学位論文要旨



No 122935
著者(漢字) 五十嵐,公一
著者(英字)
著者(カナ) イガラシ,コウイチ
標題(和) 狩野永納『本朝画史』の研究
標題(洋)
報告番号 122935
報告番号 甲22935
学位授与日 2007.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第606号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小川,裕充
 東京大学 教授 佐藤,康宏
 東洋文化研究所 准教授 板倉,聖哲
 東洋文化研究所 教授 藤田,覚
 東洋文化研究所 教授 村井,章介
内容要旨 要旨を表示する

本論は、狩野永納が著した『本朝画史』について考察するものである。元禄六年の刊行以来、『本朝画史』は日本人画家を知るための基本文献として広く読まれてきた。『本朝画史』が日本絵画史研究にとって重要な書物であることは疑いない。

ところが近年、『本朝画史』については、その重要性を指摘するだけでは不十分な状況になってきた。北澤憲昭『眼の神殿』が「美術」という言葉は明治五年に初めて登場したという事実を指摘したため、美術を自明なものとしてきた従来の日本美術史研究は再考の必要に迫られたからである。この指摘の影響は大きく、そこから多くの研究課題が派生したのだが、近代以前の日本絵画史を学ぶ者が直面した課題は「美術」という言葉が生まれる明治五年以前をどのように理解したら良いのか、ということだった。研究対象としているものが「美術」という制度にどのように組み込まれていったのか、それが問われることになったのである。そして、この問題を考えようとする場合、間違いなく最重要史料の一つとなるのが『本朝画史』である。『本朝画史』を考察対象として選んだのは、このような理由からである。

序章「研究史と本論の方針」では、『本朝画史』に関する先行研究を概観する。この作業により、『本朝画史』を理解するためには『本朝画史』本文を解釈するだけでは不十分であること、更に『本朝画史』を著した狩野永納にまで視野を広げた時に新たな諸事実が明らかになってきたことを示す。その上で、『本朝画史』を著した狩野永納に注目し、永納の人物像を明らかにしてゆくことで『本朝画史』について考えるという本論の方針を明らかにする。

以下は、その方針に則った考察である。第一章「京狩野家当主・狩野永納」は京狩野家当主とはどのような立場だったのかを明らかにするものであり、次の三節から成る。「第一節 狩野山楽と山雪」では、先ず京狩野家当主であった永納の祖父・狩野山楽、永納の父・狩野山雪に注目する。彼ら二人は九条幸家に助命されているという事実が「京狩野家資料」に含まれる『御用留(四)(明治二年正月元旦~四年三月)』の記録から分かる。京狩野家と九条幸家の関係は慶長九年に始まるのだが、山楽と山雪が九条幸家に助命されたことが契機となり、京狩野家と九条家の関係が更に深くなった。このことを明らかにする。「第二節 九条家との関係」では、京狩野家当主となった永納も九条家との関係が深かったことを示す。ここで注目する史料は、九条家と血縁関係が深かった二条家の記録『二條家内々御番所日次記』である。この史料から、永納に関する多くの情報を引き出す。そして「第三節 九条家との関係から派生したもの」は、九条家との関係を窓口とし、永納は九条家と血縁関係のある公家たちと交流するようになったという事実を明らかにする。あわせて、その交流が永納に多くの絵画制作の仕事をもたらしたことも示す。ここで注目する史料は「随心院記録」、「寛文六年染筆之覺」である。永納について考える場合、九条家の存在は無視できないことを論ずるのが第一章である。

第二章「京都という場所」は、永納の活動拠点であった京都という場所に注目するものである。この第二章も三節から成る。「第一節 一条兼輝周辺の画家たち」では摂政、関白を務めた一条兼輝という人物に注目する。第一章で京狩野家と九条家の関係に注目したが、永納は一条兼輝とも親しく交流していた。このことが兼輝の日記『兼輝公記』から分かる。この日記から永納に関する多くの情報が得られるのだが、この日記の重要性はそれだけにとどまらない。兼輝が土佐光起、土佐光成、土佐光高という土佐派三代の画家たちと交流があったこと、永納も土佐派の画家たちと交流があったことも教えてくれる。そこで、これらの交流が何を意味するのかについても論じる。「第二節 永納周辺の画家たち」では、永納と同様に京都で活躍した山本友我、俵屋宗達、鶴沢探山という三人の画家に注目する。永納が彼らをどのように見ていたか、彼らとの関係はどのようなものだったのかを考え、永納の人物像を明らかにする。「第三節 永納の交友関係」は、「讃岐平田家所蔵資料」、『文翰雑編』、「狩野永納平田正純宛書状」という史料に拠りながら、京都で行われた歌会に永納が頻繁に参加していたという事実を示す。永納は山本春正をはじめとする多くの歌人たちと広く交流していた。また、その交流関係は伊藤仁斎にまで及んでいた。これらのことを論ずる。

