学位論文要旨



No 123006
著者(漢字) 張,東植
著者(英字)
著者(カナ) ジャン,ドンシク
標題(和) 格子ボルツマン法による微小循環系内の血流の数値解析
標題(洋)
報告番号 123006
報告番号 甲23006
学位授与日 2007.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6623号
研究科 工学系研究科
専攻 産業機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大島,まり
 東京大学 教授 牛田,多加志
 東京大学 准教授 佐藤,文俊
 東京大学 准教授 高木,周
 東京大学 准教授 古川,克子
内容要旨 要旨を表示する

微小循環系は内径300~10μmの細動脈,細静脈と10μm以下の毛細血管により構成されている循環系の末端の部分である.この領域では,赤血球のサイズが血管内径に対して相対的に有意になるため,赤血球の影響によるさまざまな現像が起こる.特に,血圧が20~25mmHgになり,心臓からの脈動も減衰し,定常流となる300μm以下の微小循環系では,太い血管に比べて血液中の赤血球の体積率であるヘマトクリット値が低下するFahraeus効果,血液の粘度が低下するFahraeus-Lindqvist効果が起こると報告されている.また,赤血球は血管壁面近傍と血管中心の血流の速度差によって生じる速度勾配により楕円形に変形し,赤血球膜が回転するTank-Tread運動をしながら軸中心に移動する.したがって,赤血球の軸集中化により壁面付近では血漿のみが流れる血漿層が形成され,血液の流れを円滑にしている.このように特異な現象が起こる細動脈内の血流を数値解析するためには,赤血球と血漿,および赤血球間の相互作用を考慮する必要がある.特に,赤血球1つ1つの変形挙動とともに,赤血球の集団としての挙動を考慮した解析が必要である.しかし,細動脈での赤血球のヘマトクリット値は約20~30%であり,血球間距離が非常に短いことが報告されているため,多数の赤血球を考慮しなければならない.

本研究では,従来の数値解析手法に比べて計算負荷が少ないと知られている格子ボルツマン法を用いて,高いヘマトクリット値を持つ細動脈内の血流を数値解析した.ここで,赤血球は剛体粒子,液滴粒子あるいは,膜を持つカプセル粒子と仮定し,細動脈内の単一粒子の挙動や集団挙動について詳細な数値解析を行うことを本研究の第1の目的とする.また,赤血球と仮定した剛体粒子,液滴粒子,カプセル粒子による赤血球の取り扱い手法や形状,ヘマトクリット値による影響を比較,検討することを第2の目的とする.また,本研究で開発された解析手法を用いて,ヘマトクリット値と流れのせん断によって変化する血液の見かけの粘性に対する検討を第3の目的とする.

はじめに,2次元チャネルでの単一粒子の挙動について数値解析を行った.まず,剛体粒子はレイノルズ数により異なる安定位置を示すことを確認した.すなわち,Re>1の場合はSegre-Silberberg効果によりチャネルの中心軸と壁面の間のある位置で安定した.しかし,Re<1の場合は,壁面方向には移動せずに主流方向に移動した.それは,赤血球の実挙動,すなわち,軸方向への移動とは異なる挙動である.したがって,剛体粒子では細動脈内の赤血球の挙動を再現することは困難であると考えられる.

次に,赤血球を液滴粒子と仮定した場合,液滴粒子は剛体粒子と異なる挙動で軸中心への移動を示した.しかし,液滴粒子は膜を持っていないため赤血球の実形状や膜のTank-Tread運動やTumbling運動などの挙動を再現することができない.

赤血球をカプセル粒子と仮定した場合,カプセル粒子は液滴粒子と同様に軸中心に移動した.カプセル粒子の軸中心への移動は面積の違いより形状による違いが大きく作用し,両面円盤型のカプセル粒子の方が他の円形カプセル粒子より軸中心に速く移動した.また,膜に発生する張力も両面円盤型カプセル粒子の方が他のカプセル粒子より小さいことが分かった.以上の結果より,膜の変形により発生する張力が小さいと初期形状に戻ろうとする反発力が小さくなるため,カプセルの移動速度が速くなる.また,張力や移動速度はカプセルの面積の違いよりも形状の違いに大きな影響を受ける.また,両面円盤型カプセル粒子は0.485H(軸中心:0.5H)に移動すると膜が回転するTank-tread運動からカプセル自体が回転するTumbling運動に移行した.これは,チャネルの中心に移動すると流体の速度勾配によるせん断が小さくなるためである.この結果はせん断もカプセルの挙動を決める重要なパラメータであることを意味する.

