学位論文要旨



No 122916
著者(漢字) 香西,豊子
著者(英字)
著者(カナ) コウザイ,トヨコ
標題(和) 流通する「人体」 : 近現代日本におけるドネーションの歴史とその記述にかんする一考察
標題(洋)
報告番号 122916
報告番号 甲22916
学位授与日 2007.07.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第764号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 内田,隆三
 東京大学 教授 佐藤,健二
 東京大学 准教授 佐藤,俊樹
 東京大学 准教授 市野川,容孝
 東京大学 准教授 廣野,喜幸
内容要旨 要旨を表示する

本稿の目的は、「人体」という言葉遣いがある種の社会性を具現しているという洞察のもと、流通する「人体」の記述をとおして、われわれの生きる「社会」を記述することにある。この目的を達成するため、ドネーション(「人体」の流通)という事象に内在する論理を、可能な限り一次資料にそって記述する作業をおこなった。と同時に、ドネーションにかんする(二次的な)資料の記述の振幅をとらえ、その意味合いについても考察をくわえた。

本稿は、序章以下、三部構成をとり、十一の章から成る。

まず、第I部では、ドネーションの一つのモデル・ケースとして、比較的長期にわたって関連資料がのこっている解剖体のドネーションを採りあげ、第II部であつかう他のドネーションの形態との対照に供するとともに(2・3・4章)、それをめぐって現在つむぎだされている「倫理」的な言葉や歴史記述が、解剖体の経済論の帰結である可能性について、注意を喚起した(1・5章)。第II部では、現代のドネーションにおいては、〈意志〉という統辞論が主流となっていることを確認したうえで(6章)、血液および移植片のドネーションの動態について検討し(それぞれ7・8章)、ドネーションという事象系にたいする暫定的な見取りを得た(9章)。第III部では、そうした現代の(ドネーションのなかの)「人体」がいかに経験されているかについて、人体標本展示会の存立様態をとおして考察したあと(10章)、ドネーションの記述のあり方について総括した(11章)。

各章の筋立ては、具体的には、つぎのとおりである。

まず序章では、上記の本稿の目的を掲げるとともに、ドネーションの歴史を記述するうえでの方法論を検討した。「人体」の現在を捉えるには、その変容を概念史というかたちで直接的に取りだすことがまず考えられる。しかしながら、「人体」の歴史的同定に収斂する記述は、本稿の問題関心に逆行する。そこで、本稿では、「人体」をとくに定義づけせず、流通という動態において、それを総体的に記述する方法を選ぶこととした。あわせて、のちの考察の準備として、近世のいわゆる「人体」を、腑分の実践にかんする資料をとおして考証し、それが現在いわれているところの「人体」とは異質なありようをしていたことを確認した。

1章では、ドネーションが明治以降に派生した事象であるという、序章から得た推測をもとに、まずは解剖体のドネーションの形態を明治前後でひきくらべた。そして、経済論(いかに解剖体を調達するか)という観点をいれれば、両者がまったく別のものであることを追認するとともに、両者のその差異に依拠して、現在、〈篤志〉というドネーションのあり方が称揚されている様相を捉えた。ここで要点となるのは、歴史的な資料が〈篤志〉に適うよう読みだされ、かつほかの解剖体のドネーションのあり方が「倫理」に悖るかのごとく語られるという事態が、〈篤志〉の称揚に並行して起こっているということである。では、その〈篤志〉という言葉の配列規則を解除したとき、資料からはどのような経済論が見えてくるのか。つづく2・3・4章で、それぞれ明治初期・明治中期から戦前期・戦後期の一次資料にあたってゆくのに先だち、その作業をささえる問題提起を、この章ではおこなった。

2章では、明治初年に、解剖が医学のなかに包摂され制度化されてゆくにつれ、解剖体の経済論が発生するとともに、遺体を切り刻む実践にたいする認識論が、おおきく転換していく過程を確認した。近世においては、屍体の配分をめぐって、腑分は試刀(ほか、「人体」を材料にした製薬など)と並びたっていた。それが、明治以降、身体の処遇にかんする新たな言葉が出来することによって、その平面自体が改変されてゆく。その結果、おなじ「人体」を切り刻むにしても、(医学を迂回して)「人民」に貢献することとなる企図の方は、解剖学として、材料の調達の途をつけはじめた。一方、試刀のほうは、ドネーションの回路を断たれるにとどまらず、その実践自体が廃絶された。

