学位論文要旨



No 123122
著者(漢字) 神谷,英里子
著者(英字)
著者(カナ) カミヤ,エリコ
標題(和) フローサイトメトリーによる海洋微生物群集の計測に関する研究
標題(洋) Studies on flow cytometric determination of marine microbes
報告番号 123122
報告番号 甲23122
学位授与日 2008.01.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3230号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木暮,一啓
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 教授 西田,周平
 東京大学 准教授 浦川,秀敏
 東京大学 准教授 濱崎,恒二
内容要旨 要旨を表示する

海洋生態系において、従属栄養細菌は溶存態有機物を利用して菌体を生産するとともに有機物を無機化する。生産された菌体は、鞭毛虫や繊毛虫に捕食されることで微生物ループの起点となる。また、ウイルスによる溶菌を受けて海水中への有機物の供給源となることから、細菌群集が海洋の炭素循環で果たす役割は極めて大きい。こうした微生物過程を理解する上で、細菌群集の現存量は最も基本的な情報の一つである。

その定量法には、今日フローサイトメトリーが頻繁に利用されるようになってきている。フローサイトメトリーでは、あらかじめ細菌の核酸を蛍光染色剤で染色し、個々の粒子が放つ蛍光強度と大きさの指標を測定することにより、細菌群集を識別・計数することができる。これまでの海水中の細菌群集の計測例から、蛍光強度の異なる二つの亜集団(HDNA細菌・LDNA細菌)が存在することや、この亜集団が代謝活性や分類群の違いを反映した集団であることが指摘されてきた。また、フローサイトメトリーを用いた海水中のウイルスの計測例からも、蛍光強度の異なる二つの亜集団(ここではHighFLウイルス・LowFLウイルスとする)の存在が指摘されてきた。しかし、ウイルスの亜集団を構成する群集や性質などに関する知見は限られており、未だ統一された見解はない。海洋におけるこの細菌やウイルスの亜集団がどのような性質を反映し、生態学的にどのような意味を持つかを知るには、フローサイトメトリーを用いた計数法の標準化が前提であり、またその情報は海洋微生物の理解に新しい切り口を提供する。

本論文では、細菌とウイルスの亜集団の解析を、今後、海洋の微生物の解析に広く適用していくことを目標とし、亜集団の解析に影響する方法論的な要因について基礎的な検討をおこなった後、海洋におけるこれらの亜集団の性質や生態学的役割について明らかにすることを目的とした。

I. 海洋細菌の解析における固定と保存の影響

海水試料を採取後直ちに解析することは通常ほとんどなく、固定と保存が必須である。そこでこれらがフローサイトメトリーによる海洋細菌の解析に及ぼす影響について調べた。海水試料は、東京湾、相模湾、駿河湾、大槌湾などの沿岸と、黒潮流域や南太平洋などの外洋にて、鉛直的に、または表層から採水した。合計108海水の未固定試料と固定試料をフローサイトメトリーで分析し、核酸染色された細菌群集の蛍光シグナルや細菌数を比較した。その結果、試料の固定や冷蔵保存により、蛍光シグナルのヒストグラムに複数のピークが出現すること、固定後に液体窒素で冷凍保存した場合にもこれらのピークが同様に出現することがわかった。蛍光シグナルの変化や蛍光強度の低下から、また、試料海水の採水海域や季節によりピークの出現の有無が異なったことなどから、群集の一部に固定の影響を受けやすい細菌がいることが示唆された。細菌数は試料の固定では変化しなかったが、固定後3日間の冷蔵保存で急激に減少し、その後の冷蔵保存でも緩やかに減少した。この減少から初期値を推定する回帰式を求めた。本研究では、試料の固定や保存が海水中のHDNA細菌やLDNA細菌の検出に影響しうることを示した。

II. 異なる生長段階の海洋細菌を用いた固定の影響の解析

どのような要因が固定の影響をまねくかを明らかにするために、異なる生長段階の海洋細菌培養株を用いて、生理状態の異なる細菌における固定の影響を調べた。海洋細菌の培養株にはVibrio parahaemolyticus とVibrio alginolyticusを用いた。未固定試料と固定試料をフローサイトメトリーで分析し、核酸染色された細菌の蛍光シグナルや細菌数を比較した。その結果、対数増殖期から死滅期の細菌は固定により蛍光値と計数値が増加した一方で、飢餓状態におかれた細菌では固定により蛍光値が低下した。計数値はわずかに増加した。また、飢餓状態の細菌の一部は固定による蛍光値の低下により、LDNA細菌のフラクションに移行し検出された。これらから、海水中のHDNA細菌・LDNA細菌は、個々の生理状態を持つ細菌が固定や染色に対して異なる反応を示すことがわかった。

