学位論文要旨



No 122942
著者(漢字) 川越,美穂
著者(英字)
著者(カナ) カワゴエ,ミホ
標題(和) 明治初期における天皇親裁の制度的形成 : 天皇と太政官内閣の関係性を中心に
標題(洋)
報告番号 122942
報告番号 甲22942
学位授与日 2007.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第613号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 鈴木,淳
 東京大学 准教授 野島,陽子
 東京大学 教授 藤田,覚
 社会科学研究所 准教授 五百旗頭,薫
 國學院大学 教授 坂本,一登
内容要旨 要旨を表示する

明治国家形成過程において、王政復古当時から「天皇親裁」は「公論採取」とともに正統性の根拠であり、政府はその理念を維持し続けた。しかし当初公論をとる政体導入を試みたものの軌道に乗らず、いかに政府安定化を実現するかという課題に対し、「天皇親裁―天皇が政治を行うという建前―」の表明は重要な意味をもった。従来の立憲制導入に関する諸研究において、権力分立の観点では豊富な蓄積があるが、分立と同時に必要となる統合機能の研究は手薄であった。よって政治決定の安定化を図る上で、いかに機関統合の象徴として「天皇親裁」の制度を維持したのか、換言すると「天皇親裁」の建前を政治決定の実際とどのように整合性をとっていったのかを明らかにするのが本論文の課題である。とくに官僚制による統治の方針が示され、統治の実際と「天皇親裁」理念が、制度上に乖離して表れることになった明治四年以後、後の内閣制における天皇と「内閣」の関係性の基礎を敷いた明治一二年太政官制改革までを論じる。各章の内容は下記の通りである。

第一章では、明治四年から明治六年太政官制潤飾に至るまでの、最高意思決定に対する天皇の関与のあり方が、どのように構想されてきたのかを、正院決裁文書の裁可印の位置付けを巡る議論を中心に検討した。天皇が裁可に関与することを章程上に表すべきとの考えは明治四年時からいずれの官制立案者も共通して持っていたが、各々には温度差があった。ひとつは天皇の意思を議事に反映するか否かという問題である。議事に天皇の意思を反映させない案は、さらに政府意思決定の正統性の根拠を何処に求めるかという点で二つに分類できる。正統性を天皇にのみ求めるものと、天皇と公論の双方に求めるものである。結果として明治六年五月体制では、正院に与えられた議政・行政一体の強力な権限の根拠を、天皇にのみ求める体制として発足したのであった。

第二章では明治六年五月の太政官制潤飾時に、天皇による法の裁可書である『御批国憲』『御批民法』を検討し、天皇が法裁可を文書上に示した最初の事例であることを示した。それ以前から続く断刑伺の裁可は六年五月以後も続くことから、立法権と司法権を天皇に帰属させる措置がとられていたといえるのである。しかし法裁可はすぐに断念される。その要因として、各省間の調整不足が露呈することや、奏上案件区分の不明確さを挙げた。一方で律という明確な根拠のある断刑伺は天皇の裁可が継続する。よって閣議に上申する以前の勘査システムや法体系そのものの区分が準備されなくては、裁可行為という形での「天皇親裁」は実行できなかったのではないかと指摘した。

第三章では征韓論政変後、政治決定機構の全面的再構築を課題とするなかで、天皇の政治関与を官制構造上どのように位置づけるべきと考えられたか、明治七年を中心に考察した。まずは政府強化策としての親裁が大久保利通によって示され、奏上体制の整備も行われた。そして天皇親臨を前提とする「内閣」を会議体で設け、そこに政府安定化のため不安定要素をとりこむという岩倉の試みもあった。これらは従来通り政治意思の発生源を唯一天皇に求めるものだった。一方公論採取を不可欠とし、会議の決議について天皇が裁可をするという構想が地方官会議開設にあたって生じていた。これは政治意思の発生源を、天皇と公論からの二方向とするものであった。よって当時進められた輔弼体制の整備には二つの方向性があったのである。しかし明治七年中には結論を出すことはできず、結局明治七年夏以後は日清開戦危機を迎えて、体制を直接的に強化するための「天皇親裁」に利点を見出す状態が継続する。よって明治七年は政治決定に「公論」を取り込むという課題に直面し、「天皇親裁」論の混在期に入ったと位置づけることができる。

