学位論文要旨



No 123112
著者(漢字)
著者(英字) TEASLEY Sarah Elizabeth
著者(カナ) ティズリー・サラ,エリザベス
標題(和) 「木材工芸」の成立-近代日本の社会的ネットワークにおけるデザインの位置づけ
標題(洋)
報告番号 123112
報告番号 甲23112
学位授与日 2007.12.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第779号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 田中,純
 東京大学 教授 岩佐,鉄男
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 准教授 中島,隆博
 武蔵野美術大学 教授 柏木,博
内容要旨 要旨を表示する

本論は、20世紀初頭にデザインという概念の導入によつて、家具生産が日本において職人の権限のみ(身体的労働)か6研究領域(知識的労働)へと広がつた過程と、その過程の分析によって明瞭になる近代社会における権威の分布と潮流を明確にする試みである。「木材工芸」と称された、家具と室内装飾の設計と製作法を科学的に研究するという新領域は、指物、林業、建築、輸出工芸や明治時代に導入された洋風家具業などの要素を取入れて、高等工芸学校の木材工芸学科や卒業生の職業集団に具現化され、その形で産業界と学術界に既存していた関連分野と平行して成立した。

「木材工芸」という概念と実践の成立を可能にしたのは、ものづくりを研究対象として位置づけるというパラダイム・シフトであった。本論はそのパラダイム・シフトの道程・結果・効果を主題にしている。本論において、そのパラダイム・シフトをplotするためには東京の学術界、日本国内の実業教育界と地域産業、明治末期か6植民地化や市場開拓願望が強化された南満州や中国、世界各国をつなげた洋風家具設計と室内装飾の専門業、およびモダニズムという無国境的な「知的空間」という、複数の中心か6同心円のように拡大するネツトワークにおける木材工芸の位置づけを確認し、それぞれのサブ・ネットワークが一緒に構成した「近代」という時間的・空間的【存在/場所/ネツトワーク】の実状の輪郭を描き出した。

まず、「木材工芸の構成要素」という第一章では、「木材工芸」が1910年代に学術領域ならびに専門職として認識されるために必要な条件が、それぞれ明治維新後に揃った過程を明らかにした。「木材工芸」は1920年前後に「洋風家具および室内装飾の設計と製作を中心にした研究領域」として特定した実践的分野や専門知識として成立したが、その意味が定着するためには、「木材工芸」という名称と、その名稼が実際に意味した内容(実践)と、その実践が実際に発達できる物理的ないし社会的な場所が必要であった。明治時代に「工芸」は重工業から美術工芸まで意味が揺籃したが、農商務省の林業研究用語として登場した「木材工芸」は「木材を使つたあらゆる製品あるいはその製造」として利用された。それに関連して、1890年代以降、海外輸出工芸品の品質を向上させ、地域産業の発展を促進させるために設置された各地の工業学校の木工科では、建築技術から象嵌まで、木材を使ったあらゆるものづくりと空間づくりの職業に必要とされる技法や知識が伝授された。

木材工芸のもう一つの構成要素だった室内装飾は、西洋建築の内部空間を完成させる職業として導入され、1900年代に東京と京都の高等実業教育機関の図案科の科目として普及した。それぞれの教育レベルにおいて、文部省は「もの」あるいは「空間のアイディア」を図案(空間の場合は製図)として書き留める意匠制度および意匠と制作の分業の導入を重視し、学校教育を通して生産者側に向けた図案(製図)りテラシーの普及にカを入れた。そして、以上の政府および地方自体の政策に対して、良営の洋風家具業者は1850年代以降、洋風家具の需要に対応するように登場し、従来の指物大工の工房と各地域に新しく開業した国内輸出用和風家具工場と共存した。

