学位論文要旨



No 123108
著者(漢字) 中,真生
著者(英字)
著者(カナ) ナカ,マオ
標題(和) レヴィナスの主体における他なるものとの関係について : 超過と身体
標題(洋)
報告番号 123108
報告番号 甲23108
学位授与日 2007.12.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第621号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 鈴木,泉
 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 熊野,純彦
 東京大学 教授 一ノ瀬,正樹
 東京大学 准教授 榊原,哲也
内容要旨 要旨を表示する

レヴィナスが論じるのは、何ものかと相対的ではない、「絶対的に」他なるものである。しかしそれは、どのようにして可能になるのだろうか。レヴィナスが採るのは、一見矛盾しているが、徹底的に主体性を考察する仕方である。ただし、他なるものをとらえ、認識できる主体ではなく、反対に、それをとらえきれずに、取り逃がし、そればかりか他なるものの切迫から逃げられずに、とらえられ、侵される主体である。その、取り逃がすさま(・・)、自らの能力を超えたものをむかえるさま(・・)を探求することが、他なるものを考える唯一の方法だとレヴィナスは考える。このさま(・・)とは、他なるものが、主体に交わり、主体のうちにあるにもかかわらず、主体において、それを本質的に超え出るさ(・)ま(・)であり、このことをレヴィナスは、「超越」あるいは「超過」と呼ぶ。

主体が他なるものに超過されることが、他なるものとの関係それ自体なのである。すると主体とは、他なるものとの関係の「場」であることになる。一方で、認識の主体として、また所有の主として、他のものに働きかけ、力を及ぼす主体が、他方では、少しも能動性の余地なく、他なるものに侵され、傷つけられる仕方でそれとかかわってしまってもいる。主体とはじつは、このような「両義性」だとレヴィナスは考える。主体が認識し、存在者として存在し、他に能動的に力を及ぼす「自律」したものであることは疑う余地がないから、主体において他なるものとの関係を考察することとは、主体をこのような「両義性」として見ることに他ならない。

主体が「両義性」であることは、それが身体をもつこと、正確には、身体で(・)ある(・・)ことによって可能になる。というのも、主体は身体であるがゆえに、大地の上に立って身を支え、動き、食べ物を摂り、快楽を得ることができるし、それを基盤として、至高の能動性である認識の主体にもなることができる。しかし他方で、身体であるがゆえに、主体は逃れえない弱点をかかえてもいる。身体は、疲労し、倦怠をもよおさせ、あるいは傷つき、病にかかり、老いて、いずれ朽ち果てるからである。他なるものが迫り、襲うのも、この身体である。むしろ、すでに身体は主体にとって他なるものであり、その測り知れない他性を前面に押し出すのが、他の人間の顔あるいは切迫なのである。レヴィナスが、主体における他なるものの「超過」を見るのは、まさにここにおいてである。超過は、身体において、身体の他性を通じて、身体の他性によってこそ起こる。

本稿は、上記のような考えにのっとって、身体と分かちがたく結びついた「超過」を主題として、いくつかの観点からそれを考察する。それは、「無限の観念」、「苦しみ」、「悪」そして「被造性」である。それぞれを順に、第一部から第四部の主題とする。

第一部 無限の観念

他なるものとの関係としての「超過」の構造を、何より明瞭に表しているのは、レヴィナスにとって、デカルトの「無限の観念」の考察である。こうした観点から無限の観念は、レヴィナス自身の思想にとりいれられ、独自の概念として、他なるものとの関係の基盤を成している。とはいえ、無限の観念だけによっては、身体の側面を考察することがむずかしい。そのため、しだいに、無限の観念をいだくコギトは「受肉」したものだと考え、無限の観念は、受肉したコギトを襲い、傷つけるものと考えるようになる。それとともに、身体の考察も豊かに、また掘り下げられていく。

第二部 苦しみ

身体はしかし、初期から、存在することすなわちイリヤとの関係を通じて、すでに独自の仕方で考察されている。注意深く見直して見ると、そのなかで、いずれも「苦しみ」が重要な役割を果たしていることが分かる。第二部では、初期から後期に至るまでの思想を、身体と苦しみの観点からたどりなおす。それを通じて、主体が「両義性」であることが明らかになる。主体が両義性であるとは、自律した側面と同時に、他なるものに依存し、ときにはそれを少しの能動性の余地もなく絶対的受動的に被る側面とをあわせもつことである。つまり主体とは自律と依存または絶対的受動性とのあいだで不安的な均衡を保っている両義性なのである。ところが、無限に他なるものとの関係とは、この均衡を絶対的な受動性の方へと一気に傾け、振り切らせることである。

第三部 悪

レヴィナスは、上記のような苦しみの「超過」の性質をとくに悪と呼ぶことがある。このことはレヴィナスにとって、悪を苦しみとして、悪を苦しみに基づいた超過として見ることでもある。善を基準として、それとの関係で悪が決まるのではない。言いかえれば善の欠如を悪とみなすのではなく、善とされる基準を「無意味」かつ無力にし、それを「超過」するものを悪とみなす。この見方は、悪を苦しみに根差すものと考えることによってはじめて可能になる。第三部では、レヴィナスにおける悪の超過を、ナベールの悪の超過を参照しつつ論じる。ナベールにおいて悪の超過の考察を支えているのは、必ずしも、主体が身体であることではない。この点を確認することが、レヴィナスの悪における、身体の位置づけを別の角度から考えることを可能にしてくれる。

