学位論文要旨



No 123111
著者(漢字) 宮﨑,裕助
著者(英字)
著者(カナ) ミヤザキ,ユウスケ
標題(和) 判断と崇高 カントと美的‐政治的判断力における決定の問題
標題(洋)
報告番号 123111
報告番号 甲23111
学位授与日 2007.12.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第778号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,哲哉
 東京大学 教授 北川,東子
 東京大学 教授 高橋,宗五
 東京大学 教授 熊野,純彦
 東京大学 准教授 中島,隆博
内容要旨 要旨を表示する

カントと美的‐政治的判断力における決定の問題氏名:宮崎 裕助 依拠すべき法が与えられていないにもかかわらず法に基づいた判断を求めている当のものをめぐって、ひとはどのように判断するのか。そのような判断(のアポリア)への問いは、カント『判断力批判』(1790年)に遡る伝統において、反省的判断力、とりわけ美的判断力の問題としてはじめて明確に提起され、20世紀にあっては、政治的判断力ならびに決断主義の問題へと引き継がれ、絶えず問い直されてきた。このとき、判断力をめぐる探究は、美的な観点からは「崇高の思考」として、政治的な観点からは「決定の思考」として特徴づけることができる。かくして見出されるのは、判断の問題を、カントと現代の思想(アーレント、リオタール、シュミット、デリダ)を結ぶ問いの布置のなかで立て直し、ひいては美学と政治、ないし「美的なもの」と「政治的なもの」の関係のもとに再検討するという課題である。本研究の目的は、この課題の追究を通して、カントの判断力論を「決定の問題」のもとに再構成すること、そしてその現代的な可能性を探るなかで、判断と決断の理論一般に新たなパースペクティヴを切り開くことである。

第1章「判断力の法」では、そもそもカントの批判哲学にとって、なぜ判断力が問題の焦点となるのかが問われた。『判断力批判』の序論は、判断力に対して、批判哲学の全体を完結させるという体系的役割を与えていた。このことの意味を探るために、本章は、判断力の概念を『純粋理性批判』と『実践理性批判』も含む問題連関において追跡し、当の判断力がいわば「試行的立法」という働きを担うことで、批判哲学の自己実現にとっての原動力となることを指摘した。そこから明らかになったのは、判断のこの自己立法的な構造のもとに、カントの批判哲学が「決断」の自由と困難をめぐる思考として現れてくるということである。こうした判断力概念の意義のうちに、本章は、判断のアポリアへの問い──本論の中心課題である「決定の問題」──が次章以降で『判断力批判』の問題系を通じて追究されるべき必要性とその諸前提を示した。

第2章「判断の崇高」では、「反省的判断力」の概念のもとに見出された判断のアポリアが、どのように美的判断力の問題として展開されるのかが問われた。ここで本論が着目したのは、カント美学における崇高論の位置である。従来のカント研究では、カントの崇高論の理論的な重要性は十分に解明されてきたとは言えない。本章が示したのは、なぜ『判断力批判』の崇高論が(「美の分析論」に比して)重要なのかという点、そしてこのことが、カントの「崇高の思考」として、どのように美学批判の射程をもつのかという点である。本章はこの論点について、これまで看過されてきた(ハイデガー以後の)フランス思想のカント受容の達成を踏まえながら、一方で、美の判断がアポリアに陥る呈示不可能性、そして他方で、この判断を「詐取」の論理を介して可能にする崇高の呈示可能性という両者の関連のうちに明らかにすることができた。

以上が本論の第I部「判断──反省的判断力から美的判断力へ」である。第I部の要点は、判断のアポリアへの一般的な問いに始まり、それを『判断力批判』の反省的判断力の問題を通してカントの「決定の思考」のもとに見出し、かつそこから、美的判断力の問題を通して「崇高の思考」のうちに当の判断の問いを定位したという点にある。続く第II部「崇高──構想力と美的形式の問題」(第3・4章およびInterlude)は、カントの「崇高の思考」そのものを検討の主題とし、判断をめぐる問いがカントの崇高論の問題圏のうちに実際にどのように現れてくるのかを具体的に分析することにあてられた。

