラル文化研究の側から主張されるオーラル文化の独自性について受け止めるならば、アイヌ口承文学はオーラル文化衰退の物語を語るしかなくなってしまう。しかしながら、伝承者によるテクスト化は、多くがまだ見ぬ未来のオーディエンスへの伝承という意図をもってなされており、口頭文化と文字文化という対立概念を持ち込みさえしなければ、伝承の形態の変化の問題として考えることができるのだ。

アイヌの口承文学にはいくつかのジャンルがあるが、本論文で扱うのは主に散文説話(ウエペケレ)である。その理由はそれが、伝承者によって実話として受け止められ、自らの経験の及ばない過去、明治以前の時代を想起させる物語と認識されているためであり、アイヌ史研究で最も盛んな近世に関する歴史学言説と比較する上で適切であるためである。

ウエペケレの内容の圧倒的多数はアイヌ同士の関係やアイヌとカムイとの関係を語るものであり、和人が登場する話は多いとはいえないが、和人がモチーフとされる場合、その表象のされ方は、歴史学言説と比較して非常に興味深いものがある。まず、和人とアイヌは対抗図式として描写されない。善人(アイヌ、和人)と悪人(アイヌ、和人)という対抗図式が基本である。その善悪の基準はカムイ・アイヌ・和人が構成する世界のバランス維持にかかわる。各々に異なる役割があり、そのバランスによって生活が成り立つという点で、カムイ・アイヌ・和人は三者が運命を共にする単位、すなわち「生存ユニット」として認識される。和人とアイヌが対抗図式として描写されるのは、物語上の矛盾を物語が解決しきれない場合においてである。例えば漁場における和人のアイヌへの虐待・搾取といった主題の物語において、その課題が最終的に解決される物語においては、アイヌと和人を対立的に描かれないのに対し、課題が解決されずに終る物語においては、課題解決の代りに和人とアイヌの世界に線引きをして、両者が交わらないような状況を作って締めくくる。従って、アイヌと和人の区別が明確に行なわれ、両世界の差異を際立たせるような叙述は、ウエペケレの認識論においては、それ自体が矛盾の指標であると同時に矛盾を解決できない記述である、ということになる。また、和人経営の漁業におけるアイヌ収奪の物語において、アイヌの主人公が和人の殿の養子になり、「和人の風習」を行なって漁場に平和をもたらした、という物語がある。このときの「和人の風習」とは、ローカル文化としての和人の風習のことではない。というのは、この物語の主題は和人の経営する漁業における非道を解決することであって、和人の存在があっても「和人の風習」が行なわれていないことが問題となっているためである。また「和人の風習」を行なって問題を解決したのは和人ではなくアイヌの主人公である。ここで目指される「和人の風習」とは、社会の理念的な姿であって、支配的文化への包摂といった意味をもたない。このようなレトリックによって、いわゆる和人文化への包摂、アイヌ文化の衰退という文脈で語られてきた「同化言説」について、再考の可能性が開かれる。

以上のようなウエペケレの認識論によって歴史学言説の特徴が明らかになる。歴史学はアイヌ、和人、松前藩、幕府といった文化的身分的属性を基準に人を峻別し、それを単位として、主に政治経済的な関係に関心を寄せる。しかも各主体は序列的関係に配置される。一方、ウエペケレはカムイ・アイヌ・和人を全体でひとつの単位とする全体論的な認識論にたつ。この場合、各構成員は各々の差異と役割をもちながら一つの世界を維持しているのであり、支配や包摂という問題は発生しない。従って歴史学的に言えば支配関係が存在したはずの場面でさえ、そのような力学は言及されない。

ウエペケレで描写されるアイヌ‐和人関係のあり方はヴァリエーションが豊かであり、友好関係も抑圧的な関係も、裕福なアイヌも貧しい和人も登場する。歴史学においてはネガティヴにしか評価されないような、アイヌを使役する和人経営の漁業を肯定する物語がある一方で和人によるアイヌ虐待の物語があり、経営者側にあるアイヌもいれば、奴隷のように使役されるアイヌもいる。ウエペケレの認識論は、アイヌ‐和人、支配‐抵抗といった対抗図式に基礎づけられていないために、二極間の綱引き状況に陥ることも回避できている。ウエペケレが描き出すのは、アイヌと和人を単純に切り分けることのできる世界ではなく、多様なアイヌのあり方と、多様な和人との関係のあり方の、どれもがアイヌの生き方なのであり、和人との関係は即座にネガティヴな効果やポジティヴな効果をもたらすのではなく、個々の状況において評価されるべきものなのだ、という考え方である。ウエペケレの認識論によって歴史学が批判されるのは、その余りに平板で単純なアイヌと和人のカテゴリー化である。

