学位論文要旨



No 123161
著者(漢字) 武村,雪絵
著者(英字)
著者(カナ) タケムラ,ユキエ
標題(和) 看護師の「しなやかさ」をもたらす4つの変化 : 価値観・知識としての組織ルティーンの継承と革新
標題(洋)
報告番号 123161
報告番号 甲23161
学位授与日 2008.03.05
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2978号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 数間,恵子
 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 教授 神馬,征峰
 東京大学 講師 宮本,有紀
内容要旨 要旨を表示する

I 緒言

組織ルティーンは「同じ局面でその病棟の大半の看護師がとる、予期できる一定の範囲内の行動パターン」と定義できる。組織ルティーンは知識や技術を伝承し行動選択を効率化する一方、最適解の探索を阻害する。組織の短期適応力を高めるには組織ルティーンのレパートリーの増大が、長期適応力を高めるには組織ルティーンの持続的な革新が必要である。組織ルティーンは、組織の構成員の相互作用の中で生まれ、構成員の経験とその結果の解釈、他者の経験の移転などが相互に影響しあう中で変容していく。個人が組織ルティーンにない行動をとることが組織ルティーン変容の鍵を握る。

本研究は、新しく病棟に配属された看護師が、その病棟の価値観の具現であり、病棟に蓄積された知識として存在する組織ルティーンを受け継ぎつつ、組織ルティーンにない実践を行うまでの過程の全体像を明らかにすることを目的とした。この過程で看護師が経験する変化とその変化の影響要因を明らかにできれば、看護師の発達支援への示唆を得ることができる。

II 方法

本研究はグラウンデッドセオリー・アプローチを用いた。データ収集は、1999年から2005年にかけて、オープン・コード化、軸足コード化で各1回、選択コード化で2回の計4回実施した。対象は、首都圏3施設の一般病棟で患者に直接ケアを提供している女性看護師49名で、初回参加時の平均年齢は29.5歳(SD6.7)、平均経験年数は8.2年(SD6.5)であった。全員に少なくとも1回の面接を行い、6名は1年半後に、4名は5~6年後に2回目の面接を実施した。27名には看護場面の観察も実施した。

分析は、まず行動選択に葛藤を感じた場面や組織ルティーンと異なる実践をした場面、病棟や自らにとって当たり前になっている考え方や実践方法を見直した場面などを網羅的に抽出し、オープン・コード化を行った。次に、この作業で明らかになったカテゴリーの特性や次元を表すデータ、カテゴリー間の関係を表すデータを意図的に集めながら軸足コード化を進めた。そして、中核となるカテゴリーとして「しなやかさ」が固定され、諸カテゴリーとの関係が整理された選択コード化の段階で、追加データにより暫定理論を修正した。再度のデータ収集で理論的飽和を確認した。

分析の信憑性を高めるため、分析過程で質的研究者等のスーパービジョン、ピアレビューを受けた。対象者には説明書を用いて研究の目的や方法、自由意思による参加等を説明し同意を得た。なお、本研究は、東京大学大学院医学系研究科・医学部倫理委員会の審査を受け承認された。

III 結果

分析の結果、中核となるカテゴリーは「しなやかさ」―そのときその場の状況に応じて幅広い選択肢から患者アウトカムに資すると判断する行動を選択する柔軟な実行力と、自分や組織にとっての当たり前を見直し新しい実践や意味をもたらす柔軟な思考力とを併せ持つさま―となった。「しなやかさ」の程度は、「実践のレパートリーを増やす」「実践を拡張・深化する」程度が決定し、前者には「組織ルティーンの学習」「組織ルティーンを超える行動化」「組織ルティーンからの時折の離脱」の3つの変化が、後者には「新しいルールと意味の創出」が影響していた。なお、ルールとは「このようなときは、こうする」といった行動規範あるいは価値規範を指す。

1 組織ルティーンの学習(以下、学習)

学習は、新しく病棟に加わった看護師がまず経験する変化で、自らの実践を組織ルティーンに近づけていく変化であった。この変化によって、新参者はその病棟の一人前として機能するようになった。配属された当初、断片的であるがゆえに対立と矛盾に満ちてみえた組織ルールも、広範で複雑な条件付けを学ぶにつれて、特定の状況で選択すべき行動の選択肢が明確になり、行動選択時の葛藤が減少した。学習を終える頃には、その病棟で必要なタスク遂行力・問題対応力を獲得し、個別の実践スタイルにより若干の揺れ幅を生じながら、組織ルティーンを継承する状態となった。「一人前としてチームに加わりたいという思い」「組織ルティーンへの疑問と葛藤の処理」「体験とルールとの接続」が学習を促していた。

2 組織ルティーンを超える行動化(以下、行動化)

