学位論文要旨



No 123149
著者(漢字) 中嶋,晋作
著者(英字)
著者(カナ) ナカジマ,シンサク
標題(和) 農地をめぐる取引形態に関する計量経済学的研究
標題(洋)
報告番号 123149
報告番号 甲23149
学位授与日 2008.02.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3233号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 木南,章
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 准教授 安藤,光義
 東京大学 准教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

現在,日本農業を取り巻く環境には極めて厳しいものがある.言うまでもなく,WTO体制の下,農産物の市場開放が待ったなしで迫る中で,日本農業にとってはさらなるコスト削減が不可欠だからである.農業政策も大きな転換を見せている.すなわち,価格政策からの脱却が図られる中,政策支援の対象を担い手に絞るよう,その舵を切った.日本農業は多くの課題に直面しているわけであるが,最大の課題の一つとして,農地流動化による農家の経営規模拡大が挙げられることに異論はないだろう.これは旧農業基本法以来言われ続けているが,依然十分な解決をみていない課題である.

農業経済学の分野において,農地をめぐる構造問題は古くから研究されており相当の研究蓄積がある.中でもエポックメーキングな研究は,梶井功氏の提示した農地賃貸借の成立条件(いわゆる「梶井理論」)であろう.「梶井理論」を受けて,近代経済学的アプローチからは,生産関数分析を主要なツールとして計量経済学的に「梶井理論」の成否を検証することに力が注がれた.その後,計量的な接近には双対理論,フレキシブルな関数形の導入といった理論上・手法上の進展も見られた.

確かに,「梶井理論」やそれに続く一連の計量経済分析は.農地をめぐる構造問題研究のひとつの到達点を成している.しかし,「梶井理論」は階層間の費用・生産性格差の存在をややナイーブに規模拡大の可能性に結びつける点で,土地用益市場に関する「場」のイメージが希薄である.また,「梶井理論」に依拠した近代経済学的な研究は,集計された農地需要関数・供給関数を推計している点で,農村の土地用益市場の実態にマッチしているか否かは疑わしい.つまり,「梶井理論」をめぐるマルクス経済学,近代経済学的アプローチのいずれにおいても,土地用益の取引をめぐる市場観が極度に抽象化されている点で問題が残る.実際の土地用益市場は,唯一の価格を所与として匿名の多数の貸し手と借り手が取引を行うオープンな市場とは程遠い.どちらかと言えば,信頼関係で結ばれた契約の束,1対1の交渉の場を想定するほうが現実的であろう.

このような点を踏まえて,本論文の課題を,比較的狭い範域を対象に収集されたマイクロなデータを用いて,農地をめぐる取引形態(「契約」)の選択の決定要因を明らかにすること,また,それによって土地用益市場の場のイメージを具体化・豊富化することとした.

この課題に答えるべく,第2章では,借り手及び受託者の視点から,賃貸借と農作業受委託の選択問題を検討した.借り手及び受託者にとって,賃貸借のメリットは,(1)経済的(収益的)有利性,(2)経営の計画性,(3)インセンティブの存在にあり,一方,農作業受委託のメリットは,(1)事前に確定した現金収入の獲得,(2)畦畔管理・水管理労働,転作負担の回避,(3)集積の容易さにある.農作業受委託において事前に確定した現金収入が獲得できるのは,収量変動,価格変動というリスクを負担せずに済んでいるからである.第2章では,このような賃貸借と農作業受委託におけるリスク負担の構造の違いに着目した.分析の対象地域は,収量変動の大きい東北地方14市町村とした.分析の結果から,収量変動の大きい地域では,借入と受託を組み合わせる農家や受託のみ実施する農家が多い傾向にあることが明らかになった.つまり,農作業受託によるリスク回避行動が検証された.また,若い農家ほど借入と受託の両方を行っていることから,農作業受託が経営規模拡大のステップとしての役割を果たしていることが確認できた.

このように,経営規模拡大の初期のステップとしての役割を果たしている点,また経営のリスクを分散させるという点で,農作業受委託は分益小作契約と類似している.分益小作契約は欧米や開発途上国で広く観察される制度である.日本においても2000年の農地法改正によって小作料の定額金納制は廃止されているが,依然として分益小作契約は少ない.このような中にあっては,農作業受委託が経営規模拡大だけでなく,分益小作契約と類似した機能を果たす契約形態として重要な役割を担っているのである.農作業受委託にリスク分散機能がある以上,リスクに対する態度など農家自身の経営的特性に応じて賃貸借と農作業受委託を自由に選択できる環境を作ることが望ましい.その意味で,賃貸借と農作業受委託の選択に過度にバイアスをかけるような小作料,作業料金の水準は問題であり,適切な小作料,作業料金の設定が求められる.

第3章では,貸し手及び委託者の視点から,賃貸借と農作業受委託の選択問題を取り上げた.具体的には,長野県飯山市柳原営農組合を対象に,集落営農における参加形態-貸付か農作業委託か-の選択問題について検討した.集落営農への参加形態との関わりで,特に重要なのは,畦畔管理・水管理労働の分担関係である.言うまでもなく,農地の貸付の場合は集落営農が,農作業委託の場合には農家自らが,畦畔管理・水管理労働を担うことになる.

分析の対象地域である柳原地区は,貸し手が多数,借り手が単一(集落営農のみ)という土地用益市場の構造を想定することができた.このような土地用益市場のもとで,集落営農への参加形態は,世帯員数,農業後継者といった家族労働力の賦存状況が重要なファクターであることが明らかとなった.つまり,世帯員数が多くなると,あるいは家の後継者が確保されると,世代構成が一世代から重世代となり,農作業委託という形であっても農業を継続しようとする意識が強まることを示している.逆に言えば,家族労働力の脆弱化した農家は,農作業委託の経済的有利性があったとしても,農作業委託から貸付に移行せざるを得ないのである.

中山間地域の集落営農の継続性を考えた場合,規模の経済を発揮しにくい畦畔管理・水管理労働を如何に確保していくかが重要となる.つまり,できるだけ畦畔管理・水管理を農家自身で行う農作業受委託関係に農家を誘導することが必要となる.今のところ,柳原営農組合では,二・三世代世帯の多さからくる「いえ」の強靭さによって,何とか農家を農作業委託に踏み止まらせることができている.しかし,今後,高齢化,「いえ」の後継ぎの他出が進行すれば,貸付が増加する事態は容易に想像がつく.このような事態を想定して,畦畔管理・水管理労働力を組合内に確保する方策を検討すべきである.そのためには,土地への高分配率を改め,労働への分配を高くすることも視野に入れる必要があるだろう.

第4章の論点は,貸借契約の安定性である.水田と異なり連作障害の問題が生じやすい畑作においては,土壌改良のための堆肥の投入,深耕,客土投資が常に求められる.借り手農家が,これらの土地改良投資を行うか否かの意思決定について,自由に選択できる環境にあるならば問題は生じない.しかし,何らかの要因によって改良投資が制限されているならば,過少投資に伴う非効率が顕在化することになる.過少投資が特に生じやすいのは,契約期間の定めのないヤミ小作の場合である.ヤミ小作は,典型的な不完備契約である.不完備契約であるがゆえに,改良投資後に貸し手が機会主義的行動(借り手が借地に投資をした途端にその土地の返還を求める行為等)をとるかどうかについて事前に判断できない.そのため,借り手は改良投資を躊躇せざるを得なくなるのである(ホールド・アップ問題).ただし,ヤミ小作の借地だからといって,直ちに過少投資になるとは限らない.借り手と貸し手の信頼関係によって,貸し手の機会主義的行動が抑止され得るからである. つまり,畑地の貸借では,貸し手と借り手の関係,契約形態や契約期間のあり方が極めて重要となる.

そこで,第4章では,愛知県渥美町(現田原市)を対象に,畑地の貸借契約の選択-文書契約(利用権設定)か口頭契約(ヤミ小作)か-,及び土地改良投資の選択について,如何なるファクターが影響を及ぼしているかについて検討した.渥美町の土地用益市場は,借り手の土地需要が強く,貸し手に交渉力がある状況を想定することができる.このような土地用益市場の構造のもとでは,借り手の属性のみならず貸し手の属性が,貸借契約の選択や土地改良投資の意思決定に影響する.この点を考慮して,貸し手及び借り手双方の行動を同時に計量モデルに組み込んで分析を行った.分析の結果,貸借契約の選択には,貸し手と借り手の血縁関係,貸し手のフレキシビリティ喪失の機会費用が決定要因となっていることが検証された.また,文書による契約形態や貸し手と借り手の信頼が,土地改良投資のインセンティブを高めるように作用していることが実証された.以上より,借り手に投資のインセンティブを与えるためには,文書契約(利用権設定)を促進すること,また,農業委員会等が中心となって有益費償還のルール作りに取り組むことが求められるだろう.

