学位論文要旨



No 123097
著者(漢字) 河野,稔明
著者(英字)
著者(カナ) コウノ,トシアキ
標題(和) トゥレット症候群の前頭葉機能と臨床指標との関連 : 近赤外線スペクトロスコピー研究
標題(洋)
報告番号 123097
報告番号 甲23097
学位授与日 2007.11.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2970号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大友,邦
 東京大学 准教授 青木,茂樹
 東京大学 准教授 坂井,克之
 東京大学 講師 湯本,真人
 東京大学 講師 渡邊,慶一郎
内容要旨 要旨を表示する

トゥレット症候群(Tourette's syndrome,以下TSと略す)は,複数の運動性チックと_1_つ以上の音声チックが_1_年以上続くことで特徴付けられる,一般に重症のチック障害である。TSは他のチック障害に比して,チックの種類が多彩で持続期間が長いため社会適応が不良になりやすく,チックの強さや頻度など症状の重症度も高くなる傾向がある。またTSにはしばしば併発症が見られ,それによって臨床像が大きく異なってくる。特に強迫性障害(Obsessive-Compulsive Disorder,OCD)は約30%に,注意欠陥/多動性障害(Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder,AD/HD)は約50%に併発するとされるが,これらの診断基準を満たさない程度であっても経過中に大半が強迫症状を有し,また不注意や多動性・衝動性の傾向を有する場合が多い。TSには時に怒り発作と称される,状況や元来の性格にはそぐわない感情の噴出があることも知られている。TSのチック症状や主な併発症には,自ら望まないにも関わらず,あるいは望まないからこそ余計に特定の行動をする特性があり,これらは強迫性と衝動性の問題といえる。チックおよび強迫性,衝動性に関連する症状の病態は大きく共通しており,皮質‐線条体‐視床‐皮質回路(cortico-striato-thalamo-cortical circuit,CSTC回路)の異常とされる。TSのみならず,OCDやAD/HDの脳機能研究でこれらの行動特性の脳基盤に関する知見が蓄積されてきている。

新しい脳機能検査法として近年注目されている近赤外線スペクトロスコピー(near-infrared spectroscopy,NIRS)は,脳血管内のヘモグロビン(Hb)酸素化動態を非侵襲的に測定する光学技術である。測定条件の自由度の高さと被験者の負担の軽さから,統合失調症,気分障害,自閉症圏障害などで認知課題施行中の前頭葉活動を測定する研究が行なわれ,高い時間分解能を生かして各疾患の賦活特性が報告されている。NIRSでは,脳賦活による酸素化,脱酸素化の両ヘモグロビン(それぞれoxyHb,deoxyHbとする)の濃度([○○]と角括弧で表す)における変化量が測定可能である。特に[oxyHb]変化量は,神経活動の変化をよく反映するとされる。

TSの脳機能に関する先行研究は,大半が安静時の灌流や代謝を対象にしており,賦活課題中の脳活動に関しては報告がほとんどない。TSでも他の精神神経疾患と同様にNIRSを用いて前頭葉活動を検討し,その特徴を探索することは,TSの病態をより良く知る上でも有意義と思われる。本研究では,TSを対象にNIRSを用いて語流暢性課題施行中の前頭葉血液動態を測定し,健常者と比較することでTSの一般的な特徴を検討した(研究A)。さらに,TSの臨床特徴をチック,強迫性,および衝動性の_3_軸で評価し,これらの指標と前頭葉賦活との関連を検討した(研究B)。

なお,本研究は東京大学大学院医学系研究科・医学部倫理委員会の承認を受けて実施された。被験者には全員,事前に本研究について十分な説明を行ない,全員から(被験者が未成年の場合はその保護者から)研究参加への同意を書面で得た。

研究A:トゥレット症候群患者と健常者の前頭葉活動の比較

対象は,トゥレット症候群患者20名(TS群)および精神神経疾患の既往のない健常者20名(normal control群,NC群)である。各群_2_つの年齢帯に分割し,16歳以下を年少者,17歳以上を年長者とした。TS,NC各群の各年齢帯の対象数は,いずれも10名である。両年齢帯ともTS,NC両群間で年齢,性別,知能指数,および利き手をマッチングした。前頭葉機能の測定には,_2_チャンネルNIRS装置の浜松ホトニクス製NIRO-200を用い,各チャンネルの受光プローブを脳波の国際標準電極配置法におけるFp1およびFp2に合わせた(腹外側前頭前野を測定した)。NIRS測定下で,前頭葉を賦活させる代表的な認知課題である語流暢性課題(本研究では「あ」で始まる単語を可能な限り回答することを求めた)を30秒間行ない,前後に各30秒間の安静を設けた。[oxyHb]および[deoxyHb]は,課題前の安静時30秒間の平均をベースラインとして補正した。認知課題の成績は,正しく産生した単語の個数とした。

