学位論文要旨



No 123143
著者(漢字) 武内,進一
著者(英字)
著者(カナ) タケウチ,シンイチ
標題(和) アフリカにおけるポスト・コロニアル家産制国家の解体と1990年代の紛争 : ルワンダ内戦の構造的原因をめぐって
標題(洋)
報告番号 123143
報告番号 甲23143
学位授与日 2008.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第788号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 遠蒋,貢
 東京大学 教授 恒川,惠市
 東京大学 教授 石田,淳
 東京大学 教授 石田,勇治
内容要旨 要旨を表示する

1990年代前半、サブサハラ・アフリカ(以下、アフリカ)では深刻な紛争が頻発し、世界の関心を集めた。リベリア、ソマリア、シエラレオネ、コンゴ民主共和国など、その例は枚挙に暇がない。なかでもルワンダでは、1990年に内戦が勃発し、1994年にはわずか100日足らずのうちに80万人が殺戮されるというジェノサイドに至った。本論文は、1990年代アフリカの紛争が有する新たな特質を指摘し、その特質が表出するメカニズムを提示したうえで、ルワンダを事例としてジェノサイドに至る歴史過程を跡づけることによって、そのメカニズムを検証した。

論文は、3部に分かれる。第I部では、現代アフリカにおける紛争の特質を指摘し、そうした特質が現出する要因を独立後のアフリカに出現した特異な国家-ポスト・コロニアル家産制国家(Post-Colonial Patrimonial State: PCPS)-の解体に求めるという仮説を提示する。第II部と第III部は、ルワンダの事例研究である。第II部で植民地末期に勃発した内戦(「社会革命」)に至る経緯を、第III部では1994年のジェノサイドに至る過程を分析する。結論では、まとめとして仮説の検証を行ったうえで、1990年代以降PCPSがどのような分化を遂げつつあるのか展望した。

第I部「1990年代のアフリカの紛争をどう捉えるか」

1990年代のアフリカにおける武力紛争では、(1)深刻な紛争の頻発、(2)紛争の犠牲となる、または紛争に関与する民間人の増加(紛争の「大衆化」)、(3)紛争のアクターの多様化、民兵や民間軍事企業など民間部門への暴力行使の依存(紛争の「民営化」)、といった特徴が見られた。本論文は、アフリカの国家に着目してこうした特質を説明する枠組みを提示する。

独立以降のアフリカの国家に関しては、(1)家産制的な性格を有すること、(2)暴力的な性格を有すること、(3)主権国家としての地位を利用し、国際関係のなかで得られる資源を国内統治に振りむけること、(4)市民社会の領域を浸食する傾向を有すること、という特徴がかなりの程度共通して看取できる。こうした国家をPCPSと呼び、独立後のアフリカ諸国の国家モデルとして捉えた。PCPSは、国内的には統治者を頂点とする集権的なパトロン・クライアント・ネットワークによって支えられ、国際的には第二次世界大戦後における主権国家体系の世界化と冷戦体制という国際関係によって支えられていた。

しかし、1980年代以降PCPSは、経済危機、経済自由化政策(構造調整政策)、政治的自由化という3つのインパクトを受けて脆弱化する。これらのインパクトによって、PCPSを内的に支えていた集権的なパトロン・クライアント・ネットワークが分裂・解体し、国家を脆弱化させたために紛争が起こりやすくなったのである。

国家権力をめぐって相争う政治エリートはパトロン・クライアント関係を通じて大衆を動員するが、クライアントはパトロンと同じエスニック集団に属することが多いため、動員されたクライアント・ネットワーク間の衝突はエスニック集団間の衝突に見える。これが、紛争の「大衆化」メカニズムである。PCPSにおいて私物化された国家機構に信頼が置けないため、政治エリートは自前の民兵や民間軍事企業に依存する傾向を持つ。紛争の「民営化」現象もまた、PCPSの解体という文脈に由来する。

第II部「植民地統治の衝撃」

第II、III部では、上記の枠組みに立脚してルワンダのジェノサイドを分析する。いかなる歴史的条件の下で、ジェノサイドという、いわば紛争の「大衆化」の極限が現出したのかをルワンダの事例から考察することが、本論文の狙いである。