第3章「構想‐暴力」では、まず『判断力批判』における構想力が、『純粋理性批判』とは異なった仕方で、いかなる働きをもつのかが問われた。その結果、感性と理性のあいだで構想力が果たしている注目すべき暴力(構想‐暴力)の機能が明らかになった。すなわち、この暴力は、構想力が自己の限界に直面することで自己自身にとって破壊的かつ構成的に働く二重の暴力であり、それによって崇高と判断されるところの自己犠牲の暴力にほかならない。この過程は、自己陶冶による開化=文化の超越論的原理を説明する一方、まさに構想‐暴力として、この原理そのものを破壊してしまうような構想力の野蛮な威力をも示唆している。本章は『判断力批判』における構想力の過剰な暴力を、崇高の呈示そのものの臨界点に位置づけることができた。

第4章「吐き気」では、構想力の暴力に見出された崇高の呈示の臨界点が、いかなる感性的経験のうちに現れてくるのかが問われた。そこで選ばれた主題が「吐き気」である。そもそもこの主題は、バタイユの不定形の美学を介して現代美術の際立った問いの場──アブジェクションの問題──を形成している。本章は、この問題圏との関連を考慮することで、従来看過されてきたカントの「吐き気」論のアクチュアリティを浮かび上らせようとした。その結果、バタイユにおける「吐き気」の対象が不定形なものとの連想で理解されたのに対し、カントにあって「吐き気」は、たんに形式的でも不定形でもない「怪物的なもの」との関わりをもつことが明らかになった。そこから本章は、美でも崇高ですらもない、反美学的な第三の感情──「パラサブライム」と呼ばれる──として、この「吐き気」概念の核心を説明するに至った。これは、従来の美学的図式に収まらない『判断力批判』の感性論の現代的な射程を解明するものであり、本論が追究するカントの「崇高の思考」の到達点を立証するものである。

補章 Interlude「物質的崇高」では、カントの挙げている崇高なものの具体例に注目し、そこで問われた自然風景の視覚(星空と大洋の例)が、どのように崇高の否定的表出の論理を限界づけているのかが問われた。この例を考察した研究に、ポール・ド・マンの『判断力批判』読解がある。本章は、ド・マンの提出している建築術的視覚と物質的視覚との緊張関係を説明し直すことを通じ、カントの美的判断が「視覚の物質性」の契機をモティーフとしつつ、美学のイデオロギー作用(政治と倫理の美学化)に対する批判力をもつことを明らかにした。これは、『判断力批判』の美学批判の政治的射程を示唆し、第III部の問題提起への架橋的な役割を担う。

以上が第II部である。第II部の要点は、『判断力批判』の崇高論の再読を通じ、崇高なものの否定的表出の論理がカント美学の表象体系にとっての超越論的原理を担うことを解明したという点、のみならず、まさにこの論理の限界を問い質す具体的な諸相(「構想‐暴力」「吐き気」「視覚の物質性」)を分析することによってカントの「崇高の思考」を明確化したという点にある。続く第III部「美的‐政治的──美学化と決断主義への抵抗」(第5・6章)では、以上に示された「崇高の思考」が、判断力論としていかなる美的かつ政治的な射程をもって展開しうるのかを、20世紀の思想における「政治的判断力」および「決断主義」の問題に即して明らかにすることが試みられた。

第5章「政治的判断力」では、アーレントが『判断力批判』解釈から取り出した「政治的判断力」の概念が、カントの崇高論の観点から検討されるとき、いかなる限界をもち、いかなる方向へと刷新しうるのかが問われた。そもそもアーレントの政治的判断力は美の判断をモデルとしており、従来の政治的判断力論では崇高の問題への視点が欠落していた。本章は、これをリオタールの崇高論読解と突き合わせることで、前章までに追究してきたカントの「崇高の思考」に立脚する、新たな政治的判断力論の可能性を切り開くに至った。他方、崇高の感情を介した政治的判断の理論は、ファシズムの「政治の美学化」(ベンヤミン)にみられるような「崇高の政治」に近づく。本論は、そのような危険を最大限に意識しつつ、カントの「崇高の思考」の核心がむしろ美学批判にあったことを喚起することで「政治の美学化」を斥け、民主主義への過信(美の政治)でもファシズムへの退却(崇高の政治)でもない「到来としての政治」という第三の観点を打ち出した。