3章では、いったん発生した解剖体の経済論が、明治中期以降、どのようにその「需要」を充たしていったのかを、法制度の変遷および解剖学教室の備忘録にしるされた内規の二面から跡づけた。解剖体の経済論は、生前の無料の治療とのひきかえに死後の解剖を許諾させるという〈施療〉の論理を制度化し(施療患者制)、解剖の際にかかる経費の問題を解消していった。その一方で、引取手のない〈無縁〉の遺体を、養育院や監獄、精神病院等に請い、(ときには法の言葉にそぐわないかたちで)解剖する形態も派生させた。ちなみに、〈特志〉解剖は、このときには、ごく例外的な事象とみなされ、とくに経済論が振りむけられることはなかった。

4章では、戦後しばらくたって、「解剖体不足」という事態が、その要因を探査する言葉によって逆に実定化されていった機序をとらえるとともに、散発的だった〈特志〉がそれによって組織化の基盤をあたえられ、結果的に、〈篤志〉という一つの経済論を形成するにいたる様相を記述した。戦後になって〈無縁〉の屍体を調達することに窮した解剖学教室は、なおも〈無縁〉の屍体を収集しつづけるかたわら、〈篤志〉を解剖体の今後の有望な「供給」源とみなすようになった。そして、一九五〇年代半ば頃より各地で設立されはじめていた遺体寄贈の篤志家団体と協同してことにあたりはじめた。とはいえ、解剖学における解剖体収集活動と、篤志家らの遺体寄贈とは、したがう論理を異にしていたため、しばしばその不咬合を表面化させたのだった。ところが、一九七〇年代の後半に、献体手続の法制化の動きがあらわれるあたりから、両者を架橋する「医の倫理」が立ちあがり、両者の調停がはかられる。その結果、篤志の「有り難さ」が説かれ、いっそう〈篤志〉が推しすすめられるとともに、解剖体の経済論がほかのドネーションのあり方をとることは、しだいに封じられていったのである。

5章では、2・3・4章の記述の事実性に依拠し、1章で捕捉した〈篤志〉の称揚という現象(「倫理」的な言葉の出来や特有の文体をもつ歴史記述)が、解剖体の経済論の帰結としてあることを確認した。それとともに、解剖体のドネーションを傍証として立ちあらわれる、象徴的な日本人論や「習俗」の読み解きが、むしろ現代的な現象であることを指摘した。

第II部にうつり、6章では、ドネーションの形態が、解剖体のドネーションで見たような、ただ経済論のみにより規定されているのではなく、流通させられるものによっては、そこに技術論(いかに「人体」を流通可能な形態たらしめるか)も効いてくるということについて考察した。第I部で採りあげた解剖体のドネーションは、あらためて眺めかえしてみると、おのずから解剖学の周囲に収束していた。それにたいして、血液や移植片のドネーションは、経済論と技術論とがあいまって、ドナーとレシピエントとを媒介する大がかりな機構をつくりだし、それ自体で事業となっていることを指摘した。

7章では、血液のドネーションの動態について考察した。戦後におこった「東大梅毒事故」は、(1)血液のドネーションには、(供血者だけでなく)受血者がいること、そして(2)そこには「安全供給」の論理(経済論)とはべつに、「安全性」の論理(技術論)が走っていることを公然としめし、血液事業が立ちあげられる支点となった。一九五〇年代半ばには、受血者(レシピエント)の「安全」に資するべく血液銀行(バンク)が設立され、三つの方式(売買血方式・預血方式・献血方式)が派生した(なかでも主流を占めたのは、市場原理にそった売買血方式だった)。だが、一九六〇年代に入る頃には、供血者(ドナー)の「安全」(すなわち、所期の受血者(レシピエント)の「安全」)が損なわれる事態が表面化し、ふたたび血液の技術論が問題とされはじめた。そして、経済論の観点からは一線にならんでいた三つの方式に、「有償=危険/無償=安全」という分節がもちこまれた。こうして「善意」の献血が「安全」でないはずがないという信憑が制度化されてゆき、同時に「倫理」の言葉が産みだされるようになった。ただし、献血血を「安全」とする信憑の補強は、今度はそれ自体、経済論や技術論と抵触しはじめているのが現状である。

