学位論文要旨



No 122911
著者(漢字) 亀谷,聡一郎
著者(英字)
著者(カナ) カメタニ,ソウイチロウ
標題(和) 核子対あたり200GeVでの重陽子・金衝突におけるJ/ψ中間子生成量の測定
標題(洋) Measurement of J/ψ Yield in dtAu collisions at = 200GeV
報告番号 122911
報告番号 甲22911
学位授与日 2007.07.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5079号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 櫻井,博儀
 東京大学 教授 下浦,享
 東京大学 教授 永江,知文
 東京大学 教授 坂本,宏
 東京大学 教授 松井,哲男
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、核子対あたりの重心エネルギー(以降、SNN)200GeVでの重陽子・金衝突においてJ/ψを電子対崩壊チャネルにおいて測定し、通常状態におけるJ/ψ生成の原子核効果を研究したものである。

現在のところ物質の最小構成要素として考えられているクォークとグルーオンは、通常の状態ではハドロン中に閉じ込められており、単体では存在しない。しかしながら、格子量子色力学の計算によれば、系のエネルギー密度が2GeV/fm3程度に達すると、閉じ込めから開放された系、クォーク・グルーオン・プラズマ(QGP)へと相転移すると予言されている。実験的には、高エネルギー重イオン衝突により高温高密度状態を生成することで、QGP状態の検証が可能であうと考えられている。BNLのRHICでは、SNN=200GeVで衝突させることが可能である。RHICによって実現されるエネルギー密度は10-20GeV/fm3に達すると予想されており、QGP生成の決定的な証拠が得られると期待されている。

QGP生成を示すシグナルの一つとしてJ/ψ中間子の収量抑制が理論的に予言されている。QGP中においては、Debye効果によりチャームクォークが反チャームクォークに対して力を及ぼすことのできる距離λDは系の温度の上昇に伴い小さくなっていく。系の温度が上昇しλDがJ/ψにおけるチャーム反チャーム間の距離よりも小さくなったとき、J /ψは束縛状態を維持できずに崩壊する。その結果、J /ψの収量は減ることになる。J /ψの収量抑制はハドロンによる閉じこめが破れていることを直接的に示す現象であるため、RHICにおける実験の一つであるPHENIX実験においてはJ /ψの生成量測定は最重要課題の一つになっている。

原子核衝突では、J /ψは衝突初期の入射核子と標的核子によるハード散乱で生成されるため、一回の原子核衝突で生成されるJ /ψの数はその原子核衝突における刑V衝突の回数凡。πに比例することになる。しかしながら、原子核衝突内での個々の核子核子衝突(以降、NN)におけるJ /ψの収量は、QGPが生成されない場合でも、陽子陽子衝突から変化することが知られている。そのため、金原子核衝突のみでQGPの生成を確認することはできない。こうした原子核効果には二つの過程があることが知られている

一つ目は、J/ψを構成するチャームクォークの初期生成量の変化である。チャーム反チャーム対は入射および標的原子核中のパートン同士の相互作用によって生成される。CERN-EMC実験の結果などに見られるように、原子核中における核子のパートン分布関数は核子単体のそれとは異なる。結果として、単体での陽子陽子衝突に比べて原子核衝突での刑V衝突におけるチャーム反チャーム対の生成量は変化する。

もう一つの過程は、衝突最終段階における入射ないし標的原子核によるJ /ψの原子核吸収と呼ばれる過程である。吸収に寄与する主な過程は、J /ψが標的原子核中の核子と衝突しD中間子および反D中間子に分解される反応である。吸収過程に対するJ/ψの生存確率はe(ーLρ0σabc)と表すことができる。ここで、Lは生成されたJ/ψが原子核外に出るまでの実効的な距離ρoは核密度、σabcは吸収断面積である。

これらの原子核効果に関する測定はCERN-SPSにおけるNA38/50/51共同研究(SNN=17-29GeV)およびFNAL-TevatronにおけるE866共同研究(SNN =39GeV)等、RHICよりも低い衝突エネルギー領域での陽子・原子核衝突実験によって行われてきた。しかしながら、これらの実験で得られた測定結果に対し行われてきた理論的考察には統一見解がなく、RHICの衝突エネルギーでの振舞が必ずしもよくわからないので、実験的に確かめる必要がある。RHICではSNN=200GeVにおける通常状態での原子核効果を検証するため、2003年1.月から3月にかけ、重陽子と金原子核による衝突を行った。NA50やE866は固定標的実験であるが、RHICでの実験は衝突実験である、そのため衝突を正面衝突に近づけるため、入射原子核として重陽子を用いている。著者はPHENIX実験において電子対測定を行い、中間ラピディティ領域(-0.5

