学位論文要旨



No 123083
著者(漢字) 小川,裕子
著者(英字)
著者(カナ) オガワ,ヒロコ
標題(和) 国際開発協力の政治過程 : 国際規範の制度化とアメリカ対外援助政策の変容
標題(洋)
報告番号 123083
報告番号 甲23083
学位授与日 2007.10.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第772号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古城,佳子
 東京大学 教授 遠藤,貢
 東京大学 教授 加藤,淳子
 東京大学 教授 久保,文明
 青山学院大学 教授 納家,政嗣
内容要旨 要旨を表示する

第二次世界大戦終結以降、国際開発協力は、国際社会の大きな関心を集めてきた。にもかかわらず、今日なお国際社会は深刻な貧困問題を抱えたままである。これまで国際開発協力研究は開発経済学を中心として進められてきたが、開発経済学は開発計画の内容や実施方法などの技術的な問題を中心的な分析対象とし、開発計画の中心的な実施主体である国家の行動はほとんど検討しない。しかし現実の国家行動を見てみるなら、各国のODAの規模は小さく、そのODAの配分状況は貧困削減的関心よりも援助国の戦略的関心を強く反映するものとなっており、国際開発協力を進展させる上で、国家行動のあり方も重要な検討課題であることがわかる。国家は国際開発協力の中心的主体であると同時に国際政治の中心的主体でもあり、多くの場合、国家は外交政策の文脈で行動決定を行うため、国際政治学的観点から国家行動を検討することが不可欠となる。そこで、本研究は、国際政治学的観点に立ち、国家が外交政策としていかに国際開発協力政策を作成し展開してきたのかを検討することによって、国際開発協力を進展させる政治過程およびメカニズムの解明を試みた。

国際政治学における国際協力研究は、その多くがレジーム研究という形をとってきた。各分野において国際社会で形成された明示的で拘束力のあるルールすなわちレジームが、いかに国家行動に影響を与え、国際協力を進展させてきたかという政治過程が検討されてきたのである。しかし国際開発協力分野においては、いわゆるレジームが形成されることはなかった。レジーム不在の中で、諸国家は各時期の「相対的により望ましいと考えられるアイデア」を実行に移すことを繰り返し、長い時間をかけて国際開発協力を緩やかに進展させてきた。明示的なルールでもなく条約のような形態もとらない、各時期の「相対的により望ましいと考えられるアイデア」が、一体どのように国家に影響を与え国際開発協力を進展させてきたのか。

本研究は、国際開発協力が進展する政治過程を検討するにあたり、国際規範概念を用いた。コンストラクティビストによると、国際規範とは、「所与のアイデンティティをもつアクターのための適切な行動基準」と定義され、国際社会における適切な国家行動基準に関して集合的な期待を集めるアイデアを意味する。それらアイデアは、多くの場合、国際機関などの規範起業家(norm entrepreneur)により作成され、普及が図られる。そしてアイデアに対する集合的な期待が高まるとそのアイデアは「当たり前さ(a taken-for-granted quality)」が増し、国際規範の地位を獲得する。しかし国際規範に対する集合的な期待が低下すると、新たに集合的な期待を集めた別のアイデアが、既存の国際規範に代わって、国際規範の地位を獲得する。

国際開発協力分野における「相対的により望ましいと考えられるアイデア」もまた、国際社会の集合的な期待をより多く集めた国際開発協力に関する適切な行動基準であり、「国際開発協力に関する国際規範(以下、国際開発規範)」ということができる。国際開発協力分野では、世界銀行と国連が主要な規範起業家となり、国際開発協力促進という目的を共有しながらも(=「目的規範」)、それぞれの機関哲学に依拠する形で、経済成長を優先すべきというアプローチと貧困削減を優先すべきというアプローチ(=成長アプローチ規範(以下、成長規範)と貧困アプローチ規範(以下、貧困規範))およびスローガン(=スローガン規範)を作成し、競合的に普及を図ってきた。その過程で、国際開発協力に不可欠な経済成長と貧困削減は、二つの対極的なアプローチとして位置づけられてしまうことになる。その結果、国際社会の集合的な期待は、魅力的なスローガン規範の登場を契機に、二つのアプローチ規範の間を振り子のように往復し、新たなスローガン規範を伴って二つのアプローチ規範が循環的に優越することになった。具体的には、1940年代後半以降は、資本投下というスローガンとともに成長規範(=成長規範(資本))が、1960年代後半以降は、BHNをスローガンとする貧困規範(=貧困規範(BHN))が、1970年代後半以降は、構造調整をスローガンとして成長規範(=成長規範(構造調整))が、1990年代後半以降は、「開発の最終目標としての貧困削減(以下、目標)」をスローガンとして貧困規範(=貧困規範(目標))が、各時期において国際社会の集合的な期待を集め、各国に影響を与えた国際開発規範となった。

