学位論文要旨



No 122983
著者(漢字) 金,銀眞
著者(英字)
著者(カナ) キム,ウンジン
標題(和) ソウルの近代都市史研究 : 特に鍾路を中心に
標題(洋)
報告番号 122983
報告番号 甲22983
学位授与日 2007.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6600号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 准教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 吉田,光男
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、ソウルの近代都市のうち、鍾路一帯をおもな分析対象とし、第一に、開港期から大韓帝国期における近代化の形成過程、第二に、植民地期の政府と一般市民の関係性の分析から、近代の成立過程における都市空間構造、第三に、当該の外部空間においておきている都市活動と社会集団の関わりという三つの分析を通じて、ソウルの近代都市空間の性格とその特徴を解明するものである。

近代都市へ向かうソウル

まず1章、ソウルの中心地における鍾路の位相では、本論考に入る前に朝鮮時代におけるソウルの都市史について概括的に整理を行ったものである。ここでは、朝鮮時代の初期における行廊の形成過程は、行廊建設の準備として土木工事が行われたうえ、第一期の建設、第二期の建設、第三期の建設として段階別に設けられていたことが見出せる。

2章の近代都市へ胎動する鍾路では、まず、前近代都市空間の面として、朝鮮時代からの市廛の商業を基づいた都市空間である上に、「御路」として用いられる街並みと、大枠としては朝鮮時代における都市計画の性格に基づき、新たな都市計画法規が附加されるかたちで変貌を遂げていた。次に、近代的都市空間の成立と変容については、まず当該地が政治や文化の出発点としての役割を果すようになったことがあげられる。朝鮮時代からの商業的な役割のみならず、居合わせた客が見学できる宗教や啓蒙運動が行われ、民衆の群れ集う祝祭的な空間としての性格も付与され、こうした活動が演じられるのを楽しむことによって人々が都市空間における体験を消費する空間としての役割を果たしていた。

その鍾路を中心として、前近代的都市空間から近代的都市空間へ変貌していく一連の過渡期的な様相を見ることができた。このように伝統と近代が共存していることにソウルの特徴が見出せる。

近代都市成立過程における鍾路

3章の都市政策による都市計画と道路改修では、 朝鮮総督府の都市政策によって植民地中期以降におけるソウルの 都市計画の始まりとその変化の実態と、道路改修の具体的なプロセスを追うことができた。

植民地中期以降、都市政策によってソウルの都市空間では都市計画が進展していたこと、ただしその中でも朝鮮市街地計画令と都市計画事業の間には連関性がほとんど見られなかったことが分かった。さらに、日本の都市計画旧法がそのまま導入され、とくに、「日本の都市計画の芳川案に始まっている」ことがソウルにも同じように流れ込み、都市計画事業の中でも道路改修が重視されていたことが明らかになった。

とりわけ鍾路の都市計画事業を通じて、ソウルの都市計画とは主に道路改修を指しており、 この都市計画事業は実際に施行されずに終ったことが捉えられる。

4章の都市美観の概念とそれによる街並みの変化では、まず、光化門の移転とは、朝鮮総督府庁舎の移転ということで新築されることに従って光化門の存置が問題となっていた。結局、朝鮮総督府の関係者にとって新庁舎と調和しないという都市美観の観点により、光化門は妨げるものであったのが明らかになった。このような概念の観点から光化門は移転される運命を迎えていた。この移築の経緯を辿るこちで、単なる宮殿の正門にとどまらず、9章2節で前述した景福宮とともに、朝鮮王権の象徴、ないしはアイデンティティーを現していたことが捉えられた。

次に、韓国での都市美観という観念は、、二つの意味があり、第一は清潔という意味での衛生、第二は「低層建築」を制限する高さ基準としての概念が根底であったと解釈できた。

また、鍾路一帯は、民間である鍾路商人によって街路灯が設置された。街並みの問題について、鍾路商人が自ら関わっており、街路灯の完成までを行っていた。また、これは現在の自治制によるまちづくりへの住民参与の始まりではないかと思われる。

