学位論文要旨



No 123146
著者(漢字) 隠岐,さや香
著者(英字)
著者(カナ) オキ,サヤカ
標題(和) 十八世紀パリ王立科学アカデミーと「有用な科学」の追求:理想の学者像と道具的専門性の狭間で
標題(洋)
報告番号 123146
報告番号 甲23146
学位授与日 2008.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第791号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学 准教授 廣野,喜幸
 東京大学 准教授 長谷川,まゆ帆
 名古屋大学 教授 長尾,伸一
内容要旨 要旨を表示する

パリ王立科学アカデミー(1666-1793)は、近代西洋社会における最初の本格的な国家による科学研究機関の一つとして位置づけられる。だが18世紀全般を通じての科学アカデミーとその社会における位置づけを扱った論考は1960年代末におけるロジャー・ハーンの研究より後は存在していない。ハーンの論考はそれまで歴史的役割を過大評価されてきた同アカデミーの歴史を「脱神話化」したという点において画期的であったが、今日の細分化した科学とその科学者共同体を前提とした科学観による歴史的対象への時代錯誤なアプローチがみられ、アカデミーで行われた多様な諸科学の実践とその政治的背景を的確に捉えていたとは言い難い。

本論文の目的は社会史的、文化史的観点から18世紀のパリ王立科学アカデミー像を新たな解釈と共に再構成することにある。そのためのアプローチとして、科学アカデミーが組織として重視していた「有用性」(utilit_)の追求という理念に着目し、同アカデミーが政治や社会との関わりの中で実際に「有用」であるべく果たそうとした役割と、それを正当化するため戦略的に生産された言説の双方について、18世紀を通じて検証することを試みる。社会における科学の位置づけが明らかではなかった時代、公共(le public)のために「有用」であること、「公共善」(bien public)を追求する存在として自らを位置づけることは、アカデミーという組織の存在意義を主張する上でも、そこに所属する一人の学者として学問の理想像を語る上でも欠かせない論点であったのだ。

「有用な科学」の言説とそれにまつわる実践の分析というアプローチを選択することにより、本研究では同時に次の二つの一般的な問題が取り扱われている。一つは、科学に携わる人々がいかにして社会の中で「科学者」として認知される存在へと変貌していったのかという「科学の専門職業化」の問題であり、もう一つは、「啓蒙と科学がいかなる関係を築いていたのか」という十八世紀フランス思想史に連なる主題である。

一般的な科学技術史において、「アカデミーの時代」である十八世紀は科学の専門職業化に到達する前段階を構成し、科学を愛好、もしくは生業としようとする学者(savant)が社会の中での立ち位置を模索していた時代に相当する。だが、1666年に誕生した科学アカデミーは、王権に威光を添える装飾品以上の社会的な役割を持たず、1699年になり政府と会則制定の文書を交わすまで団体としては一切の公的な諸権利を与えられていなかった。そのような学者達と形成途上にあった近代国家とが、続く18世紀にいかなる関係性を築いていったのか。筆者は、科学アカデミーと閣僚との交換書簡や、後者から前者になされた諮問、調査依頼の事例を通じた分析により、組織としての科学アカデミーと政府の間になされた交流の実態を把握しようと試みた。そのため科学アカデミーを直接監督・指導する役割を担った宮内省(Maison du roi)との通信書簡(フランス国立古文書館宮内省関連文書S_rie O1)が史上初めて筆者により体系的に調査されることとなった。

科学における啓蒙の役割について筆者がとりわけ注目したのは、18世紀中庸に本格化するフィロゾーフらによる「有用な科学」の追求が王に庇護されるアカデミーとしての存在形態と摩擦を生じていく過程であった。筆者はその過程に二つの段階をみている。一つめは18世紀中庸の「大啓蒙」を契機とするダランベール派の躍進とビュフォン派との衝突である。両者の対立は数学の自然諸科学、社会諸科学への応用可能性を主要な論点としていたが、それは直接の科学論争としてではなく、あるべき学者像、科学のモデルを通じた認識論的対立であった。そして、ダランベールの政治的「勝利」により終身書記としてアカデミーのスポークスマンとなったコンドルセにおいて数学の可能性という問題は、機械製作や土木公共事業など、現実の技術的対象を理論科学により統御する可能性の考察へと展開し、彼自身が関わっていた政治改革の中での試行錯誤へともつながっていく。

