学位論文要旨



No 122925
著者(漢字) 橋濱,史典
著者(英字)
著者(カナ) ハシハマ,フミノリ
標題(和) 貧栄養海域における栄養塩環境の変動と植物プランクトン群集動態に関する研究
標題(洋)
報告番号 122925
報告番号 甲22925
学位授与日 2007.09.03
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3220号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 教授 福代,康夫
 東京海洋大学 教授 石丸,隆
 東京大学 准教授 武田,重信
 東京海洋大学 准教授 神田,穣太
内容要旨 要旨を表示する

全海洋面積の約6割を占める亜熱帯海域では、湧昇域や沿岸域に比べて植物プランクトン現存量が極めて低い。年間のほとんどを通じて成層が発達して下層から有光層への栄養塩供給が抑えられているためである。このような貧栄養海域では新生産が小さく、一次生産の大半が再生生産と考えられ、植物プランクトン群集は、安定した現存量と組成で特徴づけられる極相にあると見なされてきた。しかしながら、近年、この極相概念を見直す必要が生じている。これまで亜熱帯域表層の栄養塩濃度は「ゼロ」とされてきたが、高感度分析技術の開発によってナノモルレベルの栄養塩濃度が測定可能となり、その結果、栄養塩は極めて低い濃度でも時空間的に変化し、それに応答して植物プランクトン群集が変動することが報告されている。知見はハワイ沖やバミューダ周辺など一部の海域に限られているが、この現象は他海域でも起こっている可能性があり、従来「海の砂漠」とされてきた貧栄養海域のプランクトン動態に関するパラダイムの再検討が求められている。このためには、海盆スケールなど既往研究にない広範な海域を対象とした研究が必要である。

本研究は、太平洋亜熱帯・熱帯域の表層におけるナノモルレベルの栄養塩濃度と植物プランクトン群集動態を明らかにし、両者の関係の解析と変動要因の理解を基に、上記の極相概念を検証することを目的とした。観測は、東京海洋大学の海鷹丸、青鷹丸、海洋研究開発機構の白鳳丸、淡青丸による研究航海において、中西部太平洋の亜熱帯域、赤道域西部、西部北太平洋縁辺海を含む42oN~40oSおよび128oE~158oWの範囲で水柱が成層している時期に行った。航走中、表層の硝酸塩+亜硝酸塩 (N+N)、溶存反応性リン (SRP) およびアンモニアを高感度比色分析法により連続測定した。検出限界は各々3 nM、3 nM、6 nMであった。同時に、水温、塩分、クロロフィル蛍光、有色溶存有機物 (CDOM) を連続測定した。また、海水試料を随時採取し、フローサイトメータ、HPLC、倒立顕微鏡を用いて植物プランクトン群集を解析した。170oWと160oW線上の29定点では、CTDロゼットニスキン採水による表層混合層の鉛直観測を行った。

1. 海盆スケールにおける栄養塩濃度変動と植物プランクトン群集動態

1.1. 栄養塩

N+NおよびSRPには海盆スケールでの水平変動が認められた。N+N濃度は極めて低く、大部分の海域で35 nM以下であったが、南北方向にわずかな勾配が認められた。すなわち、15oN~42oN (A海域) では検出限界の3 nM付近と低かったのに対して、15oS~40oS (B海域) では3~10 nMと検出限界をわずかに上回った。一方、15oN~15oS (C海域) においては10 nMを上回った。このN+N濃度の地理的分布は水塊特性と対応しており、A、B、C海域の順に表層混合層の深度は増加し、水柱安定度が減少した。従って、上記の南北勾配は鉛直混合による下層から表層への硝酸塩の供給程度の違いを反映したものと考えられる。アンモニアは大部分の海域で6 nM以下であり、海域による変動傾向は認められなかった。

SRPはN+Nに比べて海域による濃度の違いがより顕著であり、N+Nと同様に南北方向の勾配を示した。A海域では検出限界の3 nM付近から100 nMの範囲、B海域ではA海域より高く20~200 nM、C海域では200 nMを上回って変動し、海域による違いはN+Nと同様に下層からの供給が異なることを反映したものと考えられる。さらに、A海域では東西方向にも勾配が認められ、165oEを境界に西側 (AW海域) ではほとんどが検出限界付近であったが、東側 (AE海域) では大部分で20 nMを上回った。

N:P比は全海域を通してほぼ0であり、窒素の供給が一次生産の律速要因となっていたが、これは下層からの栄養塩供給のN:P比が約15であるのに対して、植物プランクトンによる利用ではRedfield比であることを反映したものと考えられる。