III. 海洋における細菌亜集団の代謝活性

細菌の亜集団は少なくとも異なる生理状態、異なる分類群、あるいはその他の未知の条件を反映して形成されると推定される。それらの要因全てを明らかにすることは難しく、ここでは代謝活性の寄与を調べることにした。南極海から赤道域の大規模南北トランゼクト(170°Wライン)の8測点の表層水と水深100mの海水について、ブロモデオキシウリジン(BrdU)の菌体への取り込みを指標として、HDNA細菌とLDNA細菌の代謝活性を調べた。各細菌亜集団の細菌数に対するBrdU取り込み細菌数の割合を亜集団間で比べた結果、HDNA細菌の方が活性の高い集団であることがわかった。しかし、LDNA細菌も活性を持たないわけではなく、特に水深100mでは表層より高い活性を持つことがわかった。海洋における各細菌亜集団は、それぞれに環境の物理化学条件や栄養利用性などに適応した細菌の集団であると考えられる。

IV. 海洋における細菌亜集団とウイルス亜集団の現存量の関係

以上の結果から、細菌の亜集団は少なくとも代謝活性の違いを反映することがわかった。一方、ウイルスにも亜集団の存在が知られている。その亜集団が何を意味するかについては、未だほとんど知見がない。ここでは相互の現存量を比較し、細菌亜集団とウイルス亜集団それぞれの関係の強さを類推することを通じ、各亜集団の特性の解明を試みた。

地理的に離れた沿岸域の海水を用い、合計35の海水について細菌の亜集団とウイルスの亜集団の現存量を調べ、相互比較した。その結果、各細菌亜集団と各ウイルス亜集団の現存量の関係は、それぞれが異なる回帰直線で規定され、それぞれに特異的な関係を持つことが示された。中でもLowFLウイルスとHDNA細菌の現存量は最も強い正の相関を示した。一方、LDNA細菌とLowFLウイルスの間の相関は比較的弱く、LDNA細菌におけるウイルス以外の致死要因(原生動物の捕食等)の重要性が示唆された。この結果から、細菌とウイルスの亜集団間には、それぞれ特異的な相互作用があり、細菌の致死要因としての役割にも違いがあることが明らかになった。

以上より、海洋における細菌とウイルスが、複数の亜集団により形成されていることを確認した。細菌の亜集団の形成に関して、細菌の生理状態の違いや分類学上の違いが反映されることが知られているが、本論文により、さらに、試料の固定などの方法論的な要因も関与していることが明らかになった。これまでに細菌の亜集団に関して、方法論的な要因の関与を調べた研究例はない。今後、生理状態や分類学上の違いに基づき細菌亜集団の性質や生態学的役割についてさらなる研究をおこなう際に、亜集団形成に関する方法論的な要因の関与を理解しておくことは、より正確な細菌亜集団の把握につながると考える。また、細菌亜集団の代謝活性を調べる方法として、非放射性同異物質BrdUをフローサイトメトリーと併用する方法を初めて適用したが、これは実用的かつ有効な方法であることがわかった。今後この方法を用いて細菌亜集団の代謝活性を調べ、海洋における細菌亜集団の物質循環への寄与を見積もることができると考える。

ウイルスの亜集団に関しては、現在知見が非常に限られている。ウイルス粒子には代謝活性がないため生理状態の概念は適用できない。また、ウイルスには、原核生物におけるrDNAのような、全てのウイルスに共通する比較的保存された遺伝子領域が存在しないため、ウイルス全体の分類学上の知見を得るためには、メタゲノミクス、または宿主を用いた感染実験を用いる必要がある。ウイルス亜集団へのこれらの方法の適用は容易ではない。本論文では、ウイルス亜集団と細菌の亜集団の現存量の関係を調べたことにより、ウイルス亜集団の特性を推定することができた。今後、フローサイトメトリーによるウイルス亜集団の分取と、さらに発展した分子生物学的方法の組み合わせにより、ウイルス亜集団の生物学的な、また生態学的な性質を明らかにすることができると期待する。

フローサイトメトリーを海洋の微生物の解析に適用し、さらに代謝活性の測定や分子生物学的な分類群特定の方法と組み合わせることにより、海洋の細菌やウイルスの亜集団の性質、さらには他の微生物群集との相互作用を、新たな切り口で調べることができると考える。