電子対測定にはPHENIX検出器のBeam-Beam Counter(BBC)およびCentral armを使用した。BBCは前・後方領域に設置されており、前方と後方のBBCに対して衝突点から粒子が到達する時間の差から、衝突位置が決定される。粒子の飛跡はCentral armのDrift Chamber(DC)およびPad Chamber(PC)によって検出される。衝突点からDCまではビーム軸方向に磁場がかかっており、粒子の飛跡から運動量が決定される。陽子、K中間子、π中間子を用いて運動量の分解能を評価したところ、電子に対する分解能として

δp/p〓1.37×10-2×p[GeV/c]十0.29×10-2

が得られた。

電子識別にはCentral armのリングイメージングチェレンコフ検出器(RICH)ならびに電磁カロリーメータ(EMC)が用いられた。PHENIXのRICH検出器は電子とπ中間子を運動量5GeV/c以下で識別することが可能である。EMCによる電子識別では、電子とそれ以外の荷電粒子がEMCに残すエネルギーの違いを利用して電子を識別している。RICHとEMCの両方を用いた場合、1GeV/cの電子に対し検出効率は86%で、同じ運動量のハドロンによるバックグラウンドを1700分の1にすることができる

衝突ごとに、検出されたすべての電子と陽電子の組み合わせについて不変質量mを計算し、その分布を作成した。中性π中間子のDaliz崩壊あるいは外部変換に起因するバックグラウンドは事象混合法を用い除去した。最終的に質量2.52

重陽子・金衝突実験で得られたJ/ψの収量〓と、陽子陽子衝突におけるJ/ψの収量〓との比RdAu=〓によって収量変化の考察を行った。ここでNcollは原子核衝突におけるNN衝突の数であり、Glauber模型による計算から、一回の重陽子・金衝突におけるその平均は4.69と見積もられる。2003年4月からRHIC-PHENIXで行われた陽子陽子衝突実験において測定されたJ/ψの収量を用いてRdAuはRdAu=0.80±0.10(8stat.)±0.09(sys.)と求められた

J/ψ生成に関与した標的側のパートンが核子に対して担う運動量比x2と生成されたJノψのラピディティyとはx2=〓で関連づけられている(mTはJ/ψの横質量)。従ってパートン分布関数に起因する収量変化はJ /ψのラピディティに依存する。PHENIXではミュオン対測定による前方および後方ラピディティ領域(1.2<|y|2.4)のJ /ψ測定も行われており、このラピディティ領域で得られたRdAuを採り入れることでパートン分布の変化に対するJ/ψの収量変化を考察した。図1に、電子対崩壊チャネルおよびミュオン対崩壊チャネルの各ラピディティ領域に対し測定されたRdAuを示す。図1に実線で示されているのはEskolaらが予想した原子核内パートン分布関数を用いて計算された原子核内パートン分布の効果によるRdAuである。計算された値は実験値の傾向を再現している

また、RdAuから初期生成に関する原子核効果を差し引くことで吸収断面積を求めた。J/ψが原子核内を移動する実効的な距離Lは、Glauber模型による計算により4.36fmと求まる。吸収過程がラピディティに依存しないとし、Eskolaらが予想した原子核内パートン分布関数を用いた場合、式(1)より、吸収断面積は

σαbc=1.0±0.7mb

と求まる。Frankfurtらが予想した原子核内パートン分布関数を用いた場合、吸収断面積は

σαbc=0.1土0.7mb

と求まる。

求められた吸収断面積の中心値はいずれもNA50実験やE866実験で得られたE866実験で得られた値(σabc=3-5mb)よりも小さい。RHICのエネルギーで吸収断面積が小さくなることは、入射核子と二つの標的核子にわたるグルーオンの反応によってJ/ψの初期生成量が増加しているという描像、あるいはLandau-Migdal-Pomeranchuk効果によってグルーオンとJ/ψの反応が減少しているという描像によって説明することができる。これらの描像に対しては今後標的あるいは衝突エネルギーを変更した実験を行うことでより深い考察を行うことができると期待される。

