学位論文要旨



No 123078
著者(漢字) 髙嶋,修一
著者(英字)
著者(カナ) タカシマ,シュウイチ
標題(和) 大都市近郊における耕地整理と地域社会 : 東京・玉川全円耕地整理の研究
標題(洋)
報告番号 123078
報告番号 甲23078
学位授与日 2007.10.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第223号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 加瀬,和俊
 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 教授 粕谷,誠
内容要旨 要旨を表示する

東京府荏原郡玉川村は、1932年に東京市に編入されて世田谷区の一部となった地域である。近世以来商品作物栽培を手がけてきた近郊農村であったが、大正期に入ると都市化の影響を受けるようになり、東京市に近接した村域東部の人々を中心に農業の限界や宅地開発の有望性が自覚されていった。とりわけ、田園都市株式会社による田園調布住宅地の開発が村の内部に及んだことは、土地所有者にとって大きな刺激となったのである。

玉川全円耕地整理事業は、こうした状況の中で土地所有者自らが開発利益を獲得すべく構想された。組合の設立認可申請は1924年に行われ、翌年に認可が下り事業は着手された。施行範囲は村域のほぼ全体、1000ha以上におよぶ当時としては隔絶した規模の土地整理であった。工事は第二次世界大戦終了の直前まで行われ、戦後は登記事務などが行われて1955年にすべての事業が完了した。本論文は、この事業が当時の経済社会においていかなる意義を有したものであったのかを、事業の遂行過程を分析することで明らかにするものである。

土地整理は土地の開発利益獲得を目指して行われるものであるが、その際に組合員は自己の所有地を一定の割合で供出する必要がある。しかも多くの場合は複数者によって共同で行われるのであるから、これは共同体的規制とは異なる意味での土地所有権の制限にほかならない。そうしたことへの同意はいかにして可能であったのだろうか。

結論的には、そうした同意の取りつけは、明治社会の枠組みにおいては不可能であった。地域社会における伝統的秩序が農業生産を前提として編成されたものであったのに対し、宅地化を前提とした耕地整理は地域社会がそれまで立脚してきた生産的基盤を自ら掘り崩すものであったから、耕地整理はその遂行過程で自己矛盾に陥らざるを得なかった。

農業生産を基盤として成立した伝統的社会秩序=行政村体制の要点は、地理的・空間的領域によって構成員の利害を集約し、その福利を行政村およびその下部構造たる大字が丸抱えするという社会編成原理と、土地を一義的な生産手段として用いることに由来する「使用価値」的な価値原理であった。

だが、宅地化に伴う土地利用条件の変化によって、大字などの伝統的領域によって利害を集約することは困難となった。このときに問われていたのは、いかなる領域によれば利害の集約が可能になるのかではなく、領域以外のいかなる方法によれば利害の集約が可能になるのかという、社会の分節化のあり方=社会編成原理そのものだった。問題は耕地整理事業の実施過程でも生じていた。初期の耕地整理は、耕地整理の原資をディベロッパーなどの外部に仰ぐことなく、まず最初に資金を借り入れて工事を行い、その後組合員に対する過剰換地と外部への組合地売却とによって得た資金で借入金を償還するという方法で試みられた。だが、これはまもなく組合地売却の不振という問題に直面した。借入金の利払い負担は膨張して組合経営は極度に圧迫されたのである。

こうした問題を解決し耕地整理を遂行するためには、耕地整理組合自身が本来依拠した伝統的地域社会秩序から遊離し、村の一分枝としての性格を捨て去るほかはなかった。組合の範囲は伝統的な空間領域によるのではなく、耕地整理によって変化した新たな土地利用条件に合わせて改変されるようになった。組合運営の方法も変化していった。事業進捗上の諸問題は発生の都度役員に依存して事後的に対処する方法から、事業内容をあらかじめ先決化・客観化しておくことで事前に問題の発生そのものを回避する方向へと移行した。それは、組合地の売却方法や事業資金の調達、道路設計のありかたなどの変化として現れた。最終的には、事業着手に当たっては詳細な都市計画道路の計画を予め組み込んだ「設計概要」が作成され、資金調達に関しても組合地の予約売却を行って事後的な高利の借り入れを回避した。

