学位論文要旨



No 122962
著者(漢字) ガーデナ,香子
著者(英字)
著者(カナ) ガーデナ,キョウコ
標題(和) ブラカ・L・エッティンガー研究 : マトリクス的遭遇の理論と実践
標題(洋)
報告番号 122962
報告番号 甲22962
学位授与日 2007.09.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第768号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,哲哉
 東京大学 教授 岩佐,鉄男
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 准教授 原,和之
 東京大学 准教授 清水,晶子
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、主体性をどのように理解するべきかという議論に対してひとつのあらたな視点を提示することを目的に、ある個人とその他者とのあいだの関係性をいかにとらえるかという議論に対する貢献をめざしたものである。この貢献を実現するための論理的かつ実践的な基盤として、本論文では精神分析医であり美術家であるブラカ・L・エッティンガー(Bracha L. Ettinger)の業績を選び、彼女のこれまでの功績を理論と実践の交わる多層的な領域において総括し、分析し、応用する。エッティンガーは、ラカン派精神分析理論を出発点に、独自のフェミニスト的な語彙を駆使して、みずからが女性的なものの象徴界と呼ぶ分析モデルの理論化をおこなったことで知られている。この研究においてはこの分析モデルの構成を理解しながら、エッティンガーが言語的テクストから美術作品までさまざまな媒介物をとおして理論を実践に結びつけていることを確認し、そのみぶりのなかに彼女が提案する倫理的な方向性を探すことになる。

エッティンガーは、女性であり、ユダヤ人であり、また外国人であるというみずからの周縁的なものとしての経験を有意義なものとみなし、この立場からこそ説得力をもって提示できる主体性の理解を打ちだしている。彼女は男性的な比喩に基づいた、一者性をもつ独立したものとしての主体の概念を、現代において主体性を論じるためには不十分なものであるとし、これに女性的な比喩によって理解される主体性の構造を追補することを提唱する。エッティンガーの思想は主体性を、ひとつであるものとしてではなく、いくつかあるものが占める領域のあいだでおこる遭遇の経験によって定義するものである。彼女はこうした遭遇を、マトリクス(matrix)と呼ばれる、妊娠後期から出産後の期間における母親と子の関係に基づいて理論化されたモデルによって理解する。本論文はエッティンガーによるマトリクスのモデルをもとに「マトリクス的遭遇(matrixial encounter)」と名づけることのできる経験を理論化し、またこの経験が視覚美術や文学などさまざまな対象についてどのような効果をもたらすかを探求する。また、これをとおして、個人と他者とのあいだの関係性をマトリクス的遭遇の理論においてとらえることにより、倫理性についてのあらたな理解がしめされるという仮説を証明する。つまり、本論文は、革新的な理論を形成してきたエッティンガーの業績を総括的に研究することによって、あらたな倫理性のモデルが獲得されるという可能性を、マトリクス的遭遇の理論に基づいて論証しようとするものである。

