学位論文要旨



No 123114
著者(漢字) 小野寺,史郎
著者(英字)
著者(カナ) オノデラ,シロウ
標題(和) 国旗・国歌・国慶 : 近代中国におけるナショナリズムと政治シンボル
標題(洋)
報告番号 123114
報告番号 甲23114
学位授与日 2007.12.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第781号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 准教授 月脚,達彦
 東京大学 准教授 吉澤,誠一郎
 信州大学 教授 久保,亨
内容要旨 要旨を表示する

本論文のテーマは、清末から辛亥革命による中華民国の成立を経て南京国民政府に至る時期を対象とし、各時期の政権が民衆に対しどのように宣伝と動員を行い、国民としての統合と統治の正当化に利用しようとしたのか、その政策過程を政治シンボルという視点から検討することである。

エリック・ホブズボームはヨーロッパのナショナリズムの分析から、「ネイションとは国家形成の基礎となるよりも、むしろ国家設立の結果作り出されることの方が多い」ことを指摘したが、西洋との接触によって急速な近代国家建設を余儀なくされた地域においては、この傾向はより顕著であったと考えられる。清末以来の中国においても、ナショナリズムは一貫して政府・政党あるいは知識人が上からの喚起を試みるものであり続けた。そのため、抽象的なネイションと国家を可視化することで認識を容易とするナショナル・シンボル、人々を一定の秩序に従がって行動させることを通じて標準化・均質化し、またそれによってネイションと国家への忠誠心を涵養するナショナル・セレモニーは、ナショナリズム喚起の手段として、その実際の成果はさておき、近代中国を通じて、政府や政党、知識人にとって一貫して重視されるものであり続けた。これらのシンボルや儀式の近代中国における具体的なあり方を明らかにするのが本論文の目的である。

本論文は以上のような問題意識に基づき、第一段階として、清末から民国前期にかけての政治シンボルと儀式の実態について検討し、それを踏まえて第二段階として、民国前期との比較において南京国民政府における政治シンボルと儀式をめぐる政策の特徴の解明を試みる。

まず第1章「中国最初の国旗――清朝・黄龍旗について――」は、清朝の「国家」としての最初の政治シンボルである「黄龍旗」制定の問題を取り上げる。この黄龍旗は当初は官船の識別という限られた目的で採用されたが、その後清朝が西洋との接触を拡大させ、近代国家への移行を試みる中で、開明派官僚・条約港知識人や新軍・新式学堂・報館などを中心に、「国家」としての清朝を象徴する「国旗」と位置づけられ、外交儀礼や教育など様々な場面で使用されるようになっていく。本章はその具体的な過程と、その当時の清朝の国際認識の変容や萌芽的なナショナリズムとの関係を明らかにした。

第2章「清末民初の国旗をめぐる構想と抗争――青天白日旗と五色旗について――」は、清末の革命派内部における国旗論争と、民国初年の国旗制定過程に焦点をあてる。孫文は、清朝に対する最初の蜂起に自らが用いた「青天白日旗」を新国家の国旗に推したが革命派内で支持を得られず、辛亥革命後の中華民国は「五色旗」を国旗として採用した。本章はこの一連の政治過程を詳細に検討することで、従来看過されてきた国旗の選択と体制構想との関係を明らかにした。つまり、この五色旗が採用されたのは、当時革命派のみならず改革派にまで共有された、清朝の全領土を継承した多民族国民国家という新国家の構想に、この旗と結びついた「五族共和」というスローガンが適合的だったからであった。

第3章「民国初年の革命記念日――国慶日の成立をめぐって――」は、民国成立一周年を記念するために制定された中国最初の近代的な記念日「国慶日」の成立過程を論じる。国慶日は清末に既に成立していた「烈士追悼」儀i式の様式を継承したものでもあったが、本章は、この儀式がフランス革命記念日・アメリカ独立記念日をモデルとしていわば再構築され、国家の成立を記念する「祝典」へとその性格を変えていく過程を新たに掘り起こし、詳細に描き出す。

