学位論文要旨



No 123165
著者(漢字) 大石,直樹
著者(英字)
著者(カナ) オオイシ,ナオキ
標題(和) 明治における三菱の事業展開
標題(洋)
報告番号 123165
報告番号 甲23165
学位授与日 2008.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第231号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 教授 粕谷,誠
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 准教授 中村,尚史
内容要旨 要旨を表示する

明治初めに海運事業から興った三菱は、その後、急速に経営規模と事業分野を拡張させていき、戦前期日本において多大な影響力を持つ巨大な事業組織となるにいたる。その歴史的前提であり、また事業経営の基礎が確立されたと考えられる明治期における三菱の事業展開について、その経過と仕組みを明らかにすることが本論文の課題である。初期三菱の事業展開を検討するにあたっては、創業以来の主業であった海運事業と並行して行っていた非海運部門をも含めて、いかなる方法によって事業経営を繰り広げていったのか、またその過程で、各事業に対する資源配分のあり方や利益構造はどのような変遷を辿ったのかといった、三菱の事業展開に関する一連の過程を、"政商から財閥へ"、あるいは"多角的事業展開"などと説明するのではなく、あくまでも事業組織の経営行動として検討する必要があると考える。そのことを通じて、明治期三菱の事業展開の歩みを再構成し、海運事業からはじまった個人企業が、いかにして巨大な事業組織を形成するにいたったのかに関する基礎過程を明らかにする。

第1章は、初期三菱による事業方法は、どのような仕組みであり、またそれがいかなる経緯で選択されていったのかを論じた。三菱は、海運事業を拡張していく過程で、資産運用を活発に行う一方、海運以外の事業にも積極的に進出していった。特に、明治13年に設立された三菱為替店と明治14年に買収した高島炭坑は、ともに巨額の資金を必要とすることとなった。同じ頃、海運業における経費の増大が社内で問題視されるにいたる。経営陣は、賃金の大幅カットなどで支出を抑制する一方、会計制度の見直しをはかる。その結果、明治15年から会計制度が変更され、海運業の会計は独立することとなったが、この変更によって、三菱内部の資金循環も大きく変わることとなる。従来、海運業の利益や政府の補助金を源泉として資産運用や事業投資を行っていたが、海運会計の独立化に伴って行えなくなったからである。そのため、事業投資用の勘定は、岩崎家の私的勘定を取り込むことで新たに奥帳場が形成され、そこで資産運用と事業への投資が一元的に行われることとなったのである。さらにこの一連の過程は、三菱の事業展開のあり方にも影響する。それまで、相応の利益を上げていた資産運用向け資金を取り崩すことで、事業資金を捻出したため、新たに投入された事業先に対しても、高いパフォーマンスが要求されることとなった。それは事業の仕組みに反映され、炭坑経営に際して設定された資本金は、自己資本ではなく、岩崎が当該事業に投じた融資残高とされたのである。資本金が負債として設定されたため、事業を進めながら資本金を利子をも含めて順次返済していくことが要求されたのである。そしてこのことが、資金による経営の規律化の機能を果たしたと考えられるのである。

第2章は、初期の利益源である高島炭坑について、三菱による経営が、後藤時代の不安定な経営から、いかにして脱しえたのか、また、内外で経済環境が悪化する中、いかにして安定的かつ高率な利益をあげえたのか、という問題意識のもと検討した。経営の効率化の前提として、資本金が岩崎からの借入金として設定されたことが、経営を効率化させたのではないかという仮説を確認した。またこの間、採炭費の大幅な低下が見られたが、その理由として、出来高制賃金のもと、採炭箇所を当初は遠方から始め、次第に近場へシフトしていったという事実を指摘した。また売炭について検討し、従来のような外商依存ではなく、現地に三菱専任の外国人をエージェントとして配置することで、三菱サイドが売炭活動を主導していたことを実証した。また炭質の高いことを根拠として、価格競争を行なわず高島炭の相場を安定化させることに努めたことが利益の安定化に貢献した点を強調した。三菱による高島炭坑経営は、産出と販売を自らの管轄下において事業化を試みたことが、後藤経営期とは明確に異なる点であり、採炭におけるコスト削減と、売炭における価格の安定化とが達成されたことで、石炭市況が悪化するなか、安定的かつ高率の利益を獲得することとなったと考えられる。

