学位論文要旨



No 122944
著者(漢字) 石川,博樹
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,ヒロキ
標題(和) ソロモン朝後期に於ける北部エチオピアのキリスト教王国 : オロモ進出後の王国史の再検討
標題(洋)
報告番号 122944
報告番号 甲22944
学位授与日 2007.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第615号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蔀,勇造
 東京大学 准教授 大稔,哲也
 金沢大学 教授 柘植,洋一
 東京外国語大学 教授 黒澤,直俊
 宮城学院女子大学 教授 富永,智津子
内容要旨 要旨を表示する

本稿が対象とするのは、現在のエチオピアとエリトリアの高原地帯に存在したキリスト教王国である。「諸王の王」、すなわち「皇帝」と名乗る君主が古代イスラエル王国のソロモン王の末裔と称したため、この王国はソロモン朝エチオピア王国と呼ばれる。

サハラ以南のアフリカでは例外的に、ソロモン朝後期(1540-1769年)の北部エチオピア史については、古典エチオピア語で執筆された歴史文献、ローマ・カトリックの布教のために北部エチオピアに赴いたイエズス会士の報告、そしてブルースをはじめとするヨーロッパ人旅行者が残した記録といった複数の史料による歴史研究が可能である。これらの史料を用いて、先行研究では以下の点が明らかにされている。1270年に成立したソロモン朝エチオピア王国の版図は15世紀に最大となったものの、16世紀にムスリム勢力、そしてオロモと呼ばれる民族が相次いで王国内に攻め入った。特に後者の進出の影響は大きく、王国の版図は半分程度に縮小する。しかし王国はゴンダールを都として再建され、ゴンダール期(1632-1769年)半ばにはオロモの進出によって失われた領域の奪還が試みられるまでに国力は回復した。その後ソロモン朝皇帝の統治能力は低下し、士師時代(1769-1855年)に入ると皇帝は州統治者に傀儡化され、名目的に在位するのみとなる。しかしソロモン朝に代わる新たな王朝が樹立されるのは、ようやく19世紀半ばになってからであった。

ソロモン朝後期史についてはいくつかの先行研究が存在するものの、次の2つの重要な課題が解明されないままになっている。まずプレ・ゴンダール期(1540-1632年)からゴンダール期前半(1632-1706年)にかけて王国が再建された要因が明らかにされていない。またキリスト教王国の「衰退期」とされるゴンダール期後半(1706-1769年)に州統治者たちが新たな王朝を樹立しなかった要因も解明されていない。ソロモン朝後期にキリスト教王国が再建されたことと、皇帝による支配が続いたことは、オロモの進出を契機として始まった新たな民族分布の形成や、その後のこの地の政治情勢の展開に大きな影響を及ぼした重大な史的事象である。これらの事象に関する研究が進んでいないことは、北部エチオピア史の通時的理解を大いに妨げている。

このような問題関心に基づき、本稿では以下の順で論を進める。

序論では、北部エチオピアの自然環境と言語、問題の所在について述べた後に、史料解題を行う。さらにソロモン朝後期史の主要史料となる古典エチオピア語による歴史叙述の特色について論じる。

本論では、まず第1章から第3章前半にかけて、プレ・ゴンダール期とゴンダール期前半に皇帝たちによって実施された改革と、これらの時期に進行した王国の再建との関係を分析する。次いで第3章後半から第6章にかけては、ゴンダール期後半に見られた軍事上の変化、この時期の州統治者と皇帝との関係、そして帝位継承資格等を分析することにより、ゴンダール期後半に王朝交替が起こらなかった要因を考察する。

本論の各章に於ける具体的な検討課題は以下のとおりである。

第1章では、プレ・ゴンダール期に導入された牛税について、その導入と廃止の時期、及びその経済的な価値等について分析し、16、17世紀に於ける王国の再建との関連を考察する。

第2章では、まずタナ湖周辺地域の征服活動について解説する。次いでこの征服活動が進行する中で導入されたベフトワッダド職とタラッラク・ブラッテノチ・グェタ職を中心とする新たな統治体制についてその機能を分析し、プレ・ゴンダール期からゴンダール期前半にかけて王国が再建された際にそれがいかなる寄与をしたのかという点を解明する。

第3章では、ゴンダール期に於ける軍事体制の変化について、ソロモン朝前期に見られた地方駐屯部隊制度がゴンダール期に存在したのか否か、貴族の私兵が軍事上重要な役割を果たすようになるのはいつであるのかといった点を解明する。そしてゴンダール期に於ける軍事体制の変化と王国の再建、皇帝の統治能力の低下との関係について考察する。

第4章では、青ナイル以南の地からタナ湖の南に位置する諸地域に来住したオロモの諸集団について、その来住の経緯、ゴンダール期後半の王国内に於ける政治的・軍事的活動について解明する。

第5章では、ゴンダール期末の2人の皇帝、すなわちイヤス2世とイヨアスの治世に於ける主要州の統治者を特定した上で、彼らの出自を明らかにし、イヤス2世の治世までに各州の統治者職が州内の2、3の家系に独占されるようになったとするベリー説の当否を検証する。

第6章では、皇帝の統治能力が低下したとされるイヤス2世とイヨアス治世に政情が一時安定した背景やエチオピア王国に於ける帝位継承資格等を検討することによって、ゴンダール期後半に王朝交替が起こらなかった要因を解明する。