このように、用語、内容、場所という、1920年代の木材工芸を構成する諸要素がそれぞれ登場したが、木工と装飾、あるいは理論と実践を統一させる動機はまだ存在していなかった。第二章では、明治時代に成立した木材工芸の諸要素が明治末期に農商務省の海外輸出復興政策の結果として結合され、近代的情報流通回路を利用して日本全国に伝達された過程を、展覧会、産業調査、学校教育および学会という四つの回路の具体例の検討を通して解明した。日清戦争後に日本の貿易政策およびそれに親密に関係した木工産業を含む国内木材資源利用の両方を管理した農商務省は、海外輸出の利益を向上させるために国内の木工産業へと視線を向けた。工業学校の木工科は人材の養成を通して木工産業を内側か6改造し、そして、工業教員養成所の木工科は実業学校制度が機能するための人材(教員)を提供した。国内の木工産業の調査報告や全国の木工業者の出品を展示した展覧会や品評会は農商務省にとって、国内産業の実状を把握する機会であったと同時に、調査結果や出品物の発表を通して、木工業者に導入すべき(と農商務省が判断した)製品や技術や組織形態を伝達した。さらに、1918年に創立し、1923年に木材工芸学会と改称された樫葉会のような学会は、近代教育を受けた家具や室内装飾の専門家が交流を通して専門家である自己意識を補強し、その意識に基づいた知識を修得する場として機能した。しかし、木材工芸学会や実業学校の木材工芸科が設立された後も、「木材を使ったあらゆる製品の生産」という「木材工芸」の意味は消えなかったため、木材工芸の関与者は同領域の存在を永続的に言及しなければならなかった。このように、「成立」という行為は、結果あるいは効果ではなく、むしろ過程であることを木材工芸を例に明6かにした。

独立した分野として成立する(認識される)ことは関連分野との分化の過程でもある。第三章では木材工芸と建築の関係を実例にこの間題を取り上げた。具体例として、建築技術教育者として養成され、その後家具加工法の研究に携わったにもかかわらず生活空間計画の活動を続けた木檜恕一(1882年一1943年)の「空間形成活動」を取り扱つた。木檜の履歴の検討を通して、1910-20年代の学術=産業界のヒエラルキーにおける木材工芸の位置づけを理解し、木材工芸と建築の複雑な関係を明らかにした。また、ヒエラルキーというシステムが維持するためには逸脱が必要だということを木檜の活動領域の分析を通して議論した。学術分野および専門職としての木材工芸は、木工科や家具商の領域だつた洋風家具の設計・製作と、図案科の領域や洋風建築の関連事業だつた室内装飾が結合して生まれたのであった。しかし、生活空間を形成する領域として、木材工芸は学術界においては建築と、また産業界においては大工から大手工務店までの建設業と密接な関係を持った。さらに、工業教育の分類体系は近世の大工制度を継承し、材料が共通する家具と建築技術の両方を木工科のなかに位置づけた。

1910年代に家具と室内装飾の知識的労働化が進むと、高等工業学校を卒業した木材工芸の関与者が家具や室内装飾の専門家として、東京帝国大学の建築学科の卒業生と同じ場に出る機会が増えた。建築技術教育から家具へ方向を変えた後も、空間形成に対する関心を持ち続けた工業教員養成所出身の木檜恕一は、近代国家のインフラを構築するために導入された「建築」に公的に関わることはできなかつたが、大工徒弟の建築製図教育や女性向けの住宅教育活動といった分野で、空間形成に関与することができた。また、1910年代に学校の木工科から建築技術が独立し、木材工芸が家具、室内装飾、および小工芸品を対象にした分野として再構成されたことは、建築のヒエラルキーから木材工芸家を解放し、別の専門領域の専門家として位置づけられたことをと論じた。

第四章は対象を帝都の高等教育界から植民地を含めた近代日本国内の地政学的な権威関係に焦点を移した。とりわけ、木檜が1908-09年に徳島、そして1915-16年に満州に派遣された際に体験した「中心と周縁」の権威関係の分析を通して、「中心と周縁」構図というもう一つのヒエラルキーの流動性と矛盾を明らかにした。まず、東京の文部省直轄の教育機関から教員として徳島の県立工業学校に派遣された木檜が滞在中に地方の家具職人に家具加工法を教授してもらい、また大阪を中心にした関西地方の経済的権威関係に「中心の代表」として巻き込まれるという体験を検討した。その結果、帝都から地方へ、そして官立から公立あるいは私立へという「中央発信一地方受信」というモデルの欠点が解明された。また、第一次世界大戦中に中国市場向けの和洋家具工場の新設に際して農商務省より満州に派遣された木檜の体験は、家具という日常生活の基本的備品が植民地主義に基づいた近代日本の経済的ないし政治的戦略の一部であったことを示した。以上のように、第四章は、地方の教育機関や地方産業の他に、木材工芸の植民地との関係を考察し、近代日本ーあるいは近代そのものーにおけるデサインの位置づけを全体像として理解するためには、「周縁的」と思われがちな地方や植民地を視野に入れなければならないことを論じた。

