学位論文要旨



No 123124
著者(漢字) 川島,健
著者(英字)
著者(カナ) カワシマ,タケシ
標題(和) ベケット・ポリティックス : サミュエル・ベケットと1930年代アイルランド・ナショナリズム
標題(洋)
報告番号 123124
報告番号 甲23124
学位授与日 2008.01.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第784号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 ジョン,ボチャラリ
 東京大学 教授 井上,健
 東京大学 准教授 中尾,まさみ
 東京大学 准教授 田尻,芳樹
 東京大学 准教授 佐藤,光
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、1930‐40年代のアイルランドの政治状況と文壇事情を再構成し、それを背景にサミュエル・ベケットのテクストを語りなおすことである。

早くから故郷アイルランドを離れて作家活動を開始したベケットは、土着的な束縛からは無縁であり、世俗的な関心に疎い作家とみなされることが多かった。しかし30‐40年代に執筆された書評、批評、エッセイ、散文は、積極的に社会にコミットし、政治的発言を厭わないベケットの姿を映し出している。特にベケットが関心を寄せるのはアイルランドの文壇とそれを取り巻く政治的状況である。イギリスへの隷属から脱し、独立国家となったアイルランドでは、その文化的アイデンティティの確立をも目指し、「文芸復興」の気運高まり、ゲール語の復活やケルト神話の再構築が試みられた。ベケットの創作活動の特色(特に二言語使用と自己翻訳)はこのような状況を背景にしたときに初めてその政治性をあらわにする。この研究により、いままで研究界で前提とされてきたコスモポリタン的/非政治的作家としてのベケットのイメージを一新すると共に、彼の文化観、芸術観、言語観を明らかにし、またベケットにおける国家、民族、歴史の概念をも明らかにすることを目的とする。

本論文の構成は二部、五章形式となっている。まず第一章はベケットをアイルランド・ナショナリズムと文芸復興のコンテクストで語りなおすためのテーマ系の設定をする。イギリス植民地主義からの文化的独立を実現するために文芸復興の作家たちはその活動を「民族」と「国家」の統一に向けるが、その際に頻出するイメージの分析をするのが、この章の目的である。具体的には、「婚姻」、「家庭」、「経済」というテーマ系からイェイツ、シングらの作品を概括し、これらの作家に共有される文学表象から、共通の問題意識とその限界を浮かび上がらせる。

第二章は、前章で提起された問題系を拡大解釈し、アイルランド文学における都市/周縁の関係にそれらのテーマを編成しなおす。シング、オケイシー、ジョイスらのテクストにおける空間の表象を問題にするとともに、彼らの都市表象がもたらした影響についても言及しつつ、ダブリンという都市にまつわるセクシャリティを炙り出すことが目的である。そしてそれは1930年代に書かれたベケットの詩篇を語るための評価基準となる。「都市」と「セクシャリティ」という観点から見たときに、ベケットの詩篇は新たな光を放ち始める。

第三章はベケットの30年代の書評及びエッセイを中心に議論する。これらの文章の精査な分析からベケットの文学観、芸術観のみならず、ナショナリズムへの態度をも明らかにする。オケイシー、ジャック・B・イェイツ、トーマス・マグリヴィーらの同時代作家たちへの言及から、国家としてのアイルランドと民族としてのアイリッシュにたいするベケットの洞察に光を当てる。芸術と社会の問題のみならず、批評と作品の問題を考える嚆矢としたい。

第四章のテーマとなるのは「固有名」の問題である。ベケットを有名にした40年代後期以降の散文は「名づけえぬもの」の探求と考えられることが多く、またベケットの文学活動そのものがそのような単一的な方向に向けられていたと早合点されることも多いが、それ以前、つまり30年代の散文では全く違ったベクトルのテクストが生産されている。ここで注目するのは『蹴り損の棘もうけ』(1934)と題された連作短編集である。この作品の主人公につけられたべラックワという名前が作品の構造において占める位置と機能を明らかにしつつ、ベケットの言語へのアプローチを追跡する。特に注目したいのは、超越的な存在に言及する際の言葉のモードである。このような存在への言語的アプローチと名前の機能の関係から、「名づけえぬもの」に回収されないベケットの文学活動を詳らかにする。

