学位論文要旨



No 122913
著者(漢字) 門林,岳史
著者(英字)
著者(カナ) カドバヤシ,タケシ
標題(和) メディアの発見 : マーシャル・マクルーハンの方法
標題(洋)
報告番号 122913
報告番号 甲22913
学位授与日 2007.07.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第761号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 田中,純
 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 佐藤,良明
 東京大学 教授 内野,儀
 東京大学 准教授 水越,伸
内容要旨 要旨を表示する

1960年代に活躍したメディア論者マーシャル・マクルーハン(1911-1980)は、メディアが社会にもたらす影響を力説し、メディア論に先駆的な貢献を果たした人物として知られている。その一方で、その後の学術的なメディア研究の文脈では、彼はユートピア的で反動的な技術決定論者として繰り返し批判にさらされてきた。すなわち、メディアによる人間の感覚の変容を説くマクルーハンの議論は、社会の変化が技術によって一元的に規定されていると捉える技術決定論であり、メディアが技術的な要因のみならず、政治や経済、文化など様々な要因に複合的に規定されながら社会のなかで構築され、様々な可能性に向かって開かれている側面を見落としている、と批判されてきたのである。しかしながら、構築主義の観点からなされるそうした批判にもかかわらず、透明な伝達チャンネルとしての技術に一元的に還元されない不透明な媒介物としてのメディアに向けての想像力が、60年代にマクルーハンが浴びた脚光とともに切り開かれたことも事実である。「メディアはメッセージである」というマクルーハンの有名なアフォリズムが雄弁に訴えていることとは、メディアにおいて問題なのは、メディアによって伝達される内容ではなく、内容を枠づけるメディアの形式そのものである、ということであった。ここに見られるのは考察の水準をメタレベルへと引き上げる態度変更であり、マクルーハンという名とともに歴史に記録されるこうした認識論的な転位によって、「メディア」という存在をそれ自体対象とする研究領域がそもそもその可能性において切り開かれたと捉えることもできるのである。

マクルーハンはどのようにして「メディア」という対象を発見したのだろうか。メディア論を条件づけるこの問いに、本研究はマクルーハンに固有の「方法」に着目することで答えようとする。このような問題構成には、マクルーハンのテクストを整然とした理論へと還元することによっては答えられない。それはマクルーハン独特の言語使用と不可分であり、また、それが受容されたコンテクストと切り離せないのである。そうした問題の所在を明らかにするべく、序論「マクルーハンの言語ゲーム--ホワッチャドゥーイン・マーシャル・マクルーハン?」は、60年代のマクルーハンをめぐる状況を辿るとともに、そうした状況のなかでマクルーハンのテクストが持ったパフォーマティヴな性格を際立たせる。続く本論は、マクルーハンのテクストの厳密な読解によって彼の方法を理論的に抽出するとともに(第一部)、それをその背後にある知的伝統のうちに位置づけ(第二部)、さらに戦後アメリカの社会的、文化的状況のうちに差し戻す(第三部)ことで、上述の問題を究明するものである。

第一部「感性論者マクルーハン--理論的読解」は、マクルーハンの二つの主著『グーテンベルクの銀河系』(1962)と『メディアの理解』(1964)の体系的な読解により、脱構築的にマクルーハンのメディア論の方法を浮かび上がらせることを試みる。まず第一章「芸術家になること--マクルーハンの理論と方法」は、『メディアの理解』を厳密に読解し、理論的に再構築するとともに、そうした理論の可能性の条件そのものを突き止めようとする。とりわけ着目するのは、マクルーハンが好んで用いたプローブと呼ばれる短文形式がテクスト戦略として持っている効果である。そうしたマクルーハンの叙述方法は、マクルーハンのテクストを理論として理解することを可能にするとともに、マクルーハンのテクストが書かれる方法そのものも構成している。本章の主題は、そうした理論と方法の不可分な共犯関係であり、そのような理論=方法をその構成的な起源において可能にする形象としての「芸術家」にマクルーハンのテクストの真に批評的=危機的(クリティカル)な契機が求められることになる。

続く第二章「触覚、この余計なもの---共感覚と麻酔」は、マクルーハンにおける「触覚」という形象に注目する。メディアを人間の感覚の拡張と定義するマクルーハンのメディア史観は、アルファベット、活版印刷技術の二つの技術に牽引されて支配的な感覚器官が聴覚から視覚へと推移していく過程として理解することができる。しかし、例えば口承文化がしばしば「聴覚=触覚的」と形容されるように、この視覚/聴覚の修辞的な二項対立は、触覚という余計な感覚によって不安定にさせられている。本章はマクルーハンにおける触覚のメタファーを二つの歴史的な系譜に辿り、それらから抽出される「共感覚、諸感覚の統合作用」と「視覚的な体制から阻まれたもの、視覚的無意識」という触覚の二つの規定性のあいだでそれを読み解くことにより、マクルーハンにおける美学=感性論(エステティクス)が「共感覚(synaesthesia)」と「麻酔(anesthesia)」という高次の二項対立の緊張関係のもとにあることを明らかにする。