第6章「決断の帰趨」では、引き続きファシズムと政治的判断力の関係が考慮され、それが決断主義の問題として問い直された場合に、決定としての政治的判断の思考は、いかに決断主義とは別の政治の可能性を開きうるのかが問われた。そこで焦点となったのが、シュミットとデリダの決断=決定の理論である。シュミットとデリダの二つの決定論の関係は従来明確に示されたことがなかった。両者は、決断の無条件性を強調する点で並行しているが、その違いはどこにあるのか。一方で、レーヴィットが批判したように、シュミットの主権的決断主義は、決断の権威を国家主権へと実体化することで、決断主義を廃棄する決断、つまり(シュミットが「政治的ロマン主義」として非難していたはずの)非決断の政治へと反転する。他方で、デリダの「決定の思考」は、決断の無条件性をあくまで計算不可能な正義への権利として要求し続けることで権威の実体化を批判するのであり、決定の可能性を無限に押し開こうと試みるのである。こうした対照を通じて、デリダの「決断主義なき決定」の思考は、デリダの準‐カント的な理想主義の政治を裏書きするとともに、決断の切迫性を最大限に高めようとする「誇張法的」パトスに支えられた「美的‐政治的」実践であることが明らかになった。ここに本章は、デリダの「決定の思考」のうちに、ファシズムを導いた決断主義の政治への抵抗点を標定し、決断主義に帰結しない決定/判断の政治の最終的な可能性を指し示そうとした。

審査要旨 要旨を表示する

宮崎裕助氏の論文「判断と崇高:カントと美的‐政治的判断力における決定の問題」は、現代の政治哲学における「決定」の問題を、カントの『判断力批判』にまで遡って論じる形を取っている。『判断力批判』における美的判断力の分析を政治的判断力の問題として読むアプローチは、ハンナ・アーレントに由来するが、アーレントが美に関する判断を問題にしたのに対し、宮崎氏はカントの崇高論にこそ政治的決定の問題を読み込むべきだと主張する。そして現代フランス思想の崇高論をも手がかりにしながら、カール・シュミットの決断主義に対してジャック・デリダの「決定の思考」の意義を明らかにするのである。このような内容であることから、論文審査は、カント哲学と現代の政治哲学という二つの焦点をめぐって行なわれることになった。

宮崎氏はまず「序」において、判断は法に従わねばならないが必要な法は不在であるという「判断のアポリア」を提示する。そして第I部・第1章で、カントの『判断力批判』が主題化した反省的判断力の問題とは、まさにこの「判断のアポリア」の問題にほかならないという解釈を提起する。ここでのポイントは、カントは概念に個別的なものを包摂する規定的判断力に対して、所与の個別的なものから普遍的な概念を見出していく反省的判断力を区別したのだが、「判断のアポリア」という観点からは、むしろ規定的判断を含めすべての判断の根底に反省的判断力の働きが見出されることになる、という点である。この見地に立てば、『純粋理性批判』が論じた自然認識においても、『実践理性批判』が論じた道徳世界においても、およそ法(ないし法則)に基づく判断が問題であるかぎり、〈法の不在のなかで自己自身が立法する法の不確実性のもとでしか判断できない〉という「判断のアポリア」が、つまり反省的判断力の「法なき法」が根底に見出されることになる。

宮崎氏はこの反省的判断力に関するユニークな解釈を、第2章ではさらに『判断力批判』の美的判断力の分析のなかに追究していく。氏は『判断力批判』のこの部分を「カント美学」として自明視する従来の常識を批判しつつ、まず、カントが美の条件として提出した「目的なき合目的性」の概念を梃子として、美を対象の形式からの「純粋な切断」として、「反美学」的な「美的対象の喪失の経験」として解釈する。そしてさらに、カントにおいては美に対して二次的・補遺的位置に置かれている崇高について、それを「呈示不可能なものの呈示」として規定することによって、むしろ崇高こそ美の可能性の条件であると同時に不可能性の条件でもあるという大胆な主張を行なうのである。

このようにして『判断力批判』の、したがって反省的判断力とあらゆる判断の核心に見出された崇高について、詳細に論じるのが第II部・第3章である。ここでは崇高が、構想力には本来呈示不可能な理性の理念を構想力が否定的=消極的に呈示することというカントの理解に従って分析されるが、宮崎氏が注目するのは、カント自身が崇高における構想力の作用を「暴力」に結びつけて語っている点である。宮崎氏は、構想力と感性、構想力と理性のあいだの緊張関係を「構想‐暴力」と名付け、カント自身がそれを構想力の「自己犠牲」の過程として描き出していることを指摘する。そして、この過程が、文化ないし啓蒙の根底にあって、それらと同様、自己拡張と自己破壊の両義性をもっていることを自覚すべきと論じるのである。