第五章は、前章での言語と固有名に関する議論を敷衍して、ベケットの翻訳の概念と実践の問題に特化して分析をする。ベケットの英仏二カ国使用は、その脱領域的志向とともに、コスモポリタン作家「ベケット」というイメージを作り出す素材となる。しかしベケットの言語の営みはまず文芸復興期の様々な作家たちの言語観と比較してみる必要がある。イェイツ、グレゴリー女史、シングらのアイリッシュ英語の使用から、ジョイスの複数言語使用まで、近代アイルランド作家の営みはその言語の戦略と切り離して考えることはできない。ベケットの言語観と翻訳の実践を、文芸復興の展開を背景にこれらの作家との比較対照によって際立たせ、その政治的な含蓄を明らかにすることがこの章の目的である。

本論文の独創性に関しては「注目されることの少なかったテクストに焦点を当て、ベケット作品の新たな見方を提案し、すでに解釈の固定しているテクストの再解釈を要求しつつ、理論的枠組みをも更新する」とまとめることが出来るがより詳細に敷衍するならば、以下の四点にまとめられる。

一点目は、いまだ批評されることの少ないベケットの1930年代のテクストの再評価をする点である。すでに多くの研究がなされ、英文学研究の中でも、フランス文学研究の中でも、演劇研究においても一大分野となっているベケット研究ではあるが、その多くが『ゴドーを待ちながら』以降のテクストに割かれてきており、それ以前の作品の研究はいまだに手薄である。特に30年代から40年代前半のベケットの文学活動に関しては、手をつけるべき問題が山積している。本研究は30年代の詩篇と評論に注目することで、新たなベケット像――「詩人ベケット」と「評論家ベケット」――を提出する。

二点目は、内容的問題系と形式的問題系を連続的に考える点である。構造主義的な視点から分析をするベケット研究では、個々のテクストの整合性に眼が奪われがちで、作品の系譜は軽視される傾向にある。ベケットの言語の実験がどのような根拠と動機によってなされたか、それがどのような目的を持っていたかは、語られてはこなかった。本研究ではその起源をアイルランド・ナショナリズムと文芸復興に同定し、そこからの必然的な帰結として彼の特異な言語観と二ヶ国語の執筆活動を評価する。

三点目は、ベケットが実際に執筆活動を開始した時代と空間を再構成することである。イェイツやジョイスの作品に比べて、ベケットのテクストは現実的な問題と政治的な状況を反映することが少ない。しかし正当な文脈におき、適宜な補助線を引いたときに、同時代の作家たちと共有される問題意識が浮かび上がってくる。そのような視座において、ベケットの作品がその後の様々な思想・理論(実存主義、不条理、構造主義、ポストモダニズム)にいかに吸収されたかではなく、彼自身がどのように同時代を見ていたか、彼の作品が時代のどのような関心を反映していたか、それとどのように距離をとっていたかを明らかにすることができる。

四点目は、三点目の延長線上にある。歴史的パースペクティブと同時代的コンテクストを利用した比較検討作業の範疇は、これまでの研究が作り上げた、世間に背を向けた非政治的作家としてのベケット像を覆し、アイルランド・ポストコロニアル作家の系譜にベケットを位置づけるだけにとどまらない。そしてその理論の更新を図りつつ、新たな抵抗のパラダイムを、ベケットを通して発見することが最終目的である。

審査要旨 要旨を表示する

川島健氏の博士論文『ベケット・ポリティクス:サミュエル・ベケットと1930年代アイルランド・ナショナリズム』はアイルランド生まれの劇作家、小説家、詩人、批評家であったSamuel Beckettの作品像に対して新しい視点を与える試みである。生まれ故郷を捨て、一生の大半を外国で暮らし、英語だけでなく、母語でないフランス語でも執筆活動を続けた「コスモポリタンな作家」というイメージを捉え直して、アイルランドのナショナリズムとの関連を再確認することが川島氏の学術的貢献であるといえよう。