行動化は、組織ルティーンの学習がある程度進んだ看護師の一部にみられた変化で、前職場や教育、経験などで獲得した固有のルールに基づいて、組織ルティーンとは異なる実践を始める変化であった。組織ルティーンへの疑問や葛藤が原動力となって行動を起こし、行動の結果を確認し、自信を深めながら実践を継続し拡大していった。やがて組織ルティーンを超えた固有の実践スタイルを安定させた。行動化により看護師は葛藤から脱出し、自信や充実感を得ることができた。行動化には、「組織ルティーンへの疑問や葛藤の意識化」「裁量時間の確保」「一歩踏み出す決意」が必要であった。

3 組織ルティーンからの時折の離脱(以下、時折離脱)

時折離脱は、その病棟で経験の長い看護師の一部に見られた変化で、妥当でないと判断する状況で組織ルティーンから逸脱する行為を選択する変化であった。時折離脱を経験した看護師は組織ルールの拘束力が弱まっており、個別の状況で患者のために有用だと判断すれば、自分の判断で予定を組み替えたり、通常どの看護師も行うタスクを「しない」ことがあった。医師の指示に対しても、標準的な指示がその場面で最適でないと判断した場合、境界を慎重に線引きしながら微妙に逸脱することがあった。「患者のためによいと思う実践をしたいという思いと自分の実践への根本的な自信」、組織ルティーンからの逸脱によって「起こりうることを予測し結果を引き受けられるという見通し」が時折離脱を可能にしていた。

4 新しいルールと意味の創出(以下、創出)

創出は、行動化や時折離脱の後、実践スタイルが安定した看護師が、「看護とは何か」という根源的な問いによって、組織ルールや固有ルールを根底から問い直し、組織ルールにも固有ルールにもなかった新たな実践を行ったり、すでに行っている実践に新たな意味を見出したりする変化であった。この変化によって、自己や病棟の価値観や知識、実践が絶対ではないことを自覚した看護師は、別の価値観や知識、実践を受け入れる準備ができた状態での安定、すなわち揺らぐ余地を残した安定に至った。創出を経験した看護師は等身大の自信をもち、変化前とは全く違う水準で看護の楽しさを感じていた。創出を経験するには、「当たり前が揺らぐ体験」をし、それを自らや組織のルールの「根底を揺るがす体験としての受け止め」をすることが重要であった。

IV 考察

本研究の結果、新しく病棟に配属された看護師が、その病棟の価値観の具現であり、蓄積された知識である組織ルティーンを受け継ぎつつ、それを超える新しい実践を行うまでの過程で、看護師が経験する4つの変化と、その影響要因を明らかにできた。

新しく病棟に配属された看護師はその病棟の一人前になるために、疑問や葛藤を処理しながら組織ルティーンの学習を進めていた。疑問や葛藤の処理は集団への迎合にもみえるが、実践知として病棟に蓄積された知識や技術を効率よく獲得するための現実的で有効な手段であり、適応過程と捉えられた。

組織ルティーンを超える行動化は、看護師が自律性や問題解決思考を獲得する過程とみなすことができた。熟達度の指標として従来用いられてきた行動選択の迅速性や自動化という点では、組織ルティーンの学習の終盤にある看護師より劣ることもあるが、専門職的発達という観点では重要で大きな前進であった。行動化には裁量時間や周囲の受け入れが必要であり、前段階としてある程度組織ルティーンの学習を終える必要があった。しかし、学習の促進要因は、一方で行動化の阻害要因でもあるため、学習の終盤に、組織ルティーンに対する疑問や固有ルールを再意識化させ、チームの一員になることから患者アウトカムに関心を移し、チームとの調和を一時的に乱してでも行動する覚悟をもたせるためのプログラムが必要だと思われた。

組織ルティーンからの時折の離脱は、経験を積んだ看護師が患者の状態を見極めながらそのときその場で最良のケアを選択しようとする行為であった。最適解を得られる可能性にかけて、組織ルティーンに従うことで得られる恩恵を享受しない選択であり、慎重な判断が求められた。時折離脱を経験した看護師は自分にできることの境界を慎重に線引きしていたが、この境界が組織ルティーンへの介入を制限することもあり、境界の見直しを促す必要があると思われた。

これら3つの変化は、個人や病棟が既に持つルールが参照されるため、やがて変化は終了した。第4の変化、「新しいルールと意味の創出」の経験によって看護師は絶え間ない自己革新が可能となり、「しなやかさ」を獲得することができた。「しなやかさ」には、組織ルティーンを超える実践ができる力が必要だが、行動化を経験した看護師は固有ルールの正しさに自信を強めており、それらを根底から見直すことは容易ではなかった。創出を促すには、当たり前を揺るがす体験、特に、既に創出を経験した看護師の実践や姿勢に直接触れ感化を受ける機会が有効だと思われた。