最後に、第五章は視野をさらに「世界」という曖昧な場所あるいは概念まで拡大し、1920年代の木材工芸学会の創立者の一人であった森谷延雄(1893年一1927年)の活動および作品の分析を通して、日本の木材工芸の「世界観」を明6かにした。教育と研究を通して、近代的な家具産業の発達を促進させる役割を果たすことを最初に期待された木材工芸関係者は、1920年前後に生活改善運動が登場し、また「中流家庭」が消費者として「発見」(形成)されると、海外輸出品から国内向け住宅家具へと関心の対象を移した。展覧会、学校教育や出版活動を通して国内市場の開拓し、大量生産の導入や製品の標準化を中心に洋風家具産業の発展と生活改善を目的とした木材工芸関係者は、椅子式生活空間の普及に取り組んだ。その媒体として彼らが着目したのは、当時イギリスやアメリカに流行した量産家具工場の歴史様式家具と家具産業組織であった。そこで、デザイナーは、「普遍的な」中流家庭向けの家具に、世界各国の風土に基づいた趣向としてローカルでありながら「普遍的」な「日本趣味」を演出しようとした。しかし、日本の近代的な中流家庭に適切とされた家具の様式には、「日本趣味」だけでなく、世界的に流行していた様式であり、かつ日本の植民地政策の実践を反映した「支那趣味」が混在した。これは、さまざまな世界のなかで永続的に成立していた木材工芸のなかの世界観であった。森谷延雄の家具や室内装飾のハイブリツドな様式の分析を通して、1920年代の日本の世界における自己意識や位置づけを確認し、デザイン史が世界の政治的状況の理解に貢献できることを実証し、よってデザイン史研究者は装飾様式デザイナーの活動に内在している政治的な問題に直面する責任があることを論じた。

以上のように、本論の各章において、木工と室内装飾、建築と木材工芸(あるいは住宅)、徒弟制度と近代教育、大工と教育者、東京と地方、専門家(男性)と素人(女性)、教育界と産業界、従来の伝統工芸と近代の地域産業、植民地と内地、中国と日本・日本とヨーロッパ、および普遍なものとローカルなものの関係における様々な権威の潮流と分配を検討した。結果として、どの権威関係についても、あるいは換言すればどの社会的ネットワークにおいても、それぞれの関係者の位置づけは不安定なもので、ネットワークの構造自体が流動的なものであることが確認された。

審査要旨 要旨を表示する

ティズリー・サラ・エリザベス氏の博士論文「「木材工芸」の成立――近代日本の社会的ネットワークにおけるデザインの位置づけ」は、20世紀初頭の日本において、家具と室内装飾の設計・製作を意味する「木材工芸」というジャンルが成立する過程を、林業をはじめとする産業界との関係や教育・学術制度、植民地との経済ネットワークなどの側面から解明した論考である。

この論文は、主題設定や問題意識に始まり、基礎概念や単語の定義を含む序論に続けて、第一部「木材工芸の制度化」、第二部「木材工芸の位置づけにみえる近代の社会的ネットワークの権力関係」という二部五章にわたる議論を経て、結論が提示されるという構成を有している。第一部では、木材工芸が学術的な研究領域および専門職の対象として自律する過程がマクロな制度史の観点から論述され、第二部では、木材工芸の中心人物であった木檜恕一と森谷延雄の活動に焦点が当てられることにより、このジャンルの成立に作用した社会的ネットワークの様態が微視的に分析されてゆくことになる。

周到に主題と方法を規定した序論によれば、本論文の出発点は、「デザイン」としてあらかじめ認知された対象しか取り上げることのない従来のデザイン史に対する方法論的批判にあり、それゆえ本論文では、「木材工芸」を具体例に、近代的な「デザイン」を学術的研究および専門的製作活動の対象として構成した社会的諸要素・力とは何であったのかを、その起源に遡行して明らかにすることこそが目的とされている。したがってそれは、木材工芸のみにはとどまらない、デザイン史研究のあらたな方法論を提示しようとする、広範な射程をもった意欲的な試みでもある。

