学位論文要旨



No 123113
著者(漢字) 吉村,貴之
著者(英字)
著者(カナ) ヨシムラ,タカユキ
標題(和) 現代アルメニア民族の成立―第一共和国期とソヴィエトアルメニア1920年代を中心に
標題(洋)
報告番号 123113
報告番号 甲23113
学位授与日 2007.12.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第780号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 石田,勇治
 東京大学人文社会系研究科 教授 小松,久男
内容要旨 要旨を表示する

オスマン帝国とロシア帝国それぞれの臣民として生きてきたアルメニア人の社会が、第一次大戦からソヴィエト・アルメニア成立期にかけてその社会が再編する中で新たなアルメニア民族のアイデンティティを獲得していく過程を描いた。特に、アルメニア人知識人の描く「アルメニアの領域」や「アルメニア人」という概念が指し示す範囲の伸縮、さらにはそれを表明する際の論理やレトリックを通して、民族運動のさまざまな主体間の関係を検討した。

ここで確認したいのは、第一次大戦前後にアルメニアの領域が画定し、アルメニア文化の中心地としてそれまでのイスタンブルやトビリシに変わってエレヴァンが出現したこと自体は、当時の国際関係、軍事バランス、クレムリンの政策決定など外的な要因によって半ば偶発的に発生したものではあるが、それが「アルメニア人の故郷」として実体化するには様々な思惑を持ったアルメニア人政治活動家達の「働きかけ」があったと考えられる。

そもそも、オスマン帝国のアルメニア人エリートはロシアの同胞に対する関心が低く、帝国内での政治改革においてもムスリムとの権利上の平等を活動目標に掲げたのとは対照的に、ロシアのアルメニア人知識人はオスマン側との同胞の統合に熱心で、その際の論理としてはムスリムによる抑圧の歴史や古代アルメニア王国に由来する歴史的領土の問題を持ち出す傾向にあった。もっとも、19世紀末にロシアで成立したアルメニア民族政党ダシュナク党も、オスマン帝国の一九〇八年革命で「統一と進歩」委員会との連携が確立すると、オスマン領アルメニアの併合を強行することは表立っては不可能となった。

ところが、1913年に独裁体制を確立した「統一と進歩」政権が第一次大戦中オスマン帝国下のアルメニア人をロシアの潜在的スパイとして虐殺ないし追放したために、アルメニア人社会は解体した。そのため、20世紀初頭に結成された民主自由党などアルメニア人エリート層は、アルメニアの独立を模索するようになる。その一方で、ダシュナク党などロシア領内のアルメニア民族主義者は、1917年のボリシェヴィキ革命でロシア帝国が解体した後もロシアとの連邦制に執着したが、1918年5月にドイツ軍の進駐を受け入れたグルジアやオスマン軍と連携したアゼルバイジャンが独立したために、アルメニアの独立を模索する外なかった。

ダシュナク党主導のアルメニア第一共和国は、1919年初頭のパリ講和会議において連合国への国家承認や領土要求などをめぐってオスマン帝国のアルメニア人エリートに主導権を奪われ、さらには新たなアルメニアの国家と在外社会とのあり方も当事者間の議論でも一致を見なかった。加えて、ロシア・ソヴィエト政権とトルコ大国民議会という新たな政治勢力の「接近」によって1920年秋には第一共和国は両勢力に挟撃される事態になった。第一次大戦にはオスマン軍と戦い、なおかつ虐殺の記憶が生々しいアルメニア人難民を抱えるダシュナク党政府にとっては赤軍を受け入れるしか選択の余地はなかった。結局、アルメニア第一共和国は、国内外のアルメニア人社会に存在する同朋意識を政治的ナショナリズムに集約出来ないまま消滅した。