では、一体、国際開発規範は国家行動にどのような影響を与え、国際開発協力を進展させることになったのか。本研究は、国際開発協力動向に大きな影響を与える援助超大国アメリカを考察対象とした。アメリカは、各分野において国際規範の作成に大きな影響力を行使する一方で、国益に反する場合には国際規範からの逸脱を繰り返してきた。にもかかわらず、アメリカは、1980年代後半以降、国内規範との適合性の低い、貧困規範(BHN)の実行程度を、次第に増大させるようになった。これは、曖昧で拘束力の弱い国際開発規範が、援助超大国アメリカに影響を与え、アメリカに貧困削減に向けた積極的な姿勢を取らせるようになったことを意味する。

本研究は、アメリカの行動変化には、貧困規範(BHN)実行の法的根拠である1973年対外援助法の成立とその実行組織としてUSAIDが再生したことが重要な役割を果たしたと考える。具体的には、1973年対外援助法と再生したUSAIDが、効果的なフォーカル・ポイントとして貧困規範(BHN)実行に対する人々の期待を高め、貧困規範(BHN)実行から権益を得ようとするアクターを増大させ、貧困規範(BHN)の実行体制が制度的粘着性を増したことで、貧困規範(BHN)の実行程度の増大につながったのである。この仮説を検証するために、第二次世界大戦終結後から2006年までの間、アメリカによる国際開発規範の法制度化を中心とした動きを考察した。

アメリカは、初めて1950年国際開発法および技術協力局(TCA)として成長規範(資本)を法制度化する。しかし僅少な予算割り当てと当時の冷戦の進展ゆえに、成長規範(資本)の実行に対する人々の期待は高まらず、参加者も増えず、成長規範(資本)はほとんど実行されなかった。その後、アメリカは1950年国際開発法および技術協力局(TCA)を下敷きにして、1961年対外援助法および国際開発庁(USAID)として、改めて成長規範(資本)を法制度化した。大規模な予算および人員割り当てゆえに、成長規範(資本)実行体制には高い期待が寄せられ、参加者も増大した。しかし成長規範(資本)実行体制は、効率性を無視し、肥大化し腐敗したため、成長規範(資本)を十分実行するようになる前に、成長規範(資本)実行体制の廃止要求が上がるまでになった。しかしすでに成長規範(資本)実行から権益を得ていたUSAIDは、貧困規範(BHN)の法制度化にイニシアチブを発揮し、具体的な内容と実行計画を備えた1973年対外援助法を成立させ、自らも貧困規範(BHN)を実行する機関として再生した。こうして確立した貧困規範(BHN)の実行体制に対する期待が高まり、権益を求めて多くのアクターが実行に参加し、粘着性を増していった。その後、成長規範(構造調整)が優越したが、アメリカは既存の貧困規範(BHN)の実行体制を解体することなく、度々修正を重ねながら、貧困規範(BHN)に加え成長規範(構造調整)の実行も同時に目指した。その結果、貧困規範(BHN)の実行体制の非効率性が増し批判が高まったものの、粘着性を増した貧困規範(BHN)の実行体制の抜本的な改革や廃止は不可能であった。そこで、貧困規範(BHN)の実行体制に並立する形で、2003年ミレニアム挑戦法(MCA)とミレニアム挑戦公社(MCC)として、新たな貧困規範(目標)の法制度化がなされた。2003年MCAは貧困規範(目標)の実行を確実なものにするための具体的な内容と実行計画を規定し、大規模な予算を割り当てられ、貧困規範(目標)の実行体制は大きな期待を集めた。その結果、貧困規範(BHN)の実行アクターなどが、新たな権益を求めて貧困規範(目標)の実行体制に参加するようになり、アメリカは今後も貧困規範(目標)の実行程度を増大させることが期待される。

つまり、アメリカは当初形式的なものとして国際開発規範の法制度化を行っただけであったが、それによって生み出された権益集団が、自らの存続、拡大のために、高い実効性が期待される新たな国際開発規範の法制度化を主導し、その実行体制が疲弊するとまた新たな国際開発規範の法制度化を主導した。そして結果的に、国際規範からの逸脱を繰返すアメリカでさえ、長い年月を経て、貧困削減に向けて積極的に取り組むようになったのである。