第一部第一章「木材工芸の構成要素」では、「木材工芸」を成立させる要因として、「木材工芸」という名称とその内容をなすべき実践、および社会的な場所という三側面からの分析が展開される。名称としての「木材工芸」は、林学の用語として登場したのち、「木材を使ったあらゆる製品およびその製造」という広い意味で用いられた。また、木材を用いた製品の技法が伝授される社会的な場となったのは工業学校の木工科であった。一方、やがて木材工芸の実践活動の内実をなすことになる室内装飾は、西洋建築のインテリアに関わるものとして導入され、高等実業教育機関に設置された「図案科」がその普及を担った。この図案科は、ものや空間の創造過程に「図案」に基づく意匠の制度を導き入れ、図案リテラシーを広めようとする、政府の教育政策と結びついていた。他方、産業界では、民営の洋風家具産業、指物大工の工房、輸出用和風家具工場といった生産現場が併存する状況が生まれていた。

このように、木工と装飾、実践と理論がいまだ分離していた1910年代までの状況に対し、これら諸要素が明治末期に結合し、「木材工芸」が自律したジャンルとして成立する過程を分析したのが、第二章「研究領域としての木材工芸の整理統合と流通」である。その過程で必要とされた情報の媒体として、ティズリー氏は、農商務省による国内木工産業の調査報告、その産物の展覧会、工芸学校の木工科をはじめとする教育組織、そして、1923年に「木材工芸学会」と改称されることになる樫葉会のような学会という四つの社会的回路を発見し、詳述している。

以上のような第一部の議論については、「木材工芸」や「工芸」といった名称・概念の起源に遡行したうえで、その意味の変遷を言説分析によって実証的に解明すべく、林業史から農商務省の各種報告書、さまざまな学校のカリキュラムや教科書、あるいは学会誌などといった、膨大な専門的一次資料に丹念にあたった調査がなされている点が、審査委員からきわめて高く評価された。とくに林業との関係の分析は従来の研究にはない視点であり、木材工芸を対象としたことにより、明治の殖産興業政策との関連が非常に鮮明に浮かび上がる成果が得られたと言える。現在の視点をアナクロニスム的に過去に投影して、近代的な「デザイン」を20世紀初頭の「木材工芸」のなかに発見するのではなく、社会的ネットワーク内部から徐々に「木材工芸」というあらたな実践領域とその名が生成してくる過程を、この第一部が各種制度の歴史的分析を通して明らかにしている点は、デザイン史に対する方法論的な貢献と言ってよい。

このように比較的マクロな制度論から「木材工芸」の成立過程を検証した第一部に対し、第二部第三章「木材工芸と「学術=産業界」の階級構造」は、木材工芸の学術的研究に従事した中心的人物である木檜恕一の活動に注目し、建築と木材工芸の関係を軸として、より細部に焦点を絞った分析が展開されてゆく。その過程で明らかにされるのが、学術界および産業界の一種の階級構造のなかで、建築に対して下位に置かれた木材工芸(木材工芸学者)の、戦略的な自己規定である。ティズリー氏は、家具製作法や建築製図法をめぐる木檜の著作を分析することにより、専門的な研究領域としての木材工芸が、家具をはじめとする室内装飾全般を職掌としてゆくばかりではなく、大工徒弟の図案リテラシー向上や女性に向けた住宅設計の啓蒙・教育活動を通して、建築に準じた空間形成活動に進出してゆこうとしていた点を突き止めている。この章における議論に対しては、「階級」といった概念がやや曖昧なままに使われている点への批判のほか、当時の家政学との関係をめぐる論述が弱いとの指摘が審査委員からなされた。しかし、確かに論述が「学術=産業界」の構造と呼ばれる安定したシステムの記述に収斂しすぎるきらいはあるものの、木檜という個人を通して、木材工芸が自律化するために要した多面的戦略をあぶり出すティズリー氏の分析は鋭く、単なる進歩史観にはとどまらない、豊穣な議論が展開されていることは審査委員一同が認めるところであった。

