学位論文要旨



No 123166
著者(漢字) 廣田,愛理
著者(英字)
著者(カナ) ヒロタ,エリ
標題(和) フランスのヨーロッパ統合政策と経済近代化 : 1950年代における国内農工関係と仏独経済関係
標題(洋)
報告番号 123166
報告番号 甲23166
学位授与日 2008.03.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第232号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 工藤,章
 東京大学 教授 森建,資
 東京大学 教授 小野塚,知二
 東京大学 准教授 石原,俊時
内容要旨 要旨を表示する

今日のフランスが世界有数の農業大国となった基礎は、工業近代化と農業近代化の並行的実現を目指した第二次大戦後の経済近代化政策にある。戦後の食糧不足の解消という重要な政策課題に着手する中で、フランスは、国内需要を充足させることから農業輸出国になることへと農業政策の目標を転換した。これにより、経済の復興・拡大のために必要な工業部門における輸入を農産物輸出でカバーすることが試みられた。他方で、農業人口が多いフランスにおいて、農業は工業製品の販路としても期待されていたが、輸出のための農産物増産計画は、農業の機械化・近代化の必要を高め、農業は工業への依存を強めることになる。かくして、戦後の近代化プランに組み込まれる形で、農業と工業の相互依存関係が生じた。

1950年代前半のヨーロッパ農業共同体構想は、農業輸出国化を目指すフランスにとって安定した輸出市場獲得の必要に合致していた。それはとりわけドイツへの輸出利害に基づいていた。しかし同構想は、「小ヨーロッパ」と超国家機関に対する反対に加え、本国と海外領土の経済関係を考慮した結果、断念された。それゆえ、農産物の輸出市場拡大の努力は、政府間の通商協定という手段を通じて追求されることになる。

この間、国内においては、農業従事者所得の相対的な低下が深刻な社会問題へと発展し、農業従事者は、近代化に必要な工業製品の価格高に対して不満を募らせていた。ゆえに計画庁は、農民の生活水準の向上を考慮した近代化プランを作成せねばならなかったが、離農者の受け皿となる工業部門の発展が不十分な状況において、離農促進による生産性の拡大という解決策は選択不可能であった。したがって、農業の発展による増産とそれを支える輸出市場の拡大が一層重要となった。

しかし、重要な輸出先のドイツは、農産物輸入の見返りとして工業製品輸出の要求を強めていたため、2国間協定の枠内で、自国の工業をドイツとの競争に晒さずに農産物の市場拡大を図ることは限界にきていた。すなわち、この時期、フランス工業がドイツとの競争に対する不安を払拭できていなかったことは、仏独経済関係の発展と農業政策遂行の障害となっており、その不安に対処し、工業競争力不足の問題を解決することが不可欠であった。他方で、OEECにおける貿易自由化の進展の結果、2国間協定による取引の余地も次第に狭まっていた。しかるに、農業は、価格高ゆえに自力で販路を拡大するだけの競争力を持っておらず、工業界も、農産物の価格を下支えする財政負担が工業の原価を圧迫し、工業製品の価格競争力不足の遠因となっていることを訴えていた。つまり、1950年代半ばにフランス経済が直面していた問題は、農業と工業双方の価格競争力不足であり、互いに他方の競争力不足が自らの発展を妨げる要因だと認識していた。それゆえ政府にとっては、農業と工業双方の発展の追求を可能にするような枠組が必要であった。

1955年にヨーロッパ統合の「再活性化」が提案された際、フランスが共同市場構想に消極的であったのは、産業保護の可能性を排除するような自由競争導入に対する不安が生じたからである。この不安は、OEECにおける自由化進展に対する不安と同質のものであった。自由化が工業の発展にとって有用であるという認識は広まりつつあったが、競争に参入するには、まず近代化が必要であり、近代化は保護無しには達成できないとの考えは依然として根強かった。ゆえに、国際収支の安定を最重要課題と見なす政府にとっては、このような不安を払拭し、工業の発展・輸出拡大を刺激するような心理的環境を整えることが不可欠であった。したがってフランスは、ローマ条約交渉の過程で、各国の産業の競争条件を調和するために、社会的負担の調和の必要を主張した。交渉の過程で、社会的負担の調和要求そのものは譲歩を余儀なくされたが、輸出奨励金・輸入特別税の維持やセーフガード条項という実質的「保証」を獲得したことで、共同市場はドイツとの競争に対する不安に対応した産業保護をある程度保証するものとなった。

