学位論文要旨



No 123094
著者(漢字) 德良,誠健
著者(英字)
著者(カナ) トクラ,セイケン
標題(和) 時間依存密度汎関数法による分子の励起状態に関する理論的研究
標題(洋) Time-Dependent Density Functional Theory study of molecular excited states
報告番号 123094
報告番号 甲23094
学位授与日 2007.11.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6671号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 准教授 中嶋,隆人
 東京大学 准教授 常田,貴夫
内容要旨 要旨を表示する

1.序論

近年の分子理論の発展とコンピューターの進歩により、分子軌道法による電子状態計算は半経験的方法から非経験的方法、すなわちab initio法に移り変わり、計算精度が飛躍的に向上した。Hartree-Fock(HF)法からの発展として多くの電子相関理論があり、小さい系に限定するのであれば非常に高精度に計算することが可能になっている。しかしながら、高精度な電子相関理論では、取り扱う分子の大きさにつれて急激に計算コストが増加することから、比較的大きな分子においても困難である。大規模な分子系を取り扱う場合、計算コストが低く、なおかつ計算精度の高い密度汎関数法(DFT)が一般的に用いられている。

DFTは密度汎関数理論であるKohn-Sham方程式に基づいた電子状態計算の方法である。高精度な電子相関理論よりも計算コストが低いために現在では原子・分子系の電子状態計算において幅広く用いられている。また、密度汎関数法に対して線形応答理論を適用することで、励起状態の計算が可能な時間依存密度汎関数法(TDDFT)が開発されている。TDDFTは励起状態の電子状態計算の中では最も計算コストの低い方法であるが、Rydberg励起のエネルギーと振動子強度、電荷移動励起のエネルギー過小評価の問題もある。しかし、最近ではこれらの問題を解決した交換相関汎関数が開発されているために、今まで以上にTDDFTが幅広く用いられることが予想される。

そこで、以前からのTDDFTの問題点であったRydberg励起のエネルギーと振動子強度について、数多くの高精度ab initio法で計算されている分子を対象として、励起状態計算を行った。次に励起状態の分子振動について、非調和性を考慮した分子振動計算を行った。非調和性を考慮した振動については、非調和性分子振動を計算することに対して非常に高い計算コストを必要とすることと、そして励起状態の電子状態を計算するのに対しても高い計算コストを必要とすることを考慮すると、励起状態計算方法の中で最も計算コストの低いTDDFTで計算することが望ましいと考えられる。最後にTDDFTの高速化への試みとして、Dual-level 密度汎関数法の励起状態への拡張することを考え、Dual-level時間依存密度汎関数法の開発を行った。

2. 長距離補正をした交換汎関数を用いた時間依存密度汎関数法によるπ共役分子計算

時間依存密度汎関数法(TDDFT)は、高速かつ精度よく励起状態を計算する方法である。TDDFTには、電荷移動励起エネルギー、Rydberg励起エネルギー、振動子強度の過小評価といった解決すべき問題があった。密度汎関数法(DFT)の交換汎関数に長距離電子間相互作用を取り込んだ交換汎関数(LC法)を用いることで、過小評価を改善している。

TDDFTを用いて、高精度電子相関理論により多くの計算結果があるπ共役系の5員環のフラン、ピロール、シクロペンタジエンとポルフィリンについて、Valence励起とRydberg励起エネルギーと振動子強度を計算した。交換相関汎関数としてBOP、BLYP、B3LYPとLC法を用いたBOPとBLYP(LC-BOP、LC-BLYP)を用いた。

ポルフィリン(表1)について、LC-BOP、LC-BLYPでは励起エネルギーが他の汎関数と比較して、SAC-CI法のエネルギーに近い値が得られた。振動子強度についてもLC-BOP、LC-BLYPでは他の密度汎関数で過小評価された振動子強度が改善されている。フランの励起エネルギー計算値(表1)についても、LC法を用いることで、過小評価していたBOP、BLYPの値は改善する。また一般的に広く用いられているB3LYPよりも平均誤差が低く、DFTにおいては最も実験値に近い値を算出した。

他のπ共役分子系についてもRydberg励起エネルギーについて、従来の交換汎関数で生じる過小評価を改善した。LC法を用いた交換汎関数をTDDFTで用いることで高精度電子相関計算に比べて計算精度は劣るものの、計算コストの規模を考えるとより大きいπ共役分子系についても計算精度を維持した計算が可能であることを確認した。

