学位論文要旨



No 122919
著者(漢字) 吉村,安寿弥
著者(英字)
著者(カナ) ヨシムラ,アズミ
標題(和) 再活性したウニ精子鞭毛の運動制御におけるATPとADPの役割
標題(洋) Roles of ATP and ADP in the reguIation of the movement of reactivated sea urchin sperm flagella
報告番号 122919
報告番号 甲22919
学位授与日 2007.07.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5081号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 真行寺,千佳子
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 馳澤,盛一郎
 東京大学 教授 豊島,陽子
 東京大学 准教授 奥野,誠
内容要旨 要旨を表示する

[序論]

真核生物の鞭毛の周期的屈曲運動の原動力は,鞭毛軸糸を構成する9本のダブレット微小管上に並んだダイニン(図1a)によって駆動される微小管滑り運動である.ダイニンは一方向に微小管を滑らせるため,全てのダイニンが一様に滑りを起こしては管状構造をとる軸糸は屈曲できない.そのため屈曲運動の際にはダイニンの滑り活性は空間的,時間的に調節されていると考えられている.これまでの研究から,生理的条件において滑りは主に中心小管の両側で起こり,その他の部分では抑制されていること,中心小管/ラディアルスポーク系が軸糸タンパク質のリン酸化・脱リン酸化を介してダイニンの運動活性を制御する可能性が報告されている.しかし屈曲運動に伴って軸糸内で協調的にダイニンの活性を変化させる機構は解明されていない.

これまでに,エネルギー源であるATpと加水分解産物であるADPがダイニン活性制御に関わる可能性が考えられている.例えば,テトラヒメナ繊毛やウニ精子鞭毛の酵素処理軸糸の滑り頻度の解析から繊毛,鞭毛内に存在する高濃度ATpが滑り運動を抑制する効果を持つこと,ADPが滑り運動を誘導する効果を持つことが示唆されている.同様に,クラミドモナスの中心小管やラディアルスポークを欠損した突然変異体で,高濃度ATP条件下では動けない鞭毛が,高濃度ATp条件でもADPを加えることによって,または低濃度ATp条件下にすると動くことが報告されている.また,最近の研究から,ATP・ADPが鞭毛から抽出されたダイニンの活性に影響を与えることが分かった.このことから,ATP・ADPがダイニン重鎖の3つの非触媒ヌクレオチド結合部位に作用してダイニンの活性を調節する可能性が推測されている(図1b).しかし実際の鞭毛運動において,ATP・ADPによるダイニン活性の調節がどのような役割を果たしているのかについては調べられていない.

本研究は,正常な鞭毛の屈曲運動制御におけるATP・ADPの役割を解明することを目指した.そこでまず,(i)除膜したウニ精子の鞭毛運動に対してATP・ADPがどのような効果を持つのか,(2)ATP・ADPによる鞭毛運動の調節にリン酸化・脱リン酸化による制御が関与するのか,の2点に注目した.鞭毛運動に対するATP・ADPの効果を検討するためには正常な屈曲運動が可能な鞭毛を用いる必要があるが,鞭毛が正常に運動する実験条件では高濃度のATPと一定濃度のADPが常に存在するのでATP・ADPの効果を調べるのは困難である.そこで,除膜したウニ精子鞭毛の運動を可逆的に停止させるが,ArPase活性はほとんど抑制しない低いpH条件を利用し,(1)低いpHにおいて運動を停止した除膜鞭毛に対するATP・ADPの効果を検討した.また,(2)いくつかのリン酸化・脱リン酸化酵素阻害剤や脱リン酸化酵素を用い,鞭毛運動に対する効果を低いpH条件で検討した.更に,ATPが持つ抑制効果が鞭毛の振動運動に必要かどうかを調べるために,(3)除膜した鞭毛をエラスターゼ存在下で再活性化したときの振動運動の持続時間に対するATP濃度の影響を通常のpH条件で検討した.本論文はこれらの結果を報告する.