第四章では、大阪会議によって政治決定の正統性を天皇と公論の二方向に求める政治体制構築が選択され、それが天皇の政治機関、あるいは輔弼機関のあり方にどのような影響を与えたのかを論じる。政治意思の発生を天皇と公議とする以上、「天皇の意思決定」と「公論」自体はそれぞれ他者であり、議決を国家意思として決定するのは本来天皇その人とすべきであるため、天皇と行政機関は分離しなくてはならない。しかしそれは不成功に終わった。とはいえ元老院を設置して地方官会議を開催する以上は、行政機関とは別に「天皇の政治」の能動性を保証する機関が必要不可欠となる。輔弼機関としての「内閣」が、設置を見送られたにも拘わらず、最高意思決定機構の中枢機関として各種章程上に表れるようになる背景はここにある。さらに明治一〇年には内乱が勃発し、統治システム全体の引き締め策が必要になった。よって再び政府決定機構の直接的強化としての「天皇親裁」論が登場したのである。そこで天皇と大臣・参議の会議体があるべき「内閣」の姿となるべく各々の一体化が図られ、従来裁可が及んでいなかった行政官から太政官への上申について裁可範囲を広げる。すでに元老院を経由した決定には天皇は裁可を与えていたから、立法と行政両権の主宰者としての裁可を開始したのだった。

第五章では、政府意思決定と「天皇の意思決定」を同義とする建前を、制度的に支える要となる大臣の性格を、天皇の長期不在時を事例に考察するものである。長期不在時は移動先に加え通常政治も輔弼者を要したが、二元的輔弼体制は、命令系統を多元化できる官制によって支えられた。両大臣は相互の権限の差が明確ではないなか、政令一元化を最重要視しつつ運用していたのであった。国土全体で一人の君主を仰ぐという明治政府の国体像を実現させるためには、明治初期においてはそれを補う弾力性ある官制が効力を発揮したのである。それを象徴するのが複数大臣制であり、政治決定の輔弼という職掌は、彼らが共同歩調をとることで担われたのだった。

第六章は、巡幸における恩賜の決定過程を、宮内省や内務省の随行員の言動などによって検討し、巡幸にこめられた施策の性格を再考するものである。通常政治では実際の政治は臣下が行うが、巡幸では天皇の能動的意思表現を凝らしたのであり、その効果を強く意識する行在所の意向が、恩賜という一つの施策に反映されることを示した。こうして天皇が地方の実情に配慮する姿勢を随行員たちが示すことで、反発の多い有司専制の通常政治を是正する印象を与えさせ、天皇を戴く政府に対して、政府外からより一層の信頼を得るための効果がはかられた。

第七章では、大久保死後における天皇と政治を取り巻く環境を取り上げ、第八章で述べる明治一二年太政官制改革に至る前提条件を論じた。大久保没後、従来帝権確立を課題としていた岩倉が宮中担当となり、天皇の政治関与の問題について、侍補らと内閣の調整役となる。一方で天皇の意思や内閣内部の意見によって、宮中と内閣を分離する原則の発生があった。だが侍補が天皇の意思を実際に政治決定に反映させることを急務と主張する一方で、内閣としては対策の必要性を認識しつつも、それに対応する準備は未だ整っていなかった。さらに明治一一年末には参謀本部の設置によって、輔弼の形態に大きな変化があった。このように天皇の意思と実際の政治決定の関係整備や、国家意思決定機構全体の秩序の再構築が、内閣にとって明治一一年中に課題となっていたのである。

第八章では、明治一二年勤倹の聖旨とそれにともなって実施された親裁体制構築について、大臣・参議・書記官といった宮中側近以外の対応を考察した。天皇の意思によって「勤倹」路線への転換を図ることは、井上毅や元田永孚らが明治一一年中から意図しており、岩倉によって推進されようとした。天皇が政治方針の大局を示し、それに具体的政策を提示する、という形によって懸案事項の解決に向かおうとしたが、天皇の意思発動の形で具体的政策展開をすることには参議は消極的であった。一方制度としての親裁体制整備については、天皇と国家意思決定機構全体との関係性、天皇の意思と大臣参議議事の関係性の観点で、岩倉を中心とする立案に関与した書記官たちによって提示されたが、前者は見送られ、後者を主題として実行された。結果として天皇が意思発動する場合は、大臣・参議の承認を必要とし、国政の重要決定の多くは大臣参議が議事を確定した後で天皇が裁可することになった。さらに省卿専決分野を拡大し、行政各省上申を、参議を介在せず天皇と大臣のみで決裁することになった。ここにすべての政府意思決定を「天皇親裁」とする建前が一人歩きをするのを抑制する対策が講じられ、政府は大臣の承認なくして天皇が意思発動できない方針を固めた。そして行政官事務を大臣参議議事から分離していくことで、立法行政並立の準備を開始したのである。したがって天皇の政治意思の発動について各大臣が輔弼責任をもち、行政責任と執行を一体的に担う行政官を設置した内閣制度の布石が、この段階から敷かれたといえよう。