3. 時間依存密度汎関数法による電子励起状態構造の非調和性を考慮した振動計算

分子振動における非調和性は、励起により弱い結合状態を生じ、柔らかく大きな振動を引き起こすことにより、基底状態よりも励起状態のほうが重要であることが考えられる。しかしながら、電子励起状態における非調和性を考慮した振動計算は、励起状態計算と非調和性を考慮した振動計算の両者の点から大きなコストを必要とする。そのために励起状態の計算の中で最も計算コストの低いTDDFTによって、十分な精度を得られることができるのであれば、非常に有用であると思われる。そこで励起状態の非調和性を取り入れた分子振動の計算をTDDFTにより試みた。

対象分子は2-4原子分子を取り扱った。密度汎関数はBLYP, B3LYP, LC-BOPとLC-BLYPを用いた。基底関数はMg原子について6-311++G(3df,3pd)とし、それ以外の原子はaug-cc-pVTZとした。非調和分子振動計算にはcc-VSCF法を用いた。

Pure交換汎関数であるBLYPによる分子振動計算では調和振動数が低く、cc-VSCF法による非調和性振動計算では過小評価になったために、調和振動計算よりも非調和性振動計算の方が実験値との平均誤差が大きくなった。しかしながら、Hybrid交換汎関数では調和振動計算で過大評価された振動数を改善した(表3)。基底状態と励起状態の非調和性分子振動の影響は、B3LYPとEOM-CCSD(T)のどちらについても励起状態のほうがほとんどのmodeで大きくなっている(表4)。

断熱励起エネルギー、励起状態の構造に大きな違いは見られなかったが、振動計算では密度汎関数に大きな依存を示した。Hybrid交換汎関数であるB3LYPとLC-BOPでは非調和項を取り入れたことによって、振動数の過大評価が改善し実験値との平均誤差が減少した。しかしながら、H原子を含む振動については過大評価した。基底状態と比較して励起状態の非調和性は大きく、多くの系にて励起して結合性軌道の減少、または反結合性軌道が増すことで基本振動における非調和性の影響が強くなることが確認された。B3LYPでの振動の平均誤差は28cm-1であり、励起状態の非調和性を考慮した分子振動においてTDDFTの適用は十分に可能であることが確認された。

4. Dual-level時間依存密度汎関数法の開発

密度汎関数法はHF法と同じ計算コストでの計算が可能である一方で、電子相関を取り込むことができるために非常に有用な計算方法の1つである。現在、Kohn-Sham法における正確な交換汎関数は示されていないため、近似による局所密度近似(LDA)、密度勾配近似(GGA)、そしてHybrid型と発展を遂げてきた。近年では一般的にHF交換積分を混成したHybrid型の交換相関汎関数が最もよく使われている。

DFTまたはHFでは基底関数の4乗の計算コストが本来は必要である。計算コストを減らして大規模な分子計算を実現するための取り組みが近年盛んに行われている。これらの方法での問題点は2電子積分であるCoulomb積分と交換積分の計算である。Coulomb積分の計算についてはさまざまな大規模系に対する近似法が開発されているが、交換積分についてはほとんどない。そのためにHybrid型の交換相関汎関数を用いた場合、大規模な分子計算が困難になるため、Dual-level 密度汎関数法(Dual-level DFT)が開発された。

Dual-level DFTは全電子密度が低いレベルの基底関数と密度汎関数により十分に得られるという考えを踏まえて、低いレベルの計算方法によって得られた電子密度を用いて、よりレベルの高い基底関数と汎関数によりSCFをせずにエネルギーを計算する方法である。SCFを行わないために計算コストが通常の方法よりも大きく削減できることが可能である。Dual-level DFTは大規模分子系において、非常に有用な方法であることがすでに確認されている。この方法はこれまで基底状態のみに適用されていて,励起状態については確認されていない。今回はこのDual-level DFTを拡張して、励起状態に対応したDual-level時間依存密度汎関数法(Dual-level TDDFT)の開発を試みた。

表5にTDDFTによるエチレン分子の励起エネルギーの結果を示した。高レベルの基底関数として6-31++G**を用いた。また低レベルの基底関数として6-31Gを用いた。低レベルの基底関数を用いた励起エネルギーの計算結果では、励起エネルギーを過大評価している。また、高レベルの基底関数の場合では、それぞれの密度汎関数で異なったRydberg励起エネルギーが得られた。しかしながら、Dual-level TDDFTでは通常の高レベルの基底関数と密度汎関数による励起エネルギーが得られた(表6)。Valence励起とRydberg励起エネルギーのどちらに対しても、Dual-level TDDFTは満足の行く結果を与えることを確認した。

表1.ポルフィリンの励起エネルギーと振動子強度の計算結果(eV)

表2.フランの垂直励起エネルギー計算結果

表3.励起状態の調和分子振動(Ham)とcc-VSCFによる非調和性分子振動の実験値との誤差(cm-1)

表4.3原子分子の基底状態と第一励起状態における調和分子振動とcc-VSCFによる非調和性分子振動の差(cm-1)