審査要旨 要旨を表示する

海洋生態系において、従属栄養細菌は溶存態有機物を利用して菌体を生産すると同時に残りを無機化し、炭素循環の骨格を作り出している。生産された菌体は、鞭毛虫や繊毛虫に捕食され、微生物ループの起点となる。また、ウイルスによる溶菌を受けて有機物の供給源ともなる。こうした海洋細菌群集の炭素循環に果たす役割を理解する上で、その現存量は最も基本的な情報の一つである。

フローサイトメトリーによるこれまでの計測例から、細菌、ウイルスのいずれについても蛍光強度の異なる二つの亜集団(HDNA細菌・LDNA細菌およびHighFLウイルス・LowFLウイルス)が存在することが指摘されてきた。しかし、これらの亜集団を構成する群集や性質などに関する知見は限られている。本論文ではフローサイトメトリーを用いた計数法の標準化し、沿岸から外洋、さらにオーストラリア沿岸などの様々な海洋の試料に適用することにより、相互の関係の解明を通じてそれらの亜集団の性質や生態学的役割について明らかにすることを目的とした。本論文が明らかにした内容の要点を以下にまとめる。

I. 海洋細菌の解析における固定と保存の影響

フローサイトメトリーによる海洋細菌の解析には、海水試料の固定、保存がほぼ必須である。そこで研究船淡青丸、大槌湾などで得られた試料について、これらの影響について調べた結果、蛍光シグナルに複数のピークが出現してくること、固定後に液体窒素で冷凍保存した場合にもこれらのピークが同様に出現すること、群集の一部に固定の影響を受けやすい細菌がいることを示した。細菌数は固定直後は変化しなかったが、3日間の冷蔵保存中に急激に減少し、その後緩やかに減少した。この減少から初期値を推定する回帰式を求めた。以上の結果から、試料の固定や保存が海水中のHDNA細菌やLDNA細菌の検出に影響しうることを明かにした。

II. 異なる増殖段階の海洋細菌を用いた固定の影響の解析

異なる増殖段階のVibrio parahaemolyticus とVibrio alginolyticusに対する固定の影響を調べた。未固定試料と固定試料をフローサイトメトリーで分析し、蛍光シグナルや計数値を比較した。その結果、対数増殖期から死滅期の細菌は固定により蛍光値と計数値が増加した一方で、飢餓状態におかれた細菌では逆に低下した。計数値はわずかに増加した。また、飢餓状態の細菌の一部は固定により、LDNA細菌のフラクションに移行した。これらから、固定や染色に対して細菌はその生理状態に応じて異なる反応を示すことを明かにした。

III. 海洋における細菌亜集団の代謝活性

ブロモデオキシウリジン(BrdU)の菌体への取り込みを指標として、HDNA細菌とLDNA細菌の代謝活性を調べた。各細菌亜集団の細菌数に対するBrdU取り込み細菌数の割合から、HDNA細菌の方が活性の高い集団であることがわかった。しかし、特に水深100mではLDNA細菌も表層より高い活性を持つことがわかった。海洋における各細菌亜集団は、それぞれに環境の物理化学条件や栄養利用性などに適応した細菌の集団であると考えられる。

IV. 海洋における細菌亜集団とウイルス亜集団の現存量の関係

合計35の海水について細菌の亜集団とウイルスの亜集団の現存量を調べ、相互比較をすることによって、それぞれの2つの亜集団間の関係の解明を試みた。その結果、それぞれが異なる回帰直線で規定され、特異的な関係を持つことが示された。LowFLウイルスとHDNA細菌の現存量は最も強い正の相関を示した。一方、LDNA細菌とLowFLウイルスの間の相関は比較的弱く、LDNA細菌におけるウイルス以外の致死要因(原生動物の捕食等)の重要性が示唆された。この結果から、細菌とウイルスの亜集団間には、それぞれ特異的な相互作用があり、細菌の致死要因としての役割にも違いがあることが明らかになった。

以上より、申請者は、フローサイトメトリーの方法論的な問題点を検討した上で、海洋における細菌とウイルスが、複数の亜集団により形成されていること、さらに特異的な相互作用を持つことを初めて明かにした。これらは、海洋微生物およびウイルスの相互作用、生態を知る上で、意義のある知見と判断される。

上記の諸点を考慮し、審査委員一同は、神谷英里子氏は独立した研究者として研究を遂行していくのに必要とされる全ての能力、知識、経験、学問的実績を持っており、博士(農学)の学位を授与するのにふさわしいとの結論を得た。

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