第一共和国の領域を引き継いで1920年末に成立したソヴィエト・アルメニアの共産党政権は、この領域を「アルメニア人の故郷」と全世界のアルメニア人に認識させる政策を行った。しかし、アルメニア救援委員会を通して行われた「祖国救援」ならびに「祖国帰還」の運動は、本来ソヴィエト側は経済復興資金の獲得を目的としていたうえ、これに積極的に関与した民主自由党側も在外コミュニティ内でのダシュナク党との主導権争いを有利に進めるためにソヴィエト政権に「接近」した結果生じたものである。結局のところ、この運動によって高まったソヴィエト・アルメニアを「アルメニア人の故郷」とするアルメニア・ナショナリズムは、ソヴィエト政権、在外政党双方ともに予期せぬ副産物であった。しかし、1920年代以降のアルメニア人在外社会ではこの地域を民族の故郷と認識し、援助や移住を行う運動が少なくとも2度起こっている。いわば「合目的性のないナショナリズム」の定着である。

一方、アルメニア共産党にとって、アルメニアの領域確定の問題は難問であった。これが単に実効支配できる土地の問題だけではなく、アルメニア人としてのアイデンティティの形成と関わっているからである。党内にはトルコ側にいまだアルメニア系住民が残っているカルス地方を併合しようとする意見もあったが、露土関係への配慮から断念せざるを得なくなった。方や、ソヴィエト領内においていまだトビリシやバクーに残っているアルメニア系住民を取り込むためにもザカフカース(南コーカサス)地方の連邦化をソヴィエト・アルメニア執行部は希求したものの、グルジアの反対でザカフカース社会主義連邦は形骸化した。

こうした状況下でコレニザーツィア政策を行う際にダシュナク党の残党の取り込みが必要となった。ダシュナク党の反共主義者が大挙して去った後の1923年秋にはソヴィエト領内のダシュナク党を「自主解散」させることでこの政策は比較的円滑に行われたが、やがて民族エリートが育ってくると、こうした旧民族政党系のメンバーは、殊に26年以降は徐々に政治の表舞台から姿を消していくことになる。

なお、戦間期はアルメニア人虐殺について公の場で語ることは許されない一方、ナゴルノ・カラバフ地方の帰属問題はもとより重大事案には発展しなかった。しかし、第二次大戦後この2つの要素はアルメニア人のアイデンティティを語る上で重要な要素となっていった。それが、冷戦によってソ土関係が緊張や虐殺の記憶を持った在外同胞の「帰還」が再び興隆した状況下で行われた1965年のアルメニア人虐殺50周年記念集会であり、それを契機として浮上し現在まで続くカラバフ問題である。

こうした民族アイデンティティの特徴を検討する場合、上からの政策的影響だけでなく、下からの当事者の「働きかけ」による自己規定も考慮する必要があろう。とかく社会主義と民族主義は対極的に捉えられがちだが、社会主義にもイデオロギーと現存した体制との間に振幅があるように、民族主義にもイデオロギーと現存した体制との間に振幅があり、ソヴィエト体制下の民族にはこうした要素が折り重なっていて、当事者の思考としては両者の区別が明確でない場合も多い。アルメニアの事例はまさにそうした関係を示している。

ところで、しばしばユダヤ社会とともにアルメニア社会を形容する用語である「ディアスポラ」は、以上の問題とどのように関わっているのだろうか。ブルーベーカーのディアスポラの定義に基づくと、アルメニア人が空間的に離散している点はこれに当てはまるが、民族離散に結びつくトラウマ的事件となるアルメニア人虐殺については、現代アルメニア民族のアイデンティティが形成される際にはソ連邦内ではタブー視されたのに対し、国外のコミュニティでこの記憶が保存され、第二次大戦後の政治的経緯によって初めて「本国」でもこの記憶が蘇るなど、アイデンティティの核とされる要素においてさえ地域差がある。

また、「アルメニア人の故郷」に関しては上述したように、政治状況に従って絶えず揺れ動き、それに合わせて「故郷」とのつながりの濃淡が変化している。煎じ詰めれば、ナショナリズムもディアスポラも実質的なものというよりは政治状況に適応しようとする少数民族の意識の発露の形式であって、これを「国境を越えた少数民族のナショナリズム」と置き換えても大差はないと言える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、オスマン帝国とロシア帝国それぞれの臣民として生きてきたアルメニア人の社会が、第一次世界大戦からソヴィエト・アルメニア成立期にかけてその社会が再編される中で新たなアルメニア民族のアイデンティティを獲得していく過程を描いたものである。特に、アルメニア知識人の描く「アルメニアの領域」や「アルメニア人」という概念が指し示す範囲の伸縮、さらにはそれを表明する際の論理やレトリックを通して、民族運動のさまざまな主体間の関係を検討したものである。