表5.TDDFTによるC2H4分子の励起エネルギー

表6.Dual-level TDDFTによるC2H4分子の励起エネルギー

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「時間依存密度汎関数法による分子の励起状態に関する理論的研究」と題し、全5章からなっている。時間依存密度汎関数法(TDDFT)の分子の励起状態計算への適用可能性について考察したものである。密度汎関数理論(DFT)は分子系の電子状態計算に幅広く用いられている。また、DFTに対して線形応答理論を適用することで、励起状態の計算が可能なTDDFTが開発されてきた。本論文はこれまで記述することが困難であった分子の励起状態を精度良く記述できることを数値計算から実証し、TDDFT法の適用範囲を大幅に拡大したものである。

第1章は序論である。理論化学、特にDFTとTDDFTの現状がまとめられている。大規模分子を高精度に化学計算するために理論に求められる条件としては、高精度な分子構造決定が可能であること、高速な計算アルゴリズムを実現できること、さまざまな物性値計算へ適用可能であること、系の大きさや重さに対して計算精度が等価であること、が挙げられる。以上の条件を満足する理論に現在最も近いと言えるのがDFTである。DFTはさまざまな物質の電子状態を、波動関数ではなく電子密度に基づく平均場ポテンシャルを利用した非線形Kohn-Sham方程式を解いて求める計算法である。この方法では量子論的な交換相関相互作用を電子密度の汎関数として近似しているため、電子相関を取り込んだ高精度計算を少ない計算コストで実現する。DFTは数kcal/mol程度のエネルギー誤差および0.1Å以下の結合距離誤差と言われる化学的精度を算出する。90年代前半まで主に使われてきた高精度ab initio分子軌道法に比べ桁違いに高速に実行できる計算法として、現時点で全体の9割以上の化学計算で利用されている。DFTはエネルギーや構造といった一次の物性は精度よく算出するものの、二次の物性の計算精度は必ずしもよくない。化学反応における反応障壁は過小評価され、van der Waals結合も記述されない。またTDDFT計算によるRydberg励起エネルギー、電荷移動型励起エネルギーの過小評価、電場応答量の過大評価といった問題が存在し、これがDFTの生体分子や大規模系への適用の大きな障害となっている。現在のところ励起状態に対する取り扱いTDDFTがもっぱら利用されているが、いろいろな制限があり、今後の理論開発が待たれている。序論ではこのDFT, TDDFT法の欠陥の改善ガ急務であることが強調され、本論文の研究目的が述べられている。

申請者はDFTの交換汎関数に含まれていない長距離電子間の交換相互作用をあらわに取り扱う汎関数を用いて、これまで記述することが困難であったRydberg励起や電荷移動励起、振動子強度などが精度よく記述できることを明らかにした。第2章ではπ共役系の5員環のフラン、ピロール、シクロペンタジエンとポルフィリンについて、Valence励起とRydberg励起エネルギーと振動子強度を計算し、LC汎関数とTDDFT法との組み合わせが分子の励起状態の記述に有用であることを示している。

第3章は励起状態における分子振動を理論的に扱っている。分子振動における非調和性は基底状態よりも励起状態の方がより重要であることが考えられる。しかし電子励起状態における非調和性を考慮した振動計算はほとんど実施されていない。申請者はTDDFTを用いて非調和性を取り入れた励起状態の分子振動の計算を実施している。非調和分子振動計算にはcc-VSCF法を用いている。比較のために高精度ab initio法であるEOM-CCSD(T)の計算も実施し、計算コストの低いTDDFTによっても十分な精度を得られることを実証している。

第4章ではDual-level DFT 法の励起状態への拡張が述べられている。DFTは基底関数の4乗で計算コストが増大する。計算コストを減らして大規模な分子計算を実現するための取り組みが近年盛んに行われている。その1つがDual-level 密度汎関数法(Dual-level DFT)である。この方法は電子密度は基底関数や汎関数の選択にそれほど敏感ではないという考えに基づくものである。特にhybrid DFTの大規模系への適用に威力を発揮するものと期待されている。Dual-level DFTは基底状態の計算には有用であることはわかっているが、励起状態への適用はいまだなされていなかった。申請者はDual-level DFTを励起状態に拡張し、レチナールやBacteriochlorin-zinc- bacteriochlorinなどのvalence励起状態、Rydberg励起状態、charge-transfer励起状態計算を計算している。数値計算からもDual-level DFTが基底状態だけでなく、励起状態の計算にも有効であることを明らかにしている。

第5章は本論文のまとめであり、分子の電子状態理論やダイナミクス理論、DFTやTDDFTに関する将来の展望が述べられている。

以上のように本論文は、TDDFT法の適用範囲を大幅に拡大し、分子の励起状態に新しい知見をもたらしたもので、理論化学、物質科学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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