学位論文要旨



No 122953
著者(漢字) 沖,公祐
著者(英字)
著者(カナ) オキ,コウスケ
標題(和) 流通論の展開 : 余剰の政治経済学
標題(洋)
報告番号 122953
報告番号 甲22953
学位授与日 2007.09.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第221号
研究科 経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 柴田,徳太郎
 東京大学 教授 丸山,真人
 信州大学 教授 青才,高志
 東京大学 准教授 竹野内,真樹
内容要旨 要旨を表示する

マルクス経済学にとって、余剰を理論的に解明することはもっとも中心的な課題のひとつである。そして、この課題は、労働力の商品化を説いたあとの生産論において果たされる。そこでは、余剰は、労働力の価値と労働力の形成する価値の差額、すなわち、剰余価値として捉えられる。

余剰を剰余価値として説明するという目的意識は、生産論に先行する流通論においては、逆に、余剰の問題を徹底して排除するという効果を伴った。このことは、市場の理解に対し、また、延いては、資本主義の理解に対し、無視しえぬ影響を及ぼしているように思われる。本稿では、流通論のなかに余剰の問題を積極的に導入することによって、従来のような〈剰余価値の経済学〉ではなく、〈余剰の政治経済学〉を構築することを試みる。

第1章「流通における余剰」

剰余価値の生産に還元されえない流通における余剰を考察することによって、従来の市場観を刷新することを試みた。

第1節では、まず、マルクス以前の学説に遡り、欲求と欲望の区別から交換に対する二つの捉え方が生じたことを概観した。二つの捉え方とは、欲望に基づく奢侈=交換論(ヒューム)と欲求に基づく必要=交換論(スミス)である。

第2節では、マルクスの交換論を検討した。マルクスはスミスの必要=交換論を批判するために、商品・貨幣論を単純商品流通として展開した。このことがマルクスの所説に与えた歪みを指摘したうえで、余剰=交換論(ロック)を参照することによって、それを修正しうることを示唆した。

第3節では、単純商品流通を前提しない商品論を構築することを試みた。単純商品流通を想定することによって、スミスの貨幣発生論と同じ困難に陥る可能性があることを指摘したうえで、単純商品流通に基づく分裂の論理によってではなく、余剰=交換論に基づく展開の論理が採られるべきだと主張している。

第2章「貨幣機能の二重構造――価値尺度と流通手段」

これまで貨幣論研究において殆ど取り扱われてこなかった貨幣諸機能間の関連の問題を、価値尺度と流通手段の二機能に焦点を絞って考察した。

第1節では、価値尺度と流通手段の関連の考察に先立ち、価値形態論的視角から価値尺度機能が検討される。価値尺度における表現の機制とそれに伴う取り違えによって、貨幣の使用価値は価値の形態として現われるようになる。価値尺度としての貨幣は、有用性を齎すところの自然的諸属性に加え、形式的使用価値という社会的属性を備えるが、このことを素材性Materialitatという概念を用いて説明した。

第2節において、価値尺度と流通手段の関連が討究される。まず、宇野弘蔵の価値尺度論の検討を通じ、それが価値尺度と流通手段を関連づけるの一つの方向を示す一方で、鋳貨・価値章標の理解を困難にするという別の問題を孕んでいることを指摘した。そのうえで、マルクスの二機能の対蹠的把握、価値尺度の観念性と素材性、流通手段の実在性と非素材性に着目し、二機能が代表Vertretungの機制によって接合されることを明らかにした。価値尺度の観念性はその素材性が別の素材(流通手段)によって代表されることを可能にする。さらに、流通手段が価値尺度における表現の機制を代表することによって、貨幣の二機能は入籠状の二重構造をなすことが示され、また、取り違えも二重に生じることが指摘される。

