学位論文要旨



No 122906
著者(漢字) 蔡,玉娟
著者(英字)
著者(カナ) サイ,ギョクケン
標題(和) 台湾環境法の成立に見る環境問題意識と政策決定様式の果たす役割 : 土壌汚染浄化法の比較法的考察を出発点として
標題(洋)
報告番号 122906
報告番号 甲22906
学位授与日 2007.07.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第206号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,範雄
 東京大学 教授 寺尾,美子
 東京大学 教授 交告,尚史
 東京大学 教授 荒木,尚志
 東京大学 教授 川出,良枝
内容要旨 要旨を表示する

台湾、アメリカそして日本における土壌汚染浄化法を考察した結果により、土壌汚染浄化責任者の規定について、台湾の「土壌及地下水汚染整治法」には、アメリカおよび日本と大きな違いがある。それは、アメリカのスーパーファンド法および日本の「土壌汚染対策法」に、土地所有者も土壌汚染浄化の責任者としているのに対し、台湾の「土壌及地下水汚染整治法」には原則的に土地所有者を排除し、重大な過失のある土地所有者のみ、土壌汚染浄化の責任者としていることである。責任者の範囲を広く規定するアメリカのスーパーファンド法および日本の「土壌汚染対策法」は、土壌汚染浄化業者にビジネスをもたらし、土壌汚染浄化技術の更新に強く推進させる効果をもつため、アメリカのスーパーファンド法および日本の「土壌汚染対策法」における土壌汚染浄化責任者の規定を評価すべきであると考えている。それにも拘らず、なぜ、台湾ではアメリカか日本のように、厳しい土壌汚染浄化責任者規定を取り入れることはできないかという問題を考えるようになった。

その問題の答案を探るため、『Price, Principle, and the Environment』というMark Sagoff氏著の本からヒントを得ていた。彼は、以下の理由に基づき、民主制度を通じ、環境政策を決定すべきであると考えている。第一に、環境に対する意識、環境のあり方に関する判断は、人間の是非善悪および審美的価値とかかわっている。専門家であっても精密なツールでも、個々人の是非善悪および審美的価値を理解あるいは呈示することは到底できない。今日知られている最もよい方法は、民主制度を通じ、社会の構成員に自らの考え方を提出させることである。第二に、民主社会での個々の自由人は、環境に対する考え方がばらばらであるはずなので、政策決定に参加する制度で彼らの提出した意見を競わせ、最終的な合意を求めることには時間がかかり、容易ではない。しかし、その過程でお互いの立場を理解し合うことができ、しかも政策が交渉および協調により達成した合意に基づき決められたものであれば、後日それをめぐる紛争も少ないと考えられる。このように、民主制度の機能は、社会でばらばらになっている個々の自由人の意見を統合させることにある。民主制度によって環境政策を決めることは、コストも高く、効率も悪いと見られるが、後日発生する紛争のコストを考慮に入れると、民主制度によって決められた環境政策のほうが最終的にコストも低く、効率もよい。

Mark Sagoff氏の論説により、台湾では、アメリカか日本のように厳しい土壌汚染浄化責任者規定を取り入れることはできない理由は、アメリカおよび日本と比べて民主制度の発展がまだ未熟なものであることを示しているだろうかと推測していた。

台湾では、行政、立法、司法の三権分立の統治体制が整えている。それにも拘らず、1987年まで、市民がその統治体制にアクセスできるルートが極めて限られていた。さらに、社会秩序を維持することを建前にして、言論、表現、結社など個人の自由を厳しく制限することや政治犯を処分することなど、強力の社会統制も行われていた。しかし、1987年に、個人の自由を制限する「戒厳法」などの法令が無効と宣言された以降、一連の制度改革によって、市民が統治体制にアクセスできるルートも拡大された。例えば、国会議員の全面改選は1992年からスタートした。

台湾では、環境問題を解決するための民主制度が、アメリカおよび日本と比べて未熟なものであると考えられるならば、その理由は、環境法を制定する政策決定様式の変化(ごく少数の一部の人々が決めることからすべての市民が参加して決めることに変化したこと)が、遅くて1987年に発生したことと直結しているだろうかと更に推測していた。Mark Sagoff氏の論説および上述の仮説を検証するため、台湾の社会における市民の環境問題意識および環境法の形成する背景と過程を考察した。