第3章では、初期三菱の主業であった海運事業について、共同運輸との合併に伴い、事業から撤退する過程を検討した。明治16年の共同運輸の経営開始以降繰り広げられた競争については広く知られているが、その間両社がとった対応については、従来ほとんど論じられてこなかった。そこで次第に状況が悪化していく中で行われた両社の経営改革について検討し、またそのことがさらに競合関係を強める結果になったと論じた。また両社の競合関係についても、一貫して競争が繰り返されたのではなく、明治18年6月に神戸での紛議を境に再開された競争が両社の合併を決定的にしたことを、競争下での双方の動向についても留意しつつ論じた。その結果、合併のプロセスも通説とは異なる経緯によって実現したことを明らかにした。

第4章は、これまでの議論をふまえて、初期三菱における事業再編過程を総括した。既に海運事業を主業としていた時点で、非海運事業に進出しており、またそれらに対する志向は当初より強かった事実を確認した。また海運事業からの撤退を決断するまでにいたる三菱の行動を検討することで、日本郵船設立による海運事業からの撤退は、事業再編の一環として理解すべきであり、海運事業を失ったことを契機として、多角的事業展開へと進んだとする通説とは異なる見方を提示した。

第5章は、『三菱社誌』などに掲載されている三菱合資会社の財務諸表に含まれる問題があり、そのため、これまで知られている三菱合資会社の利益は、かなり過小な数値であることを指摘した。そしてそれらを修正した新たな事業所別の損益データを提示した。また修正されたデータを用いて、三菱合資期の収益構造は、鉱山事業に著しく偏ったものであったことを確認し、その背景についても概観した。

第6章は、明治30年代に中核的事業分野となる鉱山事業について、足尾、別子、小阪といった巨大鉱山を所有していた古河、住友、藤田と異なり、相対的に小規模な鉱山が全国に点在していた三菱が、いかにして不利な条件を克服し、さらには三菱における最大の利益獲得部門へとなったのかについて検討した。三菱による鉱山事業経営は、明治20年代半ばまでは不安定な経営が続き、収益面においても満足な成績を残せないまま推移していたが、明治29年に荒川鉱山、生野鉱山、佐渡鉱山といった有力鉱山、及び大阪製煉所を獲得したことによって、一躍、三菱における中核的事業部門となる。大阪製煉所を中央精錬所と位置づけ、徹底的に設備投資を行なうことで同所の電気精錬能力は飛躍的に上昇し、また設備拡張に伴い生産性が向上したことで、従来電気精錬の対象とはなりにくかった金銀含有率の僅かな鉱石においても採算がとれるようになった。そして明治30年代を通じて、精錬能力の増強と生産コスト引き下げをはかるために一貫して継続された大阪製煉所の設備投資は、電気精錬によって純度の高い銅を産出し、金銀に代表される希少性の極めて高い副産物を獲得することにねらいがあった。量的にみれば僅かな金と銀が、売上では電気銅と拮抗していたのである。つまり三菱は、精錬部門の強化によるコスト低下をはかると同時に、産出される製品の付加価値を高めたことが、鉱山事業からもたらされる利益を高め、あわせて明治30年代の銅相場の高騰が多額の利益をもたらすこととなったのである。また、価格変動が激しい銅に特化するのではなく、相対的に相場が安定している金と銀をも産出していたという点は、三菱の鉱山事業経営を安定化させるという意味でのメリットもあった。

第7章では、明治30年代を通じて、鉱山事業と並び重点的資源配分が行われた長崎造船所について検討した。明治30年代前半の長崎造船所は、未だ赤字に陥る不安定な経営を続けており、新造船で採算がとれたものは多くなかった。しかしこの間、大規模な設備投資を継続したことや、原価計算の改正に伴う見積価格の厳格化、さらに建造経験の蓄積によって、次第に採算がとれるようになっていく。そして日露戦争を経ることで同所の経営は大きな変化を見せる。従来、日露戦争の意義は、海軍との関係強化や膨大な修理作業をもたらした点が強調されていた。修理作業の増大が利益に貢献したことは間違いないが、工事が一巡すると修理作業は一気に縮小していった。また戦時中に海軍より受注した建造船は最終的に赤字となった。長崎造船所における日露戦争の意義は、一時的な修理作業の増加や海軍との関係にあるのではなく、戦中から戦後にかけて活況を呈すことになる海運業の旺盛な需要に伴う大型商船の建造ラッシュが、長崎造船所を文字通り「造船所」へ転換する契機となったという事業経営の質的変化にこそ求められると主張した。また、長崎造船所の経営動向に対する先行研究の理解にも修正を迫った。当時の勘定法は、受渡後に一括して収支を計上するというものであったため、決算上の数値と作業の実態は乖離するが、この点を従来の研究は見落としていたこともあり、長崎造船所の経営の動向を見誤ることとなった。その結果、明治40年代においても新船建造はほとんど採算にのらず、修理作業によって左右される脆弱な経営構造であったと説明されてきた。この点について、船毎の建造収支を提示することで、明治41年以降竣工した船は、奨励金を控除した上でも採算がとれていたことを明らかにした。そして以上をふまえて、明治30年代後半から40年代初めにかけて、三菱の造船事業経営が確立したと結論した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、三菱史料館の開設によって利用可能になった三菱財閥に関する内部資料の読解と分析をふまえて、明治期における三菱の事業展開を見直し、三菱財閥の形成に関する新しい見方を提示することを狙いとしている。下記の構成を持つ本論文の核となっているのは、『経営史学』に公刊した論文(第1章)と『三菱史料館論集』に公刊(近刊を含む)した3本の論文(第2、3、7章)である。