本研究により得られた結果は、今後のRHICにおけるQGP検証のための基礎データとして重要な役割を果たしていくと考えられる。

図1:陽子陽子衝突におけるJ/ψの収量に対する、重陽子金原子核衝突時の核子間衝突あたりのJ/ψの収量の比RdAu。電子対崩壊チャネル測定による中央ラピディティ領域のJ/ψに対するRdAuが丸い点で、ミュオン対崩壊チャネル測定による前方および後方ラピディティ領域のJ/ψに対するRdAuが四角い点でそれぞれ示されている。Eskolaらの予想したパートン分布関数による理論的なRdAuが実線でしめされている。破線、点線はさらに吸収断面積が1mbないし3mbであるときの吸収過程を含めたRdAuである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、7章からなり、第1章の序文に続き、第2章では本論文の物理的背景が述べられており、クォーク・グルーオン・プラズマ(QGP)相でのJ/ψ中間子生成量抑制問題に関する理論的・実験的な背景がまとめられている。第3章では、本研究で用いた、ブルックヘブン国立研究所・相対論的重イオン衝突加速器RHICの構成と概要、PHENIX実験の装置概要と検出器群・回路系の詳細が述べられている。第( )4章では、データ量等の具体的な実験条件が示されている。第5章ではデータ解析に関する詳しい記述があり、最終的な測定量である、重陽子・金衝突でのJ/ψ中間子生成量を導出する方法、検出効率、系統誤差について定量的な議論を展開している。これら第3章から第5章の3章が本論文の中心である。第6章では、本研究で得られた実験値と従来の実験値・理論値との比較、ならびに今後の実験手法に対する展望が議論・考察され、第7章では結論が述べられている。この他、付録として、PHENIX実験で測定された重陽子・金衝突での中心衝突度、PHENIX実験で測定された陽子・陽子衝突のデータ解析、PHENIX実験のミューオン検出装置のデータ解析、事象混合法について収録されている。

本論文は、原子核物理学で問題となっている、高温・高密度核物質に現れる新しい相状態に関連した実験研究である。核子や中間子といった強い相互作用をする粒子「ハドロン」は、クォークとグルーオンで構成されており、クォークとグルーオンのダイナミクスを記述する理論的枠組みとして量子色力学(QCD)がある。QCDによれば核物質の核子密度、温度を上げていくと、ハドロンの自由度が支配するハドロン相から、クォーク・グルーオンが自由に動き回る新たな相「クォーク・グルーオン・プラズマ(QGP)相」に相転移すると予想している。実験的にQGP相を生成する試みは重イオン同士の衝突実験によって行われており、米国・ブルックヘブン研究所の相対論的重イオン衝突加速器RHICでは核子あたり100GeVでの金原子核同士の衝突によって高温状態の核物質を生成し、QGP生成の決定的な証拠が得られると期待されている。

QGP相を実験的に捉えるための様々な観測量や現象が理論的に提案されているが、その中でも最も期待されている現象は、J/ψ中間子生成量の抑制現象である。J/ψ中間子はチャームクォークと反チャームクォークにより構成されているが、QGP相で"色'電荷のデバイ遮蔽が起こると、クォーク・反クォーク対がJ/ψ中間子となる確率が小さくなり、最終的にJ/ψ中間子の生成量が抑制される。一方で、J/ψ中間子生成の抑制現象を実験的に確立するためにはQGPが生成されない場合でのJ/ψ中間子生成量を予想し、実験データとの比較を行う必要がある。原子核同士の衝突での粒子生成過程は、様々な原子核効果のために核子核子衝突の単純な重ね合わせでは記述できないことが知られている。すなわち、原子核効果の寄与を詳細に調べなければ、QGPが生成されない場合のJ/ψ中間子生成量を正確に見積もることはできない。

原子核効果の寄与を調べるため、論文提出者らは重陽子・金衝突実験を行い、J/ψ中間子生成量を測定した。J/ψ中間子が崩壊する際に放出される電子・陽電子対を、PHENIX実験装置で測定し、J/ψ中間子の生成断面積、およびその縦速度依存性や横運動量依存性などを調べた,衝突初期に生成したJ/ψ中間子が金核内を進む際に吸収される確率は、理論計算との比較をすることで得られ、またその値は、RHICよりもエネルギーの低いデータと比べて小さいことがわかった。

この実験事実については現在二つの解釈がある。ひとつは、吸収確率は従来と同じ程度だとすると衝突初期でのJ/ψ中間子生成量が原子核効果によって増えるという説明である。もうひとつは、エネルギーの増大とともにJ/ψ中間子とグルーオン問の相互作用が小さくなり、吸収確率が減少する、という解釈である。この問題に対するより詳細な議論を行うためには、金だけでなく他の原子核で実験をおこない、原子核の大きさ依存性・ビームエネルギー依存性に関するデータを取得する必要がある、と論文で結んでいる。

以上の成果はQGP探査を行うための基礎的かつ重要な情報であり、すでに2006年1月のPhysical Review Letters誌に掲載されている

なお、本論文は共同研究であるが、論文提出者が主体となって、電子識別に不可欠なRICH検出器の回路系の開発、エネルギー・位置情報の校正、解析手法の開発などハード面での貢献とともに、重陽子・金衝突でのJ/ψ中間子生成量の決定に関わる詳細な解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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