平均課題成績は年少者でTS群が5.0語,NC群が4.6語,年長者でTS群が7.4語,NC群が8.7語となり,いずれの年齢帯でも,TS群とNC群の間に有意差はなかった。

本研究では,前頭葉賦活パターンを総合的に比較するため,[oxyHb]および[deoxyHb]の,賦活課題施行中の平均変化量を前頭葉賦活の大きさの指標として,[oxyHb]の課題開始直後_5_秒間の平均変化率(傾き,初期平均変化率とする)を前頭葉賦活の反応性の指標として,それぞれ解析を行なった。

前頭葉賦活の大きさについては,その時間変化も含めて検討するため,賦活課題の時間帯を_3_等分し,それぞれの区間(10秒間)で[Hb]の平均変化量を求めて,この区間平均変化量を従属変数に,群(TS/NC),区間(序盤/中盤/終盤),およびチャンネル(左/右)を因子にして,oxyHb,deoxyHbそれぞれで年齢帯ごとに三元配置反復測定分散分析を行なった(年少者では予備的検討で[Hb]の平均変化量と相関する傾向を示した年齢を共変量にした)。その結果,年長者では全時間帯を通じた群間差はないものの,TS群では序盤で[oxyHb]の急激な上昇がNC群に比して遅くまで続き,中盤以降は比較的緩やかな上昇を続けるNC群とは対照的に徐々に低下した。なお,年少者ではこのような所見はなかったが,加齢とともに[oxyHb]の変化量が大きくなる傾向があった。

前頭葉賦活の反応性については,[oxyHb]の初期平均変化率を従属変数に,群(TS/NC),およびチャンネル(左/右)を因子にして,年齢帯ごとに二元配置反復測定分散分析を行なった(上と同様の予備的検討を行ない,年少者では年齢を,年長者では課題成績を共変量にした)。その結果,群に特異的な有意所見はなかった。

TSでは前頭葉賦活の全体的な大きさに健常者との一貫した差異はないものの,年長者では特徴的な時間変化が観察された。TSの本質であるチックは脳内で不適切な発火が起こり,それを適切に抑制できないことによるものであるが,認知に関わる神経回路においても非効率な活動が存在する可能性が示唆された。

研究B:トゥレット症候群の臨床指標と前頭葉活動との関連の検討

本研究では,研究Aと同一のTS群の標本を対象に,TSの主要な臨床指標であるチック重症度,強迫性,および衝動性と,賦活の強さをよく反映する[oxyHb]の語流暢性課題中30秒間の平均変化量(通算平均変化量)との関連を解析した。

チック重症度は臨床家評価による半構造化面接Yale Global Tic Severity Scaleで評価し,チックによる社会的機能への影響は除いた,チック症状自体の重症度を「チック得点」として解析に用いた。強迫性はその異質性を考慮して,相互に独立とされる_6_つの症状ディメンジョンを用いた評価が可能なDimensional Yale-Brown Obsessive Compulsive Scale(DY-BOCS)で評価し,まずは症状ディメンジョンに関係なく全般的重症度に着目し,強迫症状による社会的機能への影響は除いた,強迫症状自体の重症度を「強迫性得点」として解析に用いた。衝動性は臨床家評価による半構造化面接Impulsivity Rating Scaleで評価し,その合計得点を「衝動性得点」として解析に用いた。

解析ではチック得点,強迫性得点,および衝動性得点を独立変数,[oxyHb]通算平均変化量を従属変数とし,重回帰分析をステップワイズ法で年齢帯ごとに行なった。

その結果,年長者の両チャンネルで強迫性得点の高さが[oxyHb]の通算平均変化量の低さと有意な関連を有しており,チック得点および衝動性得点は回帰モデルから除外された。すなわち,TSの_3_つの主要な臨床指標のうち,TSの中核症状であるチックの重症度ではなく,併発症として臨床像を修飾する強迫性が,語流暢性課題下の前頭葉賦活と強い関連を有していた。