エッティンガーは、女性であり、ユダヤ人であり、また外国人であるというみずからの周縁的なものとしての経験を有意義なものとみなし、この立場からこそ説得力をもって提示できる主体性の理解を打ちだしている。彼女は男性的な比喩に基づいた、一者性をもつ独立したものとしての主体の概念を、現代において主体性を論じるためには不十分なものであるとし、これに女性的な比喩によって理解される主体性の構造を追補することを提唱する。エッティンガーの思想は主体性を、ひとつであるものとしてではなく、いつかあるものが占める領域のあいだでおこる遭遇の経験によって定義するものである。彼女はこうした遭遇を、マトリクス(matrix)と呼ばれる、妊娠後期から出産後の期間における母親と子の関係に基づいて理論化されたモデルによって理解する。本論文はエッティンガーによるマトリクスのモデルをもとに「マトリクス的遭遇(matrixial encounter)」と名づけることのできる経験を理論化し、またこの経験が視覚美術や文学などさまざまな対象についてどのような効果をもたらすかを探求する。また、これをとおして、個人と他者とのあいだの関係性をマトリクス的遭遇の理論においてとらえることにより、倫理性についてのあらたな理解がしめされるという仮説を証明する。つまり、本論文は、革新的な理論を形成してきたエッティンガーの業績を総括的に研究することによって、あらたな倫理性のモデルが獲得されるという可能性を、マトリクス的遭遇の理論に基づいて論証しようとするものである。本論文は三部構成をとっている。「ブラカ・L・エッティンガーのポジション」と題した第一部では、精神分析と美学の学位をもち、分析医として開業しながら美術作品の制作をおこない、さらに出身国であるイスラエルや生活の拠点としているフランスだけでなく、イギリスや北欧、ロシアや中国などさまざまな地域をまたにかけて移動しながら大学や高等教育機関で分析理論を教えるエッティンガーの多彩な活動を、精神分析理論における貢献、フェミニスト美術界における貢献、そして流浪する語り手としての貢献として3 つの切り口からまとめる。第一章においては、精神分析理論家としてのエッティンガーの業績を、彼女が出発点としているジャック・ラカンの後期のセミネールに対する批評を参照しながら確認する。このなかで、本論文の理論的礎であるマトリクスとメトラモーフォシスのモデルを紹介する。さらに、フロイトの「無気味なもの」についての論文をエッティンガーが読みなおした文献を分析しながら、精神分析理論における彼女の介入がどのような点で独自なものであったのかを確認する。第二章では、フェミニスト美術家としてのエッティンガーの業績を検討する。ここでは、20 世紀後半のフェミニスト美術をとりまいていた状況を、タリア・グマ=パターソンとパトリシア・マシューズによる議論や、グリセルダ・ポロックとロジリカ・パーカーによる分析を参照しながらまとめたうえで、そうした時代背景においてエッティンガーがどのように位置づけられるのかを論じる。第三章では、エッティンガーがみずからを意識的に置いているとみられる流浪する語り手としての地平を観察することで、彼女がさまざまな活動領域におけるみずからの役割、立場、そして責任をどのように認識しているのかをあきらかにする。ここでは、多層的な構成をもつヘブライ語のシステムと、エッティンガーがそこから取りだそうとする、意味の形成のあらたなモデルを紹介し、これをエッティンガーが流浪する語り手のみぶりの本質に置いているようすをしめす。さらに、このモデルをマトリクス的な領域に位置するものだと理解し、他者とのあいだにこのような多層的で分散的な意味形成の経験をおくことにより、トラウマの再散布を可能とする倫理的な遭遇に到達することができるというエッティンガーの主張を、ホロコーストのトラウマと、エッティンガーが「共-証言(wit(h)nessing)」と名づける作用との関係において論じながら検討する。

第二部は、「ブラカ・L・エッティンガーの美術作品と制作言語」についてまとめるものである。第四章では、初期のドローイング作品やインスタレーション作品のモチーフとして多用された、ギリシャ文字のオメガ(Ω)のモチーフについて議論する。ここでは、おもに初期のドローイングの作品を中心に、その画面のなかや、フレームが構成するかたちとしてあらわれるオメガの記号に込められる女性性の比喩についてあきらかにする。第五章では、エッティンガーの代表作である《エウリディケ(Eurydice)》シリーズなどでもちいられている、複写機を使用した絵画制作について論じる。フォトコピックと呼ばれるこの制作方法においては、コピー機のトナーと、多層に重ねて塗りこまれ、また剥がされる油絵の具とが織りなすざらざらとした質感の作品表面上に、複写機にかけられたオリジナルの画像がみえかくれする。ここでは、エッティンガーが絵画のもつこうした作用を有益なツールとして設定し、そこに絵画のもちうる倫理性をしめすさまを論証する。第六章では、主体性を遭遇というモチーフにおいて理解するエッティンガーが、実際に他者とのあいだでおこなわれた遭遇をもとに作品化する過程を観察することで、経験としての遭遇が理論としての遭遇へと置きかえられていくようすを追跡する。ここでは、マトリクス的な遭遇のモデルをテクスト化したインタビューのなかに求めるエッティンガーの正当性を確認するために、まず、エッティンガーのものではない数点のインタビューテクストを分析し、そこにマトリクス的な遭遇の領域が認められることを論証する。そのあとで、エッティンガーがフェリックス・ガタリとエマニュエル・レヴィナスのふたりの理論家、思想家とのあいだの会話を採録し、それを記録記事としてではなく作品として作りあげ、発表するようすを確認し、その根拠と効果をあきらかにする。