5章の消費文化の同質化政策としての商業空間の出現では、夜市の誕生による昼から夜へ拡がる商業空間の面では、大韓帝国時代まで商業は昼しか営業していなかったが、植民地初期に入って鍾路警察署の支援により「鍾路夜市」が設けられていた。それ以前の街路では夜の生活が本格的に発達していなかったが、このきっかけにより夜が明るくなって一般市民は買い物のみならず、庶民的な露店として一般市民にとってより親しみやすいものであり、夜の街歩きを楽しむようになり、鍾路の都市空間が変化していたことが明らかである。その一方、 植民地初期において初めて「鍾路公設市場」が京城府の存在を確かめるためのものとして登場していたが、これは競争力が弱い場所に設置し、結局、「鍾路公設市場」は一般市民、とりわけ北村に住んでいる人々の生活に滲まれず、閉店を迎えた。朝鮮総督府あるいは鍾路警察署にとっては、「鍾路夜市」を植民地の統治するための一つの手段として取られており、また政府の公権力の象徴としての「鍾路公設市場」などは、当時の消費文化の同質化政策として取られていたともいえる。

6章の鍾路一帯の商業社会における空間構造では、近代化への進む都市の商業空間構造のあり方の変貌と、その地域の土地所有者の変化について分析を行った。

まず、土地所有者については、鍾路一帯において道路改修と2階建ての規制をきっかけとして日本人の土地所有者が増加するという変化がおきていたといえる。

また、商業空間構造については、そもそも 朝鮮時代から最先端の繁華街として存在してきた鍾路2丁目は、植民地となっても、その基本的な性格は変わらなかったといえる。その商業空間は年を追う毎に東の鍾路6丁目まで広がってゆき、とりわけ現在巨大な規模である東大門市場の領域が、拡大してゆく途中の段階が浮かび上がった。

次に、商人達の動向という視点から商業空間において、第一は都市空間に現れる商業の継承と衰退、第二は都市空間への商業の集中及びその空間からの商業の拡散、第三は都市空間への新たな商業の流入という三つの類型として分類できる。

近代都市の変容

7章の社会からの公園の要求とその機能では、ソウルにおけるパゴダ公園以外の公園を対象として分析を行った。とりわけパゴダ公園については8章で叙述した。

ここでは、近代都市における公園の必要性を二つに分けて挙げられるが、第一、イメージ的要因と、第二、経験的要因であるといえよう。

第一、イメージ的要因としては、都市美化ないしは都市の装飾と、近代都市化する一つの必須項目として公園が求められていたのである。

第二、経験的要因としては、当時の社会経験や状況によって、関東大震災の被害と、日中戦争と太平洋戦争により「防空」のため、量的増産の公園計画政策が表れるのであった。

以上から、ソウルの近代都市空間における公園の意味合いが、「衛生」から「健康」、さらに「防空」へと時代とともに変容してゆく過程を解明することができた。

8章のパゴダ公園の誕生とその意義について検討してきた。

鍾路の中央に所在しているパゴダ公園は、廃寺の跡地と、その周辺の民家を含めて公園地として1899年6月から本格的な誕生を迎えており、1902年6月以降にパゴダ公園が造成されていたことが判明できた。しかも、ソウルの都市空間において中心地に公園が置かれていた点が大きな意義に注目すべきであると考えられる。しかしながら、大韓帝国期においてパゴダ公園は一般に開放されず、閉ざされた空間として前近代的な公園であったことが辿れる。

植民地期に入って朝鮮総督府へ移管されてから一般に開放されたパゴダ公園は、音楽会が開かれるなどの文化空間の役割を果たしていたものの、1919年の3・1独立運動が開催された原因によって放置されることによって、ますます荒廃が進む様相をみせていた。しかしながら、パゴダ公園は雑然とした様子であったにもかかわらず、依然として用いざるを得なかったことが解明できた。

以上、パゴダ公園の様子は変容していたことが明らかになったが、ますます雑然としていくため、1930年代以降、一般市民により徐々に利用されず、公園としての本然の姿を失いつつある結果をもたらした。