ルワンダは植民地期末期に深刻な国内紛争(「社会革命」)を経験し、それが1990年代の内戦とジェノサイドに深く結びつくのだが、第II部ではこの「社会革命」に至る過程を分析する。「社会革命」によってトゥチを統治エリートとする従来の政治体制が崩壊し、代わってフトゥ・エリートが国家権力を獲得した。これに伴って生じた大規模な暴力のため、多数のトゥチが難民として周辺国に流出した。エスニックな対立を基軸とする紛争が生じたのは、植民地期にエスニシティが政治化されたためである。

トゥチとフトゥは言語や宗教に差異がなく、同じ地域に混住して生活する。植民地化以前の王国では、支配層にトゥチが多かったとはいえフトゥのチーフもおり、トゥチとフトゥの区別は曖昧だった。しかし、ルワンダを植民地化したヨーロッパ人は、征服国家史観をもとに、トゥチを外来の「支配する人種」、フトゥを土着の「支配される人種」と捉え、両者を法的に峻別するとともに、植民地行政機構の幹部ポストをトゥチに独占させた。この措置は、統治機構から排除されたフトゥ・エリートの不満を増大させた。また、植民地期に取られた近代化政策や人口増加によって、農村の血縁共同体(リネッジ)が解体し、パトロン・クライアント関係は従来のように有力なチーフとリネッジとの間に結ばれるのではなく、行政機構の有力者と個化(原子化)された農民との間に結ばれるようになった。行政を通じた動員力の強化は、こうした社会構造の変化を背景としている。

1950年代になると、国際社会の圧力を受けて、ベルギーもルワンダの政治的自由化に踏み出した。政党活動が解禁されると、トゥチを中心とする王党派政党と、フトゥの解放を訴える政党の2つが競合した。1959年に始まる「社会革命」は、これら2つの政党の支持者間の衝突に端を発する。衝突が全土に拡大したとき、植民地当局はフトゥの政党を支援し、これによって短期間のうちに統治機構の全面的な変化が発生した。トゥチによってほぼ独占されていた統治機構はフトゥ・エリートの独占へと変わり、国民投票によって王制は廃止された。

第III部「PCPSの成立と解体」

「社会革命」を経て1962年に成立したカイバンダ政権は、短期間のうちに一党制へと変質し、大統領の側近に権力が集中するようになる。この時期の権力集中は、周辺国に流出したトゥチを中心とする難民がルワンダへの侵攻を繰り返す中で進められた。ベルギーの軍事力に依存して外敵を撃退し、その外敵の存在を口実として権力集中と反体制派(トゥチ)の暴力的な抑圧が行われたのである。ここに、PCPSの性格を有する国家が成立する。

カイバンダ政権に不満を持つ北部エリートは、ハビャリマナ国防相を担いで1973年にクーデタを遂行した。クーデタから5年後、ハビャリマナは自ら設立した政党(MRND)による一党制を憲法で規定したが、権力の中枢は、彼の親族、姻族や軍の友人を中心とする少数のインフォーマルなグループ(「アカズ」)に集中した。ハビャリマナ期のルワンダもまた、PCPSの性格を強く保持していた。

1980年代半ばまでハビャリマナ政権は比較的順調な経済運営を実現したが、コーヒー価格の急落をきっかけに長期的な経済危機に陥り、1980年代後半には緊縮財政政策を迫られた。1990年、「社会革命」で流出した難民の第二世代が組織した武装勢力(RPF)が侵攻し、内戦が勃発する。RPFには、ハビャリマナ政権に不満を持つフトゥも参加していた。こうした中、ハビャリマナは一党制の放棄を宣言して政治的自由化に踏み出す。内戦、政治的自由化、経済危機が同時並行的に進行したことで、1990年代初頭のルワンダ国内は未曾有の混乱に見舞われた。1993年には政府とRPFとの間で権力分有を定めた和平協定が結ばれたものの、これに反発する政権内急進派は、RPFをトゥチと同一視し、トゥチの脅威を喧伝して、エスニックな扇動を組織的に行うようになった。

1994年4月6日夜のハビャリマナ大統領搭乗機撃墜事件は、こうした社会的緊張の高まりの最中に起こった。急進派はこの暗殺事件をRPFの仕業と断定し、報復を呼びかけた。首都では、RPFとの交渉に積極的なフトゥ穏健派の指導者が殺害され、同時にルワンダ全土でトゥチが虐殺された。農村部におけるトゥチの虐殺には、膨大な数の民間人が参加した。