次に第二部「美学者マクルーハン---系譜的読解」は、ニュー・クリティシズムの創始者I・A・リチャードに師事し、40年代から50年代にかけてT・S・エリオットやジェイムズ・ジョイスといったモダニズムの作家についての論文を数多く発表していたマクルーハンの初期の文学批評家としての活動を取り上げる。そうすることで、文学批評の方法がメディアの理論へと転位するさまを跡づけることが目的である。まず、第三章「「意識の流れ」の制止---感性論的モダニズム」は、マクルーハンが傾倒していたモダニズムの文学の背後にある美学=感性論(エステティクス)的認識を明らかにし、その文脈のなかでマクルーハンの初期テクストを読解する。とりわけ着目するのは、モダニズムの文学において言語表現の問題として浮上する「感性の分離」や「意識の流れ」といったモティーフをマクルーハンが人間の認識過程とのアナロジーによって捉えていた側面である。そうしたマクルーハンの感性論的な文学論が、メディアを感覚器官の拡張として捉える感性論的なメディア論とどのように関わっているのかが論じられる。

第四章「生体解剖的美と探偵的知---ジョイスを読むマクルーハン」も引き続き、初期マクルーハンの文学批評における感性論的なモティーフを取り上げる。ここでとりわけ対象とするのは、マクルーハンのジョイス論「ジョイス、アクィナス、詩的過程」(1951)と、それが読解の対象としているジョイスの小説『スティーヴン・ヒーロー』である。この小説は、主人公スティーヴン・ディーダラスが起草している美の理論をめぐって展開される。芸術家による美の把握=創造の過程についてのこの理論を読解するマクルーハンの手つきを検討するなかで、とりわけ着目するのはマクルーハンが際立たせる「生体解剖」と「探偵」という形象である。こうした形象のもとに理解される、認識の過程と創作の過程が制止した瞬間のうちに折り畳まれた極めて知的で分析的な過程としての美の把握のあり方が、のちになってマクルーハン自身がメディアに向きあう態度の範例を与えていることが示される。

マクルーハンの理論的読解からその方法を取り出す第一部、文学批評の方法がメディアの理論へ転位していく過程を描く第二部の作業を受けて、最後に第三部「芸術家マクルーハン――時代的読解」は、再びマクルーハンのテクストを同時代のコンテクストに差し戻す。ここでの試みは、マクルーハンの理論と方法が切り結ぶさま、そのねじれを、テクストの歴史性のうちに読み解くことである。まず、第五章「メディアの幼年期――テレビと戦後アメリカ」は、戦後アメリカの社会的変容という文脈のなかで、急速に普及したテレビというメディアについてのマクルーハンの議論を読解する。同時代におけるメディア環境の変容に機械時代の終焉と新たな電気時代の到来を見たマクルーハンは、テレビを電気時代の到来を告げる最も重要なメディアと見なしていた。本章は、マクルーハンが触覚的でモザイク的であると考えたテレビという形象が、メディアがその初期の段階で持つ可塑的な性質の象徴に他ならないことを明らかにするとともに、それを同時代のポピュラー・カルチャーの台頭のなかで生じつつあった価値の転倒のうちに関連づける。

第六章「クールの変容--プローブすること」も引き続き、戦後アメリカ文化における価値の変容という文脈のなかでマクルーハンのテクストを読解する。ここで取り上げるのは、「クールなメディア」と「ホットなメディア」というよく知られた対概念であり、それを1950年代に「クール」という語が日常的な表現において被った意味内容の転倒との関わりにおいて考察する。そのなかで明らかにされるのは、「クール」という言葉が同時代に持った重層的な意味規定のなかにマクルーハンのテクスト戦略が織り込まれていることである。そうした観点から、「クール」という言葉が、単に「ホット」との対でメディアを弁別するカテゴリーであるだけでなく、マクルーハンの方法をパフォーマティヴに発動させる契機を持っていることが示される。

最後に結論「四角形の冒険――図式のパフォーマティヴ」は、以上で三つのアプローチから考察してきたマクルーハンの方法を振り返り、死後に出版された『メディアの法則』(1988)における、以前の仕事を理論的に再構築しようとするマクルーハンの試みとの関連から再考する。とりわけ、この著作でマクルーハンが定式化する「テトラッド(四つ組)」と呼ばれるダイアグラムに着目し、それを構造主義者たちが用いたクライン群という同じく四角形で図式化される数学的構造と比較することで、マクルーハンの図式がそれ自体方法として持つパフォーマティヴな効果を明らかにする。