本論文は五章からなっている。第一章「ナショナリズムの政治学:『結婚』と『性愛』のレトリック」では、イギリス植民地主義と文化的独立を目指していたいわゆる「文芸復興」運動の作家たちの関係が焦点となっており、特に、「婚姻」、「家庭」、「経済」といったキーワードを中心に、イェイツ、シングなどの作家たちはどのように当時の現状を見、どのようにアイルランド文学の未来を考えていたかを分析している。この活動が生み出した様々な文学的イメージは、ベケットの作家としての出発点の背景ともなる。

第二章は「ダブリン地政学:オケイシー、ジョイス、ベケットあるいは卑猥な身体としての都市空間」である。アイルランドの精神的ルーツとされていた神話・伝説の世界とイギリスの影響が比較的少なかった「田舎」と、現代文化の象徴となっていたダブリンの都市像を対比させながら、ベケットの同時代の作家たちはどのようにしてアイルランドの現代を表象したかが分析の対象となる。ダブリンと「セクシャリティ」の観点から、ベケットの1930年代の詩篇を考え直す土台となる。

第三章の「アイルランドの『かたち』:ベケットの書評とアイランド・ポストコロニアリズム」では主にベケットの1930年代のエッセイと書評が取り上げられている。この分析によってベケットのナショナリズムに対する態度が明らかにされ、「政治無関心」としばしば考えられてきたベケットの社会と国家のあり方への問題意識が論じられる。

第四章は「『名前』の『種類』:ベケット、ジョイス、固有名詞の戦略」と題して、主として1934年の連作短編集『蹴り損の棘もうけ』の冒頭の短編「ダンテとロブスター」が論の中心となる。この分析を通して、後の作品に見られない散文のあり方が指摘され、固有名詞と作品の構造の関係が明らかになる。この論を発展させながら、ベケットの言語への姿勢、特に超越的な存在に言及する際の言葉の使い方が浮き彫りになる。こうしたベケットの言語への関心がやがて後の『名づけえぬもの』に表れてくる。

第五章の「翻訳の不協和論:言語の領土化/領土の言語化」では、ベケットの翻訳の概念と実践が問題となる。ベケットの後年の執筆活動は英語、フランス語両方で行なわれたものも多いので、「コスモポリタン作家ベケット」のイメージが強いが、他の近代のアイルランド作家たちの作品、文芸復興運動の行方などのコンテキストの中でベケットを位置づけると新たな政治的含蓄が見えてくる、と川島氏は指摘する。

審査員全員概ねこの論文を高く評価している。川島氏は丹念に近代アイランド文学を調べ、基本となる資料を全部当たり、自分の論述に上手に取り入れている。特に日本においてあまり注目されていないアイルランドのナショナリズムとの関連付け、ベケット自身の批評家としての活動の分析は大変刺激的で、おそらくこれから色々と注目されるところであろう。

ただし、この高い評価があると同時に、かなり辛いコメントや注文が出されたことも申し付けなければならない。例えば、「同時代の作家たちとの違いを取り上げることはいいが、それらの作家たちの立場や関係性の変化の分析が不足している」、「ベケットの言語実践とアイルランド・ナショナリズムとの関連の内在的分析が足りない」、「ベケットによる批評の分析は評価されるべきだが、その批評とベケットの同時代の他の作品、特に小説との関係についてほとんど触れられていない」、「もっとポストコロニアリズムと関連させた方がいいのではないか」などの指摘があった。

また、脱字や変換ミスも厳しく評された。先に英語で出した自筆論文を部分的に再利用しているせいか、日本語になり切れていない箇所があり、読みにくいところはかなりある。更に、筆者自身による原文和訳のなかでかなり間違っている箇所、勘違いしている箇所もあり、固有名詞の表記ミスも目立ち、多くが指摘された。そのため、出版の前に必ず見直すように、との注文も出された。

しかしながら、これらの欠点は本論文の価値を損なうものではないということが審査員全員の評価である。依って、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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