[結果]

1-1.低pHにおける高濃度ATPによる鞭毛運動の抑制

除膜したウニ精子(パフンウニ,ハスノバカシパン)鞭毛はpH8.0において高濃度ATP(1mM)によって再活性化すると,生きた精子と同様の周期的屈曲運動を示す.ところがpH7.2以下では1mM ATP存在下で鞭毛の運動が完全に停止した(図2a).運動を停止した鞭毛の約90%は頭部付近に1つの安定した屈曲を残していた(図2c).それに対し,低濃度ATP(0.02mM)で再活性化すると,完全な抑制は見られず50%以上の鞭毛が運動を示した(図2a).一方,pH7.2,1mMATPにおいても,エラスターゼ処理軸糸は滑りを起こしたが,pH8.0に比べて滑り回数は減少した(図2b).高濃度ATPによる鞭毛運動の抑制と滑り頻度の低下が,外腕と内腕のどちらのダイニンの運動活性が抑制された結果起こるのかを調べるために,高塩濃度処理によって外腕ダイニンを除去した鞭毛をpH7.0,1mMATPにおいて再活性化した.その結果,外腕除去鞭毛は高濃度ATP存在下でも高い運動性を示した(図2d).更に,外腕除去鞭毛に精製した外腕ダイニン(キタムラサキウニ)を再構成したところ,高濃度ATP存在下での運動は完全に抑制された(図2d).以上の結果は低いpHにおいて高濃度ATPが外腕ダイニンの運動活性を抑制することで鞭毛内の滑り頻度を低下させ,屈曲運動を抑制することを示唆する.

1-2.低pH,高濃度ATPによる鞭毛運動の抑制のADPによる解除

pH7.0-7.2,1mMATPにおける運動停止と滑り頻度の抑制にADPが与える影響を検討した.その結果,pH7.2において鞭毛の再活性化率と軸糸の滑り頻度の両方がADPにより上昇した(図3a,b).更に0.05mMADPでプレインキュベーションした鞭毛を,pH7.0,1mMATPで再活性化したところ,屈曲運動が誘導され,約50%の再活性化率を示した(図3c).以上の結果はダイニンへのADPの結合が低pH,高濃度ATPによる抑制を解除し,滑り運動,鞭毛運動を誘導することを示唆する.

2.ATP・ADPによる鞭毛の運動調節への脱リン酸化の関与

低pH条件における鞭毛運動に対してリン酸化酵素阻害剤(cAMP dependent protein kinase inhibitor)や脱リン酸化酵素阻害剤(microcystin LR)が及ぼす効果を検討したが,鞭毛運動に変化は見られなかった.そこでprotein phosphatase1(PP1)を用いた実験を行った.鞭毛をPP1処理した後,pH7.0において0.02mMATPで再活性化したところ,低濃度ATP存在下にも関わらず鞭毛運動は完全に停止した(図4a).運動を停止した鞭毛の波形は(図4b),pH7.0において高濃度ATP存在下で運動を停止した鞭毛の波形(図2c)によく似ていたが,0.02mMATPで運動を抑制されたPP1処理鞭毛ではADPプレインキュベーションによる屈曲運動の誘導が見られなかった(図4a).更に,蛍光ADP(BODIPY TR-ADP)の鞭毛への結合を全反射顕微鏡で観察し,鞭毛の蛍光強度を測定したところ,PP1処理鞭毛では未処理鞭毛に比べてADPの結合が低下していた(図4c).以上の結果は,PP1による軸糸タンパク質の脱リン酸化がダイニンへのADPの結合を低下させ,ATPによる運動抑制への感受性を高める可能性を示唆する.

