学位論文要旨



No 123142
著者(漢字) 細谷,幸子
著者(英字)
著者(カナ) ホソヤ,サチコ
標題(和) 現代イランにおけるボディ・ケアとイスラーム : 看護と介護の実践から
標題(洋)
報告番号 123142
報告番号 甲23142
学位授与日 2008.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第787号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松井,健
 東京大学 教授 羽田,正
 東京大学 教授 長澤,榮治
 東京大学 教授 菅,豊
 東京大学 准教授 梅崎,昌裕
内容要旨 要旨を表示する

本論の目的は、イラン・イスラーム共和国における人間身体の扱われ方とイスラームの関係性について、看護・介護をおこなう側が直面する状況を多面的に記述することを通して、現代イラン社会で顕在化しているいくつかの価値観に焦点をあてることにある。

本論で扱うのは、排泄、清潔、食事、入浴、更衣といった、生命を維持し、生活を営む上での基礎的な行為に対しておこなう、直接的な身体的援助、すなわち「ボディ・ケアbody care」である。排泄、清潔、入浴、更衣といった行為をおこなう場面では、他者の視線や接触から隠されるべき身体の部分と生理を露出しなければならない。それが他者の援助に委ねられる時、援助する側と援助される側の間に、さまざまな問題を引き起こすことになる。本論では、現代イラン社会の異なる二つの場面において、ボディ・ケアをめぐって議論され、語られている内容を、それぞれの文脈から理解することを試みる。

第I部では、西洋近代医学の一端を担う女性看護師という職業をとりあげ、それをとりまく状況を多面的に記述することによって、ボディ・ケアと性の問題を論じている。

イランでは、パフラヴィー朝の二人の国王がおこなった近代化政策によって、入院施設をもつ病院の増設が進み、西洋近代医学に基盤を置く入院治療が広くおこなわれるようになった。病院という場所は、身体の露出や身体への接触を必然的に伴う医療行為、看護行為をおこなう場である。西洋近代医学では、人間の身体を解剖学的、生理学的に普遍的な存在として仮定している。よって病院においては、人間の身体を「医学的身体medical body」として、文化的、社会的、宗教的意味領域から脱文脈化された、無性的、中性的なものとして扱うことが前提となっている。しかし、イスラーム法によると、親族ではない異性である「ナー・マフラムna-mahram」の身体を見たり、「ナー・マフラム」の身体に触れたりすることは「禁止行為」である。したがって、ウラマーだけでなく、患者や医療スタッフからも、病院内における医療行為、看護行為は、イスラーム法に抵触する行為を含み得るとみなされ、2000年には医療機関におけるイスラーム法適用法案が可決された。

臨床の場面で、「ナー・マフラム」の問題が明白に意識されるのは、医師による医療行為というよりは、むしろ看護スタッフによるボディ・ケアである。医師や看護師による「医療行為」は、緊急性、専門性の高い行為である。したがって、それらはウラマーだけでなく、医療スタッフや患者からも「緊急事態ezterar」と解釈され、異性患者への接触が許容される。しかし、ボディ・ケアは緊急性、専門性に乏しいものとされているため、患者側、看護師側双方から、イスラーム法に抵触すると認識されやすい。近代看護学はボディ・ケアを医学的に根拠付けようとしているが、それは医師のおこなう「緊急性」「専門性」が高いとされる行為と異なり、イスラーム的価値観をもつ身体を無性的なものとして脱文脈化するほどの説得力をもたないのである。

だが、身体との直接的な関わりは、イスラーム法によって「禁止行為」とされている「ナー・マフラム」との接触だけではなく、イスラームによって宗教的な不浄=「ナジェスnajes」と規定される、排泄物、血液、死体との接触をもつ。ボディ・ケアを、「ナー・マフラム」と「ナジェス」との接触が避けられない行為であるとし、病棟における医療スタッフのヒエラルキーとその間の権力関係に注目すると、ジェンダーをめぐる西洋近代医学とイスラームの拮抗という二項対立とは異なる様相が明らかになってくる。女性看護師はボディ・ケアを嫌忌し、その業務をより下位のヒエラルキーに位置する看護スタッフに押しつけようとする。その根拠として持ち出されるのが、女性看護師は医学知識をもつ「専門職」であるという主張である。

イランの看護師は自らの地位向上のために、ボディ・ケアを、自らの職域から排除する努力を続けてきた。なぜなら、「ナー・マフラム」と「ナジェス」との接触は、「堕落した」、「低い」女性であるという烙印を女性看護師に付与する原因となるからである。しかし、女性看護師たちは、依然として男性患者のボディ・ケアをおこなわなければならない状況にある。この状況がもつ矛盾を受容する論理として、女性看護師たちは「善行」というイスラーム的概念をもちだし、ボディ・ケアを正当化しようとしている。

看護師たちが好んで引用するように、イスラーム法学者たちは、看護という人間対人間の関係性を、人間対神の関係性である「エバーダト」だとし、善行として評価してきた。これには、イラン・イラク戦争で必要とされた看護師の需要を満たすための政治的な思惑があったことも推測される。だが、「病人や助けを必要としている人」のために献身することを「善行」と評価する考えは、必ずしも、イスラーム法学者たちからの一方的な意味づけや、看護師たちの自己弁護にとどまるものではない。なぜなら、イランには、病弱者のボディ・ケアをおこなうことを「宗教的善行」として、無給でおこなうボランティアたちが存在するからである。

そこで、次の第II部においては、介護施設で宗教的理由によって高齢者や障害者の入浴を介助するボランティアたちの活動を取り上げ、ボディ・ケアが宗教的善行として解釈される理由を詳しく分析し、記述していく。第II部で扱う高齢者や障害者の介護は、「病院」という特殊な状況を離れ、より日常的な文脈で、身体にまつわる価値や規範と密接に関わった様相を示すことになる。

イランでは、高齢、病気、あるいは障害によって、他者の援助なくしては日常生活行動が自立できなくなった場合、家族員の一人がその人の世話をすることが理想とされる。介護を担うのは、女性の家族員であることが多いが、在宅での介護を支える公的な支援はなく、何らかの原因で家族に面倒を見てもらうことができず、介護施設に入所することになった人は、大変「不幸な」人々だとされる。

介護の場面においては、病院内におけるボディ・ケアと異なり、命に関わるような状況や専門的な知識や技術が必要ないとされ、したがって、「緊急事態」として異性との接触が許容されることはない。そのため、介護は基本的に同性者によってなされることになっており、介護施設で介護スタッフが異性の入所者のボディ・ケアをおこなう場面はない。換言すれば、介護の場における身体は、日常的な「宗教的身体」としての意味合いが濃いと考えられる。

ボディ・ケアの一つである入浴介助は、日常の入浴や清潔、排泄の行為を援助することである。イスラームにおいて、宗教的な浄・不浄とは、身体の生理機能と関わるものである。不浄の状態がもたらされるのは、尿や便、精液や血液、死体といった「ネジャーサトnejasat」に直接接触することによってであり、浄化行為とは、水を使用してそれを洗い流し、身体を清めることである。これは、衛生上の清潔を保持する行為と類似した行為である。宗教的な浄化行為は、日々の習慣的な清潔行為に組み込まれており、したがって、身体の清潔や排泄の援助をおこなうことは、宗教的な不浄物に触れる行為であると共に、他者の宗教的な不浄を浄化する行為と結び付く行為であると考えられる。

こうしたイスラームの浄・不浄の概念は、汚れた他者の身体を洗うという行為との関連で、シーア派の贖罪と救済の思想と結びつく。同時に、介護施設で入浴介助を無報酬でおこなう活動は、ボランティアたちの生活空間でのさまざまな文脈と絡み合いながら、多様な意味合いをもって解釈される。それは、高齢者や障害者の「入浴」を介助するという行為が、ボランティアの生きる日常的な宗教実践がもつ、さまざまなイメージと重ねられ、微妙に意味合いを変化させながら体験されるような現象である。

入浴介助ボランティアの活動は、「神の満足のため」と表現されるが、これは、給与を得ないで他者のために働くことによって、神からの報酬を得ようとする行為である。入所者の「不幸」を目の当たりにし、生理的に嫌悪感をもつような汚物を片付ける行為は、忍耐を必要とする苦しい修行でもある。そして神は、この苦行に対して報酬を与えてくれる。

他者のために奉仕し、それに対して神から報酬を得ようとする行為は、神と人間の関係性にとどまらない。入浴介助場面においては、神の恩寵の流れがイマームと入所者という媒介を経て循環することが想定されている。苦難を体験し、隔離された場所で生活する入所者たちの清い心による祈りは、神に届きやすく、無謬のイマームが神と人とをとりなすように、入所者も、神と入所者をとりなすことができる。そして、援助した入所者がボランティアのために祈ることによって、ボランティアは自分の望みを叶えることができる。

また、入浴介助という行為は、日常の浄化行為である全身沐浴、「ゴスルghosl」と重ねられている。そして、入所者の身体を洗うことは、入所者の心を洗い、ボランティアの心を洗い、過去の罪を浄化するという連想を生み、ボランティアがメンバーを共有している地域的な宗教の集まりである「ジャラセjalase」や、共同浴場、メッカ巡礼や聖廟参詣の祝祭性をもつ場の中での、贖罪の行為として体験される。

同時に、入所者が死に近い者としてとらえられていることから、入浴介助の場面は、入浴を介助するボランティアの心の中に、死後の世界、生と死という断絶をこえた関係性に関するイマジネーションを喚起する。キャフリーザク介護福祉施設は介護施設であるが、施設が求心力をもつのは、そこが「不幸」な高齢者や障害者を対象に、功徳を積むことができる場所だからである。そこでは、難病の治癒や願望の成就、夢によるイマームのお告げ、愛する者の死の再解釈など、数々の「奇跡」が起こる場所である。入浴介助ボランティアが語る奇跡の物語は、給与を得て働くがゆえに、同じボディ・ケアを担いながらも高い社会的評価を得られない介護スタッフたちにも影響を与え、介護という汚く「低い」仕事にやりがいを見出すきっかけともなっている。

最後に第I部と第II部での試みから、医療・看護・介護というテーマから、イラン社会を理解する可能性について触れ、結語としている。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は第一部において現代イランの医療従事者、とくに女性の看護師を扱う。高学歴が必要であり、仕事がきわめて厳しいにもかかわらず、けっして社会的評価の高くないこの仕事に従う女性たちについて、彼女たちと仕事を共にする参与観察やインタビューから、それがイスラーム法によって禁止行為とされるナー・マフラム(親族ではない異性)との接触、あるいはイスラームで「ナジェス」と規定される排泄物、血液、死体との接触が、職務上必然的におこることによることを明らかにし、そのうえで、それにもかかわらず彼女たちが自分たちの職業を社会に対して肯定的に位置づける論理として「善行」という概念を用いることを明らかにした。

こうした事象を、2000年のイスラーム法適用法案の可決、そして、それにもかかわらず、女性看護師が男性患者をみなくてはならない状況がかわらないこと、こうした問題へのイスラーム法学者たちの発言等と関連づけてその社会的意味についても論じた。

第二部においては、高齢者や障害者の介護施設においてボランティア活動をする比較的裕福な女性たちが扱われる。彼女たちは、女性入居者たちの入浴や介助とむだ毛の処理という、不浄「ネジャーサト」に直接ふれるボランティア活動をおこなうが、それは「神の満足のため」という表現でまとめられるような動機で支えられている。ボランティアたちにとっては、これは苦行であるが、神からの報酬を期待できるものとも感じられているらしい。申請者は、ボランティアたちの表現を詳細にとりあげつつ人間と神との間のとりなしをしてくれるイマームという図式のイメージから、介護ボランティアという苦行によって自分と神の間に同様の図式が広がると期待することにもつながるのではないかと分析し、ボランティア活動が巡礼、聖廟参拝、宗教的な集まり「ジャラセ」での贖罪などと通底するものではないかと分析している。

本研究は、医療や介護といったボディケアの局面から、イラン社会の現在を多面的に描きだそうというきわめてユニークなものである。申請者自身が正看護師であることによって、医療や介護の現場に立ち会い、一定の仕事を分担しつつ、そこで専門家(看護師)として、あるいはボランティアとして働いている人たちの行動や会話を丁寧にひろい集め、そこからイラン社会の伝統的な身体観やイスラーム的価値と近代医学の措定する身体観とのずれ、現代イランに生きる人びと(患者や被介護者を含む)の自分たちの行為や会話の理由づけの文化的枠組みなどといった大きな問題系を解明しようとしており、その目的企図の大きさと方法のユニークさは高く評価されるというのが、審査会での集約された評価であった。

さらに、審査会では、本研究が、今後二つの方向において展開され、豊かな成果をもたらすであろうことも評価された。ひとつめは、本研究第一部(専門職、医療機関、職業の受苦としての意味づけ)と第二部(ボランティア、介護施設、歓びとしての意味づけ)で記述された材料の対照的な性格から、現代イラン社会のボディケアをめぐる人々の思念と実践をより厳密に分析できることが予想されること。さらに、ふたつめとして、ボディケアから現代イラン社会に生きる人びとの身体観や宗教的な信念をうかがおうとするいわば人類学的フィールドワークを主要な手段とする地域研究へのひとつの大きな貢献であるばかりではなく、ボディケアをひとつの準拠軸として、広く他地域(イラン以外のイスラーム諸国、あるいはより広く南・西南アジア地域)との比較研究への道を拓くものとしても評価された。

また医療現場での国際協力や非常時の緊急支援等の状況における応用性や実践性に関しても、すぐれたケーススタディであるという評価があった。とくに、国際保健学等においてつねに必要性が指摘されている医療の文化特異性について、踏み込んだ事例が多く掲げられており、今後の理論化に資するであろうと指摘された。

もちろん本研究にもいくつかの弱点が認められる。第一は、第一部と第二部の社会的コンテクストが不連続であるため、これら二つの事例の位相関係が十分明瞭ではないことである。これについては、前述のように理論的な抽象度をあげることによって、これら二つの局面の対照性から分析を進めることの可能性が指摘された。第二の問題点としては、本論文の基本的な調査方法、ミクロな参与視察による行動や談話の収集が、イラン社会の宗教意識の全体や国家的な政策決定、そのなかでの人びとの立場の選択といった巨視レヴェルの問題にどのように寄与するかが必ずしも明らかにされなかった点があげられる。人びとの発言にあらわれる神からの報酬といったような表現を、どのように位置づけていくのかに関しては、まださらなる方法の開拓と資料の集積が必要と思われた。とはいえ、これらの問題点は、いずれも本論文をとりまとめる経過で明確に定位されたものであり、むしろ本論文の成果の新しい展開の可能性を示唆しているものとも考えられる。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

UTokyo Repositoryリンク