本研究は、外交政策的観点から検討されてきたアメリカ対外援助政策が実際に国際開発協力進展にどんな功罪をもたらしたのかを検討した数少ない実証研究となっている。また本研究の検討結果は、非常に弱い国際規範であっても、国際規範に適合的な所与の条件を備えていない国でも、実効性が期待される形で国際規範が法制度化されるなら、国家による国際規範を実行せざるを得なくなることを意味し、国際協力進展における国際規範の可能性を広げるものである。さらに国際規範の法制度化は、国際社会で問題解決に関する明示的で拘束的なルールすなわちレジームが成立せずとも、国際協力が進展しうる可能性を示すことになり、国際政治学における国際協力研究を発展させるものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、第二次世界大戦後の国際開発協力体制を牽引してきたアメリカを事例として、国際開発規範が国家の援助政策にどのように影響を与えたのか、また国際開発規範はどのように国家の援助政策に反映されることになったのか、について、アメリカ国内の援助体制の制度化に着目することによって、検討するものである。本論文は、今まで研究が手薄であった援助機関である国際開発庁(USAID)の資料等を用いて、第二次世界大戦後のアメリカの援助政策が、紆余曲折を経ながらも貧困削減という国際規範に適合するように進展してきた要因が、国内の援助体制が国際規範に適合することによって制度化を進展させ、その結果、アメリカの国際開発協力を促進してきたことを明らかにする。

本論文の構成は、序章と5章、終章、併せて全7章である。末尾に参考文献目録が付され、全体のページ数は200ページである。本論文の要旨は以下の通りである。

序章では、第二次世界大戦後における発展途上国の開発に関する協力(国際開発協力、援助が中心)が必ずしも被援助国の貧困削減等に有効な結果をもたらしてこなかったことが示され、このような状況で国家が国際開発協力をいかに進展させてきたのか、という本論文の問いが提示される。既存研究では、各国の国際開発協力政策は各国の戦略的考慮から説明できるとするものが多いが、本論文の目的は、国際社会(例えば、国際連合(国連)や世界銀行(世銀)等の国際組織)が掲げてきた規範(国際規範)は、明示的なルールではないにしても、国家の援助政策に影響を与えていると考え、国際規範が国家の援助政策にどのように影響を与えたのかを具体的に明らかにすることである。事例として、各国の国際開発協力活動に大きな影響を与え、戦略的援助を行う最たる国家と考えられてきたアメリカの対外援助政策をとりあげる。具体的には、アメリカは過去数度にわたり国際開発規範を法制度化してきたにもかかわらず予算は少なく国際規範を「内面化」したとは言えなかったが、なぜ、1980年代後半以降は、国内規範との適合性の低い、貧困規範の実行程度を増大させるようになったのか、という問いを提示する。

第1章では、まず、分析概念としての国際開発規範がコンストラクティビストの議論を踏まえて詳述される。国際規範は、所与のアイデンティティをもつアクターのための適切な行動基準であり、共同体の構成員間で間主観的に認識されているものであること、国際規範は、誕生(norm emergence)、拡散(norm cascade),内面化(internalization )という段階を経て「当たり前さ」を獲得し、その結果、国家は「適切性の論理(logic of appropriateness)」に基づいて行動する、と定義される。そして、第二次世界大戦後の国際開発協力の主要な規範起業家である世銀と国連が創りだした規範がどのようなものであったのかが検討される。世銀と国連は、貧困問題解決という目的は同じであったが、成長規範を重視する世銀と貧困削減を優先する国連とは対照的なアプローチ規範を生み出してきたことが述べられる。そして、戦後は世銀と国連のアプローチ規範が循環的に優越を繰り返すことになり、それぞれの時期に優越した国際開発規範、すなわち、1940年代後半以降の資本投下を中心とする成長規範(資本)、1960年代後半以降の人間の基本的欲求(BHN)の充足に焦点を当てた貧困規範(BHN)、1970年代後半以降の構造調整を重視する成長規範(構造調整)、1990年代後半以降の貧困削減を目標する貧困規範(目標)、が存在していたことが説明される。そして、これらの国際開発規範の各国による遵守の程度を、援助の額(成長規範や貧困規範を実行することになるプロジェクト予算のODA総額に占める比率)で測定した結果が示される。ここでは、DAC諸国が対象であり、80年代以降の各種データに基づいた比較では、北欧諸国は貧困規範を実行する程度が他国と比べて大きいこと、フランスや日本は成長規範も貧困規範も実行程度が低いこと、アメリカは成長規範も貧困規範も実行程度を大幅に増大させていることが明らかにされる。