3.ATPによる抑制の鞭毛運動制御における役割

エラスターゼはダブレット問をつなぎとめているタンパク質を消化するため,エラスターゼとATPを同時に与えて再活性化した除膜鞭毛は,しばらく振動運動をした後,ダブレット問に起こる滑り運動によって分解する(図5a).振動運動の持続時間に対するATP濃度の影響を調べたところ,1mMATP存在下では振動は100秒間持続したのに対し,0.02mMATPでは持続時問が45秒と短くなった(図5b).また,1mMATPが存在しても,外腕除去鞭毛では振動運動の持続時間は短くなった(図5c).これらの結果は,高濃度ATP存在下ではATPによる抑制を受けた外腕ダイニンがダブレット間をつなぎとめる働きを持つことを示唆する.また,ATPによるダイニンの運動活性の抑制が鞭毛の振動運動の制御に必要である可能性を示唆する.

[考察]

本研究の結果はウニ精子鞭毛の運動制御において,ダイニンへのATPの結合が滑りを抑制し,ADPの結合が滑りを誘導する役割を持つことを示唆する.このことから,高濃度ATPという生理的条件においてダイニンの運動活性はATPによって抑制されており,その抑制をダイニンへのADP結合が解除して加水分解エネルギーの力発生への変換を誘導し,滑りを起こさせることが鞭毛運動の制御の基本である可能性が示唆された.屈曲運動の際,高濃度ATPはダイニンの運動活性を抑制することで滑りを特定の部位に限定する役割を持ち,ADPは滑りを誘導する役割を持つと推測される.

また今回の結果は,ダイニンへのADPの結合が脱リン酸化経路によって調節されている可能性を示唆する.このことからタンパク質のリン酸化・脱リン酸化による鞭毛運動の制御が,ダイニンの3つの非触媒ヌクレオチド結合部位へのATP・ADPの結合と解離を介して行われている可能性が初めて提示された.タンパク質リン酸化がATP・ADPの結合を調節し得るかどうかは今後検討する必要がある.

ATP・ADPによる滑りの抑制と誘導の効果が,ある瞬間には軸糸内の特定のダイニンにのみ作用する仕組みは分かっていない.しかし,主要な滑りが主に中心小管の両側で起こること,PP1が,サケ精子において外腕ダイニンを脱リン酸化し,クラミドモナス鞭毛において中心小管に局在することが報告されていることから,ATP・ADPの結合・解離を調節するリン酸化・脱リン酸化を中心小管/ラディアルスポーク系が担い,軸糸内において特定のダイニンを活性化している可能性が推測される.また,ダイニンの運動活性は,力学シグナルに反応して調節されるが,この調節にもATP,ADPの結合,解離が関係する可能性が高い.今後は力学シグナルと,中心小管/ラディアルスポーク系の関与を明らかにすることが是非とも必要であるが,このためには新たな実験系の開発が必要であろう.

図1(a)鞭毛運動と軸糸の構成要素;(b)ダイニン重鎖へのATP・ADPの結合

図2.低pHにおける鞭毛運動(a)とエラスターゼ処理軸糸滑り回数(b);(c)低pH,高濃度ATPにおいて運動停止した鞭毛;(d)低pH,高濃度ATPにおける鞭毛運動に対する外腕ダイニンの影響

図3.低pH・高濃度ATPにおける鞭毛運動(a)とエラスターゼ処理軸糸滑り回数(b)に対するADPの効果;(c)低pH・高濃度ATPにおける鞭毛運動に対するADPプレインキュベーションの効果

図4.(a)低pH・低濃度ATPにおける鞭毛運動に対するPP1処理の効果;(b)低pH,低濃度ATP存在下における蛍光ADPの軸糸への結合

図5(a)ATP,エラスターゼ存在下における除膜鞭毛の運動;(b)除膜鞭毛の振動運動持続時間に対するATP濃度の効果;(c)外腕除去鞭毛の振動運動持続時間

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、謝辞(Acknowledgemehts)、目次(Contents)、要旨(Abstract)、序章(lntroducion)、方法(Materials and Methods)、結果(Results)、考察(Discussion)、参考文献(References)、表(Table)、図の説明と図,(Legends and Figures)から構成されている。