序章

第1章 三菱の事業方式の生成過程

第2章 三菱買収後の高島炭坑経営

第3章 海運事業からの撤退-共同運輸との競争と日本郵船の設立

第4章 三菱の多角化過程

第5章 三菱合資会社期の事業展開

第6章 三菱の鉱山事業経営

第7章 造船事業の確立-工業化路線の定着

終章

序章において著者は、三菱研究の現状について、個別的な実証研究の進展にもかかわらず、明治期の三菱は政商活動と鉱山業における独占による利益によって成長したとする従来の見方が継承されていると把握する。すなわち、著者によれば、これまでの研究では、政商活動や鉱山経営が利益を生むことが自明とされ、これらの事業が利益を生んだ仕組み、利益を一層の事業拡大につなげた仕組みが究明されていない。このような認識に基づいて、本論文では、三菱の事業経営方式の特徴を明らかにするとともに、変化しつつある経営環境の下で、試行錯誤の結果として新しい利益獲得の仕組みが導入されて行くプロセスとして、明治期の三菱の事業拡大を描き出すことが試みられている。

第1章では、明治期における三菱の事業管理方式の特徴とその形成過程について論じられる。明治15年の会計制度改革によって、岩崎家の私的勘定である御手許勘定と海運以外の事業を管理する別途勘定が元方(後の奥帳場)という新しい勘定に統合され、海運事業を管理する回漕部から切り離された。元方への統合以前の御手元勘定は別途勘定に対して資金を供給していたが、その際、御手元勘定は必要な資金を銀行への高利の「貸金」の回収によって調達した。こうした御手元勘定の経験が、元方への移行後も、事業投資が貸金であるという認識をもたらし、その結果、元方から各事業部門への貸出としての資金管理が明治期の三菱の事業方式を特徴付けることになったというのが著者の仮説である。

第2章では、明治14年の三菱による買収後の高島炭坑の経営が取り上げられる。ここでの主要な論点は、高島炭坑の利益の源泉を、通説のように単に労務管理の徹底に求めることが妥当かどうかである。著者によれば、三菱移行後に高島炭坑の経営が安定した基礎的な条件は、岩崎家の別途勘定からの融資にあり、これが、第一章の論点にあるように、同時に炭坑経営に規律を与える手段ともなった。そのうえで、第一に、生産面では、出来高賃金率を通じて採掘を合理化した。第二に販売面では、海外での販売を担当する専任の外国人を雇用し、彼らに価格安定を重視した販売戦略を採用させた。高島炭坑の高い利益は、単に労務管理の徹底によるのではなく、これら生産、販売両面にわたる改革の結果であったとされる。

第3章は、海運業における共同運輸との競争、その結果としての日本郵船の設立と三菱の海運業からの撤退を対象とする。論点は多岐にわたるが、もっとも強調されているのは、明治18年4月の森岡昌純の共同運輸社長就任が、通説が理解するのと異なり、三菱・共同運輸合併の準備ではなかったという点である。この時点では、政府の仲介による競争防止協定が機能しており、政府も協定に基づく両社の並立を志向していたこと、競争が再開されたのは明治18年6月であり、しかも再開後の競争の主導権は、両社ではなく回漕業者にあったことが論じられている。

第4章では、明治20年代までの三菱の事業多角化を総括し、日本郵船の設立によって海運事業を失った三菱が海運業の周辺で営まれていた副業を基盤に多角化して行ったとする通説の再検討が試みられる。著者は、海運業からの撤退以前に三菱は炭坑・鉱山・造船・金融等の諸事業に進出しており、岩崎彌太郎、彌之助ともに多角化への志向が強かったこと、明治16年の共同運輸参入以降、海運事業はすでに不採算部門となっていたことに注目する。そして、これらの点をふまえて、日本郵船の設立は、それ以前から行ってきた事業展開の一環であったという見方が提示される。海運業からの撤退後、三菱は、それまでの延長線上に、炭坑、鉱山の買収を進め、既存事業への投資を継続した。著者は、明治20年代の三菱は事業展開の方向を模索していたとし、その投資を「総花的」と特徴づけている。