ローマ条約交渉期と重なる第三次近代化プランの策定期には、所得上昇を求める農業従事者の声は一層強まっており、輸出市場の拡大は相変わらず農業政策の緊急課題であり続けた。しかし、第二次プランの策定期とは異なり、この時期には、工業発展の結果生じた労働力不足の問題が、農業の生産性上昇に突破口を開いた。すなわち、農業従事者一人当たりの所得上昇という目的実現のために、農業人口の削減による生産の合理化を視野に入れることが可能となったのである。

ここにおいて、通商協定による市場拡大に終始していた従来の方針に代わって、共同市場への農業の包摂が農業と工業双方の発展にとっての問題を解決する手段として現れることになる。農業にとって、共同市場は、農産物の市場と保護を提供する枠組みであると同時に、工業への競争の導入を通じて、農業が消費する工業製品の価格の低下をもたらす可能性を提供するものであった。さらに、競争の導入による工業近代化の進展は、離農者に対する受け皿の拡大をもたらすものであり、これは農業の生産性向上にとって不可欠であった。他方で、工業にとっては、フランスの価格高の原因の一つに挙げられていた農業保護の費用、すなわち国内農業の組織化のための財政負担を共同市場に転嫁することで、フランス経済の負担が軽減されるという利点があった。加えて、共同市場加盟国の農産物価格の調和によって、工業の競争条件が調和されることや、将来的には、農産物価格の低下を通じた工業製品価格の低下が生じることも期待された。このように、農業と工業は一方の発展が他方の近代化の成功を左右する関係にあり、共同市場は、農工の相互関係を包み込む形で、フランス経済全体の近代化を推進する枠組みを提供したのである。

ローマ条約交渉期に生じたFTA構想に対するフランスの最初の反応、すなわち統合へのイギリスの参加の期待は、対独競争の不安に対する防波堤の確保にあり、それはドイツとの競争の不安が依然として存在していたことを示している。だが、同時に、フランスのもう一つの関心は、共同市場交渉において獲得した「保証」がFTAにおいて守られるか否かにあった。こうした利害を守るために生じたのが「共同市場を延長したFTA」というフランス流のFTA観である。このようなフランス流のFTA構想の存在は、OEECが1940年代末に統合の舞台としての役割を終えたわけではなく、最終的にFTA交渉が挫折する1950年代の終わりまで、統合路線の選択肢の一つであったことを示している。部門統合路線を引き継いだ農業共同体構想が、農業問題の解決を一旦OEECに委ねた後、共同市場構想に引き継がれたことを考慮しても、自由貿易推進母体としてのOEECの存在は、1950年代を通じて常に「大ヨーロッパ」実現の可能性を孕んでいた。すなわち、ECSCが「小ヨーロッパ」による統合であったからといって、その後もこの路線が継続されることが定まっていたわけではない。こうした意味において、6カ国による共同市場の選択は、あくまでヨーロッパ域内の貿易自由化というOEECの目標実現の一つ方法であり、フランスは、自国の農業と工業の双方に対して、より広い販路の可能性を否定してはいなかった。

しかし、FTAの検討が進むにつれ、共同市場の単なる延長は、必ずしもフランスの利益にならないと判断された。工業界が「保証」の不在をFTA反対の理由に掲げていたとはいえ、政府の検討によれば、工業界の主張する社会的負担の調和、農産物の包含、海外領土の参加のいずれの要求点も、共同市場という限定された枠組みの中でこそ有益であり、FTAにおいては有効に機能しないことが明らかであった。つまり、FTAの問題点は、EEC同様の「保証」を伴わないことではなく、EEC同様の「保証」がそこで保護の機能を果たさないことにあった。このことは、FTAが保護なき自由競争の枠組みになることを意味していた。これに加え、イギリスによる「ヨーロッパ特恵システム」の拒否は、FTAが地域統合の枠組みを超え、グローバルな自由貿易体制に帰結することを予感させた。ここに、FTAは近代化推進の枠組みとならないばかりか、この枠組みを提供するローマ条約を崩壊させるものと判断され、その結果、拒否された。このことは同時に、イギリスとの協力の政治的意義を主張し続ける外務省の路線に対し、近代化のために経済と財政の安定に基づく貿易自由化を追求してきた大蔵省の路線が採られたことを意味する。

さらに、フランスにとって、FTAへの農産物の包含が利益とならないと判断されたことは、農業を除外したFTAが農業にとって不利益とならないことを意味していた。しかるに、農業と工業の発展の要素が密接に結びついたフランスにおいて、農業を除外したFTAは工業の発展にとっては望ましくなかった。すなわち、農業国かつ工業国であるという特殊性を持つフランスにとって、EECとFTAの決定的な違いは、それらが農業と工業双方の近代化と、その並行的発展を可能にする枠組となるか否かにあったのである。