この過程を通じて、土地を大幅に減歩しても整理後の地価上昇を利益と見なす考え方が地域に浸透していった。こうした利益はもとより仮構された「交換価値」的原理にもとづくものであったが、地域社会はそれを受容した。それと並行して工区役員が当初持っていた地域社会における伝統的な役割は次第に後退し、代わって耕地整理の実務に関する専門知識を有する請負技師が事業遂行上の重要性を増した。そうした専門家を実質的な頂点とした工区運営のあり方は、ある意味で専門官僚化の進行であった。そして、そのことは、耕地整理組合が、村域内の構成員の福利を丸抱えに保障する村行政の一分枝から、単一の事項を専門的に遂行する機能団体へとその性格を変じたことを意味した。

当初玉川村の一分肢であった耕地整理組合が耕地整理事業だけを目的合理的に遂行する機能団体に変容したことは、その反作用として伝統的な行政村秩序と訣別し、村の一分枝としてではなく自ら直接に国家と結合することにつながった。耕地整理組合の機能団体化はそれまで人々の生存を丸抱えで保障してきた行政村秩序の解体そのものの一環であった。それは行政村という木の一つの枝の事例であったが、おそらくこの時期の玉川村は他の枝をも分離させ、最終的に機能団体の束に分裂していったものと考えられる。つまり、本稿で示したのは、社会がある意味では閉鎖的な地理的領域を構成単位とする明治国家的な体制から、国家を最終的な凝集点とする機能別の階統の多元的・重層的な体系(とその担い手である機能団体)を構成単位とする現代的な体制へと変容していく過程の部分的な表出であったと考えられる。それは地域社会の持つ固有性の消滅=社会の均質化・平準化・機構化、すなわち戦前・戦後(のある時期まで)を通じた当該時期における国民統合の基底をなした社会編成原理の転換の一局面であった

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1920年代半ばに着手され1954年に完了した東京・玉川全円耕地整理組合(現・東京都世田谷区西部)を素材として、その事業経営の展開過程を追うことを通して、この事業に利害関係をもつ地域住民たちがどのような判断基準や考え方(価値原理)に即して、事業の推進にかかわる合意を形成していたのかを検討し、地域社会の編成原理が転換していったことを明らかにすることを課題としている。

都市化が進展しつつある東京近郊地域の耕地整理事業としては、極めて大規模な展開をみた事例であり、それ自体実証的な研究に値する研究対象であるが、著者の関心は、単にそのような未着手の資料群を利用した事実発見という点にあるのではなく、そこに見出される地域社会の合意形成のあり方の変化であり、その意味では、広い歴史的な展望のもとで課題が設定されているところに、この論文の特徴がある。

この研究課題を明らかにするために、著者は玉川全円耕地整理組合の現存する文書群を読み解くことを通して実証的な接近を試み、時期的な変化を意識して、以下のような構成で論文をまとめている。

序章 対象と分析視角

第1章 東京近郊における宅地開発と土地整理

第2章 耕地整理事業の開始と地域社会秩序

第3章 村域東部における事業展開と組合運営

第4章 組合運営の変化

第5章 耕地整理と社会編成原理の転換

まず、序章において、著者は、特定の社会が体制的な安定を維持している基盤を解明するとの問題意識から、帝国主義的段階論、農村「共同体」論、近代都市史研究などの研究成果をサーベイし、それらの研究がいずれも十全にこの問題を解いていないとしている。そのような研究史の評価に基づいて著者は、体制的な安定の基盤として、社会的承認=同意の組織化を可能とする状況が生まれることが必要であるとの観点にたつことを明らかにする。このような観点から、対象とする地域で耕地整理が宅地化を視野に入れながら推進される過程を実証的に追い、そのなかで「ある種の資本主義的な原理原則が支配的な位置を獲得し、人々がそれに否応なしに『同意』することで大勢的安定がもたらされる過程を描出」することが、本論文の具体的な分析課題であるとしている。

第1章は、大都市近郊の宅地開発や東京近郊の耕地整理および土地整理事業を概観することを通して、本稿が対象とする玉川全円耕地整理組合の舞台の位置づけを明確にすることを課題としている。第一次大戦後に近郊地域で都市化が進展を見せる東京を大阪と対比しながら検討し、どのように開発業者が関与し、誰が開発用の土地を提供したのか、政府・自治体はこれにどのような政策的に関与したかが検討されている。その中から、玉川村が政策的には宅地化を想定される地域でありながら、いまだ農村的な色彩の強い段階で事業が着手されていること、着手の時期が「耕地整理型」の整理事業から「土地区画整理型」への全般的な移行期であること、事業の規模が際立って大きかったことなどが示されている。