審査要旨 要旨を表示する

門林岳史氏の博士論文「メディアの発見-マーシャル・マクルーハンの方法」は、1960年代に活躍したメディア論者マーシャル・マクルーハンの言説における独特な言語使用という「方法」とその背景をなす歴史的コンテクストを分析し、「メディア」という研究対象が発見されるにいたる諸条件を考察した論考である。

この論文は、序論における問題設定ののち、第一部「感性論者マクルーハン」、第二部「美学者マクルーハン」、第三部「芸術家マクルーハン」という三部六章にわたる議論を承けて、結論が提示されるという構成をとっている。第一部ではマクルーハンのテクストの理論的読解、第二部ではそれが根ざす知的伝統をめぐる系譜的読解、第三部では戦後アメリカの社会・文化的状況についての時代的読解が展開される。

まず序論で示されるのは、「メディア」の発見という出来事を可能にした条件を問うためには、マクルーハンのテクストが有したパフォーマティヴな性格こそを問題にすべきであるという、本論文の基本的な分析視角である。第一部第一章「芸術家になること」はこの問題設定のもと、マクルーハンの主著のひとつ『メディアの理解』の精読を通じ、「メディアはメッセージである」をはじめとする、マクルーハンが好んで用いたアフォリズム的短文形式「プローブ」の戦略的効果を分析している。門林氏はこのプローブのなかに、メディア的変容を「読む」マクルーハンの方法を読み取り、そのような方法と理論の結節点となる形象が、マクルーハンにとっては「芸術家」であったことを突き止めてゆく。続く第二章は、メディアを「人間の拡張」ととらえるマクルーハンの思想を「感性論的メディア論」として把握し、視覚と聴覚の二項対立によって組織されているかに見えるその立論が、実際には触覚という「余計なもの」によって不安定にさせられている点に注目する。そして、触覚をめぐる感性論的言説の系譜をたどることにより、それまでは「共感覚」と「視覚的無意識」という二様の規定が別個になされてきた触覚が、マクルーハンの場合には「共感覚」と「麻酔」という二項対立の緊張関係をなしていたことが解明される。以上、第一部については、プローブを中心とした言説の細部に集中する分析のスタイルが論旨をたどりにくくしているとの批判もあったが、徹底した精読によってマクルーハンのテクストの形式的特徴を析出するとともに、触覚を媒介として編成される「共感覚」と「麻酔」という、マクルーハン理論にとってより根源的な二項対立をあぶり出してゆく門林氏の緻密な論理展開は高く評価された。

第二部は、芸術家という形象と感性論という第一部の問題設定を承け、マクルーハンの初期文芸批評について考察している。その前半をなす第三章は、「意識の流れ」をはじめとするモダニズム文学の言語表現のなかに、マクルーハンが人間の認識過程それ自体のアナロジーを見ていた点に着目し、こうした美学=感性論的な文学論の延長線上に、のちの「メディアの発見」とメディア論の構想が位置づけられてゆく。そこで門林氏が明らかにするのは、「意識の流れ」の無意識的過程を制止させ、意識的な分析の対象とする思考の運動に、マクルーハンが科学的分析特有の構造を見ていた点である。第四章は、ジェイムス・ジョイスの『スティーヴン・ヒーロー』をめぐるマクルーハンの分析を取り上げ、そこではこのような科学的分析の構造が「生体解剖的」かつ「探偵的」なものとして把握されていたことを解明している。トマス・アクィナスを引いてジョイスが展開する議論では、芸術家による美の認識の過程と美の創造の過程とは、アクィナスの言う「顕現」の瞬間に重なり合っており、そこに「精神の生体解剖」という形象が見出されている。こうした生体解剖的な美の把握と厳密に一致する構造を、マクルーハンはエドガー・アラン・ポーにおけるような「探偵的な知」に見ていた、と門林氏は論じる。そして、この構造はマクルーハンによるメディア論の方法を原型的に示すものにほかならないと指摘される。アクィナスを読むジョイスを読むマクルーハンという重層化した読解の枠組みを丹念に解きほぐし、手際よく再構成したこの第二部の論述は、メディア論前史と言うべき初期マクルーハンの理論と方法を明快に論じて、本論文中でもとりわけ生彩を放つものと評価された。