価値尺度と流通手段の代表関係の成否に信頼Vertrauenという要素が介在することを確認したうえで、第3節において、貨幣における信頼の問題が検討に付される。まず最初に、代表に対する信頼が本来的に偶有的なものであることが明らかにされる。それと同時に、代表の機制が信頼の対象にずれを引き起こすことが指摘される。さらに、貨幣には代表に対する信頼とは異なるもう一つの信頼、すなわち、貨幣価値に対する信頼が存在するが、価値表現の機制に由来する貨幣価値の知悉の困難性のために、その信頼は容易に成り立たない。しかしながら、高く売って安く買うという市場における行動原理が、貨幣価値に対する信頼を結果的に成立させることが明らかにされる。

第3章「蓄蔵貨幣の形成と資本の運動」

蓄蔵貨幣Schatz概念は、これまで貨幣理論のなかで必ずしも積極的な位置を与えられてこなかった。この章では、蓄蔵貨幣を貨幣の資産性として捉えなおす一方で、それが資本の運動の解明に重要な視座を与えるものであることを明らかにした。

第1節では、マルクスがもともと無政府的な市場観をもっていたこと、しかしながら、貨幣数量説を批判するという目的のために、『資本論』では、この見方が消極化することになったことを指摘した。また、これに伴い、蓄蔵貨幣概念も軽視されることになった経緯を説明した。

第2節では、マルクスの蓄蔵貨幣概念のもつ限界を示したうえで、その積極的な内容を貨幣の資産性として捉え返した。さらに、貨幣の資産性が商品一般の資産性とは区別される特殊性をもつことが指摘され、余剰が貨幣として市場の内部に積極的に形成されることが明らかにされた。

第3節では、余剰としての貨幣が滞留する市場の特性が探られる。すなわち、貨幣滞留のある市場は、価格のばらつきが時間的にも空間的にも生じるような不均質な構造をなしている。この市場の不均質性と余剰としての貨幣の存在が、資本の運動を可能にし、収益性という資産の新たな側面を展開することが明らかにされる。さらに、資本の運動は、労働力商品化を通じて生産を包摂するようになるが、そこにおいても、流通と生産の間には断層が存在することが強調される。

第4章「労働力商品化の多型性」

労働力商品論は、マルクス経済学固有の資本主義理解をもっとも集約的に表わしている。近年、この労働力商品論に対し、様々な角度から批判が寄せられている。本稿は、労働力商品論が限界をもつことを認めつつも、労働力商品の外部性というマルクスの基本的視角をきわめて重要なものだと考える。従来の労働力商品論の難点は、労働力をはじめから単一な型にはめて理解してきたところにある(労働力の単一化論)。この論文では、労働力商品化の多型性をこれに対置することで、労働力商品の外部性というマルクスの視角を活かす方途を探った。

まず、第1節で、マルクスの労働力商品論には、もともと労働力の単一化論とは別の理論的可能性も存在していたことが確認される。しかし、〈二重の意味で自由な労働者〉として表現される労働力単一化論の方が、プルードンに対する批判意識も相俟って『資本論』で前面化してくることになる。このことはマルクスの労働力商品論のみならず、資本主義把握に対しても限界をもたらすことになった。

第2節では、労働力に関する二つの単一化論(〈再生産〉過程の単一化論と労働過程の単一化論)が『資本論』の労働力の価値規定に与えた負の影響を考察した。マルクスは、資本主義的人口法則によってマルサス人口論を批判しながらも、古典派賃金論(労働力商品の価値規定)を受け入れたことによって、論理的な齟齬を抱え込んでしまった。マルクスのマルサス批判を完遂するためには、労働者およびその子供の生活手段という労働力価値の規定は再考されねばならない。また、養成費規定も、労働過程と熟練形成との関係を無視する労働過程の単一化論に陥っており、徹底的な再検討に付される必要がある。

第3節で、労働過程の単一化論の見直しを図る。『資本論』の労働過程論の検討を通じて、労働における熟練の契機を析出した。熟練には、横と縦の二つの方向性があり、また、熟練の対象も生産手段(労働手段・労働対象)と人(協働者)とに分かれる。