アイヌのウエペケレの認識論に照らして、歴史学が陥っているジレンマが、そこにおいては問題とならないという点が見えたとき、はじめて歴史学が語る世界が過去の事実の叙述であるというより、和人の認識論であるという点に気付くことが出来る。ウエペケレはアイヌと和人の関係についてのナラティヴを、歴史学研究が手にしているよりもはるかに多く持っている。従って、歴史学が過去の事実を明らかにしても、それについて柔軟に考えることができないのに対し、ウエペケレは過去の特定の事実を明らかにすることはできないにせよ、どのように考えるべきか、という点についてははるかに多くの手をもっている。歴史学が確認できる特定の過去を、ウエペケレのナラティヴと認識論によって批評することによって、和人の認識論としての歴史叙述とは別の歴史の見方を提起することが出来るのではないかと考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、アイヌの散文説話ウエペケレの内在的読解によって、アイヌが生きた世界認識論を明らかにし、それを通じて近代史学が生み出した歴史と異なる過去認識を獲得する可能性を開こうとしたものである。口承文学を手がかりにアイヌの歴史理解に迫ろうとしているが、「実在的過去」に関する文献史学の認識を改訂しようとするものではなく、口承文学の認識論を歴史学の認識論にぶつけ、無文字社会の歴史理解に新たな方法を見出そうとするのが、その狙いである。

全体は序章と終章のほか、三部から構成されている。序章では、文献史学がアイヌの世界把握に失敗してきたことを指摘した上で、その打開策として文芸批評の方法を採用することを表明する。レヴィ=ストロースの神話論を初め、数々の人類学・文芸批評・歴史哲学などの業績を参照し、一貫した立場から批判・利用するが、主要なキイワードとして用いるのは、グレゴリー・ベイトソンの「認識論」と「生存ユニット」である。以下の紹介で必要なので簡単に紹介すると、「認識論」とは「人間とまわりの世界との関係にしみついた習慣的な思い」であって、哲学上の用語法とは異なる。また、「生存ユニット」とはその中で生物が生き死にする生物と環境からなるまとまった単位を指す。さて、第一部では、分析対象としてアイヌ口承文学を取り上げる際の方法的問題点を2章に分けて論じ、その上で第二部では、アイヌの散文説話ウェペケレ9点を三章にわたって取り上げ、その読解を通じて、アイヌの生きた過去、認識論を抽出している。アイヌの散文説話でかれらが抱えた社会矛盾がどう語られたか、それを和人との関係の認識に絞って分析し、彼らの「生存ユニット」が、カムイ・アイヌ・シサム、すなわち神々・アイヌ・和人の三者から構成されていることを明らかにしている。近代歴史学は、アイヌ・和人それぞれが「生存ユニット」であるとみなし、その二者の間に支配-従属、包摂-抵抗の関係を想定してきたのだが、それはアイヌ自身の認識論とまったく異なっていたという。第三部は、このような知見の上に立って、再び、歴史学の認識論との照合・交渉をはかる。近世の和人史料で御目見、アイヌの口承文学でウイマムと呼ばれたアイヌ-和人関係がそれぞれの中でどのような意味を担っていたかを比較し、二つの認識論が相重なる部分は持ちながら、容易に統合できないものとして持続してきたことを指摘している。終章は、このような解読の上に立って、アイヌ口承文学の内包する可能性を明らかにする。歴史学や民俗学は包摂と抵抗、アイヌの弱者化というメタナラティヴを流布し、それが現実の社会的差別との悪循環を生んできた。しかし、本論文は、口承文学の認識論がアイヌが日本国家という生存ユニットの中で正当な評価と扱いを受ける根拠となりうる可能性を示し、このような語り伝えの受容・継承自体がそれを実現してゆくであろうことを示唆している。

さて、本論文のメリットは、第一に、文字なき民の歴史と交渉する一つの有力な方法を発見したことである。この場合の歴史とは、文献史料によって物理的時空に定位できる「事実」から構成されたものではない。本論文が使った口承文学は、日本史学の扱う和人文献史料と対照すると、その「近世」に相当する時代を舞台とする物語であることは確かであるが、そこで語られている事件は、実在したか否か、確かめることはできない。しかし、口承文学は、同時代に作られ、遺された史料ではないけれども、歴史学者の著述と同じく、後世の人間による歴史解釈として扱うことができる。そして、その認識論は、和人史料による「事実」の収集からは見えない、アイヌの規範的世界像を開示してくれるのである。アイヌの世界に生じた悪は、神々・アイヌ・和人の間にあるべきバランスが、特定の個人ないし新たな産業の出現によって崩されることとして語られる。善人・悪人はアイヌ・和人の両方におり、虐待と援助は和人からの一方的行為でなく、アイヌが和人を助けることもある。アイヌ説話は交易や漁業という和人との関係自体を相互的で肯定的なものとして捉えており、そこに発生した悪はカムイに仕え、その保護を受ける善人によって解決される。このいわば生態学的な認識論は、アイヌの世界にだけ通用するものではなく、和人を含む世界一般について理解し、より良く生きる手だてを提供する可能性を持っている。著者によるアイヌ口承文学のこのような解読は、他の読者の解読を誘発し、アイヌの伝承者と調査者の出会いを起点として生まれた「解釈の共同体」の連鎖を次第に拡げてゆくことであろう。

