学位論文要旨



No 123020
著者(漢字) 和久井,健太郎
著者(英字)
著者(カナ) ワクイ,ケンタロウ
標題(和) スクイーズド光と光子検出器を用いた準巨視的重ね合わせ状態の生成・制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 123020
報告番号 甲23020
学位授与日 2007.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6637号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古澤,明
 東京大学 教授 永長,直人
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 志村,努
 東京大学 准教授 井上,慎
内容要旨 要旨を表示する

ボソンによる量子情報処理は、これまで主に光の分野において目覚しい発展を遂げてきた。これらは2つの領域に大別することが可能であり、1つはqubitを初めとする離散変数が情報処理の担い手となった、離散量量子情報処理と呼ばれる領域である。ここでは光子の持つエネルギーの離散性が有効活用されており、現在の光量子情報処理の主流となっている。もうひとつの大きな流れが連続量量子情報処理と呼ばれる領域である。こちらでは直交位相成分と呼ばれる連続変数が情報処理の基底として用いられているため、光の波動性を積極的に生かした領域であると言える。これらはそれぞれ異なる基底を用いており、例えば量子テレポーテーションのようなプロトコルに関して言えば、質的には異なるものの、双方の領域において高精度な実験実証がなされている。

これら光の量子情報処理に関して重要な役割を果たすのが量子エンタングルメント、もしくは量子もつれと呼ばれる非局所的量子相関である。ある系が量子エンタングルメントを持つ場合、その2つ以上の部分系はエネルギーや直交位相において互いに非局所的量子相関を持つ。このような非局所相関は、実験的には非線形光学効果を用いて実現可能であり、例えば2次の非線形光学効果を用いたパラメトリック過程は、単一光子レベルでのもつれ合いやスクイーズド光を生成するために有効な手段であることが知られている。このパラメトリック過程を用いた量子もつれ光源は、尖頭値の大きいパルス光を用いる手法や、光共振器を用いて光電場を増幅する手法によって実現されている。本研究においても、高純度のスクイーズド光の生成のため、光共振器を用いた縮退パラメトリック過程が活用されている。

一方、光の連続量量子情報処理の領域において、量子情報処理の可能性を最大限に引き出すためには、3次以上の非線形性が必須であることが近年明らかになってきている。これは以下に例示した定理を初めとする、幾つかの重要な定理からの要請である。

1.量子エンタングルメント抽出に関する不可能定理:伝送路の損失等のため部分的に壊れた連続量量子エンタングルメントを、2次までの非線形性を用いた物理過程で回復させることは出来ない

2.量子ゲート操作に関する定理:3次以上の非線形相互作用が利用できれば、連続量量子情報処理の任意の基本的ゲート操作が可能になる

以上は連続量の量子情報処理において大変重要な定理であり、実用まで見据えた場合、長い道のりの中で避けて通れないポイントとなることは間違いない。ところが、単一光子レベルの信号に関して、そのような高次の非線形光学過程を直接実現するような非線形光学材料は、未だ現在知られていない。その代わりに近年最も注目されているのが『測定誘起型非線形過程』と呼ばれる手法であり、これが本研究の中心となる概念である

この手法においては、一連の過程の中に

・状態の生成:光子検出器による離散的エネルギーの測定

・状態の測定:ホモダイン検波による連続的位相分布の測定

という二つの要素が含まれており、実はこれまで殆ど相容れてこなかった離散量と連続量、双方の技術を統合的に制御する技術が必要となる。この新しい技術を実験的に開発することが本研究の目的であり、この技術は、光を用いた量子情報処理の潜在能力を最大限に引き出すため、必ずや将来的に役立つものになるであると言えよう。

測定誘起型非線形過程とは、量子もつれと光子検出器の性質を用いて、実効的に強い非線形過程を誘起する手法である。この過程を実現するための最も簡単な配置は以下の通りである。まず入力量子状態がビームスプリッタで分割され、もつれ合い状態が生成される。量子もつれはその部分系が非局所的相関を持っているため、そのうちの片方を光子検出器で測定すると、その測定結果に応じてもう片方の量子状態が非局所的に変化するという効果が生じる。ここで、光子数を識別する測定や光子の有無を判別する測定は一般に光子数への射影測定となっており、この離散量への射影が非常に強い非線形性を誘起するため、残った状態は非線形な状態変化を受ける。

この一連の過程では、光子検出器で測定した状態は壊れてしまい、またその操作自体も確率的なものであるというデメリットがあるものの、単一光子レベルでの高次の非線形過程を実現できるため近年大きく注目されている。この新規的な領域の中で、最近になり実験的に最も盛んに研究され始めたのが、『シュレーディンガーの子猫状態』と呼ばれる準巨視的重ね合わせ状態の生成に関するものである。