検討の結果得られた結論を要約すれば以下のようになる。

まずプレ・ゴンダール期からゴンダール期前半にかけてオロモの進出が続く中、エチオピア王国内では牛税の導入、ベフトワッダド職とタラッラク・ブラッテノッチ・グェタ職を中心とする新たな統治体制の導入、そして地方駐屯部隊制度の再建という財政、統治体制、軍事に関わる改革が実施された。牛税による税収は莫大なものであって、対オロモ戦の遂行に貢献した。プレ・ゴンダール期に導入された新たな統治体制は、オロモの進出が続く中でタナ湖周辺地域の征服活動を進めていた皇帝の軍事的負担を軽減し、ゴンダール期に王国の中枢となるこれらの地域の征服に寄与した。さらにソロモン朝前期に存在した地方駐屯部隊制度がゴンダール期前半に復活したことは、プレ・ゴンダール期に進んだ貴族の権力強化を抑える働きをした。すなわち先行研究に於いては軽視されてきたものの、これらの改革はキリスト教王国の再建に貢献したと考えられる。

次に、先行研究に於いては、ゴンダール期後半に漸進的に皇帝の統治能力が低下するとともに、同期前半から私兵を増やして勢力を強めていた貴族たちが各州の統治者職を独占するようになったとされてきた。しかし実際には州統治者を含む貴族の私兵の活動が活発化するのは、地方駐屯部隊制度が機能しなくなったゴンダール期半ば以降のことである。またゴンダール期後半の州統治者にはオロモをはじめとする18世紀に入ってから政治的な地位を高めた集団の出身者が多く含まれ、また各州の州統治者職が特定の貴族の家系によって独占されるという状況にも至っていない。先行研究で主張されるところとは異なり、ゴンダール期後半に於いて、未だ統治基盤を強化していなかった貴族たちは皇帝の権威を後ろ盾とすることを必要としており、皇帝はこのような州統治者と、ダモトのジャウィをはじめとするタナ湖南方地域に移住させたオロモ諸集団の協力を得て、反抗する州統治者を抑えることに成功した。しかしこのような皇帝と州統治者の妥協による一時的な政情の安定は長くは続かず、勢力を強めた州統治者たちによる抗争が激化すると、これに皇帝の外戚やオロモが加わって内乱へと発展し、その中で皇帝は権力を喪失する。しかしゴンダール期末に至っても州統治者たちは新王朝を樹立する程の政治的、軍事的な力を有しておらず、また北部エチオピアのキリスト教徒社会に於ける支配・被支配関係の複雑さ、そして帝位継承資格の制限の中にあって彼らが帝位に就くことは困難であったため、王朝交替は起こらなかった。

審査要旨 要旨を表示する

現在のエチオピア北部とエリトリアの高原地帯を13世紀後半から18世紀後半にかけて支配したキリスト教王国は、君主が古代イスラエル王国のソロモン王の後裔と称したために、ソロモン朝と呼ばれる。本論文は、通説では衰退の一途をたどったと見なされてきたこの王朝の後期の歴史に、ゲエズ語(古典エチオピア語)文献、ポルトガル語で記されたイエズス会士の報告、ヨーロッパ諸語の旅行記などの史料を駆使して再検討を加え、王権と地方諸勢力の関係や民族移動に伴う政治・社会の変動の実態を解明した研究である。先行研究が史料の記事を鵜呑みにし、それをつなぎ合わせて「エチオピア中世史」と称していたのに対し、綿密な史料批判に基づいて、通説に変更を迫った点に重要な意義が認められる。

1270年に成立したソロモン朝エチオピア王国は15世紀に最盛期を迎えたが、16世紀に東からイスラム勢力、次いで南からオロモと呼ばれる異民族の進入を受けて弱体化し、版図は最盛期の半分程度にまで縮小した。ソロモン朝後期と呼ばれるのはその後の時代であるが、この間の歴史について、従来の研究では特に次の2点が未解明の課題として残されている。まず、一旦弱体化した王国はその後ゴンダールを都として再建されたが、これを可能とした歴史的要因が明らかでない。また完全に弱体化したように見える王権が18世紀に至ってもなお存続し、ソロモン朝に代わる新たな王朝を樹立しようとする動きが見られないのも不可解である。これらの点を解明するために、主として史料論を展開した序論に続いて、本論では財政、統治体制、軍制、オロモの進入と定着、州統治者の出自、エチオピアの王位継承資格等の重要テーマが、六つの章に分けて論じられる。その結果、次のような結論が得られた。

ソロモン朝の後期にオロモの進出が続くなかで、王のイニシアティブで財政、統治体制、軍事にかかわる改革が実施され、王国の再建に大きく寄与した。王権が漸進的に衰退したと見なされた時期においても、実際には王と州統治者の妥協によって、政情の安定化が図られていた。また州統治者レベルの地方有力者の勢力も決して安定したものではなく、新旧勢力の交替の激しいことが明らかになった。また、ソロモンの末裔にしか王位継承の正統性を認めない伝統が王朝交替の障害となっていたことも確認された。このように、従来は単純化されてきたソロモン朝後期の歴史過程が、実は複雑で多面的なものであることを、史料の綿密な分析と慎重な考察に基づいて明らかにした功績は大きい。

章を単位としたテーマごとの研究は緻密であるが、対象となる時代全体の描き方にダイナミズムが乏しいとか、ゲエズ語やポルトガル語の手稿本の探索がなお十分でない等の注文が審査委員からつけられたものの、本論文が全体として高度な学術的内容を備え、ソロモン朝後期のエチオピア史研究において、国際的に見ても遜色のない重要な貢献であることは間違いない。よって審査委員会は、全員一致で本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものであるとの結論に達した。

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