8章では、移植片のドネーションの論理的な動態について考察した。戦後に角膜移植を皮切りにおこなわれはじめた移植医療のドネーションは、既存の法の言葉や血液事業の教訓を参照しながら、ネットワークという形態をとるようになった。だが、角膜移植法、角膜・腎臓移植法、臓器移植法と、法制度の枠組みが拡充されるにつれ、当初より議論されつつの解決をみなかった技術論(ドナーの「死」の判定)および経済論(提供の最終的な「意志」)が、極限の段階まで推しすすめられ、ネットワークの制度を機能不全に追いやっている。これは、〈からだ〉がまずは慣行(「親密」な関係性)のなかに据えられていることの傍証でもあろう。ドネーションに拠らない「家族」間での生体移植は、移植の実施症例数を伸ばしている。

9章では、以上の考察を小括し、ドネーションの現在について暫定的な見取りを示した。すなわち、(1)ドネーションには派生する経済論および技術論のかねあいから、諸形態が認められること、だが(2)そのいずれもが、(それぞれに異なる論理の展開の帰結としてではあるが)〈意志〉という統辞法にしたがっており、しばしば「倫理」的な言葉の水準で共鳴していること、(3)〈意志〉のもとで一個人は「ドナー」と「レシピエント」の二重写しの身体を生きていること等である。

10章では、第I・II章でえた見取りを補助線にして、ドネーションがひとびとの日常にどのように現れ経験されるのかを、人体標本展覧会の存立様態から検討した。一九九〇年代後半より各地でおこなわれはじめた体標本展覧会は、啓蒙的な企図のもと、〈意志〉の統辞法のうえに人体標本を並べ、数百万のひとびとの眼前に供している。だが、それは、ひとつの産業として、展示会の論理につらぬかれてもいる。そうした磁場においては、標本人体のリアルやドネーションの「意志」は宙吊りにされ、直接的に問うことができないようになっていることを、ここでは確認した。

最終章となる11章では、それをうけて、ドネーションの歴史記述が定位する場所をさぐった。そのために、まずドネーションの現状にたいする議論(「人体」の資源化・商品化論や「贈与論」)を概観した。そして、現代のドネーションという動態に身をおきながら、かつそれを記述することの可能性について考察した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、明治期以降今日に到るまで、日本社会における医学や医療の実践を通して遂行され、具体的には献体、献血、臓器提供などのかたちをとってきた「人体」とその流通という事象を取り上げ、それをドネーションという概念のもとに整理し、このドネーションがどのようなかたちで発生し、変遷し、また現代社会の日常にどのような影響を及ぼしているのかを、具体的な歴史資料を跡付けながら分析し、記述することを試みた力作である。

序章に示されるように、著者はまず、一九九〇年代半ばから立ち現れてきた身体の資源化・商品化論に注目する。それは「人体」が一般の資源や商品と同じように扱われはじめたことを危惧し、批判的に捉える議論であるが、「人体」を所与の自然と見なし、その歴史的な変容を主題として切り出し、医療産業の肥大や社会のひずみの増大に警鐘を鳴らすという問題構成を採っている。だが、著者はこのような問題構成に対して距離を取ろうとする。「人体」は決して自然の所与ではなく、人間学に限らず、生命科学や医療の言説がそこに乗り入れることによって社会に流通し、またその流通において存在するものだからである。