第4節では、熟練がもたらす労働市場の分化を考察した。まず、縦横両方の全面的熟練を要する労働過程に対しては、高賃金で流動性の高い自立的労働市場が形成される。縦のみの一面的な熟練に依存する労働過程では、継続的な雇用を結ぶ相互依存型労働市場が求められる。労働過程の細分化によって不熟練化が進行した場合には、短期的できわめて低賃金の従属型労働市場が成立する。

審査要旨 要旨を表示する

1論文概要

本論文は、剰余の問題に関しては、社会的再生産を通じて形成される剰余価値としてはじめて考察することができるとしてきたマルクス経済学の通説を批判し、経済原論における流通論の段階から、市場の構造を解明する中心的な論点をなすと捉える、「余剰の政治経済学」を再構築することを課題としている。全体は「はじめに」3頁、本論80頁(1頁あたり44×40字)、および参考文献からなり(400字詰め原稿用紙ほぼ410枚に相当)、本論は4章で構成されている。その概要は以下のとおりである。

第1章「流通における余剰」では、余剰を伴う商品流通を基礎に、貨幣の理論を再構築することが課題とされている。この問題背景を明らかにするため、まず経済学説史を振り返るかたちで、余剰の概念が、なぜ、経済学の表舞台から消えてしまったのか、その経緯が紹介されている。

経済学が形成されていった黎明期、交換を引き起こす原動力はそもそも何か、という論点をめぐって、論争繰り広げられてきた。交換は奢侈から発生するとみる奢侈二交換論と、交換は必要不可欠な物資を相互にが取り替えるかたちで発生するとみる必要= 交換論との間に展開された奢侈論争である。しかし、この論争は、アダム・スミス以降、必要に基づく交換を中心に市場が捉えられるようになるにつれ後退・消滅してゆき、貨幣保有は一時的でリダンタントな要因として軽視する傾向が支配的になったという。こうした経緯を踏まえてみると、カール・マルクスの流通論は、流通における余剰、奢侈に基づく交換に再度注目したものとして、より広い学説史的な文脈のなかで、その意義を理解することができるという。

このように捉え返すと、マルクスの最大の特徴は、現行版『資本論』で、貨幣の生成を説く価値形態論が、交換過程論から明確に分離されるようになった点に、特に鮮明に現れていることがわかる。交換過程論ではなお、W-W'という物々交換をひとまず想定し、その困難からW-G-W'という間接交換が発生するとみなす、スミス的な観点がなお払拭されていない。そのため、貨幣をもっぱら交換のための用具としての位置づける面が、交換過程論のうちには残存しているというのである。

これに対して現行『資本論』では、商品の属性としての価値が他の商品の使用価値で表現されたものとして貨幣を位置づける価値形態の理論が、交換過程論から分離され、それに先行してまず展開されるかたちが定着する。物々交換では、商品に内属する価値を表現するという過程は考えられない。価値形態論における簡単な価値形態は、物々交換と見かけは似ているが、価値表現の有無という点に着目すると、根本的に異なることは明白となる。このマルクス固有の認識は、スミスの貨幣発生論が、事実上、余剰物の存在(肉屋がもつとされる「ほとんどの人が彼らの勤労の生産物と交換するのを拒否しないだろうと考えられるような、なんらかの特定の商品の一定量」)を媒介として、貨幣の必要性を導出しながら、貨幣の生成後にはこの媒介を消去して、彼本来の必要物どうしをお互いに交換するという商品流通の規定にもどってしまう欠陥を、理論構成のうえで克服する契機となっているというのである。

したがって、商品の売買の主要目的は、直接に必要な、つまり、欲求の対象となる、別の商品を手に入れることにあるのではなく、基本的に余剰物としての商品を売っておくことにある。物々交換の間に貨幣が便宜的な交換の用具として入ってきたという「分裂の論理」で貨幣を説明すると、この主要目的は見失われる。余剰物を商品流通の世界のなかで保持し続けるために交換はなされ、この目的に適した対象が選別されてゆく結果、商品体が余剰物の保持に優れた商品が、貨幣へと発展するという「展開の論理」が、『資本論』では分離可能となった。これにより、必要のための単純商品流通をこえた、余剰の価値表現と価値実現を含む商品流通像が明確になるというのである