第4章「民国前期の国旗論」は、第2章を受けて、中華民国の国旗となった五色旗を当時の人々がどのように認識していたのか、という問題を検討した。民国前期においては国旗が争点となった政治的事件がいくつか存在した。1916年の袁世凱の洪憲帝制の際には、「五族共和」を象徴する五色旗は帝国には不適当として国旗の改変が主張された。また、1917年の張動による復辟事件に際しては、清朝の「正朔」と黄龍旗の使用が命じられた。復辟派がこれを受けて黄龍旗を掲げたのに対し、反対派は五色旗を掲げ抵抗の意を示した。さらに上海では商界が中心となって五色旗を掲げて「共和国」への支持を明確にするよう訴える運動が起きた。1919年の五四運動の際には五色旗はデモ行進や集会の中で広く用いられた。これ以後この旗は観衆の情緒へと訴えかける神聖な国家の象徴として、動員と国民意識の喚起における最も中心的なシンボルの一つとして、民国前期を通じて使用され続けることになる。

以上の第一段階を踏まえ、第二段階では、北伐後の南京国民政府の政治シンボルをめぐる政策を解明する。

第5章「国民革命と二つの国旗」は、民国前期においてナショナリズムの担い手を自認しながらも、ナショナル・シンボルとしての五色旗を否定していた孫文グループを対象とする。彼らは民国前期における国旗問題をどのように認識していたのか。そして、その状況が、孫文死後に中国国民党が一応の中国統一を成し遂げるに至る国民革命によってどのように変化したのか。この問題を取り上げる。

第6章「南京国民政府におけるナショナル・シンボルの再編一青天白日満地紅旗をめぐって一」では、孫文の遺志を継ぐ国民党・国民政府が北伐後に五色旗に換えて正式に中華民国国旗に採用した「青天白日満地紅旗」の問題を論じる。国民党・国民政府はこの青天白日満地紅旗を愛国心の新たな拠り所とすべく、その製造販売を許可制にして一元的な管理統制を図るとともに、各種の儀式におけるその使用方法を厳密に規定した。また、「青天白日」の意匠を三民主義イデオロギーと結合させ、パンフレットの配布や各地での講演などによってその民衆への浸透を図った。本章は、こうした政策が蒋介石の思想に基づくものであったとともに、1930年代という時代背景の下、ソ連やファシズムの影響をも色濃く受けたものであったことを明らかにした。

第7章「近代中国における国歌問題――「卿雲歌」と「三民主義」――」は、前述のように研究史的蓄積の薄い近代中国における国歌の問題を取り上げる。近代中国におけるシンボルとしての国歌の制定と使用の開始は国旗や革命記念日などに比して大幅に遅れることとなった。中華民国成立後、教育部が一般及び知識人から国歌案を大々的に募集、『尚書』所載の舜の作とされる「卿雲歌」を採用するという汪栄宝の案が挙がったものの、正式な決定はなされず、また袁世凱政権によって正式採用された「中国雄立宇宙間」も帝制の失敗によって広範に用いられることはなかった。1919年、教育部が改めて国歌研究会を組織、前述の「卿雲歌」に蕭友梅の曲を付し、正式に国歌として採用、教育の場などで一定の普及を見た。これに対し北伐後の国民党は1929年の第三次全国代表大会に先立ち、孫文の訓辞に公募の曲を付した「三民主義」を党歌に採用、各種の儀式における使用を図り、また翌1930年以降、「国歌の未だ製定されない以前は、党歌で代用する」と決定する。この後、正式国歌制定の試みが教育部などを中心に行われ続けたものの、結局適当な案を提出することができず、「三民主義は、わが党の尊ぶところである」「多くの志士よ、民衆の先鋒たれ」といった歌詞が国歌にふさわしくないという意見も根強かったものの、1936年、国民党中央宣伝部の提案により「三民主義」が正式に国歌として採用されることとなった。