第2章では、アメリカの援助政策について、アメリカが国際規範の作成者および逸脱者になった経緯、貧困規範の実行程度を増大するようになった要因が論じられる。第二次世界大戦後、世銀や国連諸機関の設立に尽力したアメリカは、国際開発規範の作成に大きな役割を果たしたが、それと同時に、国際社会で優越した国際規範に見合うように国内で対外援助に関する立法化を9度にわたり行ってきた。しかし、アメリカの援助額の推移を、軍事援助地域別配分比率と経済援助地域別配分比率の比較やODA技術援助比率の動向などのデータによって検討した結果、アメリカは、当初は、援助法を立法化したにもかかわらず国際規範を実行したとは言えなかったが、80年代以降、貧困規範(BHN)に見合うような援助を増大させてきたことが確認される。次に、なぜそのような変化が起きたのかを明らかにするために、アメリカの援助政策の政治過程が分析される。貧困規範はアメリカの国内規範との適合性は低く、国際規範を実行すべきだとする国際社会からの圧力もアメリカには効きづらく、貧困規範の実行程度増大を政府に促すことができる有力な国内政治アクターも不在であったことから、国際規範に関する既存研究の枠組みではアメリカの政策を説明できないことを指摘した上で、1973年対外援助法の成立とそれに伴う国際開発庁(USAID:United States Agency for International Development、1961年対外援助法により設立)の再生という援助体制の国内制度化が継続したことが、アメリカ国内の援助政策を制約したとする仮説を提示する。

第3章では、アメリカの援助政策と国際規範との関係が検証される。まず、トルーマン政権では、冷戦のため国際開発協力は重視されなかったにもかかわらず1950年に成長規範(資本)を優先的に位置づける国際開発法が制定されたこと、大統領が「国連開発の10年」のイニシアチブをとり、開発援助委員会(DAC)が発足したケネディ政権では、1961年に対外援助法を定め、国務省の下部組織として開発プロジェクトの立案・実施に大きな権限を有するUSAIDを設立し、開発援助予算も増大したが、対途上国開発援助は依然として冷戦の戦略的考慮に影響を受けていたことが論じられる。

第4章では、ニクソン政権による援助政策の見直しに端を発した新たな法制度化の経緯がUSAIDに焦点をあてて論じられる。1960年代後半以降、国際社会では国連や世銀を中心に貧困規範(BHN)が優越し、対途上国開発援助を行う国連諸機関、世銀グループ、地域開発銀行なども増加した。ニクソン政権では、新しい安全保障政策に照らし、予算額を増大しつつあった対外援助政策の見直しが行われ、アメリカは軍事援助を中心的に行い、新たに国際社会で優越するに至った貧困規範(BHN)の実施は国際機関に担わせるという案が有力となり、肥大化したUSAIDの廃止が決定された。しかし、すでに成長規範(資本)の実行体制を制度化していたUSAIDは、国務省とともに組織の存続を図り、成長規範(資本)に代わり、国際社会で優越していた貧困規範(BHN)を中心に据えることによって、貧困規範(BHN)の法制度化を促進し、1973年には対外援助法を成立させ、USAIDは貧困規範(BHN)の実行機関として再生を果たした経緯が述べられる。その後、アメリカは、USAIDを中心とした貧困規範(BHN)の実施体制が制度化するが、レーガン政権では、対外援助政策は安全保障政策の一手段として位置づけられるようになり、国際社会で優越していた成長規範(構造調整)が重視された。成長規範(構造調整)が立法化されることはなかったが、USAIDを中心とする貧困規範(BHN)の実行体制は多くの改革が試みられるに至った。しかし、一旦制度化された貧困規範(BHN)実行体制は粘着性を持ち、1980年代後半になると、増分主義に基づき貧困規範(BHN)の実行程度は増加傾向に転じるに至ったが、本論文は、それには批判を受けながらも存続したUSAIDの存在が大きな要因であったと論じる。

第5章は、冷戦終結後に、新たに生み出された貧困規範(目標)とG,W,ブッシュ政権の援助政策が検討される。G.W.ブッシュ政権では、テロ対策の重要な手段として貧困削減が位置づけられたこと、それにともない対外援助が重視され、ミレニアム挑戦会計(MCA)と新たな援助機関としてミレニアム挑戦公社(MCC)が新設された経緯が明らかにされる。この新たな援助機関の設立により、USAIDはMCCと役割分担することとなった。

終章では、本論文で提示された仮説が実証的に裏付けられたことが結論とされる。第二次世界大戦後のアメリカの援助政策が、国際開発規範と実行体制にどのような関係があったのか、国際開発規範の実行がどの程度のものであったのかがまとめられ、アメリカが国内規範と必ずしも適合的ではない貧困規範(BHN)の実行程度を増大するようになったのは、国内における粘着性の高い貧困規範(BHN)実行体制が確立したことによることが確認される。