巨視的重ね合わせ状態は、量子光学的にはコヒーレント状態の重ね合わせ(coherent superposition state:CSS)として記述される。これは、永らく量子力学のパラドクスであったシュレーディンガーの猫のパラドクスから俗にシュレーディンガーの猫状態とも言われ、これを光の進行波モードで生成するのが量子光学における積年の夢であった。そして、シュレーディンガーの猫状態そのものではないものの、この状態に非常に近いといわれているのが、シュレーディンガーの子猫状態と呼ばれる奇数光子の重ね合わせ状態である。

この状態は、先述の測定誘起型非線形過程の原理をスクイーズド状態と光子検出器からなる系に適用することにより、原理的に生成可能であることが知られてきた。より具体的には、縮退パラメトリック過程により生成されるスクイーズド光からアバランシェフォトダイオード(APD)を用いて近似的に光子を1つ抜き去ることで、位相空間において準巨視的に識別可能な二つのピークを持つ状態が生成される。この状態は、その生成のメカニズムから、『光子が除去されたスクイード状態(photon-subtracted squeezed state:PSS)』とも呼ばれている。

この状態の生成に関して、2006年になって実験成功の報告が相次いだ。最初のグループはフランスCNRSのグループで、次に続いたのがデンマークのNeels-Bohr研究所のグループであった。我々のグループ(情報通信研究機構、東京大学)でも独自にこの状態の生成に取り組んでおり、世界初の原理実証は叶わなかったものの、世界で3番目に、先行の2研究を凌駕する高品質の状態を生成することに成功した。

生成された状態の特性はWigner関数と呼ばれる擬似確率分布で評価でき、これが大きな負の値を取るほど非古典的性質が強いとされる。この負の値は系の損失にきわめて弱いため、これを直接観測するのは技術的に大変困難であった。我々のグループでは系全体の損失を低く抑えることに加え、非線形結晶として標準的に用いられていたニオブ酸カリウム(KNbO3)とは異なる、非常に光学損失の小さい周期分極反転燐酸酸化チタンカリウム(Periodically-Poled KTiOPO4:PPKTP)を採用することにより、それまでに報告されている値(W(0, 0) = -0.026+-0.012)より3倍以上大きな負の値(W(0, 0) = -0.091+-0.011)を持った状態を観測することに成功した。

例えば量子テレポーテーションにおいてこのような状態を伝送しようと試みたとき、伝送路における損失に打ち勝ち出力側でも負の部分を確認するためには、入力としてできるだけ負の値の大きい状態が必要となろう。今回得られた負の値は、実験的な効率を考慮した場合の限界値に近く、量子テレポーテーションで非古典性を伝送する際の強力な武器となることが期待される。

またシュレーディンガーの猫状態には、『-(マイナス)』と『+(プラス)』のパリティを持つ相補的な2種類の状態が存在する。上述の、スクイーズド光から1光子を除去した子猫状態が『マイナス』のパリティの猫状態に対応しているのに対し、『プラス』に対応する状態は、スクイーズド光から引き去る光子の数を1つから2つに増やすことにより生成可能である。これは、実験的には光子を引き去るためのAPDの数を2個に増やし、それらの同時計数信号を状態生成のトリガとして用いることで実現できる。ただし光子を2個同時に検出する場合、単一光子検出の場合と比較して検出確率が遥かに下がるため、1個除去するケースより実験的な難しさが飛躍的に増大する。我々のグループでは、実験系全体の長時間安定性を向上させることにより、このプラスのパリティを持つ子猫状態に関しても、つい先ごろ世界で始めて生成に成功した。

これら正負のパリティを持つ2つの準巨視的重ね合わせ状態を生成・準備できたことは以下の点で非常に大きな意味がある。

・さらに巨視的な重ね合わせ状態を生成するための、"猫の育成"プロトコルへの応用

・これらの重ね合わせ状態を基底とする光の量子計算への応用

また、現在提案されているエンタングルメント抽出実験の手法を初めとして、量子もつれ光源と2光子除去の組み合わせが実現する量子プロトコルのバリエーションは非常に多彩であり、この一連の実験は、それらのための要素技術の開発という意味でも大変意義深いものであると言える。