現在有力な学説は、この大衆動員を国家の指令に基づくものと解釈する。しかし、必ずしも国家機構を通じて虐殺の指令が伝えられたわけではない。MRNDへの支持が強い地域では地方行政幹部が虐殺を扇動する事例が多いが、野党支持が強いところではそうではない。こうした虐殺を、国家の指令が集権的に伝達された結果と捉えることには無理がある。

PCPS期の中央集権的なパトロン・クライアント・ネットワークは、1990年代に入って分裂、解体したが、政治的自由化の下での政党活動などを通じて再編された。虐殺の指令は、この再編された(中央集権的でない)ネットワークを通じて伝達されたものと考えられる。そうした指令が農村部で強力な動員力を持った背景として、RPFの支配に対する恐怖、「社会革命」の経験とその記憶、フトゥの有力者に対する怖れ(その命令を拒否した場合のコスト)といった要因を指摘できる。

1990年代のルワンダで起こったジェノサイドの構造的要因は、植民地期における国家と社会の顕著な変容、植民地期の経験を反映したPCPSの成立とその解体といった歴史過程のなかに見出すことができる。1990年代アフリカにおける紛争の特質を説明するために第I部で提示した仮説は、ルワンダの事例に関して適合的である。

審査要旨 要旨を表示する

武内進一氏から提出された学位請求論文は、「アフリカにおけるポスト・コロニアル家産制国家の解体と1990年代の紛争――ルワンダ内戦の構造的原因をめぐって――」という題目で、序章と結論に11章からなる本論が挟まれた大作(A4用紙約300ページ)である。本論文は、1990年代にサブサハラ・アフリカ(以下、アフリカ)で武力紛争が頻発した背景を非植民地化で生じたアフリカ近代国家に共通する特徴の中に求め、特に多数の犠牲を生み出したルワンダの事例について、植民地以前から植民地化、非植民地化を経て大規模内戦に至る政治社会の変容を詳述することにより、ルワンダはもとよりアフリカ諸国の抱える課題を析出したものである。

このように豊富な内容を持つ本論文は、大別して2つの異なる視点から位置づけることができる。すなわち、本論文は、ひとつにはルワンダの内戦をケースにしたアフリカ比較政治学への理論的貢献を試みたものとして読むことができ、このような文脈では、ポスト・コロニアル家産制国家(Post-Colonial Patrimonial State: PCPS)という新しい国家類型を提起した論文である。もうひとつには、植民地末期と1990年代の2度にわたって内戦を経験したルワンダについて、これら2つの紛争の背景と要因を長期的変化と直接的契機というマクロ・ミクロ両面から解明しようとしたものであり、植民地期以前にまで遡って説き起こす包括的なルワンダ政治社会史の論文としても読むことが可能である。

本論文の内容はおおよそ次の通りである。本論は3部に分かれる。第I部では、現代アフリカにおける紛争の特質を指摘し、そうした特質が現出する要因を独立後のアフリカに出現した特異な国家-ポスト・コロニアル家産制国家(Post-Colonial Patrimonial State: PCPS)-の解体に求めるという仮説を提示する。第II部と第III部は、ルワンダの事例研究であり、第II部で植民地末期に勃発した内戦に至る経緯を、第III部では独立後から1994年のジェノサイドに至る経緯を分析する。結論では、ルワンダについて仮説の検証を行ったうえで、アフリカにおいて1990年代以降PCPSがどのような分化を遂げつつあるのかを展望する。

まず、第I部「1990年代のアフリカの紛争をどう捉えるか」(序章、第1章、第2章)では、1990年代のアフリカにおける武力紛争に見られる(1)深刻な紛争の頻発、(2)紛争の犠牲となる、または紛争に関与する民間人の増加(紛争の「大衆化」)、(3)紛争のアクターの多様化、民兵や民間軍事企業など民間部門への暴力行使の依存(紛争の「民営化」)、といった特徴を説明する枠組みとして、アフリカにおける国家の特質に着目した仮説を提示する。すなわち、 (1)家産制的な性格を有すること、(2)暴力的な性格を有すること、(3)主権国家としての地位を利用し、国際関係のなかで得られる資源を国内統治に振り向けること、(4)市民社会の領域を浸食する傾向を有すること、という特徴を持つ国家をポスト・コロニアル家産制国家(PCPS)と呼び、独立後のアフリカ諸国の国家モデルとして捉える。このPCPSの解体過程で、上述のような特徴を持つ紛争の頻発が引き起こされると武内氏は主張する。