次に,赤血球は剛体粒子,液滴粒子,あるいはカプセル粒子と仮定し,チャネル内の多粒子の挙動について数値解析を行った.入口-出口間の圧力勾配を一定にして計算した場合,液滴粒子の方が剛体粒子,カプセル粒子より流速が速いことが分かる.また,粒子の軸方向への移動により発生する血漿層の分布も液滴粒子の方が厚くなった.一方,カプセル粒子を用いた形状の比較では,両面円盤型カプセル粒子の方が円形カプセルより瞬時速度が大きく,血漿層も厚くなった.しかし,流速には形状の違いより粒子の取り扱いの違いによる影響が大きく作用した.

2次元チャネル流れの計算結果より,赤血球の実形状を考慮することができるImmersed boundary格子ボルツマン法(カプセル粒子)が運動量交換法(剛体粒子)や非混和多成分格子ボルツマン法(液滴粒子)より赤血球の挙動をよく再現した.特に,軸中心への移動,膜の回転(Tank-tread運動)と血球自体の回転(Tumbling運動)が再現できた.

次に,3次元円管内の赤血球の挙動について数値解析を行った.薄い膜を持つ赤血球を3次元的に表現するため,本研究ではSkalakモデルを用いて赤血球膜を3次元空間での2次元超弾性体として仮定した.まず,円管内での赤血球と球形カプセル粒子の挙動を比較した.赤血球は2次元解析と異なり壁面近傍においてもTumbling運動しながら主流方向や軸中心に移動した.特に,軸中心への移動は赤血球の方が球形カプセル粒子より速く移動することを確認した.また,赤血球はTumbling運動により主流方向に対して垂直になった時,軸中心に大きく移動することも確認された.

円管内を流れる多粒子による赤血球の集団挙動について数値解析を行った.円管内流れでのレイノルズ数は0.5であり,流れは完全発達したPoiseillue流れである.ヘマトクリット値は5~20%(18~72個の赤血球)として,ヘマトクリット値による影響を比較した.

赤血球は流れの速度勾配により変形や回転しながら主流方向に移動した.特に,赤血球のスリッパ形状が再現できた.また,ヘマトクリット値を5%から20%まで上げると流速が遅くなり,流動抵抗が増加することを確認した.

また,血液はヘマトクリット値とせん断により粘度が変化する非ニュートン性流体であるため,単純せん断流れにおいて,赤血球のヘマトクリット値とせん断率を変化させ赤血球の見かけの粘性を検討した.計算の領域は長さ20μm,高さ20μm,幅20μmの立方体である.計算で用いた赤血球のヘマトクット値は20%(16個),30%(24個)と仮定し,単純せん断流れでのせん断とヘマトクリット値による見かけの粘性の変化について調べた.まず,せん断率が減少することにより血液の見かけの粘性は増加した.また,円管での計算結果のようにヘマトクリット値が増加すると血液の見かけの粘性も増加した.この結果より,血液はせん断率とヘマトクリット値により見かけの粘性が変化する非ニュートン性流体であることが確認された.

以上の結果より,Immersed boundary格子ボルツマン法(カプセル粒子)が運動量交換法(剛体粒子)や非混和多成分格子ボルツマン法(液滴粒子)より赤血球の変形や挙動をよく再現することが分かった.特に,赤血球の軸方向への移動,赤血球の膜の回転(Tank-tread運動)と赤血球自体の回転(Tumbling運動)が再現できた.また,粒子の軸中心への移動速度は粒子の体積(面積)より形状に大きく依存する.すなわち,両面円盤型カプセルが球形(円形)カプセルより速く軸中心に移動した.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,「格子ボルツマン法による微小循環系内の血流の数値解析」と題して,6章から構成されている.

医学の進歩とともに人間の寿命が徐々に長くなり,全人口に対する老人人口の割合が増加し,2050年には65歳以上の老人は約35%を占めると予測されている.特に,認知症は65歳以上の老人人口の約6%以上が持つ重大な病気であるため,今後高齢化社会への移行に伴い,重要な社会問題になると考えられる.認知症は原因不明のアルツハイマー病がよく知られているが,日本では脳梗塞,脳出血などの脳血管障害により発生する血管性認知症の方がアルツハイマー病より多いと報告されている.特に,細い動脈が硬化し,血栓によって血管が詰まる多発生小脳梗塞が脳血管性認知症の約半数を占めているため,細い血管における血栓の発生のメカニズムに関する現象解明が必要である.一般に動脈で起こる血栓は白色血栓や混合血栓であり,後者の場合には赤血球が関与する.現状では人体の網動脈内でのヘマトクリット率である10~30%を持つ血流と,変形能を持った赤血球を個々に取り扱いながら解析する例はあまり見られない.そこで,本研究においては10~30%のヘマトクリット値において,生体膜を有する赤血球の集団挙動に対する数値解析が望まれている.