審査要旨 要旨を表示する

1952年のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)発足以降のヨーロッパ統合過程は、1954年のヨーロッパ防衛共同体(EDC)構想の挫折が示すように、単線的な拡大・発展の道を辿ったわけではない。しかし、1955年のベネルクス諸国主導による「全般的共同市場」路線への転換を経て1957年にヨーロッパ経済共同体(EEC)の設立が実現した。本論文は、統合に一時消極的となったフランスが共同市場案を最終的に受諾した理由を、1950年代における農業と工業双方における経済近代化政策および独仏関係を中心とした対外経済関係と関連づけながら実証的に明らかにすることを課題としている。

「序」では研究史の整理とそれにもとづく著者の視点が提示される。ながらくフランスが共同市場案を受諾した経済的理由を農業保護に求める解釈が支配的であったが、ミルワードは国民的利害の観点から各国の統合政策を再検討する必要を提起し、これを受けて、フランスでは国内の経済近代化政策が統合政策に先行し統合は近代化の手段として選択されたという見方が登場するようになった。しかし、今度は工業の近代化に重心が置かれ、農業を看過する傾向が出てきた。これに対して著者は、農工双方の近代化を関連づける必要を強調する。

また、ECSC誕生後の統合史を論ずる場合、ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)はもっぱら貿易自由化の推進機関として論じられてきたが、1956年の自由貿易圏(FTA)提案とともにOEECの枠内での統合構想が復活し、EECの成立過程と密接な関係をもつにいたった。FTA交渉は結局決裂したが、その理由はドゴールの決断といった単純なものではなく、これもまた経済近代化政策と関連していたというのが著者の視点である。

さらに著者は、フランスの統合政策を対独政策と切り離して語ることはできないと考える。終戦直後のフランスはドイツ経済の弱体化を追求したが、マーシャル・プランの受け入れによって協調政策へと転換せざるをえなくなった。しかし、近年の研究によれば、政策転換によって仏独経済関係の発展への道がすぐに開かれたわけではなく、仏独の双務的な枠組みよりもヨーロッパ・レベルの多角的な枠組みのほうが望ましいということになり、ここに仏独経済関係とヨーロッパ統合が直接に結びつくことになった。こうして、ドイツ経済による支配への不安にもかかわらずフランスが共同市場案を受諾した経緯が改めて問われることになる。

第1章「経済近代化と農工業の相互関係」では、農業における部門統合路線が挫折に終わった過程とその背後にあるフランス経済の諸問題、とりわけフランス農業と工業との複雑な関係が明らかにされる。1948年にモネ・プランが修正された結果、フランス農業政策の目標は食糧自給から農産物輸出国化に移り、小麦、食肉、乳製品などの基本農産物とその輸出市場の獲得に重点が置かれた。こうしてフランス農業は国内経済のみならずヨーロッパの枠組みとも密接な関係をもつことになった。そこで注目されたのがドイツ市場であり、農業界は仏独和解路線を積極的に推進した。仏独2国間協定は失敗したが、1951年からフランス政府はヨーロッパ農業会議開催を呼びかけ、ECSC型のヨーロッパ農業共同体構想が検討された。しかし、国内・各国間の意見対立が激しく1954年に構想は放棄された。共同市場のもたらす域内関税撤廃による競争への不安、および海外領土を他の加盟国に開放することによって生じる不利益がその理由であったが、そのことに関わらずフランス農業の近代化は貿易自由化に先立つ緊急の課題であった。

フランスは1949年以来OEECの自由化に積極的に関与してきたが、支払危機のため1952年に輸入許可制を復活させ、OEEC理事会の批判を受けた。このため、外国との価格差の原因を探るためのナッタン委員会が設置された。同委員会報告は価格競争力改善のための国内改革と貿易自由化を提言したが、産業界の抵抗は大きかった。ECSCの誕生以後和解に向かっていた仏独関係は1954年のフランスのEDC批准拒否によって中断されたが、ドイツの主権回復が否定されていたわけではなく、関係修復への対応はすばやく行われた。しかし、フランスが農産物の対独輸出の拡大を求めつつ、ドイツからの工業製品輸入の拡大を拒んだため、2国間協定には限界があった。工業の近代化が問題解決の鍵であったが、それは農産物の輸出枠を広げるものではなかった。