本論文の構成は次の通りである。序章、第一章:19世紀から第一次大戦まで、第二章:第一共和国とオスマン帝国のアルメニア人エリート、第三章:アルメニア民族政党とソブィエト・アルメニア、第四章:ザカフカース社会主義連邦ソヴィエト共和国とアルメニア共産党、終章:結論、で巻末に参考文献リストと地図が付されている。

まず序章では、問題設定と分析視角が簡潔に述べられている。ここでは特に「ディアスポラ」の重要性を指摘している点がユニークである。第一章では、19世紀ロシア、オスマン両帝国の臣民として生きてきたアルメニア人社会における近代民族主義運動の発生とアルメニア人社会を解体させた2つの要因、つまりアルメニア人虐殺とロシア革命について考察している。アルメニア人虐殺については、アルメニア側の研究、見解だけでなく、トルコ側の見解も紹介しており、いまだに評価の分かれているこの問題をできるだけ客観的に見ようとする努力が示されている。また、本章ではアルメニア人思想家ミカエル・ナルバンディアンのインド「ディアスポラ」への極めて興味深い旅が紹介されている。第二章では、ロシア帝国下のアルメニア人社会がロシア革命後の混乱の中でどのような経緯を経て独立したのかについて論述した上で、アルメニア第一共和国がどのような過程を経て、パリ講和会議で連合国を前にして新たな領土構想を披露したかについて考察している。ここでは、オスマン・アルメニア人エリートと東アルメニアの指導者との見解の相違がわかりやすく描かれている。第三章では、第一共和国に引き続いて成立したソヴィエト・アルメニア初期におけるソヴィエト政権とアルメニア民族主義政党との関係について述べている。アルメニア民族主義政党に関しては、ダシュナク党だけではなく、これまでほとんど注目されてこなかった民主自由党を考察の対象としている点が新しいところである。共産党、ダシュナク党、民主自由党の3者の思惑、連携の交差の上に、ソヴィエト・アルメニアが次第に「アルメニア人の故郷」となっていくプロセスが活写されている。第四章では、ソヴィエト政権のもとでの領域確定問題、ソヴィエト政権の民族政策が叙述され、最後にダシュナク党の「自主解散」について書いている。ここで、注目すべきことは、すでに1920年代初頭にナゴルノ・カラバフの帰属をめぐって共産党内で激しい議論が行われていたことを明らかにした点である。アルメニア人虐殺とカラバフ問題が、アルメニア人アイデンティティを語る上で重要な要素となっていくことを明らかにしている。終章では、1930年代以後のアルメニア民族の形成過程を叙述している。特に、ナゴルノ・カラバフ問題の歴史的経緯について詳細に叙述した上で、この問題がアルメニア人のアイデンティティ形成に大きく関わったことを明らかにしている。

本論文の意義を挙げるとすれば、第一に、わが国においてアルメニア語文献を本格的に利用した始めての学術的業績であることである。この業績によってわが国におけるアルメニア研究は新しい段階に入ったと言っても過言ではない。先駆的業績と言えるだろう。内容的にも、オスマン帝国下の西アルメニアとロシア帝国下の東アルメニアの相違について明らかにした点、アルメニア民族主義の思想的系譜を巧みに描き出した点、アルメニア人虐殺に関して、アルメニア側に偏ることなく客観的な記述を試みている点などが高く評価できる。もちろん審査委員から若干の不十分な点が指摘されたことも事実である。それは宗教と民族との関係に触れていない点、ダシュナク党の自主解散の部分が物足りない点、ごく一部だが、転写に問題がある点、などである。しかし、これらは多くが論文の欠陥の指摘というよりは、今後研究を深めていく際の課題として指摘されたもので、本論文の価値を低めるものではない。審査委員会の評価は、先駆的かつ優秀な論文という結論で全員が一致した。総じて本論文は、アルメニア研究の分野で、卓越した貢献をした業績と認められる。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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