審査要旨 要旨を表示する

量子情報処理とは、究極の物理法則である量子力学を用いて、従来の古典力学に基づいた情報処理の限界を超えることを目的とした研究分野である。この分野では、まず実現するべき情報処理性能に対する仕様が設定されており、それが達成できればどのような媒体を用いても構わない。このユニークな分野の中で、ボソンによる量子情報処理は、これまで主に光の分野において目覚しい発展を遂げてきた。この光を用いた量子情報処理は、2つの領域に大別することができる。その1 つは、量子ビットを初めとする離散変数が情報処理の担い手となった、離散量量子情報処理と呼ばれる領域である。ここでは光子の持つエネルギーの離散性が有効活用されており、現在の光量子情報処理の主流となっている(光子制御)。そして、もうひとつの無視できない流れが、連続量量子情報処理と呼ばれる領域である。ここでは、直交位相成分と呼ばれる連続変数が情報処理の基底として用いられているため、光の波動性を積極的に生かした領域であるといえる(光波制御)。上記2つの領域における研究は、同じ光という媒体を用いていながら、離散変数と連続変数という異なる基底を情報処理に用いているという本質的な違いがある点や、最適化されてきた実験技術の相違のために、これまで相互に乗り入れられることは乏しかった。ところが近年になり、光を用いた連続量量子計算における劇的な精度向上や、損失で失われた連続量量子もつれ抽出に関する不可能定理などの観点から、光子制御と光波制御、二つの領域の技術を統合した制御に関する注目が高まっている。本研究ではそれを「光子・光波同時制御」と位置付け、その嚆矢となり得る系において、実験を行い新しい量子状態の生成に成功した。それが本研究で生成に成功した、「シュレーディンガーの子猫」状態と呼ばれる、光の重ね合わせ量子状態の生成に関するものである。

コヒーレント光の重ね合わせ状態は「マクロ」に識別可能な二つのピークを持つことから、有名なシュレーディンガーの猫のパラドックスにちなんで「光のシュレーディンガーの猫」状態と名づけられた。シュレーディンガーの子猫状態は、この光の重ね合わせ状態と極めて類似性が高い状態として、その生成方法が紹介された。この状態はスクィーズド光を光源としてその少量をビームスプリッタで反射させて量子もつれを形成した後、アバランシェフォトダイオードを用いて単一光子検出することによって生成可能である。入力のスクィーズド光が「ガウス型」の量子状態とされるのに対し、光子検出後の量子状態はサイズの小さいシュレーディンガーの猫状態に似て、極めて「非ガウス的」な量子状態となる。このシュレーディンガーの子猫状態の生成に関しては、生成に関する実験的・理論的な難しさから、現在までに世界で3つの機関しかが実験に成功していない。そのうちの一つが我々のグループであり、最初の原理実証実験は叶わなかったが、さまざまな損失を低減することで、先行2機関を遥かに凌駕する品質の子猫状態を生成することに成功した。その鍵となるのが、周期分極反転燐酸チタン酸カリウム(PPKTP)と呼ばれる新しい非線形光学材料である。また、本研究では2つのアバランシェフォトダイオードを用いて、単一光子検出時とは異なる特性を持った子猫状態の生成に成功しており、これは世界初の結果である。

本論文は以下の5章からなる。以下に各章の内容を要約する。

第1章では、光を用いた量子情報分野において重要な標石となる研究を紹介しながら、研究背景と動機について述べた。より具体的には従来の光子制御、光波制御の長所と短所を指摘し、そこから光子・光波同時制御の必要性、さらには本研究のテーマである、スクィーズド光と光子検出を用いた実験の必要性を浮き彫りにした。また、最後に本論文の構成について述べている。

第2章では、本研究を理解するうえで重要であると考えられる、基礎的な事項について列挙した。具体的な項目は、電磁場の量子化、コヒーレント状態やスクィーズド状態などの光の量子状態、またそれら量子状態の最構成法である光ホモダイントモグラフィの技術について示し、再構成されるWigner関数と呼ばれる擬確率分布関数の諸性質についても示した。最後に、コヒーレント重ね合わせ状態と、シュレーディンガーの子猫状態の生成手法について解説している。

第3章は本研究のハイライトである。本章では、単一光子検出によるシュレーディンガーの子猫状態の生成について述べている。章の前半ではまず理論的な表式についての準備を行い、章の後半では実験について詳述した。我々が実験に用いているのは連続波のスクィーズド光光源であり、光子検出で生成できる子猫状態は、光源のスクィーズド光のコヒーレンスに依存する。理論部分では、連続波スクィーズド光の諸特性を考慮した際の時間・周波数特性について議論し、そこからWigner関数の表式を得た。また章の後半部分では、本研究で開発した実験技術に関して詳述した。本研究ではいくつもの光共振器をレーザー周波数にロックし、なおかつ単一光子レベルでS/Nよく光子検出を行う必要があった。そのため、一体型光学フィルタやサンプル・ホールドの手法を用いた時間分割ロック法などを開発した。また、最後に実験結果について説明した。本研究では光学損失の大きい従来の非線形光学結晶に変わり、PPKTPを用いて先行研究を凌駕する品質の状態を得たので、そこから得られた結果についても考察している。

第4章では、第3章の実験技術を拡張して、2光子検出による、異なるシュレーディンガーの子猫状態の生成実験について報告している。

第5章では、まとめと展望について示し、これから進むべき道についての示唆を与えている。

以上のように、本研究はこれからの光子・光波同時制御の嚆矢となる研究である。その基礎技術を開発したことは量子情報工学の見地から大変意義のあるものであり、物理工学の発展への寄与は大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位論文として認める。

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