この結果を踏まえて,前頭葉賦活に特に関連している強迫性の特徴を検討する目的で,DY-BOCSの症状ディメンジョンを用いて付加的な解析を行なった。その結果,「その他」ディメンジョン(DY-BOCS作成時,ディメンジョン抽出のための因子分析で特定の因子に属さなかった強迫症状の集合)の重症度得点の高さが左チャンネルで[oxyHb]の通算平均変化量の低さと関連する有意傾向があった。定義上異質性が高いはずの「その他」ディメンジョンの症状の中から,認知過程と関連する同質性の高い一群を抽出する余地がある可能性が示唆された。「その他」ディメンジョンは,不潔恐怖や確認強迫といった典型的な強迫症状とは異なり,習癖やチックの前駆衝動のようなチックに関連するとされる強迫症状を含んでおり,本結果は強迫性の中の異質性をチックとの関連において理解する手がかりとなる可能性を有する。

認知課題施行中のTSの前頭葉血液動態をNIRSで測定することにより,TSに特徴的なパターンを検出することができた。本研究では語流暢性課題による認知賦活を用いたが,TSで賦活課題を用いた脳機能研究は少なく,この所見がTSの前頭葉活動の特性を強く反映しているかどうかは,今後の脳機能研究を待たなければ明確にならない。しかし種々の精神神経疾患では,時間分解能の高く測定の容易なNIRSで,代表的な認知課題である語流暢性課題を用いた研究が多くなされており,共通のパラダイムによる脳機能研究は各疾患の特性をより良く知る上で有用である。本研究において新たにTSで前頭葉活動の特性を検討したことは,一定の意義を有すると考える。

また,本研究ではTSの臨床像を説明する主要な臨床指標と前頭葉機能との関連を検討した。強迫性は,CSTC回路という基盤がある点でチックや衝動性と共通するが,語流暢性課題による前頭葉賦活と強い関連を有したことはチックや衝動性との微妙な脳基盤の差異を示している可能性がある。TSはチックを本質としながらも,多様な精神機能や行動特性と関連しており,これらが依拠している脳基盤を理解する上でモデルとなりうる疾患である。本研究の所見はそれのみで精神機能や行動特性の脳基盤を説明できるとはいえないが,多様な検討を重ねることでその理解が進むことが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は,慢性で多様性のチックを主徴とし,しばしば抑制困難な激しい運動および音声により,日常生活に支障をきたすトゥレット症候群(Tourette's syndrome,TS)の患者において,認知課題中の前頭葉活動の特性を,近赤外線スペクトロスコピー(near-infrared spectroscopy,NIRS)を用いて検討したものである。脳機能に関する知見が少ないTSにおいて,語流暢性課題施行中の前頭葉活動を,簡便で非侵襲的な神経生理学的手法であるNIRSで初めて計測しており,臨床研究として意義は大きいと思われる。

研究の内容は_2_部から構成され,前半は健常者と比較によりTS患者の一般的な前頭葉活動の特性を,後半はTSの主要な臨床指標(チック重症度,強迫性,および衝動性)と前頭葉活動との関連を解析している。論文は,TSの概要(チック症状,定義,疫学,併発症,病態など),TSの脳機能に関する先行研究,NIRSの概要(原理,信号の妥当性・信頼性,臨床応用の意義)といった本研究の背景について綿密に整理し,対象の抽出や統計手法の選択など,的確な方法を用いてデータを厳密に解析し,その結果に基づいて論理的に考察しており,博士論文として適切な体裁で記述されている。

本研究の結果を以下に記す。

研究A:トゥレット症候群患者と健常者の前頭葉活動の比較

TSの一般的な前頭葉活動の特性を検討するため,TS患者20名(TS群)と精神神経疾患の既往のない健常者20名(normal control群,NC群)を比較した。脳活動の発達を考慮し,各群_2_つの年齢帯に分割し,16歳以下を年少者,17歳以上を年長者として,それぞれで解析を行なった。TS,NC各群の各年齢帯の対象数はいずれも10名で,両年齢帯ともTS,NC両群間で年齢,性別,知能指数,および利き手をマッチングした。前頭葉の賦活には,代表的な認知課題で語流暢性課題の一種である文字流暢性課題を用い,_2_チャンネルNIRS装置の浜松ホトニクス製NIRO-200で計測した。課題成績(正しく産生した単語の個数)は,いずれの年齢帯でも,TS群とNC群の間に有意差はなかった。

本研究では,NIRSで得られる酸素化ヘモグロビン(oxygenated hemoglobin),および脱酸素化ヘモグロビン(deoxygenated hemoglobin)の濃度([oxyHb],[deoxyHb])の経時的なデータを基に,前頭葉賦活の大きさと反応性を表す指標を作成し,解析した。前頭葉賦活の大きさの指標は,[oxyHb],[deoxyHb]各々の,課題施行中の平均変化量とし,前頭葉賦活の反応性の指標は,[oxyHb]の課題開始直後_5_秒間の平均変化率(初期平均変化率)とした。