第8章「南京国民政府の革命記念日政策」は、第3章との対比において、南京国民政府期の革命記念日政策の確立過程とその意味を詳細に検討する。国民党・国民政府の革命記念日政策は、北京政府と二つの点で異なっていた。一つは、ワシントン誕生日になぞらえて「総理誕辰記念日」が創設されたように、国民党の創設者孫文の個人的な経歴が国家記念日に採用されたこと。もう一つは、この政策が、近代化の一環として強硬に進められた陰暦の使用禁止政策と密接に関係していたことである。

以上の各章の内容を終章においてまとめ、本論文の結論とするとともに、清末から南京国民政府期にかけての近代中国における政治シンボルとナショナリズムをめぐる研究の総合を図り、また今後の展望について述べる。

審査要旨 要旨を表示する

小野寺史郎氏の学位請求論文「国旗・国歌・国慶──近代中国におけるナショナリズムと政治シンボル」は,中国が近代国家建設を目指した19世紀末から20世紀半ばの時期に,三つの異なる政治主体(清朝政府,民国北京政府,南京国民政府)が,国民統合の推進を目的として,どのように政治シンボルを創出し操作したのかを,国旗や国歌・国定記念日などの具体的事例に則して明らかにしようとしたものである。近来,中国近現代史の領域でも,シンボルや儀式の果たした政治的統合作用に注目する研究が,中国語や英語圏の学術界にあらわれつつあるが,本論文は,それらの先行研究を存分に消化しつつ,政府や国民党の档案などの原資料を用いて,シンボルや儀式の創出とその政策決定・施行の過程を丹念に解明している。

論文は,序章と本論八章,および終章からなり,巻末に資料・文献一覧を収める。注・図表・参考文献を含めた総ページ数はA4版199ページ,字数は約32万字(原稿用紙400字詰めに換算して約800枚)の分量になる。

まず,本論文の内容を紹介すると,序章では,ナショナル・シンボル研究の意義を述べた上で,先行する関連研究の整理がなされ,国民統合と民衆動員に果たした政治シンボルの作用に着目する著者の問題意識が提示される。この中で,著者は従来の研究の問題点として,多様なシンボルや儀式を「創造・伝播・受容」のプロセスの中に相互連関的に位置づける視点が弱かったことを指摘し,本論では一貫したナショナリズム研究のパースペクティブから,個々の事例や現象を捉え直すことを目指すとしている。

本論は全体として,19世後半から国民党の統治基盤が固まる1930年代までの政治シンボルとナショナリズムの関係を論じるが,清末期から北京政府期を扱う第1-4章と,南京国民政府期を扱う第5-8章に大別される。

王朝末期に登場する黄龍旗を分析した第1章で著者は,中国近代の最初の国旗と言うべき黄龍旗が,最初は官船識別という実用的目的から制定され,やがて西洋諸国との接触の中で,「大清帝国」を象徴する国旗と認知され,外交儀礼や学校教育の場で広く使用されるようになっていった経緯を明らかにする。

つづく第2章および第4章では,辛亥革命を主導した革命派内部の国旗論争と中華民国の国旗となる五色旗の成立過程が扱われる。ここで著者は,孫文グループの強い反対にもかかわらず,北京政府期(1912-1928年)には,五色旗が革命派も含めて,国旗として広く社会に受容されていたこと,またその背後に多民族統合を志向する民国初期のナショナリズムが存在したことを指摘している。豊富な資料とともに提示される著者の論は充分に説得的であり,孫文=国民党を中心に解釈されてきた北京政府期の民国史理解にも再考を迫る視点を提示している。

1912年の中華民国の成立とともに,有名な双十節(陽暦十月十日の建国記念日=国慶日)をはじめとする数多くの国定記念日がつくられ,施行された。第3章は,政府によるこうしたシンボル創出の努力が,アメリカ独立記念日やフランス革命記念日をモデルとする近代ナショナリズム特有の現象であり,しかもそれが旧暦(農暦)から新暦(西暦)への移行と重ねられて,国家の近代化政策の一環をなしたことを明快に描き出す。