本論文が扱った時期は天皇が政治決定を行うことを、個々の法令に明示しない時期であり、こういった時期にどのように「天皇親裁」の表現を凝らすのか、上記の検討でその全容が明らかになったと考える。明治政府にとって「天皇親裁」は、政治決定の根拠として至上の価値と考えられ続けたものの、官僚制内部にも政府外に向けても、絶えずそれを表明し、時にその価値の強化を図って正統性の効力を保持し続ける必要があった。しかし「天皇親裁」による政府の安定化策には二通りあった。天皇の日常的政治決定への関与の建前を表明することで、官僚制内部の統制や政府外からの信頼獲得を目的とするものと、議会と行政の統合者、最終決定者として天皇の役割に期待する場合である。両者には政治意思の発生源を天皇のみとするか、天皇と公論とするかの差があった。明治八年以後は議政行政一体の政府から立法を分離し、やがて行政も分離すべきとの方向性を固め、後者の方向性に向かうものの、現体制保持という短期的政府強化策として採用されたのは常に前者であった。「天皇親裁」理念による直接的政府強化策で当面の政府の安定性を図ろうとしながら、長期的制度構想の実現が図られたのである。それが国政の責任と執行を行政官に委ね、天皇の無謬性を確保しながら国政諸機関の統合者、最終裁可者として天皇を位置づけるという、後者の系譜による「天皇親裁」体制であった。二つの系譜の「天皇親裁」を交錯させながら、国家の統治権を保有する天皇の立場を、制度的に確立していったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は序章、終章のほか各2章からなる4部構成をとり、明治4年から12年を対象期間として、国家意思決定の過程での天皇の制度的位置づけを論じる。近年の文書決裁形式の研究によって明治10年ないし12年に新憲法制定直前まで続く天皇親裁体制の原型が確立されたことが指摘されているが、I、IIではそれ以前の時期を検討して明治4年以来、親裁の形を示す様々な構想や試みが繰り返されてきたことを示す。IIIでは明治9年以降の巡幸が複数の大臣が随行と東京での国政の代行とを分担することで、統治の形式と両立したこと、また大久保利通の主導性が強調される9年の巡幸でも天皇の独自の意思を示すような恩賜が行われたことを論じる。IVでは先行研究の多い明治11、12年の天皇親政運動の時期を親裁制度の形成という観点から再検討して、その意味と限界を示す。

実証面では、従来制度は存在したものの実行は疑問視されてきた明治6年太政官制潤飾時に導入された天皇の決裁を示す「御批」が、短期間実施された後に中絶したことを発見して、その挫折を原案勘査機能の未整備によると論じ、また、決裁様式の変化の前後で実際に文書がどのように決裁されていたか定量的に検討することで、12年の制度変革が省卿の権限を拡大する意味を持っていたことを指摘するなど、史料に即した検討による新たな知見を提示する。全体を通じての論旨では、従来、政治勢力の対立と妥協の産物として個別的に説明されがちであった太政官の制度変革や、象徴的意味が強調されてきた巡幸を、天皇親裁体制の形成という観点から一貫して検討したことが本論文の特色である。親裁は官僚制内部の統制や政府外からの信頼獲得、あるいは議会と行政の統合を目的してそれぞれの時期に様々な形で構想され、一定の合意を得て実施されたが、それはこの時期には明確に制度化されていなかった「内閣」のありようを規定し、近代的内閣制度の形成につながって行った。そして親裁の制度化を妨げたのは、国家体制全体をどう形作るかという構想の未熟や政治的対立とともに、決裁をすべき対象を確定し、あるいは決裁を受ける案を完成度の高いものにする実務的な体制の未確立であったとする。

天皇親政を掲げた政府組織の確立過程を、親裁を表明する制度の確立という視角で分析するのは極めて正統的かつ説得的であるが、従来系統的にはなされておらず、本論文は実証的な手続きの精確さとともにこの点で研究史上大きな意味を持っている。親裁が最終的には政府外への政府の権威の表明という効果を持ったとしながら、それぞれの時点で親裁形式をどのような形で国内に示したのかという布告形式面での検討が不十分であるなどの残された課題はあるものの、上記のような成果に鑑みて、本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に十分に相当する論文であると判断する。

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