二つめの段階を構成するのが、コンドルセ、ラヴォワジエが中心となった革命直前期までの1780年代である。本研究の独自性のもう一つは、この時代を18世紀中庸以来の政治経済論(_conomie politique)の発展とそれに伴う公論空間の成立が、政治改革の進展により、分野を超えて科学アカデミーの諸科学に影響を及ぼしていく過程として描き出すところにある。その影響はまず、コンドルセによる「道徳政治諸科学(sciences morale et politiques)への計算の応用」(「社会数学」とも呼ばれる)、すなわち経済や社会現象へ確率論を応用するための学問プロジェクトに現れる。彼はラプラスによる理論研究の成果を踏まえ、数理科学の社会的対象への応用可能性を認識論的に基礎付けることで、ダランベール、ビュフォンらの認識論的対立の一部を実質上調停したのであった。他方、科学アカデミーの側でも、コンドルセによる学問プロジェクトと同時進行する形で、公衆衛生や都市計画、公共事業やそのための統計調査など当時社会の関心を集めた一連の主題が手がけられ、後にそれらは総称して「エコノミー」(_conomie)という区分で分類されることになる。

「科学の専門職業化」と「啓蒙と科学」の問題は1780年代というこの段階に至り、重なり合う一つの像を結ぶ。「エコノミー」諸事例は公論の論客でもあったコンドルセ、重農主義サークルと深いつながりを持っていたラヴォワジエら、一部の学者が望んで為政者に働きかけ、それまで政治的な諸問題とは距離を置いていた科学アカデミーへと引き寄せたものであった。一連の事例のうち、監獄調査、病院調査、土木公共事業など大がかりなものはいずれも政府高官による直々の諮問として現れることとなる。それは、王のパトロネージのもと政治とは距離を置く「科学共和国」であった科学アカデミーが、本格的に国家に動員され社会へと介入する専門権威の場と変わっていく最終段階をも示していた。そして革命直前期の混乱した世情の中、その成果は試行錯誤の域を出ないものに留まるにも関わらず、複数の分野が必然的に協働するこれらの事例を通じて、複数の諸科学(sciences)の場であった科学アカデミーが、一層強く一体性を持った科学(Science)の権威として社会の中で認知されていったのである。

本研究の概要は上記の通りであるが、以下にその具体的な構成を示す。本論文は三部構成を取っており基本的に時系列に沿って議論が展開する。第一部では17世紀における科学アカデミー誕生の経緯からその制度が一定の法的位置づけと活動の輪郭を備えるまでの18世紀前半を扱う。第一章、二章では18世紀初頭までにおける学者の社会的地位と誕生した科学アカデミーの制度的輪郭が描かれ、第三章において同アカデミーの終身書記であったフォントネルと、アカデミシアンの地位待遇改善を求めたレオミュルによる科学の「有用性」論及びその射程が分析される。

第二部は18世紀中葉のフランスを襲った政治危機と七年戦争の敗北に始まり、フィロゾーフ達の希望を背負った財務総監テュルゴーの改革が失敗に終わる1776年までが描かれる。第四章では政治危機の様相とそれに伴う政治文化の変化、特に公論による政治経済論議の展開を前に、政権の側がその意志決定の拠り所として新しい統治のための諸科学を模索するようになる過程が示される。第五章では同時期の科学アカデミーが、発明審査や産業マニュファクチュアに貢献する人材を提供する技能団体としての一面と、外界の政治とは隔絶した「好奇心をそそる」諸研究を追求する「科学の共和国」としての姿を使い分けることで王権の機関として機能していた様子を紹介する。続く第六章、七章では、啓蒙期の科学を代表していたダランベールとビュフォンの思想的、政治的対立を取り扱い、前者による科学アカデミーの「征服」の末に終身書記となったコンドルセによる新しい「有用な科学」モデルの成立とそこでの理論科学と技術の問題が分析される。第八章ではコンドルセが参謀の一人としても参画したテュルゴーの改革における科学アカデミーの役割が事例ごとに検証されている。

第三部はテュルゴー改革より後から革命期までを取り扱うが、中でも1783年から1788年まで科学アカデミーを監督する立場にあった宮内大臣ブルトゥイユの在任時代に多くのページが割かれている。まず第九章において、アカデミーの1780年代に関する先行研究の紹介がなされ、「エコノミー」の概念が分析される。第十章では財務総監ネッケル政権下での「エコノミー」事例としての監獄調査における科学アカデミーの役割が分析され、第十一章以降では宮内大臣ブルトゥイユの科学アカデミーに対する関与の増大と、彼による諮問事例の紹介がなされる。第十二章で扱われる病院移転問題は科学アカデミーが「エコノミー」に代表される政治・経済的な諸問題へと直接踏み込んでいく転換点として位置づけられている。そして第十三章、第十四章では「エコノミー」と同時代的な試みとしてコンドルセの「道徳政治諸科学への計算の応用」プロジェクトを紹介し、科学アカデミーが組織として体験していた体制改革との関連性が確認される。終章である第十五章においては、様々な諮問調査活動を通じて王権と密接な関係を築いた科学アカデミーが革命期に辿った経緯が簡単に示され、革命後に誕生する国立学士院やエコールポリテクニークを始めとする諸制度との連続性と非連続性の諸相が論じられることとなる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1666年に設立したフランスの「王立科学アカデミー」の旧体制期における制度的特徴と会員らの科学的調査研究の諸活動を論じたものである。本論文は、3部14章からなる。第1章は王立科学アカデミー設立計画と設立の経緯、第2章はアカデミー会員ら科学者の社会的地位とその意義が論じられる。第3章では長年アカデミーの書記を務めたフォントネルらの言説に見られる「有用性」の概念が分析され、18世紀前半におけるアカデミー会員と産業技術との関わり論じられる(以上第1部)。第4章では18世紀中葉の7年戦争の敗戦などの政治的危機状況を経て、経済的関心に由来する諸問題がアカデミーでより多く検討されるようになったこと、第5章ではその一方で外部の社会からは一定の自律性を保証するような制度的条件が生み出されたことが論じられる。第6章では啓蒙主義の担い手とされる人々の科学観、特にダランベールとビュフォンの科学観が比較対照されて分析される。第7章では「有用性」の意味内容の変化とアカデミーの特に機械技術との関わり、第8章では18世紀後半の王国の宰相テュルゴーとアカデミーとの関わりが論じられる(以上第2部)。第9章では18世紀末における「エコノミー」という概念が分析され、第10章では科学アカデミー会員に諮問された監獄の環境改善の問題、第11章では気球などの科学技術上の諸問題、第12章では病院改革の問題、第13章では「政治算術」と呼ばれたコンドルセによって展開された経済社会現象への確率論の応用理論、そして第14章では人口論、運河建設などとその数学的扱いが論じられる(以上第3部)。