以上より,本論文では従来の数値解析手法と比較して計算負荷が少なく,かつ変形する多数の粒子の取り扱いにおいて利点がある格子ボルツマン法を用いて細動脈内の赤血球の挙動を解析する.

第1章においては,本研究の背景である認知症,特に日本で多発する血管性認知症と多発生小脳梗塞の主な原因である血栓について述べ,細動脈内で起こる血栓の発生を究明するための研究の第一歩として,10~30%のヘマトクリット値を持つ血流の数値解析が必要であることを述べている.また,その要件を満足するための数値予測手法の構築に向け,従来の研究について,赤血球膜モデルと赤血球の集団挙動の両面から調査し,まとめている.その調査結果に基づき,10~30%のヘマトクリット値を持つ血流の数値予測手法を構築し,赤血球膜の取り扱い手法や赤血球の形状による単体粒子の挙動と集団挙動の特性を比較・検討することを目的として述べている.

第2章では,第1章において取り上げた従来研究のうち,従来の数値予測手法より計算負荷が少ないと知られている格子ボルツマン法について述べている.次にChapmann-Enskog展開による格子ボルツマン法からNavier-Stoke運動方程式への展開を記述している.最後に格子ボルツマン法での境界条件について述べている.

第3章では, 赤血球の取り扱いとしては,剛体粒子,液滴粒子そしてカプセル粒子と仮定して,三種類を取り上げている.はじめに,赤血球を剛体粒子と仮定する運動量交換法について述べ,格子ボルツマン法での曲線境界条件や剛体粒子の移動,回転について述べている.次に,液滴粒子と仮定する非混和多成分格子ボルツマン法について説明している.また,赤血球を生体膜を持つカプセル粒子として仮定し,Immersed boundary格子ボルツマン法と2次元と3次元での赤血球膜に発生する張力や膜の変形,移動について述べている.本論文においては,赤血球にたいする膜モデルはSkalakモデルを用いた.

第4章では,第3章において提案した赤血球の取り扱い手法を用いた2次元数値解析結果について述べている.単体粒子をカプセル粒子と仮定し,Swelling比(SR)を0.7, 0.8, 0.9, 1.0と変化させた場合のSRの高さ50μmのチャネル内における各粒子の挙動に対して与える影響を比較した.その結果,全てのカプセル粒子は壁面近傍のせん断が大きい領域でTank-Tread運動をしながら軸中心方向に移動し,SR=0.7の場合はせん断が小さい軸中心付近でTank-Tread運動からTumbling運動に移行することを示した.一方,多粒子の集団挙動においては,膜の張力が小さい液滴粒子は剛体粒子やカプセル粒子と比較して変形しやすいため,軸中心に粒子が移動して血漿層が厚くなり,流動抵抗が他の粒子より低くなった.また,円形カプセル粒子の半径がR=3.338μmとR=2.781μmを比較したところ,1個にたいする面積は異なるが,計算領域全体の粒子の面積率が20%と同じであるため,流動抵抗はほぼ同じとなる.一方,SR=1.0と0.7のカプセル粒子を比較した場合,SR=0.7の方が粒子が軸中心に移動しやすいため,流動抵抗がSR=1.0より低くなった.

第5章では,3次元カプセル粒子の挙動について数値解析を行い,その結果について述べている.直径30μmの円管内を流れる単体の赤血球(SR=0.64)と球形カプセル粒子(SR=1)の形状による挙動特性を比較した.その結果,赤血球の方が球形カプセル粒子より膜張力が小さく発生して変形しやすくなり,軸中心に移動しやすいことが分かった.

最後に,本研究で構築されたImmersed boundary格子ボルツマン法を用いて,せん断率が小さくなるにしたがい,見かけの粘度が増加する非ニュートン性流れの特性を再現することができた.その結果をもとにせん断流れ場での血液のヘマトクリット値とせん断率を変化させ,血液のヘマトクリット値の変化による見かけの粘度への影響を加味した修正Carreau-Yasudaモデルを提案した.

第6章は結論として,格子ボルツマン法による微小循環系内の血流の数値解析に関して本論文で得られた知見および、成果がまとめている.

以上に述べたように,本論文によって,血栓の発生メカニズムを究明するための基礎研究として,赤血球の生体膜とヘマトクリット値を考慮した血流の数値解析が可能となった.これにより,細動脈内の血流の特徴である赤血球の軸集中挙動や非ニュートン流れの特性が再現でき,今後の研究における有意義な指針が示されたといえる.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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