第2章「貨幣機能の二重構造一価値尺度と流通手段」では、マルクスの貨幣論のうち、価値尺度の規定と流通手段の規定との関係が究明される。貨幣を流通手段に一面化し、貨幣数量説的な方向に傾くきらいのある、古典派経済学の貨幣論を批判するかたちで、マルクスは貨幣の諸機能を重層的に捉える基本的枠組を明確にした。ただ、それでもなお、価値尺度と流通手段との関連には明確な整理が施されていないと問題点が指摘される。そして、この問題が、商品の価値形態と貨幣の価値尺度機能、価値尺度機能と流通手段機能という二の関係を通じて究明される。

すなわち、まず、マルクスのテキストやそれをめぐる諸説を詳細に検討することを通じて、残された問題、およそ次のように整理されて再提示される、価値形態論の課題は、ある商品の価値という性質を、他のが商品の商品体で「表現」することにあり、すべての商品が有する価値としての性格を純粋に体現する一商品が貨幣として排除される。この貨幣は、その商品体の属性に還元できない有用性、貨幣としての機能から発生する形式的使用価値をもつ。その結果、貨幣には(1)商品体の属性としての有用性は不要であるが、(2)形式的使用価値を体現する商品体が要請されるというのである.

ここでのポイントは、価値形態論が交換のための等置ではなく、価値表現のための等置である点を明確に区別して捉えるべきだというところにある。必要=交換論を意識的に排除しないと、この二重性が理論的に捉えられないというのである、この区別が明確になれば、貨幣に関して従来唱えられてきた、名目主義と金属主義との関係も次のように整理される。価値尺度としては、貨幣はその存在に関しては観念的だが、価値表現に適した素材性を求められるのに対して、流通手段としては、そのものがなければならないという意味で貨幣の実在性は必要となるが、代理物でよいという意味で、素材性は求められない、という対照的な二重性が明確に把握できるというのである。こうした整理をふまえてみると、従来高く評価されてきた宇野弘蔵の価値尺度論も、この二重性を無視して、価値尺度も流通手段も金属貨幣が素材として実在しなくてはならないというかたちに一元化する誤りを含み、その結果、紙券論の原理的把握を困難にする結果に終わっている。

本章では以上の整理と批判をふまえて、次のような二つの積極的見解が提示される。

第一は、「表現」と「代理」の分離論である。価値尺度としての貨幣は、商品の価値を貨幣素材で観念的に「表現」するのに対して、流通手段としての貨幣は、この貨幣素材を他の形態で「代理」するというように整理し、表現と代理の概念がマルクスのテキストの吟味を通じて精密に規定されてゆく。

第二は、信頼の二重性論である。素材に対しては、そのものが純正かどうか、厳密にたしかめることに手数がかかり、そこに多かれ少なかれ「信頼」するという契機が伏在する。このため、素材が純正たることを保証する表象が、純正な素材を代理するものとして授受される関係が発生する。これに対して、その素材自体が真に商品価値を代表しているかという点に関しても「信頼」の問題が発生する。貨幣素材の価値の大きさが、時空を通じて同一不変であるという保証はない以上、貨幣素材力清する価値の大きさに対する「信頼」は、市場における売買を通じて模索されるほかないと結論し、次の蓄蔵貨幣と資本の考察に移っている。