第5章では、広く用いられている明治30年代の三菱の財務諸表が「特別原価消却」控除後のものであることに注目し、それを戻した後の収益構造が検討されている。これを通じて、この時期、三菱の収益に対する鉱山部門の貢献が従来考えられてきたよりも大きかったこと、それは金属価格の上昇という好環境の中で三菱が鉱山部門に投資を続けてきたことの成果であることが指摘されている。

第6章では、前章をうけて、明治30年代における三菱の鉱山事業を、大阪製錬所の役割に焦点を当てて検討している。著者によれば、明治28年に、三菱は銅販売の拠点として神戸支店を開設し、翌29年には本社と大阪製錬所を設置した。これによって、全国に分散した三菱の鉱山から粗銅を大阪製錬所に集め、そこで電気精錬を行ったうえで神戸支店を通じて販売するという鉱山事業の体制が形成されたとされている。

第7章は、明治30-40年代に三菱における最大の資金投下部門となった長崎造船所について、同所が明治40年代初めには個々の新造船について、造船奨励金なしでも収益を確保することができるようになったこと、同じ時期に同所は事業の中心を修理から新造船に移したことを明らかにしている。

終章は、事業管理方式と多角化に焦点をしぼって本論文で提起された主要な仮説を要約するとともに、残された課題について述べている。

本論文の評価すべき点として、各章とも、三菱史料館において近年利用可能になった三菱に関する内部資料を十分に利用しており、高い実証性を持つことがまず挙げられる。そして、そのことによって本論文で初めて明らかにされた論点も少なくない。例えば、三菱の主要事業の一つ高島炭坑について、これまでの文献は生産に関心を集中しており、その販売の仕組みについては明らかにされていなかった。本論文は、高島炭坑の『事務日誌』の読解によって、高島炭の海外市場での販売の仕組みと販売戦略を解明し、その部分に高島炭坑の利益源泉があったことを示した。また、海運業に関する三菱と共同運輸の競争について、両社による配船方式の変更を含めて、その実態が明らかにされた。さらに、長崎造船所の採算に関して、先行研究の資料の誤解を指摘し、前述したように明治40年代初めには個々の新造船について造船奨励金なしで収益が得られるようになったことが確認された。

本論文は、これら個々の事業に関する論点にとどまらず、三菱財閥、さらには財閥一般に関する研究にとって重要な意味を持ついくつかの論点を提起している。第一は、第1章で述べられている、事業管理方式である。著者の認識とは異なり、事業資金を貸金として管理する方式は近世の商家で広く見られたが、近世からの系譜を持たない三菱でこの方式が採用されたことは興味深い事実といえる。第二に、三菱の多角化に関して、次のような見方が提示されている。三菱の多角化は、日本郵船成立に始まるものではなく、それ以前から進められており、明治20年代にも継続されたが、20年代までの多角化は「総花的」であり、失敗も多かった。そのような模索の結果、明治30年代になると鉱山と造船が三菱の事業の中核として明確になった、というものである。本論文で説得的に実証されているわけではないが、三菱の多角化に関する有意義は問題提起といえる。

いうまでもなく、本論文に残された課題は多い。第一に、本論文の主要論点の一つである貸金による事業管理方式について、それがどの範囲で、いつまで適用されていたのかについて、明示的に述べられていない。また、仮にある時期以降に近代的な意味での資本が各事業に設定されたとすると、管理方式が変更された理由が説明される必要がある。第二に、貸金による管理方式を、御手許勘定の銀行への「貸金」と結びつけているが、その論拠が示されていない。第三に、多角化について、「総花的」の意味を示すことを含めて、財閥一般の多角化の性質の時間的変化について論じた文献との関係を明確にする必要がある。第四に、本論文には、先行研究に対する評価が適切でない部分が散見される。例えば、明治15年の会計制度改革について、内因と外因の両面から説明した関口かおりの論文を、外因説を棄却する論拠を示すことなく批判していること、海運業における三菱と共同運輸の競争と日本郵船の設立に関する著者の主張にとって重要な先行者であるWilliam Wrayの著書について、論拠が十分でないという指摘だけで切り捨てていること、などである。本論文が、実証を踏まえて研究を先に進めているだけに、このような記述の仕方が、本論文の印象に負の影響を与えているのは惜しまれるところである。

こうした問題点があるとはいえ、本論文は膨大な第一次資料の読解のうえに書かれた重要な実証研究であり、その内容は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献し得る能力を十分に持つことを示している。したがって、審査委員会は、全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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