第2章「フランスのローマ条約受諾と『社会的負担の調和』問題」では、EECの共同市場へのフランスの参加はいかにして可能になったのかが、「社会的負担の調和」問題の処理を追うなかで明らかにされる。1954年からの仏独間の2国間協力の試みは他の諸国に不安を与え、1955年5月のベネルクス諸国による部門統合と全般的経済統合の2本立ての「再活性化」提案につながったが、フランスは市場統合には消極的であった。共同市場交渉の進展は、自国産業の競争条件にとって不利な「社会的負担」(=賃金に付随する社会福祉的性格の企業負担)における不均衡の除去(=「調和」)が実現できるかどうかにかかっているとフランスは考え、社会立法の遅れた国への代償措置を要求し、他の5カ国と対立した。他方で、輸出奨励金と輸入奨励金に対するOEEC内の圧力が高まっていた。

しかし、「社会的負担の調和」の実施時期で他国と折り合いがつかず、フランス政府は受諾をなかなか決断できなかった。1956年10月の6カ国外相会議では、男女賃金と有給休暇日数の平等化についてのみ合意するにとどまったが、その見返りとして輸出奨励金と輸入特別税の維持やセーフガード条項によるフランス産業の保護(=「保証」)を獲得した。産業界内部では全体として保護を要求する意見が強く、企業の賃金負担や「社会的負担」を増加させ、物価凍結政策を行う政府を激しく批判し、通貨の安定にもとづく経済拡大政策を要求した。「社会的負担の調和」や「保証」は、そうした政策の効果が現れるまでの担保と認識されていた。

1956年7月にOEECにおいて浮上したFTA構想は、フランスにとって6カ国の共同市場よりも不都合と考えられたが、イギリスの参加によってドイツの競争圧力は相対的に緩和され、輸出の可能性も広がると期待された。しかし、共同市場がFTAに取って代わられることも危惧され、共同体交渉を急ぐ必要から、フランスの態度に妥協を促す結果となった。

第3章「共同市場構想と農業政策」では、農業共同体構想挫折の経験が共同市場交渉における農業問題の解決につながったのは事実であるとしても、フランスにとって農業をヨーロッパの枠組みに包摂することの意味は1950年代前半と後半で同じだったのだろうかという問題意識から、共同市場問題と国内農業政策をめぐるフランス国内の議論が検討される。OEEC内に設置された農業・食糧閣僚委員会では、フランスの反対にもかかわらず、ヨーロッパにおける農産物貿易の自由化を検討することが決定された。共同市場交渉では農産物の保護は撤廃しないことが合意されたが、フランス政府内でも競争への不安から共同市場反対の意見が支配的であり、共同市場案受諾の決断が遅れた。フランス国内では農業問題は大きな社会問題となっていた。農工間の所得格差は拡大を続け、農民は所得の平等を求めたため、第三次近代化プラン(1958-61年)作成の過程では、農業所得の改善と農村の生活水準向上が重要な課題となり、機械化による生産性の上昇が目指された。

1956年9月にフランスは共同市場案受諾を決断して所得の増大を求める農業界に配慮する一方で、国内の財政を圧迫している農業保護システムの代わりに共同体による保護システムを要求し、1957年1月にブリュッセル外相会議ではフランスの要求に沿う形で農業問題が決着した。フランスは国内の市場規制組織に代わるヨーロッパ共通の組織を獲得し、さらに輸出市場拡大の可能性まで確保した。農業界は共同市場創設には原則として賛成であり、FTA構想の出現はこの立場をさらに強めた。むしろ農業界の政府への要求は農工間格差の是正のための国内農業政策の徹底へと向けられた。工業界も共同市場への農業の包摂を歓迎した。基本農産物の価格を農業に必要な工業製品の物価上昇にスライドさせる1957年5月のラボルド法はこうした農業界の要求への対応であった。しかし、保護主義の側面は過渡的な措置にすぎず、同法は1958年12月に廃止された。フランスにとって、共同市場は、農業が競争力をつけるまで一時的に保護を維持しつつ近代化政策を遂行することを可能にする枠組みだったのである。

第4章「EEC成立期におけるFTA構想へのフランスの対応」では、1956年のイギリスによる提案から1958年末の交渉決裂までのFTAに関する議論を辿ることによって、OEECを舞台とする2つの統合路線の接点に着目しつつ、フランス政府のFTA観とFTA拒否の理由が検討される。