第3章「蓄蔵貨幣の形成と資本の運動」では、貨幣が商品経済のなかで資産としての独自性をもち、この資産性の展開のうちに資本の運動が発生する関係力期らかにされる。マルクスは、当初、市場の無政府性を明らこむとき、労働力商品化を通じて、労働市場の多型性も不可避的に派生する。こうして、余剰を含まない単純流通と、余剰を生みだす単一型の再生産過程(=労働の単純化+生活手段の全面的商品化)という、マルクスの二分法による資本主義像にかえ、余剰を内包する市場像を基礎に、労働市場の多型性を内包した資本主義像を再構築する必要があると結論されている。

2評価

以上のような内容を有する本論文の積極的意義を述べれば、つぎのようになる。

第1に、商品流通に関する通説的な理解に対して、根本的に異なる立場を対置しようという試みがなされている。この分野は、すでに先行研究が長きにわたって大量に堆積しているが、これらを厳密に解読・解釈しながら、しかし、それをかなり大胆に批判・整理し、これとの対比において自説の意義を明らかにしている。いささか単純化が過ぎている嫌いも残るが、基本的には、通説を自説に都合のよいように歪める不適切な処理だとばかりは言い切れない。

第2に、理論構成の骨格が明確であることである。基本は、次の3点にある.(1)市場を、必要物が相互に交換される場に還元するべきではなく、はじめから余剰物を含む交換の場として捉えるべきであるという。余剰を基底においた流通という命題である。(2)余剰物を含む市場は、この余剰をさらに増殖しようという原理をその内部に具えている。これは、増殖の機会を求めて、市場交換の外部の世界、生産過程に進出する。流通と生産の二分論に対する、市場の浸透・包摂力という命題である。(3)進出の前提条件となる労働力商品には、外部性がどこまでも残る。労働の生産物のように売買関係で処理できない労働力商品が、労働市場に多様なすがたを生みだす。外部の包摂力書多型化をもたらす、という命題である。このような単純な3つの基本的命題によって、理論展開の骨組みは明確に構成されているのである。

第3に、理論内容だけではなく、その展開方法もまた、意識的に整理されている。基本的には、二項関係の組み合わせを特徴とする展開方法であるが、複数の関係を重層的に関連づけることで、現象の平面的な記述をこえた、理論的な分析が提示されている。欲求と欲望、奢侈と必要、ヒュームの奢修= 交換論とロックの余剰二交換論、価値形態と交換過程、分裂の論理と展開の論理、表現と代表、価値尺度の観念的素材性と流通手段の実在的非素材性、交換可能性と資産性、「非資本」としての労働力と「非所有」としての労働力、横の熟練と縦の熟練、生産手段に対する熟練と人に対する熟練、など、独自に対概念を駆使することで、全体として立体的な構造を組み上げようとしている。理論の展開内容はかなり複雑ではあるが、それを構成する展開方法は単純明快である。その点で、理論を構成する能力はかなり高いと評価できる。

第4に、スミスやマルクスの基本的なテキストを厳密に解釈し、そこに含まれる微妙な論理のズレ・不整合を摘出し、新たに解明すべき問題の所在を再発掘している。こうして、通説的解釈がテキストの一面を一般化したものであり、これに対して、別の理解のしかたが可能になる点を明らかにすることで、それ自体としては難解な問題の位置が既存の研究史を知る研究者に了解可能なものとされている。

たとえば、スミスの貨幣発生論はしばしばマルクスの貨幣生成論に連続するものであると解釈されてきた。しかし、価値形態論の交換過程からの分離・独立化という、マルクス自身が『資本論』の執筆過程で加えた改訂作業の意味を勘案すると、価値表現を根本とするマルクスの貨幣概念が、流通の用具というスミスの貨幣把握と、本質的に異質なものであることがわかる、といった解釈には、それなりの説得力がある。

また、当初、市場の無政府性を明らかにすべく、市場における剰余の存在を明確にし、また、労働力商品に関しても「非資本」というかたちで、その外部性を射程に収めていたマルクスが、『資本論』の完成過程で、なぜ、蓄蔵貨幣を流通手段に対して二次的な補完的存在とし、また、労働力を「非所有」として資本に完全に内部化された存在に変えてしまったのか、という理由が、プルードンらの市場社会主義論と古典派経済学との両面批判の結果として読み解かれている。こうした学説史的な検討をふまえたマルクスのテキスト理解が、余剰と外部性を強調する論文筆者自身の理論的主張と有機的に結合しており、学説史研究が単に過去の諸学説を整理することに終わらず、理論研究に効果的に生かされている。