実際、江戸期の人体を山脇東洋らの観臓・腑分にかんする資料を通して眺めると、現代の人体とは、それについて語る言葉の様相がまったく異なっている。それゆえ著者は、「人体」と呼ばれる存在の実質をなすのはその流通形態であると考え、その具体的な様態に照準を定め、そこに刻まれた歴史を記述することを本論文の課題として設定する。すなわち、さまざまな様態――遺体、血液、移植片など――での流通の形態、つまりドネーションの諸形態にかんして、それを支えている経済論や技術論の仕組みを明らかにし、同時にそこにはらまれている倫理的な言明の偏向を明らかにしていくという歴史社会学の問題構成を採る。

本論文の第I部では、明治初年以降の社会において解剖体の流通というドネーションの仕組みが具体的にどのようにして生み出され、また実定化されていったのかという過程が明らかにされる。そこで注目されるのは、現在の医学や医療にかかわる言説が、解剖体のドネーションという事象を発生させ、可能にするものとして「篤志」という要素を読み込み、それを称揚している事実である。本論文は、こうした「篤志」にまつわる言葉や論理は、じつは解剖体を調達するために発生した経済論の帰結であることを実証していく。

解剖が医学のなかに包摂され、制度化されていくとともに、解剖体の調達と配分にかかわる経済論が発生するが、明治中期以降、解剖体の経済論は、一方で、生前における無料の治療と引き替えに死後の解剖を約束させる「施療」の論理を制度化させ、他方で、引き取り手のない「無縁」の遺体を養育院・監獄・精神病院などから調達する形態を派生せしめた。戦後しばらくして「解剖体不足」という事態がつくりだされ、それまで例外的で散発的だった特志が組織化されるようになり、結果的には「篤志」による遺体遺贈という無数の潜在的可能性をもつ経済論が形成されていくことになる。

こうした「篤志」による献体の制度化によって、それを受け止める「医の倫理」が立ち上がることになるが、それは「無縁」の解剖体蒐集に奔走し、「篤志」をむしろ奇異な目で見ていた往時とは、まったく別の光景であるようにみえる。しかし、本論文によれば、「施療」や「無縁」から「篤志」へという形態の変化においても、「篤志」の制度には、生前の本人の意志の如何にかかわらず遺族の意志に、そして遺族が不在の場合には機関の意志に委ねられるなど、じつはかたちをずらして「無縁」の論理が再現されている。結局、「篤志」を称揚する医の倫理も、解剖体の経済論を重要な基盤としていることが再び確認されるのである。

第II部では、血液や移植片などを扱う現代のドネーションが取りあげられる。この局面では、経済論と同時に、「人体」の一部を採取し、管理し、移植する医療の技術論が大きな要素として加算される。この技術論は――施療、無縁、意志などに準拠しつつ人体の需給を最適化する経済論とは別に――「人体」という形象を切り出し、経済論の回路に載せる技術的な体系をなしており、安全性といった要請を重要な焦点としてもっている。こうして本論文は、経済論と技術論という二つのシステムの、それらが包含する倫理的な言葉を介した連関を通じて、ドネーションの諸形態が分節されていくことを確認する。

本論文によれば、ドネーションは、解剖体においてはストック、血液においてはバンク、臓器などの移植片ではネットワークという形態をとる。しかし、現代のドネーションにおいてはいずれの場合でも「意志」――献体の篤志、献血の愛、臓器提供の善意――という機縁をもつことによって、人体形象の流通が可能になっている。しかも、人々はそこで「意志」を介して誰もがドナーでありレシピエントとなる可能性のなかに生きている。ドネーションの運動が人々から「意志」を抽出する倫理的な言葉を紡ぎだすが、これらの言葉が人々の生に荷重をかけていく状況に注意が喚起される。

第III部では、ドネーションという事象系のなかにおかれた現代の「人体」が人々の日常においてどのように経験されるかを、一九九五年に開催された人体標本展示会などを事例にして明らかにされる。本論文は、この展示会のなかに、啓蒙的な立場から「意志」を準拠点として人体標本を並べていくにもかかわらず、標本の生々しいリアリティに対する興味のなかで肝腎の「意志」を直接問うことのない空虚な構造を見いだす。

