学位論文要旨



No 123048
著者(漢字) 中島,佐和子
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,サワコ
標題(和) 複合現実感における生体影響とその軽減策に関する研究
標題(洋)
報告番号 123048
報告番号 甲23048
学位授与日 2007.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6665号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊福部,達
 東京大学 教授 神崎,亮平
 東京大学 教授 廣瀬,通孝
 東京大学 准教授 広田,光一
 東京大学 准教授 井野,秀一
 東京大学 講師 谷川,智洋
内容要旨 要旨を表示する

本論文では,医療,介護,交通など様々な分野における作業支援技術として浸透しつつある複合現実感(MR:Mixed Reality)技術が生体影響の少ないヒューマン・インターフェースとして社会に受け入れられるようにするための設計指針を示している.特に,幅広い一般ユーザへの支援技術としての発展が期待できる自動車の運転支援として開発されたHUD(Head-Up-Display)を用いた光学式MRディスプレイを研究の対象として,振動や揺れの生じるMR環境下での生体影響評価を定量的に行い,悪影響を軽減する方法を提案した.そのため,まず,テストコースでの実車による官能評価を行い,走行時などの振動環境下において生じるMR環境特有の感覚統合不一致の現象を把握した.その現象を再現できるように実験室内にシミュレータを構築し,感覚統合不一致,すなわち振動や揺れの起こる環境下で生じる実像と虚像(センサ像)の間の時空間的なMRずれが,どのような生体影響に繋がるかを調べた.その結果,そのMR時間ずれが0.2Hz付近で酔いや錯誤などを誘発することが示され,それらを誘発する要因を認知科学的な観点からモデル化するとともに,酔いや錯誤を軽減させる一つの方法や簡便に生体影響を評価する方法を提案した.本研究で取り組んだ課題を整理すると以下の三点になる.

(1)MRずれの生体影響評価とその生成モデルの構築

(2)異種感覚刺激による生体影響の軽減策の提案

(3)動的錯視を利用した新しい評価指標の提案

以下に本論文の内容をまとめる.

第1章では,複合現実感への期待と人工現実感による生体影響に関する過去の研究の流れを述べた.

第2章では,本研究に関連した従来の研究を紹介し,人工現実感技術の生体影響に関する現状をまとめ,その中での本研究の位置づけを述べた.第一に,これまでの研究をサーベイし,振動や揺れの生じるMR環境下での生体影響評価に関する研究は皆無に近いことから,本研究で問題とするMR環境下での生体影響評価はそれ自体が新しい試みであることを示した.第二に,特に振動環境下での生体影響評価を進めるにあたって,評価指針となる生体影響の周波数応答特性の重要性を示した.第三に,従来の評価指標を概説し,MR環境下での生体影響においては多角的で定量的な評価が重要であることを述べた上で,運動残効などの動的錯視と動揺病の関係について報告されていた従来知見に新たに注目した.

第3章では,振動や揺れの生じるMR環境下での生体影響評価を行うことを目的に,複合現実感を車両に応用させたドライバー支援のためのMRディスプレイを具体的に取り上げ,運転環境などの実際の振動条件下で生じる時空間的なMRずれによる生体影響を従来用いられてきた評価指標から多角的に計測した.運転環境での振動条件に基づき,身体加振刺激を0.1から2.0Hzで提示したところ,4つの周波数条件の中では特に0.2Hzの低周波な加振刺激によるMRずれが平衡機能の不安定化(重心動揺量の増加)や,呼吸(呼吸周波数)や発汗(発汗量の変動幅)などの増加による精神的なストレスを生じるなど,動揺病のようなMR酔いの兆候を引き起こすことが示された.さらに,本章では,計測された生体影響の周波数応答特性に基づき,視運動刺激に対して生じる自己運動感覚(ベクション)や姿勢制御,または動的環境下における固視機能としての前庭動眼反射(VOR:Vestibulo-Ocular Renex)などの生理的要因と,MRディスプレイの遅延時間という物理的要因の両方を考慮した生体影響の生成仮説を提案した.