「マトリクス的遭遇のモデルの応用」と題した第三部においては、第一部、第二部をとおして確認してきたエッティンガーの理論モデルを、ほかの作家や美術家によるテクストの読解に応用し、これをとおして、マトリクス的読解が、これらのテクストに描かれる「私」と「非-私」との関係性にかんして倫理的な指針をしめすことができることを証明する。第七章では、理論的なフェミニスト美術の流れにおいて多大な影響力をしめしてきたメアリー・ケリーの作品を対象に、ケリーみずからラカン批判を受けついだ言語で理論的裏づけをしてきた作品を、同じようにラカン批判に基づいていながらもそこに大幅に拡張されたモデルを展開したエッティンガーのモデルとの照合をとおして読みなおす。ここではおもに《ポスト-パータムドキュメント(Post-Partum Document)》について論じながら、ある時点、ある空間においては「私」と一体であった「非-私」が、「私」の統制下におかれない場所へと移行していくことに接することで引きおこされる不安定な状況が、肯定的で創造的なものとして立ちあがってくるようすを観察する。第八章では、マルグリット・デュラスの小説『夏の雨(La Pluie d'ete)』を対象に、読者がテクストとのあいだにマトリクス的な領域を構成し、そのなかでテクストを理解しないこと、あるいは理解できないものとして理解することをとおして、メトラモーフォシスを展開していくさまを観察する。この観察をとおし、理解の不在という、伝統的な理論においては否定的な状態としてとらえられてきた状況を、マトリクス的遭遇においてその理解しえない他者とのあいだに倫理的なつながりをつくることと同じ立場をしめすものだとして位置づける。

本論文はしたがって、ブラカ・L・エッティンガーがヨーロッパを中心とするさまざまな場所でさまざまな媒体をとおして残してきた痕跡を掬おうとする試みである。さらに、この試みをとおして、本論文はエッティンガーという他者とのあいだに、メトラモーフォシスを展開しようとするものでもある。ただし、エッティンガーについて論じることにおいては、記述されることが、その記述により固定されることを逃れようとして、つねに逃避しつづけようとしているのだということをまず認識しなければならない。この逃避するものを意味形成的だととらえることこそエッティンガーのマトリクスおよびメトラモーフォシスのモデルの根底にあるものだからである。本論文も、エッティンガーがみずからの活動のあらゆる面において実践しようとしているメトラモーフォシスの一部として、その軌跡の一部を経験しようとしたものなのである。

審査要旨 要旨を表示する

ガーデナ香子氏の論文「ブラカ・L・エッティンガー研究:マトリクス的遭遇の理論と実践」は、精神分析医、美術家、作家として重要な存在でありながら、これまで日本ではほとんど知られてこなかったエッティンガーについての、世界的にも初めてと言ってよい包括的な研究である。ガーデナ氏は本論文において、エッティンガーの理論と実践の核心を「マトリクス的遭遇」(matrixial encounter)の思想に求め、その理論と実践を通して「新たな倫理性のモデル」が獲得されることを示そうとしている。

ガーデナ氏はまず第一部において、エッティンガーの多彩な活動を「精神分析理論家として」のそれ(第一章)、「フェミニスト美術家として」のそれ(第二章)、「流浪する語り手として」のそれ(第三章)に区別して、順に論じていく。この部分はエッティンガーの思想の主導的モティーフを取り出そうとする部分であり、審査において最も重視された。エッティンガーの活動の中心に、後期ラカンの精神分析理論から練り上げた「マトリクス」(matrix)という「主体性」の構造を見定め、ここからフェミニスト美術家および「流浪する語り手」としての作家活動に一貫して流れる問題意識を解釈していくというガーデナ氏の選択は、いわば「応用篇」としての第二部、第三部の基礎となり、エッティンガーの活動の包括的把握を可能にした適確な選択だとして、審査委員の支持を得た。

他方、「マトリクス」という概念を母体と胎児との共生関係から説明する点について、それを出生後の個人と他者との関係のモデルへと普遍化することがどこまで正当化されるのか、また、「象徴的なもの」をファルス的・父的な原理から説明するラカンに対して「マトリクス」という「女性的」原理を強調するエッティンガーが、その「女性的」なものを「母性」に置き換えているように思われる点に、現代のフェミニズム思想の観点から見て問題はないか、さらに、いずれにせよ父的・ファルス的原理なしに「象徴的なもの」の成立を説明することは困難ではないか、といった問題が指摘された。これに対してガーデナ氏からは、エッティンガーが「マトリクス」に「子宮」や「母胎」のイメージを直接重ねる点には曖昧さがあり、その必然性を論証できるかどうかはたしかに課題として残るが、「マトリクス」概念は、ラカンのファルス的「象徴界」を否定するものでも、それと対立するものでもなく、両者は互いに「入れ込んだ形」で共存するものであり、「マトリクス」はファルスを補填するものであるという説明がなされ、了承された。