所有から利用優位の理念を徹底させ,担い手への農地集積を図ることは,日本農業の大きな課題である.そのためには,農地の貸借を地縁・血縁に基づく縁約から市場交換的な契約へと移行させることが必要である.もっとも,本論文の分析で明らかになったように,農地の派生需要を地代のみの関数として捉えることは現実的ではない.実際には,農地という特殊な財の取引には,地縁・血縁関係がものをいう.また,農地の取引には情報の非対称性や取引費用がともなうため,マーケットが必ずしも効率的な資源配分を達成するとは限らない.この点を十分承知した上で,それでもなお,担い手への農地集積を図るためには,円滑な農地貸借のマーケットを形成することが必要不可欠と思われる.

審査要旨 要旨を表示する

農業の規模構造と農地の流動化の問題は、農業経済学のコアに位置する研究テーマのひとつであり、内外に多くの研究蓄積がある。古くは農民層分解論に依拠したマルクス経済学の実証研究があり、近代経済学の分野においても、規模の経済性や均衡地代率の計測など、計量経済学的な接近が行われてきた。しかしながら、これらのアプローチは集計的な統計データに依拠し、生産力格差をやや機械的に農地の流動化に結びつける点で、共通の限界を有していたことも否めない。

一方、契約に関する経済理論の近年の充実ぶりはめざましく、ゲーム理論や計量経済学の手法の洗練とも相まって、さまざまなタイプの経済問題の分析に威力を発揮している。本論文は、このような契約の経済理論を農地をめぐる取引形態の選択行動に応用したものであり、農地市場に関する地域データを用いた実証研究の成果である。論文は、先行研究のレビューと契約理論の有用性を整理した導入(1章)と要約と今後の課題を述べた結び(5章)を含む5章から構成されている。

第1章では、農地の取引に関する従来の研究の限界として、農地をめぐる市場構造の差異が考慮されていないこと、農地の取引形態に影響を与える借手・貸手双方の属性が考慮されていないことを指摘する。こうした先行研究の整理・評価を踏まえて、第2章では農地を集積する側の観点から、賃借と作業受託の選択について、リスクの負担構造の違いを明示的に考慮しながら、農家の属性とのつながりを検証した。データは収量変動の大きい東北地域14市町村の水田作に関する経営単位の詳細データである。多選択ロジット・モデルによって推定されたパラメータから、農家の危険回避行動が取引形態の選択に有意な影響を与えていること、農家の年齢が取引形態を規定していること、作業受託が賃借に移行するステップとして機能していることなどが、定量的に明らかにされた。

第3章では、第2章とは逆に農地を供給する側の観点から、水田をめぐる賃貸と作業委託の選択行動が分析される。実証の対象は長野県飯山市であり、中山間地域ということもあって、農地市場は借手市場化の傾向を強めている。この点に留意しつつ、農地利用の受け皿である集落営農組織のもとで、自作継続・賃貸・作業委託の3つのあいだの選択行動に関して、その規定要因を入れ子型ロジット・モデルを用いて検証した。データは申請者が設計したアンケート調査によって収集された。計測の結果、所有農地の規模だけではなく、農家の属性によっても選択される取引形態は有意に異なっていた。とくに家族の世代構成の影響が大きく、日常的な畦畔・用水管理労働確保の可否が農家の判断を強く規定する関係が確認された。

第4章では、農地の供給側と集積側の観点を同時に組み込んで、畑地をめぐる取引形態の選択要因と、選択された取引形態が土地改良の投資行動に与える影響が分析される。実証の対象は愛知県渥美町の露地野菜作であり、農地市場は貸手市場として特徴づけられる。取引形態は法認された賃借といわゆるヤミ小作であり、土地改良投資の内容は畑地のかさ上げ客土である。ゲーム理論を応用することで分析モデルを構築し、取引形態選択の内生性の可能性を考慮してSUBタイプのプロビット・モデルによる計測が行われた。第3章と同様に、データソースは申請者の設計によるアンケート調査である。計測された結果から、信頼の源泉としての縁戚関係や、貸手の選択肢喪失の機会費用が取引形態を強く規定していることや、法認された契約と信頼の要素が土地改良投資の判断を左右していることが明らかになった。

以上を要するに、本論文は農地の取引形態の選択問題に着目し、契約の経済学を援用することで理論モデルを構築し、詳細なローカルデータを用いて計量経済分析を行ったものである。モデルには農地市場の特性や農家の属性が明示的に組み込まれており、農業構造問題のより深い理解や関連する制度・政策設計に有用なファインディングスが得られている。これらの点で、本論文の成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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