第三部第五章では、マクルーハンによるメディア論の歴史性がテレビをめぐる分析のなかに探られてゆく。そこで門林氏は「メディアの幼年期」という概念を提起し、マクルーハンのテクストを、幼年期にあったテレビ特有の性格をめぐる考察としてとらえている。そして、そのような性格こそがメディアの発見を促した要素でもあったことが明らかにされる。第六章では、「クール」という語が1960年代アメリカで被った意味の転倒を背景に、同時代におけるマクルーハンのテクスト戦略が位置づけられ、重層決定されたこの語の意味作用ゆえに引き起こされる過剰解釈の可能性が、マクルーハン自身がメディアを論じる方法にも対応していたことが示される。この第三部に関しては審査委員から、時代状況の理解が十分ではなく、第六章は「クール」をめぐる議論だけに過度に単純化しているのではないか、といった批判的指摘があった。また、マクルーハンがテレビを論じた1950年代には、テレビはすでにいわば中年期にあったし、マクルーハンと一般大衆のテレビ受容とのタイムラグにも配慮すべきではないか、との意見も出された。テレビについては、あくまで社会への浸透過程に注目した立論であり、また、第六章の論述も「クール」に関しては幅広い検証をおこなっているとはいえ、多くの審査委員の見解として、第一部、第二部に比して、第三部の記述に厚みが欠けていることは否めず、時代状況へのより周到な目配りが必要とされたところであろう。今後のさらなる調査と分析が期待される。

結論で門林氏は、マクルーハンの死後出版された『メディアの方法』で提示された「テトラッド(四つ組)」のダイアグラムを、構造主義におけるクライン群の利用との比較を通じて、マクルーハンの発見法的な「方法」のひとつとして読み解いてゆく。この結論部に関しては、マクルーハンの方法を外部からとらえ直すためのパースペクティヴを与えるものと位置づけられているが、先行する論述を総合するのではなく、別の主題を立てて「結論」とする構成の妥当性には、審査委員から疑問も表明された。また、末尾でごく手短かに触れられるにとどまっている、マクルーハンによる芸術家的実践のひとつと言えるニューズレター、『マクルーハン・デューライン』のより徹底した分析の必要性も指摘された。この結論部は、プローブをはじめとするマクルーハンの方法に、トランプ・ゲームに似た偶然がもたらす異化効果を見出すことで終わっており、本論文全体の緻密な読解に比して、結論としての物足りなさが残る点は否定できないとの評もあった。しかしながら、構造主義とマクルーハン理論との通底性を浮き彫りにした成果は高く評価されるべきものであるし、第三部までの議論において明らかにされたマクルーハンの方法を異なる視点から提示して、それを同時代の他の思想動向と関係づけたことにより、本論文をより大きな思想史的コンテクストにおける生産的な議論へと向けて開いている点の価値は疑いない。考察の余地をなお残すとしても、マクルーハンと構造主義の比較は先駆的な着眼点を含んでおり、思想史への貢献は大きいと評価される。

常套句化しかねないプローブの潜勢力を汲み尽くそうとする本論文の論述は、細部の解釈について詳細を極めつつ、多岐にわたる関連事項への迂回的考察を重ねた果てに、同じプローブの同語反復によって、いわば再発見されたプローブをもう一度、あらたなかたちで上演するかのような構造をとっている。その周到な迂回法のせいで、註が本文中に入っているような印象がある、といった意見とともに、マクルーハン自身についても、必ずしも網羅的ではなく、限定されたテクストの一部しか取り上げていない、という疑義もまた、審査委員から呈された。とくに、マクルーハンに影響を与えた同じトロント大学のハロルド・イニスとの関係がほとんど言及されていない点は、本論文の大きな欠落であるという批判もあった。基本的にはきわめて明晰な文体ながら、ややエッセイ的であり、ところどころ論理の飛躍を含む点も指摘を受けた。

しかしながら、論述の迂回法やエッセイ的な要素、あるいは、資料体や参照対象をあえて網羅的にしないといった選択もまた、マクルーハンのテクスト戦略をできるかぎり鮮明に描き出すために門林氏が意識的に採用した、優れてパフォーマティヴな「方法」であり、それによってこそ、序論における問題設定に応じた論述の論理的に厳密で明快な展開が可能になったことは確かである。こうした方法による本論文の-内容的にもパフォーマティヴにも-完成度の高さは十分認めながらも、マクルーハンの理論をより幅広い芸術思想やメディア論、科学・思想史の枠組みのなかでとらえることにより、いっそうインパクトのある構造が論文に与えられるであろうとのアドヴァイスも複数の審査委員からなされた。だが、本論文が全体としてきわめて独創的で、考え抜かれた論理構成のもと、説得的な議論を展開しており、今後のマクルーハン研究、メディア研究、批評理論などに大きく寄与しうる、際立って優れた学術的業績である点については、審査委員全員の間で意見の一致を見た。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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