前頭葉賦活の大きさについては,その経時的特性も含めて検討するため,賦活課題の時間帯を_3_等分し,各区間(10秒間)で求めた[oxyHb]および[deoxyHb]の平均変化量(区間平均変化量)を従属変数に,群(TS/NC),区間(序盤/中盤/終盤),および測定チャンネル(左/右)を因子にして,三元配置反復測定分散分析を行なった(年少者ではヘモグロビン平均変化量と相関のある年齢を共変量にした)。その結果,年長者では全時間帯を通じた群間差はないものの,TS群では序盤で[oxyHb]の急激な上昇がNC群に比して遅くまで続き,中盤以降は比較的緩やかな上昇を続けるNC群とは対照的に徐々に低下した。年少者では同様の所見はなかったが,加齢とともに[oxyHb]の変化量が大きくなる傾向があった。

前頭葉賦活の反応性については,[oxyHb]の初期平均変化率を従属変数に,群,および測定チャンネルを因子にして,二元配置反復測定分散分析を行なった。その結果,群に特異的な有意所見はなかった。

TSでは,前頭葉賦活の大きさにおいて,全体としては統合失調症や気分障害のような特徴的所見はなかった。また,統合失調症で鈍化が報告されている前頭葉賦活の反応性についても,健常者と差はなかった。ところが年長者では,[oxyHb]において特徴的な経時的変化が観察された。TSの本質であるチックは運動に関わる神経回路での不適切な発火によるが,認知に関わる神経回路でも非効率な活動が存在する可能性が示唆された。

研究B:トゥレット症候群の臨床指標と前頭葉活動との関連の検討

TSの主要な臨床指標と前頭葉活動との関連を検討するため,研究Aと同一のTS群の標本を対象に,_3_つの臨床指標(チック重症度,強迫性,および衝動性)と,課題施行中30秒間の[oxyHb]平均変化量(通算平均変化量)との関連を解析した。

_3_つの臨床指標は,それぞれ臨床家評価による半構造化面接法を用いて評価した。チック重症度はYale Global Tic Severity Scaleで評価し,チックによる社会的機能への影響は除いた,チック症状自体の重症度を「チック得点」として解析に用いた。強迫性はDimensional Yale-Brown Obsessive Compulsive Scale(DY-BOCS)で評価し,強迫症状による社会的機能への影響は除いた,強迫症状自体の重症度を「強迫性得点」として解析に用いた。衝動性は臨床家評価による半構造化面接Impulsivity Rating Scaleで評価し,その合計得点を「衝動性得点」として解析に用いた。

解析ではチック得点,強迫性得点,および衝動性得点を独立変数,[oxyHb]通算平均変化量を従属変数とし,重回帰分析をステップワイズ法で年齢帯ごとに行なった。その結果,年長者の両チャンネルで強迫性得点の高さが[oxyHb]の通算平均変化量の低さと有意な関連を有しており,チック得点および衝動性得点は回帰モデルから除外された。すなわち,TSの_3_つの主要な臨床指標のうち,TSの中核症状であるチックの重症度ではなく,併発症として臨床像を修飾する強迫性が,語流暢性課題下の前頭葉活動と強い関連を有することが示された。

DY-BOCSは,異質性の高い強迫症状を,より同質な_6_つの症状群(症状ディメンジョン)に分類し,それぞれで重症度を評価することが可能である。本研究では上記の結果を踏まえて,前頭葉賦活に特に関連している強迫性の特徴を検討する目的で,年長者を対象にDY-BOCSの症状ディメンジョンを用いた付加的な解析を行なった。その結果,「その他」ディメンジョン(DY-BOCS開発時,ディメンジョン抽出のための因子分析で特定の因子に属さなかった強迫症状の集合)の重症度得点の高さが,左チャンネルで[oxyHb]の通算平均変化量の低さと関連する傾向が見出された。「その他」ディメンジョンは,習癖やチックの前駆衝動といった,チックに関連するとされる強迫症状を含んでおり,これまで強迫症状の異質性をチックとの関連で臨床的に説明した報告があったが,本結果はそれを神経生理学的に示した。

以上,本研究はTS患者において,語流暢性課題施行中の前頭葉活動が特徴的な経時的変化を示すこと,またそれがTSの主な臨床指標の中でも強迫性と強く関連することを,NIRSを用いて明らかにした。本研究は,同様の手法でデータが蓄積されつつある他の精神神経疾患の研究結果とともに,NIRSの臨床応用,思考や行動の脳基盤の理解に一定の貢献をなすものと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる。

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