9章の鍾路街路という「広場」の誕生では、鍾路の街路空間におけるさまざまな行事が行われていたことについて辿った。

まず、朝鮮総督府が始政5年を迎える記念として、共進会が景福宮で開かれることで、景福宮の宮殿は娯楽施設化として「公的空間」への変容してゆくことが解明できた。

ついで、鍾路の街路空間において行われたさまざまな行事について、まず、「鍾路夜市」は一種の商業手段であるが、それに加え一般市民にとっては祝祭として受け入れられていたことが明らかになった。また、子供の日の行列のルートからみると、毎年拡大していたものの、とりわけ西への郊外住宅地域として発展してゆく過程を見出せる。さらに、この行事のルートを巨視的にみると、これはソウルの市街地の拡大ないしは発展過程を表していると考えれる。

本論文では、第一、近代都市へ向かうソウルは、いかなる都市空間であったのかをうかがうことができた。ソウルの都市空間は、500年以上保ったが、開港以降から大韓帝国期にかけるソウルの都市空間において、渡期的な様相の特徴が見出せる。植民地期から近代都市の成立と熟成される全段階として位置づけられている。さらに、新たな文物が導入されるとともに、政府中心から市民中心の考え方が生まれ始めていたことが注目されるのである。

第二、近代都市成立過程における鍾路は、もとより商業空間軸に基づいた上に、近代化と道路改修の要因が加えれて徐々に変容してゆくといえる。とりわけ植民地になって商業空間を基づいた鍾路の単位社会構造は、急激な変化が起きず、市廛は近代商業に合わせて変化し、あるいは徐々に消えてゆく様子が露わにした。

第三、近代都市への変容とは、「産業革命以降発生した都市人口の過密、環境悪化などの問題を解決するための一装置として、<行政>という統治機構が主体となって<市民>に提供する空間として公共オープンスペースを獲得、整備し始めたことである。

ソウルにおける公園の性格は、ごく自然なことであると言えるかもしれないが、近代都市の事柄に合わせて変容されることが明らかになり、鍾路の中央に所在しているパゴダ公園は、面積が狭いという物理的な原因もあるが、公園としての姿を失い、その代わりに鍾路街路空間におけるさまざまな行事が繰り広げられたことから、オープン・スペースとしての役割を果たしていたのである。現在でも、デモやイベントが行われる際に、鍾路を通してゆくが、このような行事の始まりを辿ることができるのであろう。

以上、鍾路一帯を中心として多様な側面の考察を通じて、ソウルの近代都市史をみてきた。まず、鍾路一帯がソウルにおいていかなる位置づけられていたのかについては、1章から9章にかけて説明ができたと思われる。その鍾路一帯のうち、鍾路交差点から鍾路3丁目までの地域ないしは街路空間のヒエラルキーを表していることが解明できた。

さらに、鍾路の都市空間は、朝鮮時代から繁華街の地域であったが、植民地となってから日本人の中心地である南村と、韓国人の中心地である北村と呼ばれた。とりわけ本町と鍾路が比較されながら、両極化してゆく様子が顕著に表れるのである

このような現像のうち、なぜ鍾路の都市空間のみの特徴が表れるのであるか。このような特徴は、むしろ植民地化されたため、民族間の両極化に伴い鍾路への社会・政治・文化などが集中されていたと考えられる。

もしくは、韓国が植民地化されなかったという仮定すれば、朝鮮時代までは鍾路に商業施設などが集中されていたが、近代化がはかどることとともに、ソウルの郭外へ拡大されながら、幾つかの繁華街が生じて展開してゆくことで、さほど鍾路へと集中されなかったのではなかろうか。

審査要旨 要旨を表示する

本論はソウルの朝鮮時代からのメインストリートである鍾路およびその周辺の動向に焦点を絞り、都市ソウルの近代化過程を跡づけた研究である。具体的には(1)開港期から大韓帝国期における近代化のプロセス、(2)植民地時代の政府と一般市民との関係から抽出される都市空間の存在形態、(3)鍾路一帯の都市活動と社会集団との関係の3つの側面から分析を試みている。