真核生物鞭毛の運動制御機構についてはこれまでに多くの知見が得られているが、その全容は未だに明らかにされていない。中でも興味深いのは、制御に組込まれていることが明らかな「力学的シグナル」と「化学的シグナル」がどのように統合されているのかという点である。鞭毛の屈曲は、ダイニンが微小管間に起こす滑り運動により作られるが、この屈曲そのもゐが滑りの状態を調節するという、・力学シグナルによる自律制御の系を内包している。また、微小管間の滑りの制御には、,鞭毛の中心に位置する2本の中心小管を含む中心小管/ラディアルスポーク系と総称される構造が重要な役割を担い、この系を介したダイニンの運動活性制御には、力学シグナルと共にタンパク質のリン酸化・脱リン酸化などの化学シグナルが関わることが示されている。これらのシグナルによる制御が鞭毛の運動制御の基本であるとするならば、それらはダイニンの運動活性を統合的に制御していると推測されるがその機構は明らかではない。ところで、これまでの研究から、ダイニンの運動活性制御にはユニークな特徴があることがわかっている。それは、エネルギー源として用いられるATPが、条件によってはダイニンの活性を抑制する作用を示すことである。さらに、ATPの加水分解産物であるADPが、この抑制を解除する効果も報告されている。このことから、ATPとADPが、ダイニンの活性制御に必須の因子である可能性が示唆されてきたが、それらがどのように鞭毛運動の制御に組込まれ、前述の力学シグナルや化学シグナルと相まってダイニンの機能制御を行うのかについて、示唆を与えるような仮説はこれまでに提示されていなかった。

本論文は、鞭毛運動制御におけるATP,ADPの役割を明確にする仮説を提示することを目指し、ATP,ADPの作用による鞭毛運動の活性化と抑制を可逆的に操作できる実験条件を探索することから研究がスタートしている。具体的には、ウニ精子の除膜鞭毛を用い、生理的条件の範囲でpHを下げた時(pH7.0-7.2)の、生理的高濃度のATPによる運動抑制と低濃度による運動の持続に着目した結果、高濃度のATPによる運動抑制を解除する条件と、低濃度のATPによる運動を抑制する条件を見いだすことに成功した。前者はADPを前処理しておくだけで解除されること、後者は、脱リン酸化により抑制されること、脱リン酸化に伴って鞭毛(ダイニン)へのADPの結合が有意に低下することを見いだした。ADPの結合状態(処理後約3分持続する)がダイニンの運動活性制御に重要であると推測されるが、これは最近報告されているダイニンのヌクレオチド結合特性とも一致する。更に、高濃度ATPによる運動停止状態の鞭毛は、S字の屈曲を残しており、ダイニンが微小管と架橋を形成したまま安定状態となっていることが示された。興味深いことに、高濃度のATPによる運動の抑制は、外腕ダイニンの機能と密接に関わり、外腕を除去した鞭毛では運動の抑制が起こらなくなる。

さらに、本論文の後半では、このようなATP,ADPによる制御が、実際の生理的運動持続時にも組込まれているのかどうかを、斬薪な手法で検討している。通常の生理的条件であるpH8.0では、高濃度のATPでも低濃度のATPでも運動が持続し、停止は見られない。そこで、鞭毛内で微小管同士をつなぎ止めている構造を、エラスターゼ処理により徐々に消化していった時に、鞭毛運動が持続するかを解析した。その結果、生理的pH条件下でもダイニン自体が高濃度のATP存在化では架橋の役割を担いうること、その機能はリン酸化・脱リン酸化と関わることが示された。これらの結果から、ダイニン分子内にある加水分解を行わないヌクレオチド結合部位へのATPの結合が運動活性の抑制を、一部の結合部位へのADPの結合が活性化を引き起こし、これらの結合はリン酸化と脱リン酸化により制御されているというモデルが提示された。力学シグナルとの関連は、今後の課題であるが、本研究により追求すべき方向が明確となった。

以上のように、本論文の成果は、鞭毛の運動制御機構解明に向けて多くの示唆に富む知見を示したものである。

なお、本論文の一部については、中野泉・真行寺千佳子との共同で行ったものであるが、論文提出者が主体となって実験・解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク