学位論文要旨



No 123141
著者(漢字) 黛,秋津
著者(英字)
著者(カナ) マユズミ,アキツ
標題(和) 近代国際システム形成過程におけるロシアとオスマン帝国 : ワラキア・モルドヴァ問題を中心に(1768-1806)
標題(洋)
報告番号 123141
報告番号 甲23141
学位授与日 2008.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第786号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 柴,宜弘
 東京大学 教授 木畑,澤一
 東京大学 准教授 川島,真
内容要旨 要旨を表示する

現在の地球全体を覆うグローバルシステムの形成は、西欧世界に端を発し、それが拡大して他の諸「世界」を包摂してゆくことによってなされたという理解は、すでに定着していると思われる。この西欧世界の拡大の中で、西欧世界の東に隣接しユーラシアに広がる二つの世界、すなわち正教世界とイスラーム世界が、拡大する西欧世界に包摂されていったことが、グローバルシステム形成にとって極めて重要な意味を有していたことは疑う余地がない。こうしたプロセスのうち政治外交面に注目すれば、17世紀に西欧に成立した国際システム(体系)が、正教世界を代表する政治体であるロシア帝国と、イスラーム世界を代表するオスマン帝国との諸関係を緊密化させつつ、結果として両帝国を包摂して行くことによって、西欧国際システムは次第により普遍的な近代国際システムへと発展・拡大していった。本論文では、15・16世紀よりオスマン帝国に従属する二つの公国、ワラキアとモルドヴァに焦点を当て、西欧諸国・ロシア・オスマン帝国が関わった両公国をめぐる諸問題の検討を通じて、西欧世界とイスラーム世界と正教世界の三世界が政治外交的にどのように関係を緊密化させ、結果として統合の方向へと向っていったのかという問題を、18世紀後半から19世紀初頭の時期を対象に、具体的・実証的に明らかにしようとするものである。

これまでに行われた研究を見ると、西欧・オスマン関係、西欧・ロシア関係、あるいはロシア・オスマン関係というような、二者間の関係に関しては一定の先行研究が存在するが、西欧・正教・イスラームの各世界間の政治外交関係を、三者関係の中で同時に捉えようとする研究は行われてこなかった。本論文は、ワラキアとモルドヴァという地域を切り口として、三世界が複雑な政治外交的関係を構築しながら統合へと次第に向ってゆく、その一局面を三世界のそれぞれの一次史料、すなわち西欧語史料、ロシア語史料、オスマン語史料を用いて具体的に明らかにしようとする、これまでほとんど行われていない試みである。

第1章と第2章では、本論文で考察する1768年から1806年までの時期を見る前提として、15世紀頃から18世紀半ばまでの時期の西欧・ロシア・オスマン帝国間の政治外交的相互関係と、この三者とワラキア・モルドヴァ両公国とのそれぞれの関係を概観する。

第1章では、18世紀半ばまでの西欧諸国・ロシア・オスマン帝国間の政治外交関係を、17世紀末を境に前後に分けて広く見渡す。16・17世紀はオスマン帝国が西欧諸国やロシアに対して優位に立っていた時期であり、オスマン帝国の存在は、西欧に対しては各政治体の相互関係の連携を緊密化させ、結果として西欧世界の一体化を促す作用を果たし、またビザンツ帝国滅亡後正教世界の政治的中心となったロシアに対しては、アストラハンやカフカース以南への進出を許さない壁となった。一方17世紀までのロシアと西欧諸国との関係は、近接するポーランドやスウェーデン、通商関係のあるイギリス・オランダを除けば、それほど緊密とは言えなかった。

このような状況が大きく変化したのが17世紀末であった。ハプスブルク帝国やポーランドを中心とし、実力をつけたロシアをも加えた神聖同盟とオスマン帝国との戦いは、前者が勝利を収め、1699年のカルロヴィッツ条約によってオスマン帝国はヨーロッパ大陸の多くの領土を喪失することとなった。そして同時期、ピョートルの下で近代化を進めるロシアが北方の大国として台頭した結果、オスマン帝国の西欧・ロシアに対する優位が失われ、18世紀に入ると、ハプスブルク帝国、ロシア、オスマン帝国の間に一定の勢力均衡が働き始める。18世紀前半、オスマン帝国はロシア・ハプスブルク帝国とそれぞれ2度戦うが、大きな力関係の変化はなく、1768年のロシア・オスマン戦争を迎えるのである。

こうした大きな枠組みを踏まえた上で、第2章ではワラキアとモルドヴァの二つの公国に焦点を当て、特にオスマン帝国との宗主・付庸関係を軸としながら、15世紀から18世紀半ばまでの両公国とオスマン帝国、西欧、およびロシアとの関係を概観する。正教徒が大多数を占めるワラキアとモルドヴァは、他のバルカン諸国と異なり、オスマン帝国に直接併合されることなく、一定の自治権を有する付庸国としてオスマン支配体制に組み込まれた。西欧との緩衝地帯となった両公国は、16・17世紀に隣接するポーランドなどの介入を受けることもあったが、オスマン帝国が西欧・ロシアに優位に立っていたこの時期、両公国に対するオスマン支配は強固なものであった。

しかし、17世紀末にオスマン帝国と西欧・ロシアとの力関係に変化が生じた時、両公国はロシアやハプスブルク帝国と連携してオスマン支配からの離脱の動きを見せたため、これに危機感を持ったオスマン政府は18世紀に入ると、オスマン支配層に取り込まれた正教徒有力者層である「ファナリオット」達を、公として任命し現地へ派遣する制度を導入する。この制度によりオスマン帝国の両公国支配の再強化はある程度実現したが、ロシアと信仰を同じくし、西欧とのつながりを持つファナリオット達は、必ずしもイスタンブルに忠実であるとは限らなかった。

以上のような、18世紀半ばまでの西欧諸国・ロシア・オスマン帝国の相互関係、及びワラキア・モルドヴァとそれを取り巻くこの三「世界」との政治外交的諸関係を押さえた上で、第3章では両公国が国際問題化する契機となった1774年のキュチュク・カイナルジャ条約を詳細に分析する。1768年に開始されたロシア・オスマン戦争でロシアは軍事的に圧倒的に優位に立ち、ワラキアとモルドヴァの民衆やボイェーリの一部、さらに公までもがロシアによるオスマン支配からの解放に期待を寄せたため、こうした動きに危機感を抱いたハプスブルク帝国とプロイセンの介入により、ロシアは両国を仲介者としてオスマン帝国と和平交渉を行うことを余儀なくされた。和平交渉ではロシア軍の占領下にあるワラキア・モルドヴァのオスマン帝国への返還条件が焦点となり、ロシアはオスマン・両公国関係を、ラグーザ型の非常に緩やかな宗主・付庸関係に転換させようと試みたが、結局1774年に締結されたキュチュク・カイナルジャ条約では、それを実現させることは出来なかった。しかしながら同条約によってロシアは、ワラキア・モルドヴァに関する発言権などを得、さらにモルドヴァに傀儡の公を就けるなどして、両公国への進出の足掛かりをつかむことに成功した。このように、1774年の条約は、オスマン帝国の内政問題であった両公国の問題が国際問題化する重要な転換点となったことが明らかとなった。

第4章は、1774年条約の影響としてのロシア・ハプスブルク帝国の両公国への進出過程を、1792年まで追う。両公国に関する権利の他、同条約によってオスマン帝国内のあらゆる場所に領事・副領事を置く権利を得たロシアは、両公国に領事館の開設することを目指してハプスブルク帝国と連携し、ロシア・ハプスブルク両帝国は1780年代初頭、それぞれ領事と通商代表をブカレストに置くことに成功した。これによって、両公国へのロシア・ハプスブルク帝国の進出は加速されることとなった。ほぼ同時期にオスマン帝国は両帝国と黒海通商、クリム・ハーン国、両公国についての協約を結ぶことを余儀なくされ、これら1780年代前半の一連の出来事により、両公国をめぐるロシア・ハプスブルク・オスマン三帝国のせめぎ合いは激しさを増し、両公国の諸問題は三帝国間の重要な外交問題となってゆく。

こうした両公国をめぐる三帝国のせめぎ合いに1790年代に新たな要素として加わったのが、革命後の共和国フランスであった。第5章では、1790年代後半から1802年までの時期を対象に、1790年代のフランスの両公国進出過程と、それに危機感を抱くロシアがオスマン政府に圧力をかけて実現させた、1802年のオスマン・両公国関係を規定する勅令の二点を検討し、オスマン帝国をめぐる国際関係の変化と、ワラキア・モルドヴァ問題へのさらなる諸外国の進出との関連を検討する。1790年代にバルカン・東地中海地域へ積極的に進出した革命後のフランスは、両公国への進出の重要なステップとして領事館開設を目指しオスマン政府との交渉を進めた結果、1798年にそれを実現させることに成功した。対仏同盟に参加するロシアはこのようなフランスの両公国進出に対抗すべく、1798年のフランスによるエジプト侵攻とそれを契機としたロシア・オスマン軍事同盟の成立という国際関係の枠組の変化と、バルカンの在地勢力による混乱が両公国へも深刻な影響を及ぼしている状況を利用して、1802年にオスマン政府に対して両公国の状況改善を強く訴えた。その結果、同年オスマン・両公国関係を新たに規定する勅令が発布され、事実上の外交合意であるこの勅令の中でロシアは、両公国の公の任免にさらに関与する権利を得るなどして、目的を達することに成功した。

最後の第6章では、この勅令発布後からロシア・オスマン間で再び戦争が勃発する1806年までの時期、フランス・ロシア・オスマン関係の中で両公国問題が果たした役割を検討する。1802年にフランス・オスマン関係が正常化するとフランスはオスマン帝国に接近し、オスマン帝国をロシア・イギリスとの同盟関係から離反させることを目指すが、そのための最も有効なカードの一つがワラキア・モルドヴァ問題であった。1802年の勅令の内容に不満を持っていたオスマン帝国に対して、フランスはその破棄を勧め、オスマン帝国は次第にフランス寄りに態度を変えていった。1806年8月、1802年の勅令の中の取り決めに反し、ロシアに事前に通告することなくワラキアとモルドヴァの公を交替させた事が直接の引き金となり、ロシアとオスマン帝国は戦争へと突入したのであった。

以上見てきたように、1768年の時点ではほぼオスマン帝国の内政問題であったワラキアとモルドヴァの諸問題は、1806年にはオスマン帝国の対ロシア・対フランス外交路線を象徴し、ロシアとの戦争勃発の直接の引き金となるような、極めて重要な外交問題となっていた。1768年よりわずか40年足らずの間に、オスマン帝国の内政問題が重大な外交問題に転化したという事実は、両公国の諸問題を通じてロシアとオスマン帝国が、ハプスブルク帝国やフランスなどの西欧諸国と関係を急速に緊密化させていったことを端的に示している。よって本論文の考察により、西欧世界に形成された西欧国際システム(体系)が正教世界の盟主ロシア帝国とイスラーム世界の中核国家であるオスマン帝国を包摂して行く過程の一端が明らかとなったのである。

審査要旨 要旨を表示する

黛秋津の論文「近代国際システム形成過程におけるロシアとオスマン帝国――ワラキア・モルドヴァ問題を中心に(1768-1806)」は、近代西欧に端を発した、唯一のグローバル・システムとしての近代国際体系の形成過程について、西欧世界と正教世界とイスラーム世界のせめぎ合いと、正教世界とイスラーム世界の近代国際体系への包摂の過程を、ワラキア・モルドヴァに焦点を当てつつ、明らかとすることを目的としている。

本論文は、「はじめに」及び「おわりに」と、本文6章から構成されている。

「はじめに」においては、まず西欧世界に端を発した近代国際体系のグローバル・システム化の過程の実態を、ワラキア・モルドヴァをめぐる、西欧世界と、正教世界に属するロシア、そしてイスラーム世界に属するオスマン帝国のかかわりに焦点を当てつつ解明するという問題設定が示され、ついで研究史と使用した史料の紹介がなされる。