以上のように、判断力一般から反省的判断力へ、さらに美的判断力へ、美から崇高へ、崇高における構想‐暴力へと、従来の常識を覆し、『判断力批判』のイメージを一新するような分析が、あくまでもカントのテクストに即して説得的に展開されていることは、きわめて高く評価できるという点で審査委員は一致した。第4章でも、従来のカント研究ではほとんど注目されてこなかった「吐き気」についてのカントの議論が、表象不可能なものの否定的=消極的表象という崇高の弁証法によっても回収できない限界を記しづけるものと位置づけられ、それによってさらにカントの体系全体を崇高の体系として浮かび上がらせることに成功しており、その巧みな論の構成が重ねて評価された。

他方、『判断力批判』自体では美的判断力の批判の「単なる付録」の位置しか与えられていない崇高の分析論を全体の中心に据えることは、本来「第一批判」と「第二批判」、自然と自由の領域の断絶に架橋することを目的とした「第三批判」の性格を変えてしまうことにならないか、という懸念が一部の審査委員から出された。これに対して宮崎氏からは、「第三批判」の役割はもともと両義的であり、美と崇高の分析は「第一批判」と「第二批判」を架橋するだけでなく、快・不快の判断という特殊な領域の「批判」を遂行するという面があり、自然と道徳に対する快・不快の現象の特異性が「判断のアポリア」を先鋭化して見せるとしても、「第三批判」の架橋的役割が否定されるわけではないと説明があり、了承された。また、崇高の構想‐暴力を一種、全体系の超越論的根底に置くことは、「第一批判」「第二批判」でカントが確立した法を無効化する結果にならないか、という問いに対しては、宮崎氏から、法が無効化するのではなく、あらゆる法が「判断力のアポリア」に徹底的に取りつかれていることが明らかになるのだと回答があり、了承された。

第III部・第5章では、カントの美的判断力を政治的判断力に読み替える現代の議論が検討され、美の判断をモデルとするアーレントとハーバーマスが斥けられて、崇高における反美学的契機を取り出したリオタールが評価される。しかし同時に、宮崎氏は、「美の政治」と区別された「崇高の政治」は、全体主義の政治に接近する恐れがあるとして、「美の政治」でも「崇高の政治」でもない政治的決定の思考を形成する必要があると主張する。そして第6章では、このような政治的決定の思考、決断の思考の現代的可能性として、カール・シュミットとジャック・デリダの議論を比較検討する。宮崎氏によれば、シュミットの「例外状態における決定」の思想、デリダの「決定不可能性における決定」の思想は、まさに法の不在、法の限界地点において、法を創出しつつ行われる決断の意味を明らかにするものである。しかし宮崎氏は、シュミットの決定が結局は国家主権に帰着し、国家の自己保存権を支えるものであることを批判し、主体と主権を前提せず、他者への応答責任として受動的かつ無条件の決定を説くデリダの思考に可能性を見出すのである。

第III部は、カントの古典的テクストから一転して、現代の政治哲学における判断と決定の思考が問題になるが、宮崎氏の論は一貫して明快であり、アーレントからデリダまで、正確な理解に基づいてまとめられ、説得的な指摘がなされている点は、審査委員が一致して認めるところであった。一部の審査委員から、シュミットとデリダの対比が国家と正義、主権と他者の相違だというだけでは不十分ではないか、両者の異同はもっと慎重に考えられるべきではないかという指摘があったが、今後の課題として了承された。

本論文は以上のような内容から、その二つの焦点であるカント哲学、現代政治哲学のいずれに関しても、従来にない斬新な視点を有し、さらにその両者を組み合わせて大胆な構想を展開したものである。『判断力批判』を崇高の分析論を中心にして読み替え、「判断のアポリア」に関する先駆的思考をそこに見出したこと、アーレント、ハーバーマス、リオタール、シュミット、デリダを中心に現代哲学のなかに政治的判断力と決定の思考の系譜を跡づけ、これをカントの「判断力」論の現代的展開として整理し、今後さらに追究されうる問題圏域を開拓したこと。これらの点は、本論文の優れた学術的貢献として特筆されるべきことである。形式上も、論文の叙述の面でも、ほとんど瑕疵がなく、模範的と言ってよい。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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