学位論文要旨



No 122987
著者(漢字) 鄭,淳英
著者(英字)
著者(カナ) チョン,スンヨン
標題(和) 韓国近代建築における博覧会の研究 : 日本との関係を中心に
標題(洋)
報告番号 122987
報告番号 甲22987
学位授与日 2007.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6604号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 准教授 藤井,恵介
 東京大学 准教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

本研究は博覧会を通して、韓国の近代建築を再証明することを目的とした。博覧会の様々要素が含まれていたため、博覧会に対する多様な建築的側面からの分析を試みた。従って、本研究は五つの観点から叙述した。

一、博覧会場の場所的意味

一、博覧会パビリオンの建築様式

一、近代的市民の養成

一、博覧会における植民地朝鮮の建築界

一、博覧会に関与した韓国人建築家

博覧会場はヘゲモニーの宣伝場であったことが分かった。ここでヘゲモニーは、単に帝国-植民地の間にだけあるのではなく、中央に対する周縁または地方の間にも介在する。

第一回内国勧業博覧会は上野の森を会場として開催された。上野は前近代の幕府を象徴する場所であった。明治政府は、旧時代の権威の場所の上に新たな時代の権威を立たせたのである。日本はこの経験を植民地朝鮮にも移し、朝鮮総督府は朝鮮王朝の景福宮で朝鮮物産共進会を開催した。しかし、総督府は景福宮の博覧会場に対して朝鮮人の抵抗は思えなかった。上野に博覧会場を設けたのは、新旧の転換及び近代化というポジティブな意味であったが、景福宮の場合は、新旧、近代化だけではなく植民地の下に置かれる個々人人のアイデンティティに関する問題であった。

建築の様式においては植民地が他者化されたのが分かる。他者という相対的概念は、まず、パビリオン様式において、対外向きの地域固有様式と対内向きの洋風様式に現われる。海外の万国博覧会に設営された日本及び朝鮮のパビリオンは地域固有の様式を基調として計画された。ところが、同じ時期に開かれる国内の博覧会には、博覧会直営のテーマ館が洋風のスタイリッシュな様式で建設された。その背景には欧米の万国博覧会の影響もあると思われる。欧米の博覧会で現われた世界の秩序とは、欧米の古典様式に対する植民地の地域固有様式で具現された。

朝鮮博覧会で主調をなした朝鮮式テーマ館は、朝鮮総督府による朝鮮の他者化が明らかに見られる。そもそも博覧会が未来へのビジョンを呈する趣旨を持っている。それで、パビリオンの様式はそのビジョンの表象として先端の様式を主調にして計画するのが一般的であった。ところが、朝鮮博覧会では伝来の朝鮮式で地域の印象が強く表されていた。それは、時代の先端性より地域の観光性、場所性に注目した様式の選定だと思える。

パビリオンの様式は博覧会場において、一種のアイコンになった。数多くのパビリオンが混在している空間でより分かりやすく、より目立つ様式が求められ、段々アイコンのように一目ですぐ分かるように計画された。それで、アイコンの後に隠されている総体に対しては等閑視してしまい、パビリオンの形態には娯楽性だけが残ることになった。

一方、パビリオンの様式において、地方・企業の特設館はより自由であった。主催者が朝鮮総督府であったため、博覧会の主テーマ館は総督府の意志に支配されていたが、地方や企業の特設館はより自由な様式で建てられたのである。

近代は、それまで社会的に微弱な存在であった女性とこどもを、社会人として受け入れはじめた。

初期の博覧会では女性が産業活動を実演して、新たな近代産業の生産メカニズムのなかで女性の役割が可視化され、近代人としての女性像は肯定的であった。しかし、近代化とともに工業化が進んで、女性の産業活動も制限が多くなり、男性は家庭の外で仕事をして、女性は家庭のなかで再生産を担当することになった。それで、「女性・婦人」または「家庭」をテーマとした博覧会が開かれ始めた。

植民地朝鮮における博覧会で現われた女性像は、より歪曲されたのである。朝鮮の博覧会で先頭に出されたのは芸者の「妓生」であった。最初は、ただ博覧会に来場客の誘引策に過ぎなかったが、だんだん博覧会の演芸館で公演するなど、積極的な参加が行われた。一方、博覧会での妓生の活躍を見て、妓生を植民地朝鮮の女性発展のモデルとして表したのではないか、と思われる。小説『共進会』の最後の場面は、近代の夢が具現される共進会という「文物開花の場」を呈し、前近代のネガティブであった属性が博覧会という社会的装置を通して、新時代のポジティブな属性に生まれ変わるのを比喩した。

ここでは、日本の植民地女性に対する考え方も推測できる。つまり、実際に見られる現状の裏に、自ら近代化できなかった植民地の人物像・女性像が隠されていると思われる。博覧会の前面に歪曲された植民地女性像の一つ、「妓生」が出されたのは、遊戯的女性像にとどまり、一時的にイデオロギー化した「生産」に参与できない。それで、日本では各種のメディア、百貨店が主催した家庭または婦人博覧会が開かれたものの、植民地朝鮮では「女性」をテーマとした博覧会が開かれなかったと推定することができる。