1.2. 植物プランクトン群集

TChl a (クロロフィル a + ディビニルクロロフィル a) 濃度は12~239 ng l-1の範囲で変動し、その分布はN+N濃度のそれとよく対応し、植物プランクトン現存量が窒素供給に依存していることを示した。すなわち、A海域ではほとんどの海域で30 ng l-1以下と極めて低く、B海域では大部分で30~50 ng l-1、C海域においては50 ng l-1以上であった。両者は良い相関を示し、N+N 10 nMの増加はTChl a 21 ng l-1の増加に相当した。

植物プランクトン群集についてみると、Prochlorococcus、Synechococcusおよび真核藻類の細胞密度はN+N濃度の分布とよく対応した。Prochlorococcusでは、A海域で密度が最も低くほとんどが2 x 104 cells ml-1以下であったのに対して、B海域では2~6 x 104 cells ml-1の範囲で変動し、C海域では最も高くほとんどが6 x 104 cells ml-1以上であった。Synechococcusでは、A、B海域ではほとんどが5 x 103 cells ml-1以下と低かったが、C海域においては5 x 103 cells ml-1を上回る密度が認められた。このような傾向は真核藻類についても認められ、A、B海域で低く2 x 103 cells ml-1以下だったのに対して、C海域ではほとんどが3 x 103 cells ml-1以上であった。このように3群ではN+N濃度に対して有意な正の依存性を示したが、その依存性には違いが認められ、Prochlorococcusは20 nM以下で明瞭な濃度依存性を示し、最も依存性が小さかったのは真核藻類であった。

一方、細胞サイズ2~10 ?mのナノシアノバクテリアは上記とは異なる分布を示し、SRPの分布とよく対応した。すなわち、AE、B海域で顕著に出現し、最大800 cells ml-1の密度であったが、AW、C海域においてはほとんど出現しなかった。ナノシアノバクテリアは窒素の枯渇した海域に卓越して窒素固定することが近年報告されており、SRP濃度の高いAE、B海域は窒素固定者に有利な栄養塩環境であったと考えられる。一方、SRPが枯渇していたAW海域では、ナノシアノバクテリアの増殖はリン律速を受け、また、N+Nが10 nM以上と高かったC海域では、窒素固定者に有利な環境ではなかったと考えられる。AW海域ではアジア大陸からのダスト由来の鉄供給の影響と考えられる高い窒素固定活性が認められており、リンが活発に消費された結果SRPが枯渇状態まで低下したものと解釈される。このように本研究海域の植物プランクトン群集は全体的に強い窒素制限を受けており、それにリン供給の違いに影響された窒素固定者の地理的分布が加わるボトムアップ制御を受けていると結論される。

2. メソスケールにおける栄養塩濃度変動と植物プランクトン群集動態

ナノモルレベルの栄養塩濃度は、100 km以下のメソスケールにおいても水平的に変動した。黒潮が北上する本州南方沖の神津島の東方では、N+Nが300 nMおよびSRPが20 nMの増加が認められ、これは、1.5 oCの水温低下と0.1の塩分増加を伴う島陰に生じた湧昇であった。同様に、ソロモン諸島のブーゲンビル島の北方、3oS 170oW、10oS 161oWでも湧昇はとらえられ、下層水の持ち上がりを示すCDOMの増加を伴った。

一方、東部東シナ海では、N+Nのみが最大濃度20 nMで10 km程度のスケールで、もしくはSRPのみが最大50 nMで50 km程度のスケールで局所的に増加する事例が観測された。これらは塩分低下を伴っており、大気降下物の影響も否定できないが、主に沿岸水の影響と考えられる。すなわち、沿岸系水の沖合への移流の過程で窒素あるいはリンが選択的に消費された結果、N+NパッチあるいはSRPパッチとして検出されたと考えられる。さらに、18oN 167oEではアンモニアのみが水平スケール20 km程度で50 nM増加するパッチがとらえられた。この成因は不明であるが従属栄養者による局所的な再生と考えられた。このような局所的栄養塩パッチの多くはTChl aの増加を伴ったが、そうでない場合もあり、栄養塩供給と植物プランクトンの増殖の相対的な時間差に応じた現象をとらえていると考えられる。

一方、局所的な濃度減少も観測された。B海域のフィジー周辺では約10 kmのスケールでSRPのみが検出限界付近まで低下した。これは窒素固定者Trichodesmiumの増加によるものであった。最大1600藻糸 l-1のTrichodesmiumによりリンが効率よく利用されていたためである。フィジー周辺では高い溶存鉄濃度とTrichodesmiumブルームの出現が報告されており、本研究でとらえられたSRPの局所的な減少は島周辺の鉄供給による消費の結果と考えられる。

以上、本研究により、太平洋亜熱帯・熱帯における海盆スケールでの表層栄養塩の分布様態が初めて明らかになった。従来、安定していると考えられてきた亜熱帯・熱帯域表層の栄養塩環境は、海盆スケールでの変動にメソスケールでの変動が重なって時空間的に安定せず、ボトムアップ制御を通して植物プランクトン群集に影響を及ぼしていることが示された。今後、栄養塩動態を軸に、亜熱帯・熱帯海域が全海洋の物質循環に占める場としての重要性を解明する上で、本研究で得られた成果は貢献すると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