フランスは、提案に対して当初イギリスによる共同市場妨害策ではないかという疑念をもったが、外務省を中心に、FTAはイギリスが統合に参加する契機をもたらすという理由から好意的な反応もあった。また、共同市場で獲得した「保証」をいかに守るかということも重要な関心事であった。いずれの場合にもその背後にはイギリス抜きの統合が自由主義的なドイツの影響力を強めることへの不安があった。しかし、交渉が始まるとイギリスは関税と数量制限撤廃のみを目的とし、農産物を除外することを主張し、フランスの立場と対立した。「社会的負担の調和」や海外領土参加の問題においてFTA条約が必ずしも望ましいものではないことも判明した。産業界も「保証」の存在しないFTA交渉に反対した。このため、貿易収支の悪化も加わってフランス政府の意見はなかなかまとまらず、それに伴い共同市場6カ国共通の立場の作成も遅れた。これに対してイギリスはフランスを非難したが、ヨーロッパにおける関税特恵が認められない以上フランスがFTAに賛成する理由はなかった。こうしてFTA交渉は決裂し、フランスは自国の利益に適う共同市場を守る道を選択した。

「おわりに」では、フランスが共同市場案を最終的に受諾したのは農工関係を包摂する形でフランス経済全体の近代化を推進する枠組みを提供したからであり、FTAを最終的に拒否したのは、この枠組み自体が損なわれると判断したからであるという結論が提示される。

このような内容をもつ本論文の学問的貢献としては以下の点が挙げられる。1950年代におけるECSCからEECに至るヨーロッパ統合の進展がそれほど単純でも予定調和的でもなかったことはこれまでにも知られていたが、この過程をフランスの側から、国内の近代化政策や農工関係と関連づけながら明らかにしていることを第一に指摘できる。とりわけ1950年代のフランス経済が農業と工業双方の価格競争力不足に直面しており、それを克服できるような統合の枠組みを実現できるかどうかがフランスにとって重要な判断基準であったことを指摘した点は、ヨーロッパ統合史・フランス戦後経済史に対する大きな貢献と言えよう。

第二に、フランスが共同市場案を受諾するに際して、以上の点とイギリスによって提案されたFTA交渉の進展過程が微妙に絡んでおり、ヨーロッパ統合のあり方については1950年代後半に至るまでOEECを舞台として、従来考えられていた以上に多様な争点と選択肢が存在したこと、また仏独関係を考える場合にも、対独競争の防波堤としてのイギリスへの期待がフランスにとってこの時期にもなお強かったことなどが生き生きと描かれていることも高い評価に値する。

第三に、こうした綿密な実証作業を、フランス各地の文書館に所蔵されている農業省、計画庁、外務省、大蔵省、ヨーロッパ経済協力省間会議常任事務総局(SGCI)、フランス経営者全国評議会(CNPF)に関する未公刊一次史料を博捜し、各官庁や産業界の思惑や利害の対立にまで分け入って全編で進めていることも評価すべき点である。

もとより本論文にも問題点は残されている。第一に、戦後フランスの近代化政策を、農業と工業双方を関連づけながら捉えようとする視点は重要であるが、こうした政策が登場した背景が十分に検討されていない。ドイツの脅威という問題と同様に戦前からの中期的・長期的な視野のなかに対象を位置づけることが必要であろう。また、農工業の実態や「競争力不足」の内実についても掘り下げが十分とはいえず、言説分析を実態分析によって補強するとともに相対化する努力が求められる。第二に、史料分析から明らかになったことを踏まえて著者なりの構図を示すことが求められる。たとえばEECが長く保護機能を維持し続けたことやEECの性格規定をめぐる研究史上の論点に注目するなら、本論文が紹介したさまざまな近代化論の系譜のなかには、来るべき自由化に備えて農工の近代化を進めるためには当面の必要悪として保護が必要であるとする「真性の近代化論」ともいうべき議論と、来るべき自由化を骨抜きにすべく保護機能を滑り込ませようとする主張が混在していたのではないかとの疑いがあり、近代化と自由化の関係をめぐる政策論に何らかの類型化を施したうえで、多様な政策論の位置関係を整理する必要があろう。第三に、副題に「仏独経済関係」とあるが、研究史のフォローという点でも史料分析という点でもドイツ側から見る作業が手薄になっている点に不満が残る。特に第4章では英仏関係の比重が高まっており、仏独関係という視点で全体が貫かれていない点も指摘しておかなければならない。

とはいえ、このような問題は先に述べたような本論文の学問的貢献を損なうものではなく、著者が自立した研究者として今後学界に貢献しうる能力をもつことは疑う余地がない。審査委員会は、全員一致で本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに相応しいとの結論に達した。

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