後半の第5-6章は,北京政府期に周辺化されていた孫文グループの政治シンボル──とくに孫文が国旗として主張し続けた青天白日旗──が,1920年代の国民革命の進展につれて浮上し,やがて三民主義イデオロギーによる国民教化政策と結びついて,独占的な地位を獲得してゆくプロセスを具体的に分析する。1930年代になると,ソ連やファシズムなど外部からの影響のもと,国旗の尊重を通じて党=国家への忠誠を調達しようとする新たな政治文化が出現したことにも著者は論及している。

第7章は,国旗という視覚イメージを論じる他の章とは異なり,聴覚に訴える国歌を扱う。著者はここでも,国旗制定と同様,北京政府期と南京政府期で,それぞれ「卿雲歌」と「三民主義」という異なるシンボルが制定され普及してゆくプロセスを丹念にたどりつつ,その政治的背景や歌詞内容の分析を試みている。

最後の第8章は,第3章との対比において,南京国民政府の革命記念日(国慶日)の制定過程とその歴史的意味を考察する。著者は,北京政府期との違いとして,孫文というカリスマ的リーダーの経歴が国家記念日になったこと,また陰暦の使用禁止政策と結びつけて革命記念日の普及が図られたことの二点を,中国近代ナショナリズムの新しい質と関連させつつ指摘している。

終章では,以上の各章での考察をもとに,近代中国におけるナショナリズムの形成が国旗・国歌などシンボルの使用と表裏一体になって展開したことが確認され,1930年代以降の時期について,政治シンボルがどのように変化していったのかをめぐり簡単な展望が示される。

以上のような構成と内容をそなえる本論文に対して,審査委員は一致して,研究史の把握の的確さ,個々の実証水準の高さ,資料操作の手堅さ,全体の論旨のスムースな運びなどの長所を指摘し,高い評価を与えた。とりわけ,本論文の最大の貢献となすべきは,政治シンボルにから見たナショナリズム論として,中国近現代史の研究に新生面を切り開いたことである。本論文を通じて,北京政府と南京政府のナショナリズムの違いが浮き彫りになったし,時期により,また政治主体により,シンボルや政治儀式の創出・浸透のあり方には,大きな違いの存したことが明確になった。また孫文=国民党中心の歴史観も効果的に相対化されている。今後の新しい研究方向を示した労作と評することができるだろう。

もちろん,本論文に若干の欠点や不足がないわけではない。審査委員からは,政治シンボルが政治構造や経済過程に対して,どのような位置関係にあるのかが明瞭でないとの指摘がなされた。また,視覚に訴える国旗の表象分析に対して,国歌という聴覚に関わるシンボルをめぐって,本論では歌詞内容の分析が加えられているのみで,身体の全体感覚に訴えるシンボル機能の考察が不足しているとの批判もあった。さらに,シンボルや国家儀式の考案・制定に当たっては,日本や欧米との同時代的連関や比較が重要であるにもかかわらず,本論では充分な目配りがなされていないとの指摘もあった。最大の問題としては,著者も充分に自覚しているように,政治シンボルや革命記念日に対する社会の受容度や浸透度の問題が余り論じられていないことであろう。これは質疑応答の際にも議論になった点だが,定量的分析や資料的裏付けの難しい問題であり,ナショナリズム研究にとっての方法論的試金石にもなりうる課題である。

とはいえ,以上述べたような短所は,本論文の学術的な価値を損なうものではない。むしろ,本論文が書かれることによって,新たな問題が浮上し,別の視圏が切り開かれたという意味で,研究史上の寄与と見なすこともできるだろう。

以上,総括するに,本論文の達成が中国地域研究,中国近現代史研究に大きな貢献をもたらしたことは疑いない。

したがって,本審査委員会は一致して博士(学術)の学位を授与するのにふさわしい論文と認定する。

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