1960年代から、工業化、都市化に伴う汚染や住居環境の悪化および外国の環境保護の思潮を受けたことによって、自らの環境に対する利用の仕方、環境との対処の仕方に関する意識が形成されつつあった。しかし、当時の台湾の社会では、その意識を政策形成の過程に持ち込むルートがごく限られていた。一方的に決められた政策に満足できない市民は、さまざまな制度外の方法をもって、政策決定に参加するルートを拡げようとした。本論文の第六章で行なわれた法の歴史の考察では、人々が何度か制度外の方法をもって政策決定に参加するルートを拡げることに努力したが、成功することはできずに終わったにも拘らず、1987年の解厳によってようやくその目的に辿りづいた。環境問題意識の形成は、1987年の解厳で大きな役割を演じたのではないかと、本論文の第六章と第七章での考察により導かれた結論である。即ち、環境問題はほぼ全ての人間が対処しなければならない問題であるため、環境問題を、解決すべき課題として掲げるならば、他の課題よりも共鳴を引きやすく、政策決定に参加するルートも参加者により自然に打開される。第八章で行った環境法の内容に対する考察の結果により、環境法の成立も、環境問題意識の生成と政策決定様式の変化にもたらされた成果であると考えられる。

本論文の「はじめに」、土壌汚染の浄化に至る要件に環境問題意識を持つことが大事であることを指摘している。しかし、前述でも述べたように、1987年解厳まで、市民の間で社会の問題に向かって自ら意識を形成して解決策を講じることの意志や能力を弱まらせた厳しい社会統制があった故、環境問題意識を生ませる土壌はなかっただろう。台〓安順工場土壌汚染事件の事例で示しているように、台湾では、環境問題をもたらす工業化が少なくとも日本統治期から始まったにも拘らず、市民の間での環境問題意識は遅くも、工業化が進み、環境問題が深刻となった1960年代になってから生成し始めた。環境法も1987年後になって整備されてきた。それは台〓安順工場の土壌汚染の問題が60年間で解決できなかったことおよび台湾ではアメリカか日本のように厳しい土壌汚染浄化責任者の規定を取り入れることはできないことと関係しているだろう。すなわち、台湾での土壌汚染に対する環境問題意識が生成したにも拘らず、それがまだ厳しい規制を支持するほど強くないのではないかと考えられる。

台湾での経験から見ると、政策決定様式の変化、即ち市民参加の拡大と関係している市民の環境問題意識の形成と工業化および社会統制の関係を以下の(表1)とおり整理できるのではないかと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、土壌汚染浄化法についての、台湾、アメリカ合衆国、日本の三国比較を通じて獲得された知見を出発点として、統治機構・政策決定システムのあり方、市民の環境問題意識および環境法の発展の相互関係につき、台湾の経験を通して論じた論文である。

本論文は序論のほか、8つの章からなる。

序論においては、近年、台湾の台南市でなされた、日本統治期の日本鐘淵曹達株式会社の化学工場操業に遡る土壌汚染の発見とそれに対する法的対応を含む台湾社会の取組の描写を通じて、本論文への導入が図られている。

第一章では、2000年に成立をみた台湾の土壌汚染浄化法である土壌及地下水汚染整治法が紹介され、土地所有者の浄化責任を、「重大な過失」があった場合に限定している点等、台湾の法制度の特徴が分析されている。また、既にこの法律適用が争われた訴訟事件は複数件存在し、それらが紹介・分析されている。

第二章では、アメリカの土壌汚染浄化法が、これに関連する法制度とともに紹介・分析されている。制定法に先行し、また制定法を補完する、判例法であるコモン・ローの環境保護関連の判例法理や、因果関係論など環境問題への救済を容易にする判例法理が考察される。ついで、アメリカにおける土壌汚染浄化のための主役である連邦の制定法RCRA(The Resource Conservation and Recovery Act)およびわが国では「スーパーファンド法」として知られている CERCLA(Comprehensive Environmental Response, Compensation and Liability Act)が考察され、最後に、多くの環境保護関連制定法中に規定されている、市民であれば「だれでも」法の不執行を争うことができると定める市民訴訟制度が紹介されている。

第三章では 日本の土壌汚染浄化法制が考察される。この章では、土壌汚染対策法制定の経緯が考察されるとともに、台湾の法制と異なり、土地所有者に浄化責任を負わせる日本の法制が、土地取引市場や不動産業界等に及ぼした影響が考察され、こうした厳しい責任の定めの影響を受け、土壌汚染対策技術や土壌汚染対策ビジネスが発達していったことが論じられている。更に、日台の環境汚染基準および訴訟件数の比較を通して、両国の規制基準間にその厳しさの点において大きな違いがないのにもかかわらず、台湾において訴訟件数が多い理由は、汚染浄化技術の情報公開度の違いを踏まえた浄化コストと訴訟に訴えた場合のコストを比較することで説明できるのではないかという指摘がなされている。

第四章では、台湾における土壌汚染浄化法の最大の弱点として、汚染者ではない土地所有者の浄化責任が「重大な過失」のある場合に限定されている問題が取り上げられ、それが土壌汚染浄化という立法目的の達成との関係で大きな障害となっていることが分析されている。そして環境問題の解決との関係で討議型民主主義に依拠した政策決定様式のもつ優位性を論じたMark Sagoffの著書 『Price, Principle, and the Environment』における議論の考察に依拠しながら、論文前半の各論的考察から、論文後半の台湾における環境法の成立と台湾における統治機構および政策決定様式の変化の考察への橋渡しがなされる。