第四部 主体の被造性

これまで見てきたように、主体において他なるものを考察する試みは、主体を両義性ととらえることにかかっている。レヴィナスは単に、主体は自律から、依存へあるいは絶対的な受動性へと移行するとか、移行するべきだとか主張するわけではない。両側面が交錯しつつ共存していること、つまり両義性であることが重要である。とはいえ、主体はどちらともつかない曖昧さなのでもないし、どちらかが入れ替わり立ち代わり主体に現れるということでもない。両者の関係は、レヴィナスにおいて、はっきりしている。受動性の側面が、自律に先立ち、それを可能にしているという関係である。ただし、受動性が単に、時間的に自律に先行するのではなく、そのような時間系列にはのらない、隔時的な仕方で先立っているという。したがって、そのような「無起源」は、主体が見出すことがなければ、その「無起源」が主体を成り立たせ、支えているにもかかわらず、気づかれることも、考えられることもけっしてない。このような自律と依存あるいは絶対的受動性との関係を、第四部で、主体の「被造性」の観点から論じる。

無限に他なるものとは、自律においてではなく、絶対的受動性においてすでに逃れがたくかかわっている。とすると、主体は、自らの存在をじつは支えている、無起源における他なるものとの関係に、「自然に逆らって」遡ることになる。ただ、主体は自らの意志によって遡るのではなく、目の前の他の人間の切迫に、そうすることを否応なく強いられてしまう。具体的にはそれは、身体が重みを支え、傷つき、侵されることである。すると否応なく他なるものとの関係に遡行することとは、苦しみであり、超過に他ならない。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、レヴィナス哲学を主体性に定位しながら絶対的に他なるものを探求する試みと位置づけた上で、その具体的な分析の諸相と意義とを論じたものである。レヴィナスは逆説的にも、自律し能動的な認識主体ではなく、他なるものに侵され・傷つけられるような受動性を特質とする主体において示される他なるものとの関係を探求することこそが、他なるものを考察する唯一の方途であるとする。以上の他なるものとの関係は、他なるものが受動的な主体を越え出るという意味での「超過」という概念に定式化することができるが、これは、受動的な主体が身体としての主体であることによってその具体的な内実を獲得する。身体としての主体において示される他なるものの「超過」のありようの探求こそがレヴィナス哲学の核心であるとして、その探求の一貫した姿を編年的に解明し、その意義を論じた点に本論文の独自性がある。

序章において基本的な問題設定を行った後、第一部は他なるものとの関係としての「超過」の形式的な構造を解明する。デカルトの「無限の観念」に対するレヴィナス自身の解釈を検討することからこの形式的な構造を明らかにするが、同時に、デカルトとは異なり、レヴィナスの場合には、「無限の観念」を抱くコギトが受肉したものであることを強調し、レヴィナスにおける「超過」の特質を浮き彫りにすることによって、次部につなげる。

第二部は身体としての主体に定位することによって明らかにされる「超過」の具体的な内実を、レヴィナスが初期から後期に至るまで苦しみという現象に着目しながら明らかにしていることを辿りつつ解明する。特に、幸福に関する考察に重点が置かれているかに見える中期においても「イリヤ」と「エレメント」との関係を通して苦しみに関する考察が示されていること、他方、苦しみと幸福という一見すると異なった原理に力点を置きながら考察する時期による探求の違いが、自律性と依存性、自発性と受動性との間を揺れ動く不安定さを有する主体の「両義性」を示していること、以上二点を解明している点に独創性がある。

第三部は「超過」の特質がときに悪と呼ばれることに着目し、正当化しえない・無意味な悪に関する考察を辿り、レヴィナス哲学の特質をさらに浮き彫りにする。同じく正当化しえない悪に関する考察を進めつつも身体に関する視点を欠いているナベールの思索との対比を通して、身体的苦しみを悪の考察の核心に据えるレヴィナスの思索の倫理的な特質を浮かび上がらせる

第四部は、第二部で解明された「両義性」という主体のありようを深め、受動性が自律に先立つということを主体の被造性、時間系列における起源とは異なる「無-起源」との関係として解明し、倫理をそのような「無-起源」への遡行・再帰として位置づけて、論を閉じる。

このように、本論文は、身体という主体において示される他なるものの「超過」という視点からレヴィナス哲学を一貫した仕方で読み抜き、その意義を解明した労作である。自説の補強としての研究史の渉猟、独特な概念が頻出するレヴィナス哲学を平明な言葉で論述しようとする姿勢なども、高く評価することができる。他面、レヴィナス哲学の一貫した姿を描き出そうとする方法論を貫くあまり、異なった時期に示された思索の意義をそれぞれ個別に掬い取る姿勢に欠けている点にもの足りなさはある。とはいえ本論文は、レヴィナス哲学の提示した他なるものとの関係の諸相とその意義とを平明な言葉で十分に描き出し、今日の私たちにとりわけどのような倫理的課題があるかを示す力をもったものである。よって、本論文は博士(文学)の学位を授与するに値すると判断する。

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