以上のような内容を持つ本論文は、次の点で評価することができる。第一に、国際規範と国家の政策との関係を具体的に明らかにしたことである。国際規範と国家の政策との関係は国際政治学においてコンストラクティビズムを中心に論じられてきたが、国家の政策過程を射程に入れて実証的に明らかにした研究は少ない。本研究は、既存の国際規範に関する理論的なアプローチを踏まえた上で、アメリカの援助政策を事例として、国際開発規範が対外援助政策の形成においてどのような役割を果たしてきたのかを政治過程を検討することによって具体的に明らかにした。国際規範の影響を明示的に測ることは困難であるが、本論文は、国際規範が国家の行動に影響を与えるということをより明示的に示すために、法制度化とそれに伴う予算額の増大という指標を用い、より体系的な分析を行った点、評価できる。

第二に、今まで研究の蓄積が少なかったアメリカの援助政策について、新しい視点からの検討を行ったことである。本論文は、アメリカの援助政策は、必ずしも軍事的安全保障の観点に基づく戦略的考慮だけでは説明がつかないことを指摘した上で、その時々に有力な国際開発規範がアメリカ政府の援助体制の制度化の過程においてフォーカル・ポイントとして認識された点に着目したことにより、アメリカの援助政策の理解を深めた。特に、1961年に設立された援助機関であるUSAIDに焦点をあて、その資料を多く渉猟し分析した上で、制度としての存続がいかにアメリカの援助政策を制約していたかを示したことは、アメリカの援助政策について新たな知見を加えた。

第三に、DAC諸国の援助だけでなく、アメリカの援助についての通時的なデータを作成したことである。これまでアメリカの援助については、援助予算や支出額について、政権毎に費目が共通していないなどの理由により、通時的に数量的なデータをまとめた研究はほとんどなかった。本論文は、元の資料に当たり、個別のプログラム予算等まで分析することによって、アメリカの援助の動態を明らかにした。この作業の結果、国際規範の影響を測る指標として、それぞれの規範に合致した援助額を算定するこが可能になった。今後、アメリカの援助政策の分析には欠かせないデータを提供したと言えるだろう。

他方、本論文には、不十分な点も存在する。まず、第一に、本論文は、国際開発協力における国際規範の重要性を前提として問いを立てており、援助政策についての通説的な理解である戦略的考慮による説明の不十分性を指摘している点は評価できるが、国際規範が「内面化」される過程で、規範の要素に対して利益やパワーの要素が政治過程においてどのように作用したかについては、もう少し説明される必要がある。もとより規範の要素のみを実際の政治過程の検討から抽出することは困難であり、これは規範研究が直面する問題であるが、利益、パワー、規範の関係を整理して提示することは、規範研究をより発展させることになるであろう。

第二に、国際規範と援助政策との関係に分析の視角を絞ったことは理解できるが、USAIDについてはある程度の分析を行っているものの、アメリカ政治における援助政策の形成過程という点では、実証が足りない部分がある。例えば、民間非営利団体(Private Voluntary Organizations; PVOs)は貧困規範の実行を促す強力なアクターとなり得ないと述べられているが、分析はやや表面的なものにとどまっている。実際、どのようなPVOが援助政策に関連し、USAIDや議会等に対してどのような働きかけを行ったのを見る必要があろう。援助政策に関連する諸アクターと政治過程、国際規範との関係についてより実証的な分析が必要であろう。

第三に、冷戦後の記述についてであるが、やや表面的なものにとどまっている。9.11の同時多発テロ以降のG.W.ブッシュ政権における援助政策については詳述してあるが、クリントン政権期(特に、95年以降)についての説明は、アメリカの援助政策の通時的理解という点からすると、やや足りない。冷戦後、国際開発協力の機運が高まっていたにもかかわらず、クリントン政権期、アメリカ経済は低迷しており、援助額は減少している。この時期、国際規範と援助政策はどのような関係にあったのだろうか。本論文は、クリントン政権期に、貧困規範(BHN)実行体制と成長規範(構造調整)実行体制は矛盾するに至ったことを論じているが、この点についてより詳細な実証があれば、通時的な理解がより深まったものと思われる。

以上のような不足点はあるものの、これらは本論文の学術への貢献をいささかもそこねるものではなく、むしろ今後の研究の課題と言うべきであろう。本研究は、国際規範と国内政治の関係およびアメリカの援助政策についての研究に大いに貢献するものである。以上の点から、審査委員会は、本論文の提出者は、博士(学術)の学位を授与されるのにふさわしいと判断する。

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