第一部第二章と第三章では、精神分析理論から形成された「マトリクス」の概念、「私」と「非-私」との「応答―責任」(responsibility)的な共生関係が、エッティンガーの美術制作および「流浪する語り手」としての作家活動においても、いかに実際に生きられ実践されているかが論じられる。ここではとくに、「ホロコースト第二世代」としてのエッティンガーが「共-証言」(with-nessing)を通した「トラウマの再散布」という形で「マトリクス」(あるいは「メトラモーフォシス)を捉え返していることの指摘と、それをナンシー・ヒューストンの小説『天使の記憶』の中に読み取っていることによって、「マトリクス的遭遇」の概念がより深められ、説得力を持たされている点が評価された。

本論文で最も高い評価が集まったのは、第二部、第五章の2で「《エウリディケ》シリーズ」を論じた部分である。第二部でガーデナ氏は、第一部で確認したエッティンガーの基本的モティーフが、彼女の「美術作品と制作言語」においてどのように実現されているかを、エッティンガーの代表的な作品の中に追跡していく。

第四章ではまず、エッティンガーの初期美術作品の中に繰り返し登場する大文字の「オメガ」のモティーフを分析し、それを「マトリクスの境界」であり、「私の終わり」であって、「私はマトリクス的遭遇を通して、非-私の時空間に私が存在していない可能性を認識し、受けいれなければならない」というメッセージだと解釈する。ここにユダヤ神秘主義神学において「神の収縮」を意味するツィムツム(tsimtsum)を重ねる読みはスリリングであり、レヴィナスやデリダといった思想家との比較研究という重要な課題を浮かび上がらせることが指摘された。

第五章では、エッティンガーの独創的な美術制作方法である「フォトコピック」を、「私と非-私という部分主体が互いの間を往復しながらともに少しずつ形を変えてゆく過程」と定義された「メトラモーフォシス」の実践と捉えたうえで、エッティンガーの代表作である「《エウリディケ》シリーズ」を分析する。親戚が現実に犠牲になったウッジの強制収容所の写真をフォトコピックで処理したこの連作を、「痕跡」化した「忘却の記憶」を通して「トラウマの共有と再散布」を試み、ひいては「トラウマの治癒」を「期待する」実践なのだという解釈は刺激的で、高い評価を受けた。

ガーデナ氏は第三部において、マトリクス的遭遇のモデルを「応用」し、フェミニスト美術の歴史において重要な位置を占めたメアリー・ケリーの作品「ポストーパータム・ドキュメント」と、マルグリット・デユラスの小説『夏の雨』について、従来とは異なる解釈の提示を試みる。前者を、母と息子の「不安定」ではあるが「肯定的」で「創造的」な「共-出現」の表現として、後者を、読者にとってテクストの「未知」なるもの、「理解の不在」が否定的なことではなく、むしろ他者との倫理的なつながりを形成するものであることを示唆する作品として解釈する読みは、一定の説得力を持っていることが認められる。

全体として、叙述にやや繰り返しが多い点、表現に曖昧な点があることが指摘されたが、難解なエッティンガーの思想を丁寧に解きほぐし、分かりやすい叙述に努めている点は評価された。美術家としてのエッティンガーを理解するのに不可欠な図版で、本文中で言及されるものが必ずしもすべて収められていない点も、改善可能な不備として指摘された。

結論として、本論文は、精神分析、美術、ユダヤ思想、文学など、多分野にかかわるエッティンガーの業績の全体を理解し、そこに一貫した解釈を施すことに成功した優れた研究と評価できる。世界的に見てもまだまとまった研究のないエッティンガーの理論と実践、思想と作品について、初めて包括的に論じた研究であり、いくつかの課題は残したものの、今後わが国においても世界においても、エッティンガー研究の出発点として参照されていくに価する学術的水準に十分達していると判断される。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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