第五章では、市民の政治参加、市民が政策決定過程に直接働きかけを行う道がどれだけありえたのかという視点から、日本統治期および中華民国成立から戒厳令が解除される1987年までの台湾の統治機構のあり方が諸種の方面から分析されている。また、この時代に発生した環境問題に対し、市民が制度外の方法により問題解決を試み、その目的を果たすことができなかった事例の紹介も行われている。

第六章および第七章では、1987年に戒厳令が解除された後の変化が扱われている。第六章では、民主化の最も端的な現れとしての各種の選挙(立法院、大統領、地方選挙)における環境問題の重要性が選挙データを基に実証される。また、直接投票制度導入の影響や、民主化が市民団体の飛躍的増加をもたらしたこと、この変化は環境保護分野において顕著であったことが考察されている。続く第七章では、こうした変化が、環境法分野における政策決定様式にどのような変化をもたらしたかが論じられている。これらの考察を通じ、台湾の民主化を推し進める過程で、1980年代に入って各地での環境問題が政治問題化し、環境保護運動が急速に進んだことが大きな役割を果たした点が指摘されるとともに、環境保護問題への取組が、民主化を契機として、政策決定様式の変化を媒介として進展していった過程が分析されている。

第八章では、第六章、第七章で明らかにされたような変化を通じて、台湾の環境法制がどのよう形で整備され、環境法の成立と呼べるような変化をもたらしたかが描かれている。まず1987年には、アメリカのEPAや日本の環境省に当たる環境保護署が創設され、これを承けて、環境基本法、環境影響評価法、土壌及地下水汚染浄化法、公害紛争処理法等が制定されたのみならず、既存の空気汚染防止法や水汚染防止法の規制基準も引き上げられた。また、民法規定も、環境被害者の挙証責任を軽減する方向で修正され、刑事法にも環境汚染者の刑事責任を定める規定が挿入された。さらに、2000年には、市民に環境行政法の実現を求める権利を認める市民訴訟制度の導入も行われた。

以上が、本論文の要旨である。

本論文の長所としては、次の点が挙げられる。

第一に、環境法という新しい研究分野において、前半の各論部分で土壌汚染浄化法制度の具体的な分析を行った上で、これを後半の総論部分において、環境保護法制の発達と民主制との関係という、極めて大きなテーマと結びつけるというダイナミックな課題設定を行い、これに果敢にチャレンジした意欲的な研究であることが挙げられる。

第二に、台湾、アメリカ合衆国、日本の土壌汚染浄化法の3カ国比較が行われており、土壌汚染という環境問題に対する法的取組における3カ国の特徴がそれぞれの国の制度の背景をなしている諸要素も考察の対象としながら、丁寧に分析・考察されている点が挙げられる。著者にとって外国語、外国法であるアメリカと日本の土壌汚染浄化を台湾との比較の視座でとらえ、相当にこなれた日本語で表現したことも高く評価すべきである。

第三に、台湾における工業化の進展が環境問題の深刻化と市民の環境問題意識を生み出し、それが民主化要求の推進力となったとともに、民主化が政策決定の行われ方─政策決定様式─を変化させ、台湾における環境保護法制を大きく進展させていった過程について、様々な角度からの分析が展開されている点が挙げられる。かつ、そこで得られた知見は、論文前半で展開された台湾・アメリカ・日本の三カ国比較により得られた知見と合わさることで、民主化と環境保護法制の発展とが有する有機的関係につき、台湾一国に留まらない普遍性をもった知見を得ることにある程度成功していると言える。

もとより、本論文にも、短所がないわけではない。

第一に、法制度と政治制度の関係を考察することをテーマとして設定している論文であるが、それぞれの対象につき正確で客観的な考察を展開しようとする論述スタイルがとられ自らの主張を積極的に展開することに謙抑的であるため、記述が静態的になる傾向がある。そのため、両者の関係を動態的に結びつけ、論文が明らかにしようとしている法制度と政治制度との関係のダイナミズムを理解するために、読者の側で努力することが必要となっている面がある。

第二に、民主制と環境保護とは、本論文が主張するように、親和的である側面もある反面、それが背馳の関係にある側面もあるが、その点についての議論の備えが不十分であることが挙げられる。

本論文には、このような問題点がないわけではないが、これらは、長所として述べた本論文の価値を大きく損なうものではない。以上から、本論文の著者が自立した研究者あるいはその他の高度の専門的な業務に従事するに必要な高度な研究能力およびその基礎となる豊かな学識を備えていることは明らかであり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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