この構造は、ドネーションにおいても、たとえばドナーとなる「意志」を表明しても実際にはレシピエントとの適合性などから「ドナーに選ばれる」立場に移行するという皮肉な現実と呼応している。そこにはドナーとレシピエントの「意志」を駆動因としながら、両者の間に介在する経済論や技術論を通じて、それらの「意志」を宙吊りにする仕組みがある。だとすれば、「意志」にまつわる倫理の言葉が人々の生に暗黙の荷重をかけていることに対する責任をどう考えればよいのかという問いが生起して然るべきだろう。そして終章では、「人体」の記述がたえずはらむ偏向を認めつつ、本論文もまたひとつの記述としてある種の暴力性を回避できず、その立ち位置を問い直す反省に身をひらくことが課題として確認される。

以上が本論文の結構であるが、その独自の学術的な価値として、次の四つの論点を挙げることができる。第一に、身体の資源化・商品化が言われるなかで、また医学や医療、あるいは生命や倫理の言説が、現代の政策的な課題に沿ってしばしば性急な答えを求める状況のなかで、本論文は、そもそも現在通念されている「人体」とはどのようなあり方をして今日に到っているのか、その歴史的な系譜を、一次資料を丹念に読み解き、はじめて詳細に跡づけることに一定の成果を挙げたものである。その独自の実証的価値と、今日の状況における反省的意義は大きいといえよう。

第二に、本論文は、身体でもなく、肉体でもなく、「人体」と呼ばれる対象に着目し、照準することにより、その運用をその体系のなかに含んでいる技術論や経済論を同時に浮かび上がらせ、両者のさまざまな連関を通して、医療にかかわる倫理的な言葉の発生と偏向を批判的に捉え返す視点を提示した。「人体」という視点を精緻化し、その方法的な有効性を提示したことは、本論文の優れて独自な学術的価値であるといえよう。

第三に、本論文は、ドネーションに固有に発生する事態、つまり流通物と流通機構の「癒合」という現象を浮かび上がらせた。ドネーションはこの「癒合」が示すように、身体の贈与や交換を行なう超越的な主体が立たないような流通の形態に向かってひらかれており、社会学や人類学における贈与や交換の理論に対して新しい問題提起となる可能性をもっている。この点にも本論文の独自な学術的価値があるといえよう。

第四に、本論文は、ドネーションという事象が人間の「意志」――篤志、愛、善意などのかたちを取るが――という駆動因を要請しながら、しだいに「意志」という要素をそぎ落とし、システムとして成立していく歴史を明らかにした。これは主体のせめぎ合いのなかで主体が制度的な物象のうちに消えていく現象を扱う現代社会論に対する問題提起であると同時に、現代社会論にとって新たな内実を形成するものであり、この点においても本論文の確かな貢献が認めることができる。

とはいえ、本論文に対して次のような問題点が指摘されることも否めない。まず、「意志」という概念の境界、あるいは経済論・技術論が二項対立と読み取れる部分において、概念的な調整になお改善の余地があることである。ただし、この点は「人体」という対象の固有性に対する配慮の結果であることもある程度考慮すべきだろう。次に、記述対象として、過去の歴史記述や言葉などのいわゆる言説に強い焦点が当たるため、それとの比較でいえば、歴史の内部で「人体」の流通をめぐってせめぎ合う諸主体の政治的な抗争の奥行きが後景に退いていることも指摘しておくべきだろう。

また、本論文において「社会性」というとき、その実質は、その時々の対象を「人体」として扱う経済論・技術論の形態、あるいはそこにはらまれる倫理的な言明の水準に求められる。それゆえ、これらの経済論・技術論や言明の形態と分節を包摂し、拘束している、たとえばマーケットの論理、あるいは消費社会の論理といった、より広範な制度の水準に分析の方向を接続することも模索されてよいだろう。

しかしながら、これらの問題点は本論文の結構や全体の業績からみればマイナーなものにとどまっており、本論文の叙述の一貫性や学術的な価値の高さを損なうものではない。したがって、本審査委員会は、本論文を、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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