ソウルの都市史研究はとりわけ1990年代以降急速に発展し、膨大な研究蓄積を築き上げつつあって、本論もまたその潮流のなかの一研究といえるが、多くの点でこれらの諸研究と一線を画する優れた独自性を備えている。以下、各章ごとの概要に触れつつ、本論が到達した研究上の水準について確認する

論文は本論9章に序と結論が付き、全体としては大きく3部に分かれる。第一部「近代都市へ向かうソウル」では近代化前夜のソウルの鍾路一帯の状況が取り上げられ、依然前近代的な情景を残していたソウルのなかで、とくに中心市街地を形成していた鍾路一帯に徐々に胚胎する近代性の萌芽を丁寧に読み取っている。鍾路は従来の商業空間的な性格に加え、都市民衆が群れ集う祝祭性をもつ消費空間としてモダニティとも呼ぶべき形質を帯びつつあった。

本論の優れた特徴のひとつに当該期の各種新聞記事を中心史料として徹底的に収集・分析している点がある。従来の研究では新聞記事はあくまで補助的な史料として部分的に利用されるに過ぎなかったが、この論文では官報などの公式文書に加えて、当時の社会情勢や市民活動の実態を生き生きと伝える新聞記事を駆使しているところに独自性があるといってよい。新聞記事はしかし一定の政治思想を反映するので、慎重な史料批判が必要であるが、著者はこの点を十分に意識し、丁寧な史料批判のもとに説得的な論旨で分析を進めている。

第二部「近代都市成立過程における鍾路」では植民地時代中期以降のソウルが取り上げられ、近代化過程そのものが論じられる。このころからソウルではいわゆる都市計画が実施されていくことになるが、朝鮮総督府の都市政策はそのほとんどが道路改修に関わるものであったことが指摘されている。朝鮮市街地計画令と実際の都市計画事業とはほとんど関係がなく、日本における市区改正事業が直接的にソウルの都市計画に反映していたという注目すべき結論を得ている。

都市美観の成立について論じた章では、光化門の移転が都市美観と深く関わっていたこと、都市美観に対する考え方は大きく衛生・清潔観念と低層建築を否定するものがあったという知見を導き出している。これらの指摘は本論がはじめて行ったものであると評価できる。ここにも新聞記事の博捜と徹底した読み込みが功を奏し、都市社会史的な事実解明に成功している。

その他、この部では商業空間の動向にも詳細な検討が加えられ、夜市や街灯の登場による都市活動の終日化、限定された商業空間に過ぎなかった鍾路に近代的な商業施設が集積・拡大していくプロセス、商人の土地所有の実態などが分析されている。ここでは新たに『商工名録』などの同時代史料が駆使され、商業空間の実態復元が試みられている。

第三部「近代都市の変容」では、主として政治情勢の変化によって、それまで民衆レベルで進行していた近代化に翳りが兆し始める状況を描く。それは一方において朝鮮総督府による「公」的空間の創出過程でもあった。具体的な分析対象として取り上げられるのは、パゴダ公園およびその他の公園、鍾路、景福宮である。

パゴダ公園は鍾路の中心に設けられた近代公園であるが、一般には開放されず1930年ころから徐々に衰退していく。パゴダ公園以外の公園も防空的観点から量産されたのであり、一般民衆のための空間とはいえず、上から与えられた公的空間であったとの結論を得ている。

景福宮では朝鮮総督府始政5年を祝して共進会と称する博覧会が開催された。この博覧会は朝鮮王朝の象徴たる宮殿を解体するものであり、ここにも近代的な公共空間が忍び寄る。かくして、ソウルの近代化は一段落することになる。

以上みてきたように、本論は近代都市成立期のソウルの動向を単にフィジカルな側面だけでなく、都市社会の変化として捉えた力篇であって、多種多様な史料を駆使した論理展開はきわめて説得的である。ここで得られた多くの知見は、既往研究の欠を埋めるばかりでなく、この分野の研究水準を一挙におしあげる成果となって結実した。よって、本論は博士(工学)の学位にふさわしい業績として認められる。

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