第4章では,第3章で提案したMRずれによる生体影響の生成モデルに基づいた,生体影響の軽減策の提案を行った.生成モデルの一要因であるMRずれ刺激に対応する身体特性をターゲットとして,感覚提示方法を工夫することにより生体影響の生じる要因を制御できるような異種感覚刺激の検討を行った.異種感覚刺激としては,MR環境下でも利用しやすい聴覚刺激に着目し,特にMRずれにより誘因される平衡機能の不安定化を制御することが可能かどうかを確認する実験を行った.

重心動揺量の計測時に56dB(A)のホワイトノイズを30秒間提示させたところ,第3章で計測された0.2Hzの加振刺激によるMRずれによって生じる重心動揺量(COPの軌跡長と外周面積)の増加を減少させることができた.聴覚刺激による平衡機能の不安定化の制御に関する実験は,0.2Hz加振条件だけでなく2.OHz加振条件においても同様に行い,得られた結果を聴覚刺激による生体影響制御の周波数応答特性として評価した.この結果を,第3章で提案したMRずれによる生体影響生成モデルにさらに組み込むことにより,軽減策を考慮した生成モデルとして改良した.これにより,異種感覚刺激を利用した軽減効果を推定できるような,MR環境下において生じる生体影響のモデルとしてよりよい汎用的なものとなるように工夫した.

第5章では,振動や揺れの生じるMR環境下での生体影響評価に適した新しい評価指標を提案することを目的に,運動残効を利用した評価指標の有用性の検討を行った.運動残効を利用することができれば,パソコンなどを利用した装置による非接触な計測が可能となるため,計測時の身体拘束や計測手順の煩雑さによる計測対象や計測条件への制限を少なくさせることができる.また,従来の知見により動揺病の感受性との関係性が報告されていることから,検出感度の観点からも期待できるため,動揺病の評価指標として,重心動揺量などの従来指標に対する代行が可能かどうかを調べるための基礎実験を行った.その結果,加振刺激による周波数応答特性を比較すると,重心動揺量で得られた実測値や従来の動揺病発生率に関する周波数応答特性とも同様な傾向を示すことがわかった.

また,運動残効に関する最近の脳科学的な知見を踏まえ,聴覚刺激による運動残効の制御がMR酔いの早期軽減につながる可能性を考慮し,聴覚刺激による運動残効の制御効果を調べた.その結果,聴覚刺激として90dB(A)のホワイトノイズを短時間(0.5s)与えることにより加振刺激により増加した運動残効の持続時間が減少されることが示唆された.

以上より,生理的要因に基づいた生体影響評価と異種感覚を利用した軽減策の提案を定量的に示すことにより,将来の安心・安全なMR機器の設計に向けた基盤づくりに貢献できたと考えている.

本研究で得られた成果は,最終的には「身体への親和性の高いMR機器」を実現するための各要素としてまとめることができる.このようなMR機器開発を通じて,一般ユーザだけではなく,加齢により視力の衰えた高齢者などの安全運転などにも役立つような,ヒトの多様性を考慮した支援を可能にするMR機器としても展開できると考えている.

審査要旨 要旨を表示する

本論文では,医療,介護,交通など様々な分野における作業支援技術として浸透しつつある複合現実感(MR:Mixed Reality)技術が生体影響の少ないMR機器として社会に受け入れられるようにするための設計指針を示している.特に,幅広い一般ユーザへの支援技術としての発展が期待できる自動車の運転支援として開発されたHUD(Head-Up-Display)を用いた光学式MRディスプレイを研究の対象として,振動や揺れの生じるMR環境下での生体影響評価を定量的に行い,悪影響を軽減する方法を提案している.

具体的には,まず,テストコースでの実車による官能評価を行い,走行時などの振動環境下において生じるMR環境特有の感覚統合不一致の現象を把握している.その現象を再現できるように実験室内にシミュレータを構築し,振動や揺れの起こる環境下で生じる実像と虚像の間の時空間的なMRずれが,どのような生体影響に繋がるかを調べている.その結果,そのMRずれが0.2 Hz付近で酔いや錯誤などを誘発することが示され,それらを誘発する要因を認知科学的な観点からモデル化するとともに,酔いや錯誤を軽減させる一つの方法や簡便に生体影響を評価する方法を提案している.