PCPSは、国内的には統治者を頂点とする集権的なパトロン・クライアント・ネットワークによって支えられ、国際的には第二次世界大戦後における主権国家体系の世界化と冷戦構造によって支えられていた。しかし、1980年代以降PCPSは、経済危機、構造調整による経済自由化、政治的自由化という3つのインパクトを受けて脆弱化し、PCPSを内から支えていた集権的なパトロン・クライアント・ネットワークが分裂・解体した。この国家の脆弱化が、紛争の頻発をもたらした。国家権力をめぐって相争う政治エリートはパトロン・クライアント関係を通じて大衆を動員するため、紛争の「大衆化」が引き起こされる。PCPSにおいては私物化された国家機構に信頼が置けないため、それが解体すると政治エリートは自前の民兵や民間軍事企業に依存する傾向を持ち、紛争の「民営化」の現象が生じる。

第II部「植民地統治の衝撃」(第3章から第6章)では、ルワンダにおける1990年代の内戦とジェノサイドに深く結びつく植民地期末期の深刻な国内紛争(「社会革命」)の背景を分析する。「社会革命」とは、トゥチを統治エリートとする従来の政治体制に代わってフトゥ・エリートによる国家権力獲得をもたらした過程である。これに伴って生じた大規模な暴力のため、多数のトゥチが難民として周辺国に流出し、その後の紛争要因のひとつになった。また、植民地期にエスニシティが政治化されたことが、エスニックな対立を基軸とする紛争を引き起こすことになる、と説明される。

もともと植民地化以前のルワンダではトゥチとフトゥの区別は曖昧だったが、植民地化したヨーロッパ人がトゥチを外来の「支配する人種」、フトゥを土着の「支配される人種」と捉えて両者を法的に峻別するとともに、植民地行政機構の幹部ポストをトゥチに独占させた。また、近代化政策や人口増加によって農村の血縁共同体が解体し、パトロン・クライアント関係は、行政機構の有力者と個化(原子化)された農民との間に結ばれるようになり、動員のメカニズムが変容した。

このような状況下で、1950年代になると国際社会の圧力を受けて、宗主国ベルギーもルワンダの政治的自由化に踏み出す。政党活動が解禁されると、トゥチを中心とする政党とフトゥの解放を訴える政党とが競合し、支持者間の衝突が激化する。衝突が全土に拡大したとき、植民地当局はフトゥの政党を支援し、これによって「社会革命」すなわち短期間での統治機構の全面的な変化が発生した。トゥチによってほぼ独占されていた統治機構はフトゥ・エリートの独占へと変わった。

第III部「PCPSの成立と解体」(第7章から第11章)では、ルワンダがPCPSの性格を備えていく過程と、それが崩壊して内戦になり、紛争の「大衆化」と「民営化」の中でジェノサイドが起こる過程を分析する。

「社会革命」を経て1962年に独立とともに成立したカイバンダ政権は、短期間のうちに一党制へと変質し、大統領の側近に権力が集中するようになる。すなわち、周辺国に流出したトゥチを中心とする難民がルワンダへの侵攻を繰り返す中で、ベルギーの軍事力に依存して外敵を撃退し、その外敵の存在を口実として権力集中と反体制派(トゥチ)に対する暴力的な抑圧が行われた。ここに、PCPSの性格を有する国家がルワンダで成立する。カイバンダ政権に不満を持つ北部エリートは、ハビャリマナ国防相を担いで1973年にクーデタを遂行した。5年後、ハビャリマナは自ら設立した政党による一党制を憲法で規定したが、権力の中枢は、彼の親族、姻族や軍の友人を中心とする少数のインフォーマルなグループに集中した。ハビャリマナ期のルワンダもまた、PCPSの性格を強く保持していた。

1980年代半ばまでハビャリマナ政権は比較的順調な経済運営を実現したが、コーヒー価格の急落をきっかけに長期的な経済危機に陥り、1990年になると、「社会革命」で流出したトゥチ難民の第二世代が組織した武装勢力であるルワンダ愛国戦線(Rwandan Patriotic Front: RPF)が侵攻し、内戦が勃発する。RPFには、ハビャリマナ政権に不満を持つフトゥも参加した。こうした中、ハビャリマナは一党制の放棄を宣言して政治的自由化に踏み出す。内戦、政治的自由化、経済危機が同時並行的に進行したことで、1990年代初頭のルワンダは混乱に陥り、1993年には政府とRPFとの間で権力分有を定めた和平協定が結ばれたものの、これに反発する政権内急進派は、RPFをトゥチと同一視し、トゥチの脅威を喧伝して、エスニックな扇動を組織的に行うようになった。1994年4月のハビャリマナ大統領搭乗機撃墜事件は、こうした社会的緊張の高まりの最中に起こった。急進派はこの事件をRPFの仕業と断定し、報復を呼びかけた。首都ではRPFとの交渉に積極的なフトゥ穏健派の指導者が殺害され、同時にルワンダ全土でトゥチが虐殺された。農村部におけるトゥチの虐殺には、膨大な数の民間人が参加した。

現在有力な学説はこの大衆動員を国家の指令に基づくものと解釈するが、実際には、必ずしも国家機構を通じて虐殺の指令が伝えられたわけではない。PCPS期の中央集権的なパトロン・クライアント・ネットワークは1990年代に入って分裂・解体し、それに代わって、政治的自由化の下での政党活動などを通じて新たなネットワークが形成された。虐殺の指令は、この再編された中央集権的でないネットワークを通じて伝達されたものである。そうした指令が農村部で強力な動員力を持った背景として、RPFの支配に対する恐怖、「社会革命」の経験とその記憶、フトゥの有力者に対する怖れ(その命令を拒否した場合のコスト)といった要因を武内氏は指摘する。

結論では、1990年代のルワンダで起こったジェノサイドの構造的要因が、植民地期における国家と社会の顕著な変容、植民地期の経験を反映したPCPSの成立とその解体といった歴史過程のなかに見出すことができること、第I部で提示した仮説はルワンダの事例に関して適合的であることを再確認する。そして、PCPSの解体を含む変容が、今日のアフリカの国家類型と紛争形態に密接に関連していることがルワンダ以外のアフリカ諸国の状況を整理・分類することにより示される。

以上のように、本論文はジェノサイドにいたるルワンダの政治社会変化を、PCPSという国家類型を駆使しつつ、国家と社会をセットとして捉え、長期的な視野に立って叙述したものであり、さまざまな角度から高く評価できる。本論文は、何よりもルワンダ政治社会史の体系的分析に特徴があり、国内外に類書を見ないという点で世界初の業績である。第二に、本論文で提示されたポスト・コロニアル家産制国家(PCPS)モデルは、アフリカ政治研究で示された新家産制国家モデルを乗り越える新しい概念であり、1990年代にアフリカで紛争が頻発する理由を説明するだけでなく、ルワンダを含むアフリカ諸国の独立後の国家体制とその変容を従来よりも具体的かつ体系的に規定するものであるという点で、比較政治学に大きく貢献している。第三に、ルワンダの紛争は歴史的伝統の延長線上にある部族対立であるという通俗的な見方に対し、本論文は植民地支配下でのエスニシティの政治化と政治的自由化がもたらす動員形態の結果であることを詳細に明らかにした。第四に、ルワンダのジェノサイドは国家主導であるとの有力説に対し、武内氏は数次にわたる現地での聞き取り調査を踏まえ、PCPS解体に伴う紛争の「大衆化」と「民営化」の極限的現象であることを説得的に示した。

このように、本論文はマクロな歴史的観点とミクロな草の根的観点の両方からルワンダでジェノサイドにまでいたった紛争を解明した論文であり、高く評価できる。しかし問題がないわけではない。まず、1990年代に頻発したアフリカの深刻な紛争の中でもルワンダのケースは特に深刻であり、これがPCPS解体の結果としての典型なのか、それともルワンダに固有の理由があったのか、という点は必ずしも明確にされていない。さらに、ナチスドイツによるジェノサイドについての最近の研究成果を踏まえると、ルワンダのジェノサイドについてもっと深く一般的な主張もできたのではないかという指摘が審査委員からなされた。また、PCPSの紛争形態と変容形態にいくつかのパターンがあることは、PCPS自体の分類・類型化が可能なのではないか、という指摘もなされた。

以上のような問題点は、本論文がルワンダの紛争についての通説を書き換える実証研究であること、第一級のルワンダ政治社会通史であること、さらには比較政治学に新しい国家類型をもたらしたこと、という学術的価値をいささかも損なうものではなく、PCPSの概念をさらに精緻化し、ルワンダ以外の紛争についても本論文のような視点から研究を深めるという今後の課題に繋がるものである。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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