本論文の第二のメリットは、通常の歴史学が文字なき民の歴史を理解する上で無力なことを明らかにし、その限界を指摘した点にある。従来、アイヌの歴史は、彼らが元々文字を持たなかった故に、和人の遺した史料をのみを材料にして書かれてきた。近年の歴史学界は、和人によるアイヌの差別を真摯に受け止め、それを克服し、「アイヌの視点」に立つ歴史を描こうと努力してきた。一方でアイヌによる和人のアイヌ研究への批判、他方で日本史学界におけるアイヌ研究の軽視と向きあいつつ、徹底的な史料探索を行い、日本近世におけるアイヌ交易や場所請負制漁業における和人のアイヌ搾取、そして近代の日本国家によるアイヌ社会の包摂と抑圧などの事実を見出し、叙述してきたのである。しかしながら、元来は独立し、平和を享受してきた民が、和人との接触を通じて弱者化されてきたというそのメタナラティヴは、和人の悔悟を引き出すことはできても、アイヌ自身が誇りをもって我が歴史と呼べるようなものではない。より根本的には、口承文学から読み取れる彼らの認識論は、和人の歴史学が基準におく支配―従属の二者関係を問題としていなかった。その世界はカムイ・アイヌ・和人の三者からなり、交易と漁業を媒介としたアイヌ-和人関係はそれ自体としては肯定され、その中で生ずる悪も善もアイヌと和人の双方に現れる。つまり、歴史学は和人が遺した史料が注目する支配-従属という認識論に束縛されるがゆえに、アイヌ自身の認識論を捉え損ない、かつそれが持っている豊穣な可能性を排除してきたというのである。

第三のメリットは、文字なき民に限らず、とかく差別・抑圧されがちなマイノリティが差別・抑圧の是正を主張するとき、マジョリティと共有できる論理をいかに見出すかという問題を視野に収めている点である。本論文のごとく、和人歴史学のバイアス、すなわち支配-従属関係への注目を遠景化すると、とかく差別・抑圧の事実を軽視する言説との親和性が生じかねない。日本史学が、和人によって書かれた文献のみを扱うため、和人の政治的・経済的な欲望・関心のみを前景化してきたのは確かである。しかし、それは、事実として存在したことであって、アイヌの認識論を明らかにしても、否定することはできない。著者はこの事実に極めて敏感であって、そのような誤解が生じないよう周到な配慮を加え、むしろ、アイヌの認識論の中から差別・抑圧への抗議を可能とする、より普遍的で共有可能な根拠を見出しているのである。

本論文は、アイヌ口承文学や歴史学の諸文献を深く的確に読み込んでいるだけでなく、現代世界の人類学・文芸批評・哲学の主要業績を、著者の関心に即して広く渉猟し、それらを的確に咀嚼しつつ、批判し、かつ利用している。網羅的ではないにしても、歴史学者の世界にはまず見ることのできない態度であって、無文字社会の歴史という極めて困難な課題に対し、著者が全力を挙げて真摯に立ち向かった姿を如実に示している。先に保苅実はアボリジニの歴史実践を扱った『ラディカル・オーラルヒストリー』を著したが、それを踏まえ、アイヌという異なる社会の特性も十分に弁えた上で、さらに理解を前進させた重要な業績であると言って良いだろう。

無論、本論文にも欠陥がないわけではない。その第一は、データの選択に関わるものである。ウェペケレ全体の中で対和人関係を語るものがごく少数に留まることは所論全体に関わるはずの事実であるが、簡単に注記されるだけで、その意味の考察がなされていない。第二に、先行研究がややぞんざいに扱われている。アイヌ文学研究はこれまでジャンル論に力を注いできたが、本論文はその内包する問題性を一章を割いて克明に批判する一方で、第二部では分析対象をウエペケレというジャンルに絞っている。ジャンル論を批判しつつ、その成果を当然のように利用するのは矛盾ではないだろうか。同様に、歴史学者への態度も厳しすぎるかに思われる。様々な困難を推してアイヌの歴史を明らかにしようとしてきた文献史学者からすれば、その努力が一刀両断に扱われるのは、本論の趣旨の正しさを認めたとしても、不本意なのではないだろうか。

しかしながら、このような瑕疵は、本論文が明晰で一貫した叙述を通じて初めて開示した、アイヌ口承文学の認識論、文献史学批判、そしてマイノリティの権利への新たなアプローチの画期性に比べれば、取るに足りないものである。本審査委員会はこのように判断し、博士(学術)の学位授与にふさわしいものと認定する。

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