第三章「狩野永納の絵画」では、永納が描いた作品に注目する。この第三章は二節から成る。永納が描いたとされる作品は多い。ところが、それらの中には永納作とは認められないものも存在する。そこで「第一節 永納作品の整理」は、先ず印章に注目し、永納作品の選別を行う。次にその成果を踏まえ、制作年代の分かる永納作品から明らかになる諸事実を示す。それらの中には、『本朝画史』掲載の「本朝画伝跋」は延宝六年頃に記されたものであり、それが元禄四年刊行の『本朝画伝』に掲載されたという事実も含まれる。「第二節 永納作品から分かること」では永納作品を分析するが、個々の作品ではなく、永納作品の傾向に注目する。その結果、永納作品には父・狩野山雪から学んだ部分、そこから逸脱する部分があることを明らかにする。『本朝画史』は父・狩野山雪の残した草稿に基づいている部分、永納が書き足した部分からなっている。ということは、永納作品と『本朝画史』は同じ構造をしているということになる。これらのことを第三章で論ずる。

第四章「本朝画史の成立」は『本朝画史』がどのように成立したのかを明らかにするもので、三節から成る。「第一節 本朝画史が生まれた時代」は、水戸彰考館の記録である『大日本史編纂記録』に永納が登場するという事実に注目する。水戸藩主・徳川光圀の号令で大日本史編纂は始まるが、その事業に携わった彰考館館員と永納に交流があったことが『大日本史編纂記録』の記録から分かる。この事実から、『本朝画史』成立の背景には大日本史編纂があったことを示す。「第二節 情報収集」は、『本朝画史』に掲載されている情報に注目する。『本朝画史』には四百余の日本人画家に関する情報が含まれているが、この膨大な情報を永納はどこから入手したのかを考える。永納には多くの情報入手ルートがあったと想像できるが、それらのうち特に大日本史編纂、禁裏文庫、実際に見た作品に注目する。そして、「第三節 成立過程と出版」では『本朝画史』がどのような段階を経て成立し、出版されたのかを考える。『本朝画史』は、一気に書き上げられたものではない。成立には少なくとも四つの段階があったことが分かる。その四段階で何が起きていたのかを示す。また、『本朝画史』の出版には、永納の人脈が関わっていた。このことも明らかにする。

そして、終章「本朝画史の再検討」は、第一章から第四章までの考察で新たに判明した諸事実を踏まえ、『本朝画史』ついて改めて考えるものである。先行研究に検討を加え、その上で、『本朝画史』で日本の画家あるいは絵画の歴史を「和」と「漢」で整理するという考え方がなぜ採用されたのか、という問題に対する私案を示す。更に、『本朝画史』を考える場合の難しさがどこにあるのかについても述べる。以上が本論の内容である。

なお、本論の内容を補うものとして、二つの補論を加える。補論一「九条幸家と京狩野家」は、第一章で論じた京狩野家と九条家の関係を、九条幸家、幸家の子、幸家の孫という三つの世代で区切り、九条家の視点からまとめ直したものである。これにより、京狩野家と九条家の関係が明確に理解できるはずである。補論二「三宝院覚定と宗達」「三宝院高賢と光琳」は、俵屋宗達と尾形光琳に関する論考である。彼らの活動は本論と無関係に思えるかもしれない。しかし、実は思わぬ関わり方をしている。というのは、宗達は三宝院門跡覚定と交流していたことが「醍醐寺文書」の『寛永七稔日々記』の記録から、光琳は三宝院門跡高賢と交流していたことが『三宝院日次記』の記録から分かる。その覚定と高賢は、ともに九条家と血縁関係が深い人物である。つまり、京狩野家と宗達、光琳は近いところで活躍していたことになる。京狩野家と宗達、光琳の関係は従来注目されてこなかったのだが、今後はこの関係について考える必要がある。本論の内容は京狩野家の問題だけに留まらないことが示せるはずである。した画家である。そこで、京都という場所に注目し、そこでの永納の交流関係について明らかにしてゆく。『兼輝公記』から永納と一条兼輝、土佐派の画家たちに交流があったこと、「讃岐平田家所蔵資料」、『文翰雑編』、「狩野永納平田正純宛書状」から永納は京都で行われた多くの歌会に参加し、そこで人脈を広げていたことを明らかにする。

第三章は二節から成る。第一章と第二章は史料に基づいた考察だが、第三章では永納が描いた作品に注目する。先ず永納の作品を厳しく選別し、それらの作品から『本朝画史』を考えるための有効な複数の情報を引き出す。