日本では「こども」をテーマとして博覧会が早くからはじまった。近代を象徴する新聞社、電鉄会社、百貨店により、こどもの博覧会が開催された。こども博覧会において、こどもは博覧会の素材にはなったが、まだ大人の立場で開かれる博覧会であった。特にこどもの範囲も幼児から学齢児童が主になっていた。

こども博覧会は、「皇孫御誕生記念こども博覧会」をきっかけとして変化する。「皇孫御誕生記念こども博覧会」は、まずこどもの範囲を広げて、乳児に対する催しも企画されたと思える。が、健康相談所、こどもの理想的部屋の実物模型が設けられた「皇孫御誕生記念こども博覧会」は、実際に乳児がこども博覧会の主対象になったのを示しており、それからこどもの成長、発育などなどの理想的こども像が描かれはじめたのだ。

日本ではこどもを単独テーマとした博覧会がよく開催されたのだが、植民地の現実はこどもに厳しかった。朝鮮博覧会の一角に設営された「こどもの国」は植民地の現実を反映している。大正十一年の平和博でほぼ終わる、政府主催の日本の博覧会で会場の一部に「こどもの国」を設けた事例はまだ見当たらない。その背景には、こども博覧会が開かれていたことと、遊園地のような娯楽の空間が都市施設として備えていたからである。しかし、植民地では常設のこども遊戯施設がなかったため、朝鮮博覧会のこどもの国では大人まで遊戯具を楽しんでいた。

また、こどもの国の原型を探ってみると、「開道五十年記念北海道博覧会」の付設であった「児童博覧会」を挙げられる。それは、北海タイムズ社の主催で開場したこどもの博覧会であったが、開催時期を「開道五十年記念北海道博覧会」に合わせて実際の付属施設に近かった。こどもの国の原型が、日本が開拓した北海道の博覧会で見つけることができたのである。

朝鮮建築会の朝鮮博覧会への住宅出品は、日本建築学会が出品し好評を博した平和博の文化村が影響を及ぼしたと思われる。朝鮮建築会は中流向けの理想的住宅案を呈するために、出品住宅委員会を組織して、住宅案開発に意見を通わせた。朝鮮建築会は創立の時から住宅改善に努めていて、酷寒酷暑の韓国の気候に対する建築材料、構造などを研究し、また設備の改善、衛生的側面の処理にも工夫を凝らしたのである。

朝鮮博覧会には、朝鮮の気候に合う暖房施設を拡充した住宅案が三戸出されて、朝鮮博覧会場に登場することになった。外観は洋風が主調になっているが、内部は和洋折衷式で、平和博以降日本で流行していた文化住宅と似ていた。出品の趣旨に、中流向けの理想的な住宅を提案することを記していたが、結果的には、住宅の面積も広く、さらに総工事費を平和博の文化村やほかの住宅博覧会と比べるとはるかに高くなって最初の趣旨には合わなくなった。

一方、企画段階で、出品住宅の希望者を募集して希望者の嗜好に合わせながら住宅案を完成させ、閉会後は博覧会場から希望者の個人敷地に移築することになっていた。日本において、大正十一年箕面の「桜ヶ丘住宅改造博覧会」で桜ヶ丘を直接会場として住宅実物を展覧させて、その場で住宅の販売も行われたが、朝鮮博覧会では、数多くの人々が訪れる機会を利用して一般人に住宅改善に対する啓蒙を喚起させたのであった。

植民地出身として建築技術者に成長するのに制約は多かった。そのうち、朴吉龍は数多くの優れた作品以外にも社会知識人の一人として建築啓蒙にも勤めた独歩の韓国人建築家であった。彼が朝鮮博覧会事務局の一員になって、博覧会の施設計画に参加し、その後の韓国近代建築にも、彼自身にも大きな影響を及ぼした。

朝鮮建築会は、朝鮮博覧会を期して、朝鮮に根付いた文化・文物に建設的考え方を持つことになった。このような変化は朴吉龍にも現われ、朝鮮伝統建築にポジティブな考え方を持つことになった。彼は朝鮮建築会の主メンバーとして、朝鮮文化の代弁人になったのである。朴吉龍の変化は、彼の作品にも現われて、博覧会以前は洋風を基調とした折衷様式に加えて、朝鮮式の改良にも関心を広げ、直接韓屋の設計にも関わった。

朴吉龍は博覧会計画の参加は、韓国人資本家、企業家、または商人たちに、朴吉龍の建築家的能力をアピールしたきっかけになった。それは、後に自分の建築事務所を開いたときに多くの建築クライアントを確保するのに踏み台になった。