本論文は全体で1章から5章で構成される.

第1章では,本研究がもつ背景と研究の目的について述べている.

第2章では,本研究に関連した従来の研究を紹介し,人工現実感技術の生体影響に関する現状をまとめ,その中での本研究の位置づけを述べている.

第3章では,振動や揺れの生じるMR環境下での生体影響評価を行うことを目的に,複合現実感を車両に応用させたドライバー支援のためのMRディスプレイを取り上げ,運転環境などの実際の振動条件下で生じる時空間的なMRずれによる生体影響を従来用いられてきた評価指標から多角的に計測している.運転環境での振動条件に基づき,身体加振刺激を0.1から2.0 Hzで提示したところ,4つの周波数条件の中では特に0.2 Hzの低周波な加振刺激によるMRずれが平衡機能の不安定化(重心動揺量の増加)や,精神的なストレス(呼吸周波数や発汗量の変動幅などの増加)を生じるなどMR酔いの兆候を引き起こすことを示している.さらに,計測された生体影響の周波数応答特性に基づき,MRディスプレイの遅延時間という物理的要因と,視運動刺激に対して生じる自己運動感覚(ベクション)や姿勢制御,または動的環境下における固視機能としての前庭動眼反射(VOR:Vestibulo-Ocular Reflex)などの生理的要因の両方を考慮した生体影響の生成仮説を提案している.

第4章では,振動や揺れの生じるMR環境下での生体影響評価に適した新しい評価指標を提案することを目的に,ベクションと類似した現象である運動残効を利用した評価指標の有用性の検討を行っている.運動残効を利用することができれば非接触な計測が可能となるため,計測時の身体拘束や計測手順の煩雑さによる計測対象や計測条件の制限を少なくさせることができる.また,従来の知見により動揺病の感受性との関係性が報告されていることから,検出感度の観点からも期待できる.そこで,MR環境下での生体影響評価方法としても,この運動残効が利用可能かどうかを調べるために,振動環境下で生じるMRずれ映像を10分間見続けた場合に生じる運動残効の大きさを,加振刺激の周波数を変えて計測している.その結果, 0.1Hzや0.2Hzの低周波の振動領域において運動残効の持続時間が長くなるという傾向が得られ,第3章において重心動揺量などの評価指標により計測された結果と対応している.以上の実験結果と従来指標との生理的反応の類似性による議論に基づき,本章で,運動残効を利用した生体影響評価方法を提案している.

第5章では,第3章で提案したMRずれによる生体影響の生成モデルに基づいた,生体影響の軽減策の提案を行っている.生成モデルの一要因であるMRずれ刺激に対応する身体特性をターゲットとして,感覚提示方法を工夫することにより生体影響の生じる要因を制御できるような異種感覚刺激の検討を行っている.異種感覚刺激としては,MR環境下でも利用しやすい聴覚刺激に着目している.まず, MR環境下のように前庭感覚にも常に刺激が加わった状況においても聴覚刺激による平衡機能の制御効果が示されるかどうかを確認する予備実験を行っている.その結果, 重心動揺量の計測時に56 dB(A)のホワイトノイズを30秒間提示させたところ,第3章で計測された0.2 Hzの加振刺激によるMRずれによって生じる重心動揺量の増加が減少することを示している.また, 聴覚刺激による運動残効の制御効果を調べた結果,聴覚刺激として90 dB(A)のホワイトノイズを短時間(0.5 s)与えることにより運動残効の持続時間が減少することを示している.これらの結果から,第4章で提案した生体影響の新しい評価指標である運動残効の感覚統合特性に関する最近の脳科学的な知見を踏まえ考察し,聴覚刺激による生体影響の軽減方法を提案している.

以上,本研究で得られた成果は,将来の安心・安全で身体への親和性の高いMR機器の設計に向けた基盤づくりに役に立つばかりでなく, 加齢などにより視力の衰えた人たちの安全運転にも役立つような運転支援へと展開できる.

よって本論文は学士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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