第四章は三節から成る。ここでは、『本朝画史』がどのように成立したのかを明らかにする。『本朝画史』成立の背景には水戸藩主・徳川光圀により着手された大日本史編纂があったこと、『本朝画史』に掲載される膨大な情報は大日本史編纂、禁裏文庫のような複数情報入手ルートから得られたものだったこと、『本朝画史』は一気に書き上げられたものではなく、その成立過程は少なくとも四段階に分けることができ、出版には永納の人脈が関わっていたことを示す。

そして終章では、第一章から第四章までの考察で新たに判明した諸事実を踏まえ、『本朝画史』ついて改めて考える。先行研究に検討を加え、その上で『本朝画史』で日本の画家あるいは絵画の歴史を「和」と「漢」で整理するという考え方がなぜ採用されたのか、という問題に対して私案を示す。そして、『本朝画史』を考える場合の難しさがどこにあるのかについても述べる。

なお、本論の内容を補うものとして、二つの補論を加える。補論一は第一章で論じた京狩野家と九条家の関係を、九条家に注目してまとめ直したものである。これにより、京狩野家と九条家の関係が明確に理解できるはずである。補論二は、俵屋宗達と尾形光琳に関する論考である。宗達は三宝院覚定と交流し、光琳は三宝院高賢と交流していた。そして覚定と高賢は、ともに九条家と血縁関係が深い人物である。つまり、京狩野家と宗達、光琳は近いところで活躍していたことになる。本論の内容が京狩野家の問題だけに留まらないことを示すための論考である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、初代狩野山楽・二代山雪に続く京狩野家第三代当主永納(一六三一ー一六九七)の画業と、永納が父山雪の遺稿を継承・増補のうえ編纂・刊行した、我が国最初の画史書である『本朝画史』(一六九三年)の成立について論ずるものである。

その前提として、氏は、山楽・山雪が直面した絶家の危機について、例えば、山楽の助命は松花堂昭乗が行ったとする、当の『本朝画史』に云う通説を否定する。京狩野家が永年仕えてきた九条家に関わる、明治初年当時の当主永祥の日誌『御用留(四)』に着目し、山楽が豊臣家滅亡の際に陥った危難を救ったのは、徳川二代将軍秀忠に助命を願い出た九条家であるとする記述を見出す。それを糸口に、当時の九条家当主幸家の妻が、秀忠の妻御江与の再婚前の実子であるという密接な姻戚関係にあったことを明らかにし、『御用留』の伝承を確認する。そのうえで、『幸家公記』や幸家の子九条道房の『道房公記』、幸家の子康道が嗣いだ『二条家内々御番所日次記』、山楽・山雪が襖絵を制作した妙心寺塔頭天球院の外護者池田家の姫を母とする一条兼輝『兼輝公記』などの記事に基づいて、京狩野家三代が、九条家や二条家、一条家などの仕事を一貫して担ってきたことを実証する。

画業については、延宝四年(一六七六)の年記と「山静」(朱文鼎印)「永納」(白文方印)の印章を伴う「穴太寺縁起絵巻」(穴太寺)を基準作・基準印として、同文印を含む十九の印章の使用例により、現存作例を分類する。さらに、年記を伴う作例の称号の使用年代をも参照することにより、各印章の使用年代を前中後期の三期に分け、各作品の制作時期を説く一方、造形的には、その制作時期ごとに、父山雪に学んで図様や技法を継承するものと、黄檗画像や大和絵など父の手がけなかった分野のものがあることを明らかにする。また、『本朝画史』については、九条家や一条家、あるいは『大日本史』編纂から知り得た史料や、永納自身が実見した作品に基づく記述も認められることを挙げつつ、初代山楽に至るまでの日本絵画史を和漢に二分して把握するその史観が、山楽・山雪から永納へ、営々と培われてきた広範な藝術的・社会的関係を基盤として成立したと指摘する。

本論文は、日本近世美術史研究ではほぼ等閑に付されてきた公刊・未公刊の公家の日記などを博捜することにより、京狩野家三代がその立場を如何に維持・拡大してきたのかを解明し、永納の画業や『本朝画史』がその努力の結実に他ならないことを示す点で、高く評価できる。ただ、現存作例のより詳細な造形的分析や、『本朝画史』本文に即した具体的な文献的考察に不足するところがある点は否めないものの、それらを考慮に入れても、新たな視点に基づき新たな知見をもたらす卓越した業績であることに何ら変わりはない。

審査委員会は、以上の点から、本論文が博士(文学)にふさわしいものと思量する。

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