全海洋面積の50%以上を占める亜熱帯海域の表層では、一年の大半にわたり成層が発達して栄養塩が枯渇し、従来の分析法では検出限界以下となる。このような貧栄養海域では、植物プランクトン現存量も低いため「海の砂漠」と呼称されてきた。しかしながら、近年、栄養塩類の高感度分析法が開発され、その結果、ハワイ沖やバミューダ周辺において栄養塩がナノモルレベルで時空間的に変化し、それに応答して植物プランクトン群集も変動し、局所的に生産性が高まることが報告されるようになった。しかしながら、ナノモルレベルの栄養塩濃度が測定されている海域は上記に限られ、しかも測定が時間的に散発であるため、この現象が広大な亜熱帯海域でどの程度普遍的であるかについては、全く不明であった。本研究は、太平洋亜熱帯・熱帯域の表層において、栄養塩濃度分布を明らかにし、その時空間的変動要因、および植物プランクトン群集動態に及ぼす影響を解明することを目的とした。

観測を行った海域は中西部太平洋の北緯42oから南緯40o、東経128oから西経158oであった。航走中に船底からくみ上げた表層水の硝酸塩+亜硝酸塩(以下、硝酸塩とする)、溶存反応性リン (以下、リン酸塩) およびアンモニアを高感度比色分析法により連続測定した。同時に、水温、塩分、クロロフィル蛍光、有色溶存有機物を連続的に測定した。また、海水試料を随時採取して植物プランクトン群集組成を解析した。

全調査海域における硝酸塩濃度は極めて低く、大部分で数ナノモル程度であったが、南北方向に有意な濃度の違いが認められ、濃度の低い順に北緯42oから15o (A海域)、南緯15oから40o (B海域)、北緯15o~南緯15o (C海域) の3海域に分かれた。リン酸塩濃度は検出限界以下から数百ナノモルの範囲で変動し、硝酸塩と同様にA、B、C海域の順に増加する南北勾配を示した。水塊分析から、A海域は北太平洋亜熱帯循環、B海域は南太平洋亜熱帯循環、C海域は赤道域に対応し、それぞれの境界は、北赤道海流の北端と南赤道海流の南端に概ね一致することが明らかになった。さらに硝酸塩およびリン酸塩濃度の海域による違いは成層強度の地理的な違いに対応しており、下層からの供給程度の違いを反映したものと解釈された。さらに、A海域のリン酸塩濃度には東西方向にも勾配存在することが明らかになり、東経165o以西では枯渇していたのに対して、東側では有意にナノモルレベルで存在した。

モノビニルクロロフィルaおよびディビニルクロロフィルa濃度の総和はA海域、B海域、C海域の順に増加し、硝酸塩濃度分布とよく対応した。これは、植物プランクトン現存量が窒素供給に依存していることを示しており、栄養塩濃度から得られたN:P比が、研究海域全体を通してRedfield比よりも低いことからも支持された。植物プランクトン群集については、Prochlorococcus、Synechococcusおよび真核藻類の現存量が硝酸塩濃度に対して正の依存性を示すことを認めた。一方、ナノシアノバクテリアはこれら3群とは異なり、リン酸塩依存性を示した。これはナノシアノバクテリアが窒素固定をもつためであり、リン酸塩の高いA海域東部とB海域に多く分布し、リン酸塩が枯渇したA海域西部ではリン律速を受けていたと考えられた。A海域西部ではアジア大陸からのダスト由来の鉄供給の影響と見られる高い窒素固定活性が報告されていることから、窒素固定によりリン酸塩が活発に消費された結果、枯渇したものと解釈した。

これまでは海盆スケールでの解析であるが、栄養塩濃度は100 km以下のメソスケールにおいても多様な変動性を示した。その原因として、島周りの地形性擾乱の影響および沿岸水の影響が示された。しかしながら成因が不明な高栄養塩水塊も存在することが明らかになり、植物プランクトン現存量の増加を常に伴っていた。有機物の無機化による再生の結果として、このような水塊が形成された可能性は指摘されたが、詳細な成因については今後の課題である。

以上のことから、太平洋亜熱帯・熱帯における海盆スケールおよびメソスケールでの表層栄養塩の分布様態が初めて明らかになり、その地理的変動の成因が説明され、さらに植物プランクトン群集動態に及ぼす影響が明らかになった。特に北太平洋亜熱帯循環域西部海域でリン酸塩が枯渇していることの発見は、同海域における窒素固定の評価が必要であることを示している。このように本研究は太平洋亜熱帯海域の栄養塩変動と植物プランクトン群集動態の関係を解明する上で新たな展開を与え、学術上も応用上も極めて貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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