第四章「近代日本の「中心/周縁」構造」では、同じく木檜恕一が徳島および満州へ派遣された経験の検討を通じて、東京と地方、内地と植民地といった「中心/周縁」の関係における、木材工芸の展開が論じられている。そこでティズリー氏は、木檜の徳島体験が、単なる中央から地方への情報発信にとどまるものではなく、地方の伝統的生産技術との出会いの契機であったこと、また、木材資源の利用と結びついた植民地政策の一環であった満州への派遣は、木材工芸をあらたに国際的な経済的ネットワークのなかに位置づける機会であったことを主張している。ここにおいてもまた、国内および植民地の各種地場産業や固有の資源と深く結びつきながら発展してきた、木材工芸というジャンルの性格が鮮明に描きだされていると言える。審査委員からは、第一部で農商務省の国内木工産業の調査報告を駆使して展開されたような議論を、海外についての調査報告を用いておこなえば、アジア各地域への視点がより広がったのではないか、という指摘があった。これは明治末期の貿易戦略と昭和初期のそれとを対比する展望を開くことにもなり、同じく審査委員から出された、国の殖産興業政策の時代的変化が明瞭に論述に反映されていない、という批判にも応えるひとつの方法であろう。

第三章、第四章に共通する問題点として指摘されたのは、満州体験を顕著な例として、木檜という人物は一貫して中央を代表する官僚として振る舞っており、彼を通して分析するかぎり、「中心/周縁」のダイナミックな運動やそれによるネットワークの不安定な揺らぎは十分見えてこないのではないか、という点であった。「中心/周縁」モデルの限界をめぐっては、例えば、ジル・ドゥルーズらが提示する「中継点」のモデルなどにより、中心化の構図に逆らう要素をとらえる枠組みが作りうるのではないか、といった助言が審査委員からなされた。しかしながら、これらの章におけるティズリー氏の論述は、第一部における制度論ときわめて整合した議論を展開しており、それによって相互に補い合う巨視的・微視的な分析を明確に提示している点は高く評価しうるものと判断される。

ティズリー氏は、続く第五章で森谷延雄の活動を取り上げることにより、木材工芸が孕んでいた異なる可能性への展望を示している。「世界の中の木材工芸」と題された第五章では、1920年代初頭に欧米に派遣された森谷の海外体験がたどられ、イギリス家具との出会いを通して得た、「国民の趣味」を反映した家具という理念や、それを体現したとも言える、ハイブリッドな感覚の洋風モデルルーム「小さき室内美術」という作品が論じられている。ティズリー氏はそこに、ローカルでありながら普遍的な「日本趣味」を演出しようとする森谷独特の「世界像」を見いだしている。この第五章は、第四章までの議論とはやや異質であり、その点では構成的に問題があるとの指摘もあったが、しかし、制度論や「中心/周縁」の図式、あるいは社会的ネットワークに還元されない木材工芸の産物それ自体がここで分析対象とされたこと、そして、木檜とは異なる、一種の世界戦略をもった森谷という存在が扱われたことによって、論述に大きな幅がもたらされた点は、審査委員一同が認めるところであった。この第五章の論述については、四章までの議論を補完するものとして、さらなる補足と展開が強く期待される。

第五章で森谷の活動の背景として、日本の中産階級向けの洋風家具の生産が論点とされたことをめぐっては、審査委員から、萩原朔太郎の詩における「寝台」という家具の形象を取り上げ、消費者の側における欲望の形態を、例えば文学作品を通して分析する可能性が示唆された。同様に、雑誌メディアもそのような検討の対象になろうという意見もあった。また、ティズリー氏との質疑によれば、実際には交流はなかったようではあるが、同時代の民芸運動との思想的つながりや、高村光太郎のような芸術家が抱えた葛藤との対比を通じて、単にシステムの揺らぎとして記述されるのではない、木材工芸の側からのシステムの批判や抵抗を、心理的な次元にまで踏み込んで追究することも、審査委員から提案された。

以上のような審査委員の指摘は、本論文が提示したきわめて刺激的な歴史像に喚起されてこそ、なされたものと言える。本論文の論述は、豊富な資料的裏付けを背景として、きわめて明快で力強い日本語の文体によって展開されており、誤字・脱字に始まる形式的な不備が存在するにもかかわらず、その論理の明晰さゆえに、読み進めることに困難はなく、むしろ、従来のデザイン史に対する方法論的な反省を踏まえ、近代的デザインの一分野としての「木材工芸」の成立を、社会的ネットワークの多面的な変化の分析によって鮮やかに描きだした力作という印象を強く残すものとなっている。そして、本論文が、デザイン史のみならず、近代日本社会・文化の歴史研究に大きく寄与しうる、優れた学術的業績である点については、審査委員全員の間で意見の一致を見た。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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