本研究の限界として、個人の行動が組織ルティーンに及ぼす影響、タスクの特性による行動選択の違いや組織文化による発達過程の違いについては十分明らかにできなかったこと、広範囲を扱ったため今後各部分を精緻化する必要があること、対象が限られ一般化に限界があることなどが挙げられる。しかし、従来の看護師の熟達研究になかった新しい視座をもたらし、看護師の発達段階の評価や発達支援の方法を示唆できた意義は大きい。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、新しく病棟に配属された看護師が、その病棟の価値観の具現であり病棟に蓄積された知識として存在する組織ルティーンを受け継ぎつつ、組織ルティーンにない実践を行うまでの過程を明らかにするために、グラウンデッドセオリー・アプローチを用いて看護師49名を対象に面接と観察を行い分析したものであり、下記の結果を得ている。

1.看護師の熟達を表す新しい概念として、「しなやかさ」、すなわち、そのときその場の状況に応じて幅広い選択肢から患者アウトカムに資すると判断する行動を選択する柔軟な実行力と、自分や組織にとっての当たり前を見直し新しい実践や意味をもたらす柔軟な思考力とを併せ持つさまが同定された。

2.「しなやかさ」の程度は、「実践のレパートリーを増やす」「実践を拡張・深化する」程度が決定し、前者は「組織ルティーンの学習」「組織ルティーンを超える行動化」「組織ルティーンからの時折の離脱」という3つの変化によって高められ、後者は「新しいルールと意味の創出」によって高められることが示された。

3.「組織ルティーンの学習」は、新しく病棟に配属された看護師が自らの実践を組織ルティーンに近づけていく変化であり、これによって、その病棟で必要なタスク遂行力・問題対応力を獲得することが示された。この段階では組織ルティーンへの疑問や葛藤の処理は、実践知として病棟に蓄積された知識や技術を効率よく獲得するための現実的で有効な手段であり、適応過程と捉えることができた。

4.「組織ルティーンを超える行動化」は、組織ルティーンへの疑問や葛藤を原動力に組織ルティーンと異なる行動を起こし、行動の結果を確認しつつ、自信を深めながら実践を継続し拡大する変化であった。この変化は、看護師が自律性や問題解決思考を獲得するものであり、専門職的発達という観点では大きな前進と考えられた。しかし、熟達度の指標として従来用いられてきた行動選択の迅速性や自動化という点では、「組織ルティーンの学習」の終盤にある看護師の方が優れていることもあるとわかった。

5.「組織ルティーンを超える行動化」には、前段階としてある程度「組織ルティーンの学習」を終える必要があったが、「組織ルティーンの学習」の促進要因は、一方で「組織ルティーンを超える行動化」の阻害要因となることが示された。「組織ルティーンを超える行動化」を促すには、「組織ルティーンの学習」の終盤に、組織ルティーンに対する疑問や固有ルールを再意識化させ、チームの一員になることから患者アウトカムに関心を移し、チームとの調和を一時的に乱してでも行動する覚悟を持たせるプログラムが必要であることが示唆された。

6.「組織ルティーンからの時折の離脱」は、その病棟で経験の長い看護師の一部に見られた変化で、妥当でないと判断する状況で組織ルティーンから逸脱する行為を選択する変化であった。経験を積んだ看護師が患者の状態を見極めながらそのときその場で最良のケアを選択しようとする行為であり、最適解を得られる可能性にかけて組織ルティーンを実行することで得られる恩恵を享受しない選択であるため、慎重な判断が求められることが示された。

7.「組織ルティーンの学習」「組織ルティーンを超える行動化」「組織ルティーンからの時折の離脱」は、個人や病棟が既に持つルールが参照されるため、やがて変化は終了し、固有の実践スタイルとして安定することが示された。

8.「新しいルールと意味の創出」は、固有の実践スタイルを築いていた看護師が組織ルールや固有ルールを根底から問い直し、組織ルールにも固有ルールにもなかった新たな実践を行ったり、すでに行っている実践に新たな意味を見出したりする変化であった。この変化によって、看護師は絶え間ない自己革新が可能となり、「しなやかさ」を獲得することが示された。

9.「新しいルールと意味の創出」には、組織ルティーンを超える実践ができる力が必要だが、「組織ルティーンを超える行動化」を経験した看護師は固有のルールに自信を強めており、それらを根底から見直すことは容易でない。「新しいルールと意味の創出」を促すには、当たり前を揺るがす体験、特に、既に「新しいルールと意味の創出」を経験した看護師の実践や姿勢に直接触れ、感化を受ける機会を提供することが有用だと思われた。

10.看護師の「しなやかさ」をもたらす、「組織ルティーンの学習」「組織ルティーンを超える行動化」「組織ルティーンからの時折の離脱」「新しいルールと意味の創出」という4つの変化を段階的に経験させることが、看護師の発達支援に有効だと考えられた。

以上、本論文は看護師の熟達を表す新たな概念として「しなやかさ」を同定し、看護師が「しなやかさ」を獲得する過程やその促進要因を初めて明らかにしたものである。状況把握と対処方法の選択の迅速性や自動化を中心とする従来の看護師熟達研究になかった新しい視座をもたらし、看護師の発達段階の評価および発達支援に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値すると考えられる。

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