第1章においては、15世紀から18世紀前半に至る西欧・正教・イスラームの各世界の関係が概観され、オスマン帝国の優位が、18世紀前半に至り、西欧諸国・ロシア・オスマンの均衡へと移行したことが示される。

第2章においては、15世紀から18世紀前半までのワラキア・モルドヴァと周辺世界、とりわけ、オスマン帝国との関係が概観される。

第3章においては、18世紀前半までに成立していた西欧諸国・ロシア・オスマンの均衡の崩壊をもたらした1768-1774年のロシア・オスマン戦争とその結果としてのキュチュク・カイナルジャ条約について、詳細に検討が加えられる。

第4章において、これまでの諸章を踏まえたうえで、キュチュク・カイナルジャ条約以後の、西欧・正教・イスラームの三世界の関係の新たな焦点がワラキア・モルドヴァとなったことを論じ、その具体的表われとして、オスマン帝国の付庸国であるワラキア・モルドヴァへのロシア・ハプスブルク両帝国の進出過程が、領事館開設問題とワラキア・モルドヴァ両公国の公の任免問題に焦点を当てつつ検討される。

第5、第6章において、新たな展開として、フランス革命後のフランスの東方進出とワラキア・モルドヴァとのかかわりが論ぜられる。

そして、「おわりに」においては、本文の各章の内容を要約したうえで、19世紀に入ると、西欧・正教・イスラームの三世界のせめぎ合いの場が、ドナウの南のオスマン帝国領に拡大し、正教・イスラームの両世界の近代国際体系への統合がさらに進展していったことについて触れ、今後の展望を示す。

本論文は、本論文の対象テーマが、従来は、あるいは「東方問題」として西欧側及びせいぜいでロシア側史料のみに基き扱われ、あるいは、西欧=ロシア、西欧=バルカン、西欧=オスマン、ロシア=オスマンといった二者関係の研究の形でなされてきたのに対し、西欧・正教・イスラームの三世界間の関係という新たな枠組みを提示した上で、西欧諸国語・ロシア語・オスマン語の原史料を博捜し、三世界間の関係を各々の内側にも立ち入りつつ検討するとともに、具体的に三者のせめぎあいの場として本稿の中心的焦点とされるワラキア・モルドヴァの事情については、ルーマニア語資料をも用いて内部から照射するのに努めるという手法によっており、本邦は勿論のこと、欧米はもとより、ロシア、トルコ、ルーマニアにおいても類例の稀な先端的研究となっている。このような、複数の文化世界の関係を、各々の世界の産み出した原史料に基き複眼的に分析する手法は、国際的に見ても、当該分野において際立った独創的貢献といえる。

とはいえ、本論文では、近代国際体系の形成と拡大の過程を、近代西欧世界側の包摂の過程に焦点を当てつつ描き、複数の異文化世界間の相互作用過程についての分析は、十分に果たされていないとの指摘があった。また、西欧世界側自体についても、西欧諸国を一体としてとらえる傾向が強く、西欧諸国に属する各国の動きの独自性が十分にはとらえられていない点も指摘された。さらに、本論文の中では、西欧・正教・イスラームという三世界間関係、そして西欧諸国とロシア・オスマン両帝国の対外関係に視点が集中し、各々の社会の内部の状況との連携は十分にとらえられていないとの指摘もなされた。

確かに、これらの指摘された諸点はあるものの、それにもかかわらず依然として、西欧・正教・イスラームの三世界に属する西欧諸国とロシア・オスマンの両帝国との関係を、新しい枠組の下で、西欧諸国語・ロシア語・オスマン語の史料に加えてルーマニア語文献まで博捜して解明した本論文は、本邦の研究史にとどまらず、国際的にも最先端の独創的な学問的貢献であり、近代国際体系のグローバル化の過程を新たな視角から照射する業績として国際関係論研究にも示唆を与えうる労作といえる。

以上、本審査委員会は、本論文は、博士(学術)の学位を授与するのに十分値するものであることを認定した。

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