いずれにせよ、複雑なテキストを通じて、諸説の配置全体を総合的に示す能力はかなり高いと評価される。また、内外の研究に対しても広く目が配られており、最近の研究動向を知るうえで益するところが少なくない。

しかし、本論文には、疑問とすべき論点、さらに究明される未解決な課題も残されている、

第1に、用語・表現が独特でかなり難解であるという問題がある。筆者は、混同されやすい区別を明らかにするために、微妙な意味のズレを区別すべく、類似した用語を使い分ける方法を多用する。たとえば、「欲望」と「欲求」、「分裂」と「展開」、「観念性」と「実在性」、「代理」と「代表」などの区別は、厳密に定義しようとする記述はあるが、抽象的な区別だけに理解を促すための工夫がさらに必要であろう。こうした用語は、類似した使用例も先行しているので、そうした用語法を批判・精緻化するかたちで一般化を進める試みも併用されてよいと思われる。また、二分法に対応して、しばしば登場する「非所有」、「非資本」などの「非」という用語法も一般的であるとはいえず、表現上の改善が求められるところである。

第2に、テキスト解釈において、筆者自身の独自な主張をそこに読み込もうとする無理が散見される。たとえば、スミスの貨幣発生論のうちに、自分の消費を上まわる余剰部分の存在を読みとり、ここから余剰物どうしの交換が貨幣発生の契機として想定されている、と進めた読解は、これもまた、一面的な解釈ではないかという疑問は払拭しがたい。

第3に、商品、貨幣、資本について考察した第1章から第3章までの理論領域と、第4章との関係が必ずしも明確に説明されているとはいえない。通説的な理論構成では、個別的な資本の発生と、社会的再生産過程を編成するいわゆる産業資本の間に、たとえば「流通論」と「生産論」というような、篇別上の区別、課題の転換を設けてきた。本論文の第4章は、内容上は労働組織やそこにおける熟練のあり方にまで踏みこんでいるが、これは従来、個別資本の理論的な解明をこえて、労働力の全面的な商品化を導入することで、はじめて明らかにされると考えられてきた問題である。従来の理論構成が適切かどうかはもちろん再検討されてよいが、第4章は、こうした全体的枠組みに関する充分な方法的再検討を欠いたまま、第3章の連続面に位置づけられているように読める。また、第4章の内容に関しても、熟練に偏したかたちで、労働力商品化の多型化が説かれている傾向が目につく。この点もまた、この章の理論的位置づけに関連して、疑問が残るところである。

第4に、本論文が資本主義経済の解明という基本課題に対してどのような意義をもつのが、現実との関連に結びつく理論的射程がなお不鮮明である。もちろん、現実の個別的現象を直接に論じる必要はないが、たとえば「余剰の政治経済学」という副題に含意された、資本主義の歴史的発展を捉える大枠がどう見なおされるのか、という点に対する論及がほとんど示されていない。既存の理論に対する批判や学説解釈の再解釈においては相当に精緻な検討がなされ、高度な展開が見られるが、それらは内向的で現実に対する含意が充分に伝わってこない。貨幣に対する多重的な信頼の分析や、熟練の二元性の分析など、いずれも現実の諸現象に対して、一定の含意を予想することは可能であるが、筆者自身は論及を控えている。序文なり、結語なりにおいて、本論文の意義として、理論の内的な精緻化が広い意味でどのような展望を開くのか、積極的に論じる余地がまだ多く残されている。

以上のような問題は残されているが、本論文は博士(経済学)の学位を授与するのに充分な研究成果を含むという点で審査貝全員の評価は一致した。

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