第2章では、対象地域に即して耕地整理事業の背景が、(1)農業経営の行き詰まり、(2)隣接地域での田園都市会社の開発活動に関連して明らかにされ、玉川村村長豊田正治を中心に全村あげての事業として耕地整理が計画された経過が記述される。しかし、このような計画に対しては、村内に異論も強く、とくに生活基盤と地域社会秩序に大きな変更を迫ることは重大な分裂を村内に生んだ。その結果、村ぐるみで計画された事業は、「行政村の下部組織である大字」を基本的な単位とする工区に分割されることになった。それは、著者によれば、明治地方自治制がもつ行政村と大字との二重構造を利用して、利害の調整を図り、合意を調達しようという試みと評価されている。この点は、分割されたのちの組合が一体として耕地整理事業を推進する面に乏しく、実質的には各工区の独立性、割拠性が強かったことによっても確認されている。

第3章では、村域東部地区の9工区を対象として具体的な事業の推進経過が分析される。この東部地区は、早期に着工の機運が熟し、組合設立以前から独自の事業計画が立案されていた地域であり、1927年には役員等の選出を済ませ28年には事業を開始した。早い着手の背景には、これらの工区が都市化の影響をより強く受けていたことがあったと考えられている。しかし、工区に分割されたそれぞれの事業の経過からは、利害関係者の合意調達がスムースに実現せず、順調な進展には遠かったこと、また、移転補償、組合地売却、工事、換地処分の各項目にわけて具体的な問題点が明らかにされるとともに、工区の経営という視点から、土地をめぐる利害調整が伝統的秩序に基づく合意を容易には得られなかったことが示される。とりわけ、事業費の調達に必要な組合地の売却に円滑を欠き、その結果、借入金に対する金利負担が嵩み、事業計画が見直されていく過程に著者は注目している。そこでは、組合地の売却先を村内に求め、あるいは必要な資金を村内有力者から借入れたりするなどの旧来型の調整では無理が大きくなっていったのである。

このような前半期に推進された工区の状況は、著者によれば伝統的秩序内で問題を解決し合意を形成する試みとして評価されつつも、同時にそのほころびが目立ったと位置づけられるのに対して、第4章で分析対象となる後半期に着手された工区は、そもそも事業計画を開始することが難しく着手が遅れたという性格を持っていた。これらの工区では、事後的に発生する問題の解決に追われた前半期の工区と対比すると、事業計画を事前的に固める努力が払われた。例えば、組合地売却先をあらかじめ探すことで資金面での不安を解消し、また、都市計画道路の計画をあらかじめ組み込んだ設計案とすることで、事後的な減歩率の増加などの負担の発生を予防した。事業の先決化・客観化が図られたのである。この過程で、著者によれば、土地を大幅に減歩しても整理後の地価上昇を利益と見なし、これを判断基準として合意が形成されるように、各利害関係者の価値原理が転換していったと評価されている。

以上の分析をふまえた第5章は、事業の完了の状況を確認するとともに、これまでの分析を通して明らかにされた事実について著者の問題関心に即してどのように解釈するかが示される、本論文の結論部分にあたる。第1に、対象とする耕地整理事業が、その当初の計画では玉川村という行政村一体となった事業として構想されながら、現実には利害関係者間の合意形成が容易なように工区が分割されていく過程に注目し、それが当時の人々にとっては、それまでとあまり変わらない利害調整、合意形成の仕組みに依拠する方式であったことが指摘される。第2に、このような認識のもとに、そうした調整の仕組みが現実の問題解決に十分な機能を果たし得なくなっていく状況がうまれ、その結果、第3に、後半期の工区では、耕地整理によって変化する新たな土地利用条件を基礎にして、農業を続けるために必要な土地へのこだわりをもつ人々に対しても、将来の売却の際に期待される利益をもとに説得が行われうるようになった。それらの変化を著者は、合意形成の基盤となる価値原理の転換が進んだと評価し、耕地整理組合が当初の行政村の一分枝として設立された状態から、目的合理的な機能団体へと転化したことを意味すると捉える。そのうえで、著者は、このような変化が両大戦間期に進展する国民統合の基底をなす、社会編成原理の転換の一局面を示していると結論づけている。