朴吉龍が提案した一連の小住宅設計案は、朝鮮建築会による朝鮮博覧会の出品住宅と比べると、二つの間に介在するギャップが見受ける。日本人の生活に合わせた平面構成で、朝鮮建築会が考えた「中流」の概念で韓国人が含まれていないのが分かる。ところが、朴吉龍の住宅案は、工事費も約二千圓から三千圓の間で、より安く、小さい規模であった。平面の構成を見ると、韓国人の生活様式に充分合い、部屋はみんな温突暖房方式を採択するなど、いろいろな配慮が読み取れる。朴吉龍は韓国人向けの住宅案を提案し、住宅改善に努めていたのが分かった。

審査要旨 要旨を表示する

この研究は、朝鮮植民地期に開催された博覧会の研究を通じて、韓国の近代建築を再証明することを目的とした。博覧会は様々な要素から成り立っているが、当研究では、博覧会の建築的側面、つまり都市における博覧会場の意味、パビリオンの建築様式、近代市民の空間、最後に植民地朝鮮の建築界と韓国人建築家像の五つの観点から分析を試みた。

第一章では、韓国の開港から植民地期の全期間にわたる博覧会の変容を分析した。

第二章では、博覧会場を対象にして、博覧会の国家プロジェクトとしての性格を抽出することを目的とした。東京の代表的博覧会場であった上野の森と朝鮮の景福宮との場所的意味を比較して、旧・新時代のヘゲモニー転換を表象した場として博覧会場を分析した。江戸時代の徳川幕府の象徴であった上野の森が、明治政府によって博覧会場になったことと、景福宮は朝鮮王朝の王権を象徴してきたが朝鮮総督府によって博覧会場になった過程を比較・分析し、博覧会場はヘゲモニーの宣伝をする「場」としての性質を持っていることが明らかにした。

第三章では、博覧会パビリオンの建築様式に焦点をおき、その意味を探った。パビリオンの様式は、海外博覧会向けと国内博覧会向けで大別することができ、対外向け(海外の万博)のパビリオンは、地域性に基盤を置いたバナキューラな様式を、国内向けには未来への志向性を表現した当時の新様式を選択した。朝鮮博覧会におけるテーマ館のパビリオンには、設営コストは高いものの現地の材料技術等を多用した朝鮮方式が採用された。これは、主として外国の来場者に朝鮮の博覧会であることを印象づけることを目的としたもので、博覧会テーマ館の一般的特性である近代性を排除し、地域性を強調表現したと考えられる。

第四章では、女性とこども等社会的弱者と博覧会との関係に焦点をあて、彼らが近代化にどのように組み入れられたかを探った。日本では早くから女性とこどもをテーマとした博覧会がはじまったが、植民地朝鮮では、初期の共進会だけが家庭をテーマとした展示部分を併設し、以降は全く取り上げられなかった。1911年に日本で公布された、女性とこどもの労働時間を制限する工場法は、男性は社会で女性は家庭でとの役割分担を促すもので、博覧会でも家庭がテーマとして多く取り上げられた。一方、植民地朝鮮ではそのような工場法は施行されず、女性は安い労働力と期待されたこともあり、理想的な家庭のモデルを提示される環境はなく、従って家庭博覧会が開かれる必要性もなかった。朝鮮博覧会には妓生が出演するのがほぼ慣例で、これは朝鮮の働く女性像について誤った認識を生むことにもなった。こどもの場合は、総合博覧会に付設して「こどもの国」という施設が作られ、娯楽や遊戯の常設施設がなかった植民地下の子どもにこどもらしい近代的な配慮が与えられた。

第五章では、韓国における博覧会のパビリオンなど設営に活躍した植民地建築界について、1921年に結成された朝鮮建築会を中心に考察した。朝鮮建築会は創設当初から、植民地朝鮮の住宅問題を論議しており、朝鮮博覧会の開催企画段階から住宅作品の出品ができるように働きかけた。また、出品住宅委員会を組織して、日本の理想的住宅案を受け入れる一方、冬の酷寒などの韓国の特殊性に対応した、中流向けの住宅を出品した。しかし、出品住宅は先進技術を基にした近代住宅のモデルとしては認められるが、工事費が高くなり本来の趣旨の中流向けの提案としては成功しなかった。

最後の第六章では、韓国人建築家の朴吉龍を中心に博覧会が朴に与えた影響を分析した。朴は博覧会委員に選ばれ、朝鮮式パビリオンの設計に関与した。総督府技手の当時、洋風設計が主流だったが、博覧会以降は、韓屋の改良案を提案し実際に改良した韓屋の設計を行うなど、自らの文化を肯定的に受けとめ実現に努めた。植民地建築界をリードする日本人建築家にも、朴の活動は評価された。後に朝鮮建築会の理事になり、植民地下のリーダー建築家の一人になった。

マスコミが台頭する前の時代において、博覧会は非常に効果的なメディアであり、人々を啓蒙したり、国家政策や企業を宣伝したりした場として機能した。この研究は、植民地朝鮮の博覧会を通して博覧会のメディア的性質を究明する一方、韓国人建築家自らの力で近代化を目指す動きがあったことなど、当時の建築的実状を再構成することができた。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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