隠岐さや香氏の論文「十八世紀パリ王立科学アカデミーと「有用性」の追求-理想の学者像と道具的専門性の狭間で」は、17世紀後半から18世紀末までの王立科学アカデミーの活動の歴史を探ったものである。同氏は、本学の博士課程在学中にフランスに3年以上滞在し、その間当該テーマと関連する領域を研究するフランスの歴史学研究者とよく交流し、最新の知見を本論文に盛り込むことができた。またその間、パリ科学アカデミーのアーカイブならびにフランス国立公文書館において科学アカデミーの関連史料をじっくりと探索渉猟することができた。フランス革命前の旧体制期において科学アカデミーが活動した120年以上にわたる同アカデミーの議事録、会員の書簡等を丹念にあたることによって、公開された出版物・報告書だけでなく、その背後でなされていた論争、計画、計画をめぐる対立、王権から諮問を受けた諸問題などを明らかにすることに成功した。一次文献と二次文献の広範な調査の成果は、千以上を数える脚注によく反映されており、それが本論文の最大の強みになっている。

本論文の主要テーマは、17世紀の科学革命後期に創設された王立科学アカデミーが、同時代の社会においてどのような存在意義を有したか、有するべきであると論じられたか、そして諸科学の研究の有用性ということにアカデミーはどのような立場をとっていたかということである。単に基礎研究・応用研究という今日流通している二分法を当時の研究活動に無理に当てはめるのでなく、当時の議論に現れた「有用性」という概念の意味とその歴史的変化を分析し、専門家同士が切磋琢磨し質の高い研究が保証されるような研究機関としての自律性をもつようになっていったことを指摘し、そして18世紀後半においては王権の諮問機関としての性格を深めていったことを確認する。研究の根本的な性格を有用性の概念、制度的な特徴と条件を通じて捉え直しているわけである。18世紀前半において、科学アカデミーの諸会員によって語られる「有用性」は、経済的利益に直結する実利的な有用性だけでなく、社会環境を整えたり、人間精神を向上させたりすることも含む広い意味で用いられていたが、世紀後半には好奇心を満たすための調査研究は有用性の範疇から除外されるようになっていった。それだけ経済的・政治的な関心が強められていくことになる。また科学アカデミーは機関誌の査読審査システムなどを早い時期に確立し、外部の干渉からはある程度独立した議論と発表の場が確保され、著者の呼ぶところの「科学の共和国」が成立していった。このように創設後の科学アカデミーは、広い意味での有用性を強く意識する一方で、科学研究の自律性を確保する「科学の共和国」を提供することが矛盾なく実現されていたことが指摘される。18世紀中葉以降になると科学の有用性に関して対立と論争がなされるとともに、王権の側でも王国の内外で生じる国家的な諸問題の諮問機関として科学アカデミーを活用しようとする動きが進み、王国の統治のための科学を調査研究する機関としての性格を有していくようになる。

隠岐氏の論文は、このような科学アカデミーの制度的環境の120余年を通じての変遷を跡づけることを縦軸としつつ、本論14章の各章において科学アカデミーが取り組んだ各時代の重要な科学技術上の問題、社会的問題とその取り組みの経緯が横軸を構成する歴史的トピックとして解説され分析されている。そのそれぞれの歴史トピックが重要な歴史的、社会的、科学的意義を有しており、論文内容が大変興味深いものに仕上がっている。その一例をあげれば、当時においては、監獄と病院の居住環境の改善は喫緊の課題とされるようになっていたが、論文ではその課題へのアカデミー会員の関わり、調査の過程で建造物の具体的な建築設計までには関わらないようになったプロセスが詳細に記されている。そのプロセスの記述にあたっては、化学者と医学者が交流することになるような空気の良好度に関するテクニカルな内容に十分に踏み込んで論じるまでには至っていないが、当時の先端的な科学研究と社会的に重要な問題との関係とそれをめぐる議論の進行過程を詳細に描き出したことは高く評価される。また、それ以外にも、コンドルセがかかわった「位置の解析学」「政治算術」と呼ばれる数学的理論化の試みなどの論述も大変興味深いものである。

審査は、科学史・医学史・科学哲学を専門とする教員とともに、この時期のフランスの社会史、経済思想史を専門とする研究者によってなされたが、いずれも本論文に対しては史料調査の綿密さと内容の重要性と興味深さから博士研究論文として高い評価がなされた。

結び

よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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