以上のような内容をもつ本論文は、玉川全円耕地整理事業という具体的な素材を対象とし、この事業に関わる資料群を実証的に検討することを通して、その経過を詳細に明らかにした研究であるとともに、それを通して、社会編成原理の転換という視点に立って著者の日本近現代史像を提示するという意欲的な研究の成果であると評価することができる。

まず、実証的な側面では、耕地整理事業そのものについて、その計画から完了まで30年ほどにわたる経緯を明らかにした研究として最初のものであり、それだけでもこの研究が開拓的な意味をもつと評価できる。そのなかで、(1)工区経営という視点から、資金の調達と組合地売却によるその回収が、事業遂行の成否を決める上で重要な要素になっていること、(2)事業の具体的な推進では、高屋直弘という嘱託の技師が果たした役割が、時期的な変遷をたどりながらも一貫して重要であり、組合が機能団体化する上で決定的な役割を果たすようになっていくこと、(3)都市計画道路などの自治体の都市計画事業が与えた影響が工区経営のなかで処理され、住民に受け入れられていく条件が変化していったこと、など興味深い事実発見の成果があることを指摘できる。これらは、いずれも世田谷区立郷土資料館に残されている資料群を丁寧に読み解き、断片化した事実を再構成するという著者の実証的な努力の成果である。

このような実証研究が単に事実の発見にとどまらず、一つの作品として一貫した主張を提示しているのは、この素材を分析対象として社会編成原理の転換を見極めようという、著者の問題関心が貫かれたからだと考えられる。その面では、著者は両大戦間期に都市近郊農村では、明治期の農村秩序では処理しきれないような利害対立が発生する可能性が広がり、その結果、目的合理的に組織される機能団体がそれぞれの問題解決にあたるという機能団体を基礎とした社会秩序への転換が進展したことを、荒削りで強引な面は残るが、著者なりの手法で示したと評価できる。

この点が、直ちに本論文に残された問題点とつながるが、それは次のような意味においてである。もともと、人々が特定の問題解決のための合意を形成する場合に基礎となる価値原理は何であったか、という問いかけは歴史的には極めて重要な問いかけであるが、同時に実証的な根拠を示すことが極めて難しい問題である。著者が本論文の分析を単なるモノグラフとして提示せず、そこから大胆にこのような問題を提示した意欲を評価することにやぶさかではないが、そこには、明確化されなければならない2つの課題がある。その一つは、対象とする特定の事例において、価値原理の転換が進んでいることを示すだけの証拠が十分であるかどうか、もう一つは、その事例を通して得られた知見が、同時代に進行している日本社会の構造的な変化をどのように示しているのか、である。

このうち、第1の点では、工区経営に即した合意が可能であった基盤を追求する手法がとられており、その限りで説得的な展開が試みられているが、それは集団としての合意形成の過程に限定されている。著者の主張によれば、その基盤に個々の土地所有者たちが土地を売却した際の期待利益によって説得されたと捉えうるとされているが、そうした土地所有主体の側からの裏付けは必ずしも十分ではない。耕地整理が実施されてもなお実際上は農業を続けていた多くの農民たちが、その未実現の利益への期待だけではなく、例えば、農業経営へのこだわりから減歩に抵抗して工区の合意形成を妨げた場合に、その地域のなかでどのような社会的な制裁を受けるかを配慮する、というような事情があれば、転換が進んだという評価は割り引く必要があるかもしれない。それ故、整理事業に伴う土地所有権の移動実態や、事業後の利用実態などに分析が及べば、より説得的な展開が可能ではないかと推察される。

第2の点については、特定事例の分析がもつ代表性の限界については、著者も十分に認識しており、その点を著者は丸山真男の研究を起点とする農村「共同体」論に参照基準を求め、主として藤田省三の主張を手かがりにして、社会全体の構造変化との関連を議論するという構成をとっている。このような構成は、やむを得ないと考えられる面があるが、次の点は考慮すべきであろう。それは、藤田説そのものを相対化しうるような研究史批判の視点をもちうること、また、その場合には、これらの研究が政治史・社会史的な研究分野の業績であるから、それを経済史的な研究の文脈に位置づけ直すことが望ましく、これらについて今後の著者の積極的な展開を期待したい。

以上のように、著者が本論文で示した実証的分析への真摯な取り組みと、その基盤となっている研究構想との間にまだ埋めるべき間隙が多く残っている。

しかしながら、このような問題点があるとはいえ、本論文に示された実証的な研究成果とその独自の構想力とは、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていると判断するに十分なものである。従って審査委員会は全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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